晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

文化の秋 10/14

2012-10-14 | 日記・エッセイ・コラム

2012.10.14(日)曇

 夏は一般的に大衆受けする催しが多いが、秋は玄人というか特化した分野の展示会が多い。文化の秋のなせるわざと言うところか。行きたい催しがいくつかある。行きたいと行けるとは別問題で、金銭的な理由で行けないものがある。

 高句麗壁画古墳報道写真展
 日本新聞博物館 横浜市中央区 12月16日まで
 共同通信社が昨年、一昨年平壌やその周辺で取材したもので、メディア、研究者とも簡単に行けるところでは無いので大変貴重なものだ。日本の古代文化との関連を発見できるものだろう。横浜まで出かけられないが、関西などでも開催されないものなんだろうか。

 丹後古代の里資料館
 京丹後市丹後町宮 火曜休館
 丹後建国(713年)1300年を前に展示品を刷新して、鉄の丹後王国の繁栄から衰退までを分かりやすく紹介している。
 これは期間展示ではなく、常設の展示と思われるが近くでもあるので是非行ってみたい。それはやはり近年盛んになった製鉄遺跡の発掘である。もちろん過去から製鉄遺跡は発掘されていたのだが、あまり注目されていなかったというか、重要視されていなかったようである。ところが近年国家の成立、国権、文化の発展などに金属とりわけ鉄の有り様が大きくクローズアップされてきた。
 今ここに「日本の古代遺跡27」という古代遺跡、特に古墳についての非常によくできたガイドブック的な本がある。大変身近な遺跡の概要が分かりやすく述べられているのだが、金属の産出、精錬という視点はまるで無い。石器、土器、銅鐸、鏡、石棺などが主人公で、もちろん大刀や銅鐸など金属製品は登場するのだが、金属の産出、精錬という観点は無いようである。
 やがて古代国家の成立と発展に金属が重要な位置を占めることが理解されはじめ、製鉄遺跡や鍛冶遺跡が注目されるようになったのだろう。特に丹後では遠所遺跡の発掘が大きなウェイトを占めるようになった。
 そういう所にこの資料館の刷新というのも在るのではないだろうか。

 特別展「王者の証」
 綾部市資料館開館20周年記念特別展示 11月25日まで
 横穴式石室墳がメインテーマということで、市内からの出土品、藤ノ木古墳の出土品の一部も展示されるそうだ。
 あまり興味ないのだけど確実に行けるので取りあげてみた。P1030041

 


秋は文化的催しが目白押し、普段文化に触れることの無いあなた、この秋ちょっと覗いてみませんか。

【晴徨雨読】75日目 (2006.10.14)八戸~田野畑
 フェリーで八戸に着いたのは暗い内でその寒いこと、車の連中はそそくさと出かけるが、二輪と自転車のわたしは待合室で夜明けを待つ。外に出る気がしないわけだ。これから冬に向かう京都への道のりを思うと、不安が込み上げてくる。それでも明るい日差しが差し込んでくると勇気が湧くものだ。種差海岸など風光明媚な海岸線を走る。絶好のサイクリングコースだ。岩手県に入ると道はやや複雑になるのだが、種市海水浴場という知られていないのに素晴らしい景色を見る。Img_1151 Img_1152
 




 久慈あたりで一泊と思ったが何となく変わりばえのしないところなので足を伸ばすと、玉川鉱山なんてのがあった。なんとこれがマンガン鉱山なのだ。Img_1170

観光鉱山も一人で入ると不気味である。



 京都のマンガン鉱山と違って規模がでかい。少し走って海沿いの烏帽子岩のそばに宿をとる。

【今日のじょん】:今日は葛禮本神社の秋祭りだ。幟のところからお参りする。P1030040
 

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別所探訪(19) 菟原中⑱ 10/13

2012-10-14 | 歴史・民俗

    2012.10.13(土)晴れ

 別所の尾根の東側、つまり友渕川方面には養鶏場があるために別所からは行けそうにない。友渕川の左岸に小道が有りそうなので行ってみたいが、時間が無い。やむなく梅田神社から眺めることにする。別所の下には馬場という所があったという。かつて打杭氏という武士団が居たという、射場、馬場というのは彼らの訓練の場であったのかもしれない。
 各地の製鉄遺跡や産鉄候補地は古くは牧であった例が多い。馬場という地名は崖、尾根上の平地、広場など直接馬に関係の無い場合もあるが、ここの場合は本当の馬場であって欲しいと思うのである。
 もうひとつ馬に関連するかという地名が、馬船(まぶね)である。旧京街道が馬船口を通っているというから期待が持てる。P1020958 P1020960
 



