2013.11.3(日)雨 日置のこと(52)は2013.10.31
真弓氏の記述の中で、「古代人は太陽の運行によって測量するのは現代人よりもはるかによくしたところで、必ずしも特定の氏族でなくともよかった」と述べられ、日置部による太陽観測を否定されている。
確かに日々の観天望気や周囲の自然を見て季節をとらえるいわゆる自然暦的な観測は誰もが行ったことだろう。しかし暦に直結するような、あるいは支配者の座を左右するような太陽観測だったらどうだろう。
暦の歴史を見ていると、暦が日本に導入された後にも歴代の支配者は改暦に執着し、改暦の暁にはその暦法を秘密にしているのである。それがなぜなのか、想像するしかないのだが、既に述べたように祭政一致の時代においては卜いなり祈祷の科学的な裏付けとして太陽観測があり、当然そのことは秘密裏に行われなければならない。近世に至っては、暦を独占することにより支配者の権威を高めるとともに、利潤を追求したのではないだろうか。いずれにしても太陽観測は秘密裏に行う必要があり、従って特定の氏族に任せる必要があったと考える。それが日置氏であり、各地の日置部がその任に当たったと考えるのが妥当ではないだろうか。
さりながら、真弓氏の言うところの日置氏による製鉄ということも的外れではない。現実に太陽の道は鉄の道でもある。そして各地にある日置もどうやら古代の鉄に関連があるように思っている。このことは今後の調査研究で明らかにしてみたい。
水谷氏、真弓氏の見解はどちらも当たっているのだ。
日置氏に関する論の共通点は渡来系であり、鉄の技術を持つ、日神祭祀の氏族だという事である。五十瓊敷命の大刀一千口に関わった品部がすべて鉄の技術を持ち得ていたことは当然であるし、逆を返せば鉄の技術が無ければ有力な氏族となり得ないということではないだろうか。
弓削、草壁、日置谷
品部の末端では自給自足で生業をたてながら、専門の職分をこなし、産鉄に従事していたのだろうと考える。上林に存在する日置谷、弓削、草壁(日下部)の地は末端の品部の居住した地と考えていいのではないだろうか。おわり
【作業日誌 11/3】
芝生広場草引き2日目
【今日のじょん】
連夜の吠えまくりで、コチトラも疲れてきた。多い日には4回ぐらい起こされる。でも3回目ぐらいからは見にも行かない。朝一番に飛び出すと夕べの音や匂いのした所を嗅ぎまくる。すると何らかの痕跡が見つかるのだが、ここまでイノシシに掘りまくられるとそれも見つけにくい。
夕べ音のした辺りを嗅ぎまくる。
最近夜な夜な怪しげな獣が現れる向かいの空き地。