2013.11.29(金)快晴
何で淳先生が来られたことと子供時分の盗みの話が関係あるのかというと、淳先生の好きな話に他所の貯金箱を盗んだ話があるのだ。とっくに時効となっているし、すぐにばれてこっぴどく叱られ、いたく反省したということだから公表してもいいだろう。というより、先生この話きっと気に入ってるみたいだし、、、。
お祭りの夜店だったろうか、なにか凄く欲しいものがあって、他所の家の貯金箱を盗み出して、首尾良く欲しい物を買った。ところが貧乏なあいつがそんなもの買えるわけが無いと噂になって、親に知れることとなり、ぶん殴られて土下座して謝ったということである。もちろんお金は返すこととなったそうだ。
さてわたしの方だが、本の購入だけにしておけばいいものを、みんなが立ち寄っている駄菓子屋、わたしたちは「あてもんや」と言っていたが、そこによって五円や十円のあてもんをしていたのだ。そこに運悪く母親が通り過ぎた、小遣いなんて持ってるはずの無い者が店に入っているのだからバレバレである。その晩はぶん殴られこそしなかったが、こっぴどく叱られた。それから二度と盗みはしなかったのだが、後日「子供時代に盗みをしなかった者に人生は語れない」という格言をどこかで見つけた。
それがどういう意味かは判断に苦しむところだが、「幼いときに貧乏を体験し、自らの願望を果たすべく尋常でない行動に出ることがその人のその後の人生に大きな果実を残す」ということではないかと身勝手に思っている。
そのためには悪事はバレルことが必要で、その者は二度と過ちを犯さないことが必要である。
水上先生にそのようなことがあったとは思えないが、貧乏は一級品である。そして先生は「ありがたいことに貧乏で、そのことがその後の球根になっている」というようなことをビデオで話しておられた。
確かに水上文学の根底には貧困であるが上に不幸に落ち込むというモチーフが多い。しかしその後はその人なりなんだよと言っておられるように感じる。幼いときが極貧だからって、それを肥やしにするも毒にするもその人次第である。だけど幼いときが裕福だったら、肥やしは得られない。そのことが「ありがたいことに貧乏で、、」という言葉になったのだと思う。
水上先生も淳先生も幼いときの貧乏を充分に肥やしとしておられるのではないだろうか。終わり
お向かいの波多野さんは淳先生のお弟子さん。何十年ぶりかに会えて両人大喜び、優しい先生なんだって。
【作業日誌 11/29】
木こり、玉切り、枝葉整理
【今日のじょん】冬来たりなば。
いまさら初霜ではないだろうけど、被害というか、変化の起きた霜は今日が初めてである。起きるのが遅かったが8:30の外気が2℃で初氷は確かである。
ピーマンなどの夏野菜もしぶとく実を着けていたのだが、今朝の霜で全滅、ジャガイモ、ヤーコン、ノーゼンカズラは葉が真っ黒になり、落葉寸前。
少しずつ落葉していた桐が、なんと一夜でごっそり落ちてしまった。気温が限界値になったのかな。