左:別所の北側、右手台地上に福林寺が見える。
右:別所の東、友渕川出合い。58年水害以前は土師川がもっと奥へ蛇行していたそうだ。

 辞書を引くと「馬を乗せて川を渡る船」など言う意味もあるようだ。となると馬場とも関連ありそうだと考えられるが、この地名は上流の高杉にもあり、馬を乗せて川を渡るというような大げさな川ではないので、馬船=馬を乗せる船という意味はこの地では該当しないようだ。いずれにしても馬船というところがどのような位置にあるか分かれば、その意味も解ってくるだろう。
 旧京街道でこの馬船口だけが確定できていないのだが、渕脇の細見さんは知っておられたのでそれほど難しいことではなさそうだ。
 実は菟原中を二回目に訪れた際に京街道はこれかなっと下った坂がある。宿から逆に降りてきて、府道を渡り影清稲荷の前を通る道の最初の左に入る道だ。京街道を探している時であって、宿からの道の角度がこの路地の方が素直なのだ。進んで行くと急坂となり、目的の方向と逆の方向に降りて行く、しかも友渕川に突き当たってしまった。これは間違いだと思い、下の方を探してバンド坂や土師川の渡しの部分を見つけるのだが、最初に間違えた道こそが旧京街道ではないかと思っている。
 いずれ分かることだが、何かと想像するのは楽しい。
 さて肝心の不寝の森探しだが、すっかり時間が無くなったので、あたらし屋さんの横の道とヴェルディみわの手前の造成地付近を確認する。P1020967
 
あたらし屋さんの横の道、藤田さんの言ではこれが京街道という。




 あたらし屋さんの横の道からどう山の中に入るかはわからない。逆から道を辿るしか無い。谷の附近にこれも宅地になるのだろうか造成された部分がある。P1020968

どこから山中に入っているかわからない。矢印のところに住居跡あり。



 谷には木橋がかかっており、山の斜面に道がある。どうやらこれが京街道らしい。造成地から山林に入った辺りに段があるようで、街道跡のように思えるのだが、確認できていない。造成地との際に棕櫚の木発見、棕櫚は人が居住していた証でもある。草むらをガサガサ入って行くと古井戸発見、居住跡であることは間違いない。P1020972 P1020975
 



左:谷を越えて道は続いている。
右:住居跡の古井戸。

 もしこの建物が但馬屋跡であったとしたら、宇治にも負けない美味しいお茶を点てたのはこの井戸になるわけだ。いやはやロマンである。つづく

【作業日誌10/13】
草刈り(6-2)

【晴徨雨読】74日目(2006.10.13)札幌~支笏湖~苫小牧
寒さの北海道を脱出する。札幌資料館と言うところで風刺漫画とナンセンスの展示会があった。暗い気持ちで旅立ったが、少しなごむ。Img_1107Img_1108


本文には沢山掲載。




 支笏湖を巡る道も人影も少なく寒々としている。樽前国道にそってサイクリング道路が有る。30Kmほとんど直線の楽しい道なんだが、国道もガラガラなので主に国道を走る。その総てが下りで漕ぐ必要が無いほどだ。本来最高に楽しい走行なんだが、寒すぎてスピードも出せないし、途中で止まって身体を温めないと凍えてしまう。フェリーターミナルでは思い切り熱燗にしてもらった。Img_1133 Img_1134_2




支笏湖も寒そー、多分日本一直線の長いサイクリング道路。


【今日のじょん】:何じゃこりゃシリーズ オニフスベ?
昨年も見つけた場所で今年も二個見つけた。一個はもう爆発している。これって調べると食べられるんだって、ちょっと食う気しないわなあ。P1030036_2P1030037P1030038_2


 

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じょんのび秋深し 10/12

2012-10-12 | 違いのわからん農学士

2012.10.12(金)曇

 別所探訪を連続して書いてきたが、興味ある人にとっては魅力的な内容だと思うがそうでない人にとっては堪らなくしんどい記事になろうかと思うので今日は趣向を変えてじょんのび村の秋をお知らせしよう。
 今日は恒例のバイクトレーニングの日なんだけど、朝には雨がぱらぱらし晴徨というわけにいかないので休養日とし、庭仕事などやっつける。
 その前に衣替えをする。いつまでも暖かい感がしたのだが、急激に冷え込んできた。
 じょんのび谷の伐採整備をしている最中なので出てきた木や草を燃やす。伐採をしているとアケビがなっていた。山の中になるもんだと思っていたけど、山の中に住んでいるのだということを実感する。P1030019
P1030032  
じょんのび谷はワサビ田にする予定。



 そして珍しいものを見つける、合歓の木と木瓜(ボケ)の実である。合歓の木は豆といった方が良いみたいだ、どちらも初めて見るものだ。P1030008
P1030024



合歓の木の豆と木瓜の実、木瓜の実は食用になるんだと。


 先日あやべ市民新聞に「茎にできる花ミョウガは、何年も栽培しているけど初めて」という記事が載っていた。これって珍しいことでもなく、注意力の問題だと思う。木瓜も合歓もわたしの網膜には何度も写っていたのだろうけど、大脳で知覚することは無かったということだろう。

