晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

芝生物語‘13(1)  11/17 

2013-11-17 | 日記・エッセイ・コラム


2013.11.17(日)晴れ

 今年はドッグランどの整備が多忙で芝生広場の管理がまるで出来なかった。芝刈り機による芝刈りも無し、施肥も無し、除草も無し、やったことといえば草刈り機による芝刈りならぬ草刈りが5回程度か。ただ、夏の暑さに対してスプリンクラーの水やりだけはしっかり行ってきた。
 ドッグランどの目処がついて、改めて芝生を見ると何とも無残に雑草が拡がっている。苔が拡がったり、芝が薄くなって地肌が出ているところも散見される。
 ここではっきり言おう、100㎡もの芝生をきっちり管理しようと思えば、専門の爺やが一人は必要だということだ。しかも我が家のように、除草剤や殺虫剤を使えない場合なおさらである。無農薬だってなにも天然指向になっているわけではない、単にワンちゃんが走り回るからだ。
 一年間放っておいたお詫びに、秋の管理は徹底してやることにする。
 まずどうしようもない状態の部分、2㎡を植え替えする。これは毎秋やっていることで、古い芝はドッグランどに植え付ける。クローバーがびっしり生えて、こりゃあひどいと思った部分を植え替えたが、実はクローバーは最大の敵ではないことが判明した。剥がした芝からは完全に除草できるのである。やはり最大の敵は苔のようである。苔が芝を駆逐するのではなく、苔が生えるような環境が芝の生育に問題なのだと思う。次回からの植え替えは、苔にやられた部分で、植え替えたあとの地の整備が肝心かと思う。
P1010580P1010611P1010633



北側部分は日当たりが悪く、生育が悪いので雑草が元気。
P1010635



剥がした芝はドッグランどに植え替える。


 さて本番の秋の整備だが、最終目標はエアベンチレーションと施肥と砂入れである。
 しかしその前の除草が難題である。やる気が萎えるほどに雑草が生えそろっているのだ。
 いやいや除草を始めると、絶望的に思えていた雑草が工夫次第でなんとか除草でき、実に楽しくなってくる。タンポポを含めて広葉の草は三角鍬を根元の脇に打ち込んで手で抜けば根から抜ける。多いのはタンポポ、アレチノギク、ウラジロチチコグサでウラジロチチコグサなどは一撃で除草できる。
P1010769P1010768


 

ウラジロチチコグサは除草が簡単(左)、ヒメクグ(右)は地下茎が発達しており、完全除去は難しい。

  問題はイネ科の雑草で、エノコログサなどは既に枯れていて、茎を掴んで引き抜けば根から抜けるが、ススキの類いが4㎡ほど拡がってしまい、この処理には参った。値がしっかり張っているので三角鍬でがんがん掘って、根ごと掘り起こす感じだ。葉や茎をもって引いてもちぎれてしまう。芝の中に少し生えているだけのように見えるが、根から掘り起こしたら、その場所の芝は無いに等しくなってしまった。手強い雑草である。つづく
P1010767


この部分にススキがはびこった。根を取ったら穴ぼこだらけになる。


【作業日誌 11/17】
芝生広場1/4、砂入れ完了。
P1010788

これをならして終了。


【今日のじょん】ゆきちゃんはしょっちゅう遊びに来ているが、じょんと遊んだのはお久しぶり。ドッグランでRUNしてくれると嬉しいものだ。
P1010784


ゆきちゃんは体重も軽いが身も軽い。

 

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日置のこと(61) 阿比地神社-5 11/16

2013-11-17 | 上林地名考

2013.11.16(土)晴れ

 「西丹波秘境の旅」(澤潔著)で「幻想あふれる於成平」というタイトルで書かれた文章「夏至の太陽の移りゆく真下あたりに、天火明命を祀る石原の興に鎮座する阿比知神社が云々」と「アヒチ(夏至の太陽が会うところ)」の部分に惹かれて阿毘地神社を調べたが結果は興は日置ではなさそうということとなった。(文章は日置のこと(57)2013.11.12参照)
 なぜなら、長々と書いてきたように元々阿毘地神社は興の地には無くて、観音寺の境内にあったようだからだ。於成平がどこにあるか分からないのだが、地図上では弥仙山から南西240度の方向に現在の阿毘地神社があるのは確かである。
P1010749

 


夏至の朝日はこの方向からあがる、弥仙山が見えるか否かは悪天のため確認できなかった。中央に私市丸山古墳が見える。

  しかしそれ以前に観音寺周辺に存在したとしたら、弥仙山からのラインはやや南に寄ることとなる。従って弥仙山からの冬至の日没のラインをもって興を日置とする澤氏の説は氏ができすぎと言われている偶然の一致と言わざるを得ない。
 また、阿毘地神社の語源についても、澤氏の説よりも志賀剛氏の「アユチ」説の方が妥当性がある。
 興の語源について、斉藤喜一氏は「創作 青い花」(丹波文庫15号)の中でヒオキのヒがとれてオキとなったのではという風に書かれているが、氏は土(つち)も日置だと言っておられ、日置という村の性格上、隣接して存在するとは思えないのである。(土と興は約1.5Km離れている)
 従って両村のいずれかもしくは両方が日置ではないと考えるのである。
 興の語源について、他にも説があるのだろうが未見なので考えてみることにする。
 観音寺村の出戸として新しくおきた村なので興(おき)なのかなと思ったが、単なる語呂合わせのような気がする。
 「丹波志」に興村のことを奥村と書いてあり、江戸時代には興村を奥村と書いたそうである。(福知山市史注)どちらもオキと読んだようだが、興の意味は沖だと思う。ただし、海の沖のような意味ではなくて、海辺とか海寄りの干拓地という意味ととる。(地名の語源 鏡味完二)
 ではなぜこの内陸で海の地名が付くのかというと、それは由良川流域の船運に由来するのだろう。古代から近世に至るまで由良川の船運は物資輸送として重要なウェイトがあっただろう。由良川を遡っていくと津、江、浦などの海に関する地名がいくつも見られる。津だけみても藤津、高津江、常津、天津、秋津、高津など目白押しで、おそらくその多くは重要な寄港地であったのだろう。古代においてはこれら船運は丹後海人あるいはその末裔が担っていたものと思われる。彼らは海で活躍していたと同じように由良川の流域に海の地名を付けていったに違いない。
 そう考えると興はちょうど海辺、海寄りの干拓地という意味にぴったりではないか。そしてその興の沖に戸田の浦嶋神社があるのもうなずける事なのである。
おわりP1010214


この向こうに浦嶋神社があるのだが、台風の爪痕が酷くて行けなかった。(2013.9.17)


【作業日誌 11/16】
薪拾い、武吉町
芝生草抜き(九日目)西半分、砂入れ準備

【今日のじょん】ゲンタが来じょん、出せ出せとの催促、しゃーないなあ出したろかとなると大はしゃぎで部屋中走り回る。そうこうしているうちにモモ姉さんも来て、いやはやよく遊びました。P1010780

 
おやつの時間ですよ~ 
 

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