2013.1.25(金)曇
盃状穴という謎の穴ぼこのことを知って、数少ない盃状穴に関する文献「盃状穴考」を読む。あちこちの神社にある謎の穴が盃状穴と言って、遡れば古代から石器時代にまで遡るということだ。
上林の盃状穴ということで記事を書き始めたが、果たして意味があるのだろうか、上林の神社仏閣に盃状穴が存在するだろうかという不安がつきまとっていた。
最初の発見は昨年の5月1日、河牟奈備神社の鳥居の敷石に見つけたもので、その時には盃状穴という認識は無かった。古代人の金属加工の跡、特に水銀に因むものではないかという想いがあって、神社の石造物を見て回っていたわけだ。それが古墳の石棺の蓋に発見されて考古学上の研究が始まったようだ。ヨーロッパや朝鮮半島などにも存在し、性シンボルであって再生、不滅の象徴となっているというのが大方の考え方のようだ。
それでは神社の石段などによく見られる盃状穴もそうなのかというとそうではない。これ等は民俗的信仰の表れであって、個人的な祈りの表現、あるいは形態と言ってよいのではないか。
民俗的信仰として盃状穴を穿つことは江戸時代の末あたりまで行われていたようだが、文献も口伝も残っていない。呪詛的要素があったともいわれるが、被穿体石は神社の石段であったり、手洗水鉢であったり、鳥居の敷石であったり堂々とおおっぴらな所なのだ。それに盃状穴という言葉は学術的な新語であって、元々の名は無いのである。身の回りにこんなに普通に存在するのに、言い伝えも名も無いとは、これって謎である。
一体何の目的で、ということは研究者の目的のひとつなのだが、思うに資料が少なすぎる。それは盃状穴の発見と研究が極新しいものであることが理由である。例えば全国にある盃状穴をある一定の基準で調査し分類すれば必ず何かが見えてくると思う。しかしそれは一個人や一団体で出来るものでは無い。しかし全国各地の理解者が身の回りの資料を集めるのなら簡単である。問題はそれを統合して整理分類する作業である。いつかそれをやろうという研究者が現れることを期待して、とりあえず上林の盃状穴を調査してみることにした。
盃状穴調査の三種の神器、メジャー、柄付きタワシ、折りたたみバケツ(自転車で行く事も考えて)
もうひとつの不安は果たして上林に存在するだろうかということだ。
それは壱鞍神社に行ってみてある程度解消した。正面石段に7個、横手の坂の石に1個見つけることが出来た。写真を見るとまだ他にもありそうなので再度調査しようと思うが、この調子だと他の神社にもありそうだと予想できる。
壱鞍神社の鳥居周辺は見落としていたので、再度訪問するが盃状穴は見当たらなかった。
そんな時村上さんが、「それなら家にもあるで」とおっしゃるので、半信半疑ながら訪ねてみた。つづく
【作業日誌 1/25】
ウッドデッキパラソル用ポール立て、床張り
【今日のじょん】:ウオームビズということで室内でも毛糸の帽子やネックウオーマーを愛用している。その光熱料を節約しているのかといえばそうでも無く、単に歳いって寒さに弱くなっただけのようだ。
「写真撮って」というから撮ったけど、じょんにまでネックウオーマーすること無いだろう。すごく迷惑そうにしていた。
2013.1.24(木)晴れ
「盃状穴と古代祭祀」は国領駿氏によって書かれている。一義的盃状穴に関する論文で具体的な発見、調査報告がなされている。
加古川市平荘湖の北にある飯盛山の遺跡であるが、古墳群の中にある岩盤に91個の盃状穴が発見されたのである。そしてその後の調査で古代の祭祀場であることが解ってきたのである。祭祀場というと磐座(いわくら)やストーンサークルなどを思いつくが、これに盃状穴が関連するとなると新たな視点が湧いてくる。
例えばインターネットで公開されている磐座の影像など眺めても、中には盃状穴らしきものが写っているものがあるのだ。そして撮影者は盃状穴について何も語っていないのである。
これは偶然撮った浜名湖新居関の荷物石である。左の石には盃状穴らしきものが写っている。当時は二個の石があったそうだから、これは他から持ち込んだものかも知れない。(2006.12.2)
盃状穴を見つけることによって我々アマチュアでも古代遺跡を発見できるかもしれないという希望が湧いてくる。調査例も2,3例であり、この分野の発見、調査が緒に就いたばかりという感がする。ということは今後各地で発見される可能性があるということだ。
これは河牟奈備神社の鳥居敷石だが、近世のものかと思っていたが近隣に古墳があると聞いた。ひょっとしたらなんて夢が描ける。
続いて国東半島の真木大堂「燈明石」や姫路市の「さいとくさん」など有名な盃状穴について、民俗学的なアプローチをされた考察があり、大変興味深い。
「呉市で発見された盃状穴の習俗終焉と変形盃状穴」小早川成博氏の論文は、前述国領氏の文が盃状穴の創始付近を語っているのに反し、その終焉を探っているのが興味深い。それがなぜ重要かというと、盃状穴を穿つという習俗は絶えてしまっているからだ。胡神社手洗鉢の盃状穴について、様々な考察から遊戯目的の習俗は昭和の初期に終焉したという風に書かれている。また、善通寺手水鉢などから、呪術的信仰的意図をもった盃状穴の終末期は江戸末期ではないかと考えておられる。しかし盃状穴を穿つ行為や目的について文献や口伝が残っていないことについて、郷土史家宮尾敬三氏の言、「盃状穴のあるものに対しては呪詛的な盃状穴があるはずで、したがって人には知れず、また文献にも記されないのは当然である。」に関心を抱いた、と書かれている。
わたしはこの意見には疑問を感じる。呪詛的な行為であっても文献や口伝に残ることは普通であって、最も強烈な丑の刻参りであっても事細かな作法まで残っているのだから。
この後世界の盃状穴、性穴であったりカップマークであったりするのだが、を紹介してある。まだその部分は未読なのだが、一応今回で終了としたい。
【今日のじょん】:パオパオさんがじょんにおみやげをくれた。バスケ状のボールなんだけどどうも体罰事件があって嫌なみたい。