 次に枯れてしまったつるバラの植え替えをする。白樺といい、オリーブといい、バラといい値段の高いものほど害虫にやられる。不思議なものだ。
 
 野菜畑だが、暖かいからというわけじゃないけど、植え付けや播種が例年より10日から2週間ほど遅れている。大根も白菜もホウレンソウもやっと芽が出たぐらいだ。暑さの中で虫にたかられている他所の畑を見ながら遅くて正解なーんて思っていたのだが、こう冷えてくると成長が心配だ。最も心配なのがジャガイモで、収穫まで3ヶ月の期間が必要ということだが、どう考えても一ヶ月は不足しそうだ。今後の冷え具合を見て、ビニールでも掛けようかと思っている。とにかく霜が降りたらゲームオーバーになりそうだから。

 順調なのが鷹の爪で、来る人が皆良い色だと褒めてくれる。鷹の爪の色なんてみんな同じと思うのだが、褒められると嬉しい。しかしこれは収穫時が難しいのだ。最初の時はもっとよくなったのだが、霜に当たって枯れてしまった。慌てて収穫し乾燥しても、中が黴びてしまった。今年は何かで調べて的確な収穫と保存をしたいと思っているのだが、これも霜よけビニールが必要かもしれない。
 UFOピーマンは大豊作で、素晴らしい赤に変わってきている。食べても美味しいのだが元々観賞用ということだ。少し種をとっておこう。P1030031
 
UFOピーマンは上品な辛さで、スパゲティやカレーにOK。



 今夏は頑張って普通のナスとヒスイナス、仙台長ナスを作った。ところが雨が少なく悲惨な状況だった。ヒスイナスだけは丈夫なもんで例年に少し劣るぐらいだったが、、。そんなこんなで秋ナスには力入れたんだけど、気温のせいか成長は遅い。P1030028
 千両ナスと仙台長ナス。



 
 さて焚き火のおきが出来たので、拾った栗があったので焼いてみる。子供の頃おくどさんの火のもりはわたしの仕事だった。この季節には毎日のように数個を焼いていた。思えばそれ以来焼き栗って食べていない。数十年ぶりの香ばしい焼き栗を食す。もちろんじょんも美味しく食べていた。P1030027

 焼き栗や おくどの傍の こどもかな  うとく


P1030025
「じょん栗食うか?」
ふりむきじょん。




【晴徨雨読】73日目(2006.10.12)小樽~札幌
 うってかわってスカ天となったんだが、寒さは厳しくなった。この日も幹線道路の国道5号線を面白くも無い走行をする。今から思えば距離は知れているのだから道道1号線で定山渓を回って行けば良かった。しかしその時の精神状態は早く北海道を抜け出したい一心で遠くてきついコースを選ぶ余裕は無かった。北海道を出ても青森、宮城、福島と走らなければならない。輪行の出来ない重装備の自転車では自力で行くしかないのだ。積雪は絶対に避けなければならない。ニセコ以来そんな焦りが常にあったことを白状しよう。
 そういえばこの日日ハムがクライマックス優勝を決めた。博物館からの帰りのバスの中で歓声が起こった。Img_1103



コモチカナヘビ

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別所探訪(18) 菟原中⑰ 10/11

2012-10-11 | 歴史・民俗

2012.10.11(木)曇

 薬師谷の林道は舗装されていて快適に登って行ける。どういうわけか地名の立て札が立っており、小字もあればもっと細かい地名まで記載されている。菟原下のこの谷だけどうしてこのような表示があるのか解らない。学校で歴史や地理の学習にでも使われたのだろうか、いずれにしても地名探索者にとってはこれほどありがたいものはない。
 「義経」という所があったので、義経谷はすぐに解った。この谷あたりから別所に登っていったとすると、先程養鶏場で見つけた所が道ならば、少し左に登って行く感じである。それが清水坂なのだろうか。
P1020956
こういう地名看板がいたるところに立っている。


 実は「清水」という地名は金属関連地名ではないかと考えている。あまりにも多い地名であり、いわゆる水の湧く清水というのはどこにでもあるので、どの研究者にも提唱されていない。鉱山や金属関連遺跡、鋳物師の存在地などを調べていると最も多く見つけることができる共通の地名が実は「清水」である。もちろん大清水とか清水口などといった地名になる事もある。サシスセソが金属に関連あろうというのは谷川健一氏も述べられているが、水が何を表すか解らないので発表はしていない。
 少し奥に入って行くと左手に都会から来たという人のおしゃれな家がある。鳥を飼ったり、野菜や椎茸など栽培されているようだ。犬の鳴き声も何頭か聞こえる。またいつか声を掛けてみよう。
 どんどん登って行くと、両岸に岩がせり立っている切り通しのようなところに出る。その先右手に旧道らしき橋が架かっており、その手前に岩をくり抜いた窟に石像がある。うーむ、これは毘沙門天ではない、養鶏場で聞いた地形のところなので、これを毘沙門天と間違われたようだ。地名看板では「薬師」と書いてあり、これは薬師如来であろう。P1020945 P1020954 P1020950
 




