2013.11.23(土・祝)曇り
なぜ一滴文庫なのか、という疑問は以前から持っていたのだけれど、それが由利滴水禅師の命名の由来に関するとは驚いた。
由利滴水禅師は天竜寺の館長などつとめられた立派な禅僧なのだが、どこかで聞いた名前だなあと思っていたら、白道路村(はそうじむら 現綾部市白道路町)の出身で市史か何かで読んだものと思われる。
滴水禅師が、備前の曹源寺の儀山善来禅師の下で修行しているとき、風呂に使う水を何気なく捨てたところ、善来禅師にもったいなことをするなと叱られたそうである。
庭園の紅葉もイマイチかなあと思っていたら六角堂のガラス窓から眺めたらぐんと引き立った。限られた空間からの景色がいいようだ。
そのようなことを二度としないよう戒めのために滴水という名を許してもらったということで、なるほど禅宗ならありそうな話だと思うのだが、水上氏の一滴の水に対する思いはただもったいない、粗末にしないというだけのことではないようだ。
一滴文庫のホームページに水上氏の「一滴の水脈ー儀山善来」という文があり、「もったいないことをするな。朝から日照りで草や木が泣いている声が聞こえなんだかと。なぜ二、三歩歩いて草の根、木の根に水をかけてやらなんだ。まあ、そういうことをおっしゃったんですね」という風に書いてある。
もったいないという事もあるけれど、草や木の声を聞けという点に水上氏は感動されたようだ。
そういえば「ものの聲ひとの聲」という本がある。「ものにはものの声がある。人は黙っていてもものを言っている。その語る言葉がわかる人はしあわせである。」
読んだことは無いのだけど帯にはそのように書いてあって、表紙は本館に掲げてある渡辺淳氏の大きな油絵が飾っている。きっと一滴の水に対する思いが書かれているのだろう。水上氏が渡辺氏の絵を使われたのは、ものの声がわかる人だと思われたからだろう。
竹人形文楽の行われるくるま椅子劇場は舞台の背後に竹藪が拡がり、実に見事な配地となっている。いつか見に行きたいものだ。
六角堂でかけうどんをいただいたり、竹人形を見たりして過ごすが、やはり今日の目的のひとつは水上文学風景写真展である。今年で4回目だそうだが、こういうテーマの写真展は大変ありがたい、水上文学信奉者にとっては堪らない写真ばかりだろう。そして最優秀の渡辺剛氏の伊根の舟屋の写真はさらに感激ものである。剛さんの写真は沢山見せてもらったが、この方には持って生まれた才能というかセンスがあるのだろう。実に素晴らしい、よくぞこの光景が現れたなという思いがする。
様々な思いをあとに一滴文庫を出る。水上先生が、「読みたくても買えないこどもたちに、、」と言われた時代はすっかり変わって、豊かなそして原発マネーにあふれた町の光景がつづく。その付近には上林に見られる寂れゆく、廃れゆく村の光景はみじんも無い。
だけど水上作品に共感を覚えるのは、わたしたちの年代の心証の根底に貧困というものが厳然と存在しているのだろう。おわり
【今日のじょん】じょんが吠えるので飛び起きたら、もう朝が明けていた。夜が明けてから吠えるのはサルの襲来しか無い。周囲を見渡し、鳴き声に耳を澄ますが見当たらない。それから一眠りして、本格的に起きてから散歩に出る。じょんが引っ張るので山の中に入っていくと、茂みの中でうごめく音とサルの鳴き声、やっぱりいたんだ。凄いなあじょんの感覚、それは嗅覚か聴覚かそれとも本能的な予感か。画像にはおさめられなかったけど、その感覚に脱帽である。
向こうの茂みに居たんだけど逃げたあとだった。