2013.1.23(水)曇
なぜ三浦氏の論文が理解しやすかというと、盃状穴を一義的(縄文、弥生、古墳時代のもの)と二義的前半(一義的以降江戸時代前期まで)、二義的後半(前半以降、幕藩体制時代、明治、大正期)という風に分けられたことである。これは個人的に敢えて区別されたことと書かれているが、将に達観であると思う。穴そのものは土器や金属器のように発展変化しないものであるが、被穿体は時代と共に変化しているし、その目的も変化しているという考え方だと思う。古代からの盃状穴が直近のものまで同じ目的で穿たれたと考えると行き詰まってしまう。おそらくそこには変化があると考えるのが順当な考え方であろう。
では一義的盃状穴とはどのようなものか。これは古墳の石棺や支石墓に穿たれた
盃状穴で、朝鮮半島にも同様の盃状穴が発見されており、古くはヨーロッパ先史時代以降発見されている。これらは再生や不滅の象徴を目的とした徴候で、性シンボルを象徴したものと考えられている。
遠野市山崎のコンセイサマにある男根と女陰のリアルな性シンボル、盃状穴はアブストラクトの進んだ性シンボルと言える。
現在目にする盃状穴のほとんどは二義的後半のもので、神社仏閣等の石造物に穿たれているもので、被穿体の年代をみるといちぎてきなものと千年、あるいは数百年の隔たりがあるという。
穿穴の目的については、土俗的信仰の気配が深く感じられると述べられているが、それが立証されたものでは無いというふうに書かれている。つまり被穿物や穿穴法いついては科学的に追究できるが、その目的となると立証というのはどうすればよいのだろうか。氏の論文は二義的盃状穴について先駆的なものだと思う。非常に奥深い探究がなされていて敬服するが、如何せん緒に就いた分野でもあるので資料の数が少ないのが困難なところである。今後この分野の研究者が全国に存在して資料を収集できれば、新たな発見も出てくるのではないかと思う。
まだ総てを読んでいないので、次に紹介することになるが、雲をつかむような状態から自分でも考察を進められるようになったのは本書のお蔭である。研究者必読の書と言えよう。
【作業日誌 1/23】
玄関すのこ作製
【今日のじょん】:
なが~いお付き合い、リピトール。いやもう必要ないと思っておるのですぞ。
ところで今朝は「なが~いもんを出してたで」と言う。ちょっと寝坊したので怒ってたみたい。