 別所と薬師堂、特に慈覚大師の開基と言われる薬師堂は付きものである。そのことが蝦夷の俘囚と別所を関連づけるものと柴田氏は言われるのだが、わたしは今ひとつ納得がいかないものである。ただこの薬師谷の薬師堂が天台宗福林寺と所縁があるようで、慈覚大師が天台宗と所縁があることを考えると別所との関連はあるのかも知れない。
 薬師谷を詰めてゆくが、目的の薬師堂もあったことだし途中で引き返す。
 薬師谷の帰り道では、義経の近くに赤穂屋敷という地名を見つける。伝説によると別所には豪農赤穂五三郎の住居があったとされている。同じく別所の打杭氏についてもその姿は皆目分からない。
打杭氏については綾部市別所町の北にある内久井町(うちぐいちょう)も気になるところだが何の脈絡も見つからない。
 旧京街道については別所に上がるところまではおぼろげながら分かった。ところがだ、別所の中を通れないもんだから、別所以降の道を探すのが大変だ。馬船口と言うところだけがヒントである。つづく

【作業日誌 10/11】
谷の水道新ルート開通
チューリップ球根植えつけ終了

【晴徨雨読】72日目(2006.10.11)小樽滞在
 雨の中を小樽の街を逍遙する。小樽は今回の目的の街でもあり、憧れの街であったのだが、旅行中に趣向が変わり、どうも都市には魅力を感じなくなってきた。
博物館も日帰り温泉もつまらなく、ましてや観光客が列をなす運河の辺なんて面白くも何ともない。唯一村上君の話していた絶品の小樽の寿司は食しようと思っていたのだが、店頭の値段に負けて遂に食することはなかった。Img_1088


小樽はお金持ちの観光客には良いところかも知れない。



 【今日のじょん】:な~おさんに秘密の枝豆を頂く。丹波には名産の黒豆の枝豆があって充分に美味しいのだが、山形のだだちゃ豆には負ける。そのだだちゃの系統らしいけど、これは絶品である。だだちゃが美味いのは水分量の加減ではないかと密かに思っているのだけど、、、。もちろんじょんもご相伴にあずかった。P1030021
 

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別所探訪(17) 菟原中⑯ 10/10

2012-10-10 | 歴史・民俗

2012.10.10(水)快晴

 別所から出てきた地蔵などが養鶏場で祀られていると聞いたので、いよいよ別所に行くこととする。「別所地名事典」に「墓地だったらしく、五輪塔などが出土し云々」と書かれている。寺院があったとしたら墓地があるのは当然だが、別所という地域のどれだけが養鶏場になっているのかと言う問題も沸いてくる。養鶏場の坂を登って行くと、どこの養鶏場もそうであるように消毒用のゲートがある。鳥インフルエンザの関係で設置されているのだろうが、白い粉がまき散らされているのは消石灰だろうか。
狂牛病の時もそうだが、やたら消石灰が撒かれているが一体何の効果があるのだろう。消石灰に殺菌効果があるとは思えないし、ましてやウィルスに対しどのような効果があるのか、当たり前にやられていることがなんとも怪しげなことがある。
 話が変な方向に行ったが、ゲートの横から職員さんの駐車場に入る。
 菟原中に通い始めて一ヶ月、やっと来れた別所なんだが一体ここで何を見つけようというのか。白い鶏舎や飼料のタンクを見ていてもイメージは沸いてこない。P1020938
 その時駐車場の右端に道跡のような切り開きを見つける。義経谷から上がってきた旧街道というのはこれではないだろうか。菟原村史にある清水坂は別所に上がってくる坂だろう。歩いてみたい気はするのだけど、今日の目的ではない。カメラにおさめて帰ろうとすると、立入禁止の看板の向こうに人の声がする。

P1020937



駐車場の端に道らしき空間がある。


 「お地蔵とかが祀ってあると聞いたのですが、見られますか?」
「立入できないのだけど、まあ良いですよ」てなことで、傍らに祀ってある祠の所に連れて行ってもらう。坂を登ってくる際に、これだなっと目を付けていたところである。
 「造成するときに出て来たもので、無縁仏と不動様としてお祀りしているのです」
端に円い石がある、それは五輪塔の頭の部分だろう。
 事業者として自らの工場から発見されたものを丁寧に祀っておられ、その信心深さがうかがえる。年に一度円応教の方に来て貰ってお祀りされているという。
 ただ、福林寺さんの言われるように、もとが墓地であったとしたらこんなものではないだろう。少なくとも五輪塔の頭はそれらしい遺物だが、あとの石は自然石のようだ。P1020939
 
養鶏場の中に祀られている。左端は五輪塔の一部のようだ。



 別所が寺院跡、墓所跡であったとしたら、養鶏所の部分はその中心部ではないと予想される。なぜなら中心部ならもっと沢山の遺物が出るだろうし、出たとしたらこの養鶏場の経営者は総てを祀られると思うからである。
 毘沙門堂や不寝の森について聞いてみるが、地元のものではないので解らないと言うことだった。ただ、「この下の谷の奥に毘沙門堂がありますよ」という情報を戴いた。
 養鶏場の方に、多分場長さんでなかったかと思うのだが、丁寧にお礼を言って坂を下る。もう時間はかなり過ぎていて本来の目的の不寝の森探しに行かなければならないのだが、毘沙門堂と聞いては捨て置けない。福林寺と別所の間の谷、薬師谷という谷を登って行く。つづく

【作業日誌 10/10】
好天は今日一日という予報なので、じょんのび谷の伐採を続ける。左岸堰堤までの伐採を終える。木や竹は切ったが後始末が大変だ。

【晴徨雨読】71日目(2006.10.10)神威岬~積丹岬~余市~小樽
 この日は晴天の特異日である。北海道でも半袖で走っている。前日は長袖にウィンドブレーカー着ているのだから、差が激しい。この日も北海道の海の豪快な景色を堪能している。Img_1030

積丹ブルーと言うそうだ。


  道中崩落事故で憶えのある豊浜トンネルを通った。事故のあったトンネルとは位置が変わっているが、地形はニュースで見たものと同じで、胸が痛む。トンネルが崩れるなんて考えもしないことが起こりうるのだ。自然のまえに人間の力など非力なものなんだ。Img_1063
 余市のニッカ工場でしこたまピュアモルトをいただく。



この画像は本文にも載せているのだが、何度もニュースで見た地形だ。

 【今日のじょん】:偶然にユキとサチが一緒になった。この娘たちはどういうわけか反りが合わないらしい。じょんのびの庭の両端に繋がれていたが、そんなことはつゆ知らずじょんは出してくれいと騒いでいる。そんなとこ行ったらぼこぼこにやられるでといってもわからないようだ。

P1030016 P1030017
 
ワ~オ

P1030018

「外出してくれい。」馬鹿か。

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別所訪問(16) 菟原中⑮ 10/9

2012-10-09 | 歴史・民俗

2012.10.9(火)曇

 細見さんの言では、淵脇の淵の上の山中に道があるということだ。そして淵脇の裏手から斜めに、福林寺のある尾根を越え、薬師谷に降りて、義経谷を登って別所に至るという。菟原村史では別所に至る坂は清水坂とあった。これは細見さんも分からないと言うことだった。いずれにしても言われる道が旧の京街道であることは間違いが無いようだ。P1020930_2
 

淵脇(ふちわけ)の由来はやはりこの淵か。58年の大水で砂利が溜まったそうだ。

 その道にはお地蔵さんとか無かったですかと尋ねたところ、別所の養鶏所に祀ってあるでという答だった。今すぐその街道を辿ってみたい気持だったが、なにしろ薮山となっており、バイクパンツのスタイルでは行けそうに無い。P1020933
 



右手淵の上から家の裏を抜け、左に上昇して福林寺の尾根に出るようだ。

 次に別所毘沙門堂と不寝の森のことを尋ねた。
 不寝の森については名前も聞いたことが無いということだったが、毘沙門堂については、「わたしが嫁に来てから稲荷さんのところに移されました」ということだった。それは戦後のことだということで、昔の伝説などと言うものでは無い。これで不寝の森と毘沙門堂のことは総てがはっきりした。宿垣内にあった不寝の森のことは宿近くの人は誰でも知っているが、遠く離れた淵脇の人は知らない。また毘沙門堂のことはそう昔のことでないのでだれもが知っている。そして二回目訪問の時、滝本さんが、別所にあった不寝大明神が子供の頃に影清稲荷に移されたと言われたのは、毘沙門堂のことを勘違いされていたということのようだ。
 次に「別所地名事典」の著者柴田弘武氏が最初に訪問され、様々な聞き取りをされている福林寺について聞いてみた。
 柴田氏が福林寺で聞かれたことは、「別所地名事典」から抜粋してみよう。

 「福林寺で聞いたところによると、別所は竜源寺(ママ)の所有地で、同寺がもとあった所らしいという。竜源寺の宝篋印塔もここから移したものだという。また墓地だったらしく、五輪塔などが出土し、云々」
 「福林寺で聞いたところによると、この景清稲荷(ママ)の祠は別所からうつしたものだという。」

 細見さんも福林寺の檀家と言うことなのでよくご存じだったが、残念なことに柴田氏が取材されたと思われる住職は十数年前に亡くなられていた。現在は草山のお寺が兼務されていると言うことなので、天台宗久法寺のことらしい。久法寺を訪ねても上記の真意は解らないと思う。つづく

【作業日誌 10/9】
チューリップ植え込み(10月8日)
じょんのび谷伐採

【晴徨雨読】70日目(2006.10.9)ニセコ~倶知安~積丹半島
 旅先でいろんな人に出会うのだが、同じ旅人同士というのはその場限りとなることが多い。そのなかでこの日に出合ったぶんきち夫婦歩き旅は強烈だった。夫婦で日本中を歩いて旅しておられるのだ。道端で挨拶してお話ししただけなんだけど、じょんのびを開店してから、歩いて来じょんされたり、とにかく凄い夫婦である。
本文にブログの案内も書いてるので見てね。Vfsh0153_t Img_1025 Img_1020







奥さんが撮ってくれたので、夫婦の写真はない。積丹半島の風景は豪快。


【今日のじょん】:最近じょんの「おはよ~」の挨拶が聞けなくなった。なんとか録音したいと構えてるのだが、、、。そんなわけで画像は無し。

 

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別所探訪(15) 菟原中⑭ 10/8

2012-10-08 | 歴史・民俗

2012.10.8(月・祝)快晴

 菟原中別所を訪ねる前に、井脇別所(京丹波町)、綾部市別所町、星原町別所などを訪ねている。そしてそこで感じたことは地形的な閉塞性である。
 井脇別所は自動車道の工事中で中に入れず実感としては判らなかったのだが、綾部市の両別所は入口部分が両側からの尾根で門のようになっており、道路はいずれも袋小路になっている。菟原中別所は逆に尾根上だが、友渕川、土師川、薬師谷もしくは岼ヶ鼻川と三方を川に囲まれ、もう一方は山となっている。柴田氏が蝦夷の俘囚を移配したとする理由が解るようなきがする。つまりこういう閉塞的な地形は幽閉し、逃亡を防ぐには理想的な地形だからである。
 こういった考えを一掃したのが、菟原の旧京街道である。別所のど真ん中を往時の幹線道路が通過しているのだ。別所町だって中心部の辻に「右 たなべみち 左 むらみち」の道標があった。P1020673

別所町の道標


 星原町別所こそ行き詰まりの地だと思いきや、遠坂峠から白道路(はそうじ)に抜け各地に行ける道なのだ。これ等は幹線道路ではないが、重要な地方道とでもいえるだろう。
 つまり、閉塞の地だと思うのは現代人の感覚であって、往時においては決してそうではないと思うのである。
 そういった意味を考えながら旧京街道を追跡しながら菟原中別所を訪れた。菟原に通い始めて四回目のことである。
 
 2012年10月5日(金) 快晴
  
  菟原下柏田の道わけ地蔵を右にとる。「右 ささやま道」の方向である。「左 京道」に行くと柳瀬で土師川を渡る新京街道になるので右は正しいと思う。
菟原村史に「柏田から川を左に見て、高杉村に京道の牛馬の通らない間道がある」と記されている。おそらく丹波志からの転載だと思うのだが、これが旧京街道のことだろう。三和タオルの工場の先で山手を巡る道と田んぼの中を直線的に進む府道710号線の道に分かれる。どちらが京街道であったか判らないが、府道は完全に新しい道となっていたので山側の道を行く。土師川の支流を渡るには山側道の方が楽だが距離的には遠くなる。後日確認するつもりだがこの田園地帯が猪ノ倉といわれるところではないか。P1020924
 



 矢印の辺りが道わけ地蔵、右ヘ白い家の所を通って段を降りるのが新京街道。
右手のコンクリートの斜面の下が国道9号線、正面のガードレールが府道710号線、撮影地が山沿いの道、このどちらかが旧京街道だろう。


 下二の集落に入る辺り左に下り気味の道があり、地蔵堂があり、旧そうな地蔵さまが大切に祀られている。この道が旧街道だとすると、進入角度から山側の道が街道だろう。P1020927
 



 道なりに進むと轟(とどろき)大橋という土師川をまたぐ橋に出る。その手前を右に下る道がある。これはもう勘でしかないのだが、下ったところの家で尋ねると、街道かどうかは判らないがその先の岼ヶ鼻川の脇の道は結構近くまで使われていた昔からの道だということだった。土師川を渡らないで淵脇に向かうならこの道が最適だと思う。P1020928 P1020929_2
 



岼ヶ鼻川右岸に街道らしき道跡がある。真っ直ぐ行くと土師川を渡る、左上が鹿倉公園。


 自転車では辿れないので土師川を渡り、鹿倉公園の横を回って再度土師川を渡り、福林寺の山門の所に出る。これはもちろん街道とは無縁である。二度も大河を渡ることはあり得ないからだ。P1020935
 
福林寺山門、手前は別所、向こうは淵脇、来た道は写真右手。



 淵脇(ふちわけ)は土師川が最も極端に蛇行した先端にある集落で、名前の通り淵が発達しており、大変きれいなところである。ただ大水の時は結構恐怖かなあとも思われる。この先端部の細見さんというお宅で、街道や別所に関する情報を戴くこととなる。つづく

【晴徨雨読】69日目(2006.10.8)ニセコ滞在
 連日の風雨でニセコも三泊目、二食付きのYHでよかった。ペアレントの奥さんは気の毒に思ってか今日も別の温泉に連れて行ってくれた。ニセコでは三箇所違う温泉に入った。なんと贅沢なところだ。夜はアコーディオンの名手であるご主人の演奏会となる。
 長旅を続けているわたしにとっては三日間の停滞も苦にならないが、休みをとって来ている旅行者はつらいだろうなあ。Img_1006

斜里町での演奏会から帰られて、宿泊者だけに聞かせてくれた。
なんでも帰りの峠は積雪十数センチだって。



 【今日のじょん】:モモ姉さん現る。前回、斜めに歩いているとか悲惨な感じがしたが、今日はとても元気で、なによりもスリムになったのがいい。とても食いしんぼで「ジローとパン食い競争したらどっちが勝つかなあ」なーんてしゃべっている。P1020999 P1030005
 

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別所探訪(14) 菟原中⑬ 10/7

2012-10-07 | 歴史・民俗

2012.10.7(日)曇、雨  別所探訪(13)は(2012.10.2)

 毘沙門堂は景清稲荷本殿の右にあり、毘沙門堂の表示があるわけではないが中に置かれた祠の中に「南無毘沙門尊天」のお札があり、祠の横に木造の毘沙門像があるのでそれと解る。
 ゴウドの森を調査された柴田氏がなぜ毘沙門堂について言及していないかという点は不思議である。それは不寝大明神よりも毘沙門天の方が産鉄の地としての状況証拠になり得るからだ。しかもわたしの調査では、不寝大明神は京街道沿いの宿(しゅく)にあったようで、毘沙門天こそが別所にあったということが判明した。
 それは毘沙門堂の祠の中にあった棟札に、「丹州天田郡菟原中村別所毘沙門堂棟札」とあり、毘沙門堂の謂われが書かれている。最初に発見した際には一部分しか見えなかったのだが、次回区長さんに同行してもらって取り出したところ、思わぬ長文で驚いた。幸い楷書で書かれているので、大綱を約す。P1020843

毘沙門堂の棟札は思わぬ長文だった。



 「別所毘沙門堂は往古は大伽藍をなす霊地であり、遠近から多くの人がお参りに集まった。雨露に曝され荒れ果てていたところを明和五年頃当山五世宝州和尚が小堂を再建し尊像を安置した。年が経ってはからずも盗賊によって小堂が破られた。嘉永六年再び破壊され、二十一世珉竜代当堂を建てるものである」
 というような内容である。
 毘沙門堂が別所にあったことは間違いが無い。別所が産鉄の地であろうというかなり薄いが状況証拠のひとつとなるだろう。
 それでは毘沙門堂は何時、どうしてゴウドの森に来たのだろうか。

 先日龍源寺でお借りした「菟原村史」に以外な一文を発見した。京街道の元々の道筋として、「細見村小路ヶ端(河内野のことか)から菟原下小字柏田、猪ノ倉、淵脇(ふちわけ)、清水坂を通り、菟原中の別所、真船口に廻り、宿を経て朴野峠(細野峠のこと)を越えて云々」とあるのだ。
 初めて三和町辻から細野峠まで京街道を辿ったとき、違和感を覚えたことがある。 地図を見るとすぐに解ることだが、菟原の地域は土師川に山がせまり、流れが複雑に蛇行している。古い街道なら川を渡ることをなるべく避け、遠回りであっても急峻であっても山を巡るルートが普通である。それは架橋の技術も未熟であるし、出水の度に崩壊するからである。それなのに京街道は柳瀬とバンド坂の下で二度も渡橋することとなっている、これは違和感を覚えざるを得ない。P1020782 P1020803
 
柳瀬橋とバンド坂下の渡し。


 土師川を渡らない旧の京街道があったということを知って、我が意を得たりという気がした。つづく

【晴徨雨読】68日目(2006.10.7)ニセコ滞在
風雨強く、宿に籠もっていたのだが奥さんが気を使ってか倶知安での買い物と昆布温泉に車で連れてってくれた。あとは宿でブログの更新をするばかりだが、それはそれで焦ることもなくのんびりと過ごした。Img_1004

雨のニセコ、宿は廃校の藤山小学校、窓の外はグランドだ。



 【今日のじょん】:じょんはあまり水を飲まない。必要なら飲むだろうと気にもしていないのだが、かみさんは他のワンちゃんと比較して気に病んでいる。特に朝の運動後の水飲みは見るからに嫌そうでグズグズノソノソと飲むので、これは動画ものとばかりにカメラを向けるが、動画ボタン押すのを忘れていた。とりあえず静止画で、、、、。P1020992_2

オモシロナイ 

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須恵器、鉄滓発見(3) 10/6

2012-10-06 | 歴史・民俗

2012.10.6(土)曇

 10月3日にゲートボール場附近で発見したのは鉄滓である。P1020895_2




ゲートボール場脇の府道沿いの空き地で発見、灰褐色で4cmあまり、磁性はない。


 鉄滓については上林川の堤防及びその外側の田畑でいくつも採取しており、従前から公表しているところだが、五津合町清水の井関氏鋳物工房から水害時に流れ着いたものと考えている。
 
 広範囲で発見され、いずれも川の周辺である。
 色、形状とも井関氏たたら跡から発見されたものと酷似している。
 
 という理由でそのように考えているのだが、ほとんどのものが部分的に磁性があり、錆が発生しているものもある。地金を仕入れて鍋釜などに加工していたという記録もあり、鋳物師と言えども梵鐘や灯籠などの銅製品製造は希で、日常は鉄器を作製していたのではないかと想像している。そういう意味で鉄滓と呼んでいるのだが、鋳物滓というのが正しいのかも知れない。P1020909
 



左が上林川で始めて見つけた鉄滓、右は井関家のたたら跡から出たもの。井関家のものは風化していないためガラス質が残っている。どちらも一部分に磁性があり、色、形状とも酷似している。


 なお、昭和28年の水害の際の堤防、護岸工事については、他所から土砂を搬入はしていないという証言を得た。つまり搬入する必要が無いほど土砂が堆積し、それを人力で、つまり猫車やもっこを使って工事を行ったということだ。特に上林川最大の屈曲点である村田附近の土砂の堆積は相当なものであったそうだ。従って工事の際に流域の違う場所から鉄滓が運ばれたとは考えられない。
 ただ、清水のたたら場以外から出たものという可能性は無きにしもあらずと思っている。というより期待している。
 それを証明するためには、清水の下流以外で発見することである。すなわち、上林川の畑口川出合いより上流域、あるいは畑口川の清水より上流、そして上林川の支流、流路に関係の無い山間部で発見することである。
 
 今回の発見の場合大変悩ましいところで、堤防付近からは離れているものの28水時の堆積土砂が持ち込まれた可能性は充分にある地域なのだ。今はゲートボール場だが、明治28年の陸測図を見ると建物が並んでおり、造成や府道の拡張工事もあったようだ。P1020898
 
発見場所はグレーチングの右辺り。土師器、須恵器の発見場所と同一である。


 可能性は薄いが、この地に由来する出土品だとしたら事件である。それは土師器、須恵器の出土地だからだ。土器と鉄、一見無関係のように思われるが、わたしは燃焼温度を確保できるという意味で関連があるのではないかと考える。つまり日常の生活では必要の無い800度~1100度以上の燃焼温度というのは土器の作製と製鉄以外に考えられないのである。この二つに共通の基盤があってもおかしくはない。窯跡もしくは製鉄跡が発見できれば、これは画期的なことである。

【晴徨雨読】67日目(2006.10.6)長万部~ニセコ
作日自転車で走って路上に蛇が多いのに驚いた。そういえば6年前のこの時期も多かったなあ。ドライブインのトイレ蛇事件もこのあたりのことではなかったか。この時期はそういう時期なんだ。さてニセコに向かういわゆる大農地帯は零細農家出身のわたしには羨ましいばかりの光景が見られるのだが、まるで正反対の光景も目に付いた。それはドラマ「北の国から」で見られたような、倒産破産による夜逃げ同然の離村である。目にした家々の内実は解らないのだけど、生活をしていたそのままの光景の家に草が生い茂っている光景は、哀しいを通り越して怒りを覚える。Img_0994





 【今日のじょん】:太宰風に「じょんには念道橋がよく似合う」なんてかみさんが言うもんだから撮ってみたけど、どうだかねえ。P1020990


 

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晴徨 菟原中 10/5 

2012-10-05 | 晴徨

2012.10.5(金)晴れ

 11:14 じょんのびスタート
 12:22 質山峠~下川合~梅原祇園社~
 13:00 辻愛宕社、昼食 
 13:20 スタート~柏田~脇淵~別所~梅田社~龍源寺~宿
 15:40 菟原両橋スタート~同じ経路を帰る
 17:00 山家
 17:40 じょんのび着 71Km

 悪かった天気も金曜日には晴れる。菟原中の訪問も4回目となる。今日の目的は龍源寺さんに「菟原村史」をお返しすること、不寝の森の探索であるが、旧京街道の探索や別所、薬師谷の探索に時間を費やし、不寝の森については一部しか探せなかった。別所、薬師谷、旧京街道の探索は「別所探訪」に記事を譲るとして、その他の訪問地点を紹介しよう。
 この一ヶ月の間に随分気温も下がって、疲労の度合いもかなり少ない。峠も楽に登れるが時間は変わらない。
 作日明治29年の陸測部(大日本帝国陸地測量部)地図を見る機会があって、今日のコースを見ていると、下川合の三和ダッシュ村から先の府道59号線部分はまだできていないのだ。梅原に行く府道709号線、土師川左岸の道と、現在の府道59号線の少し山手に道が走っている。この道は子供時代に一度だけ通ったことがある。道理で府道59号線部分には地蔵さまなど無くて、709号線にはあるんだなどと考えながら走る。そのお地蔵の手前に住居跡があり、石垣や棕櫚などが残っている。P1020915
 
川合川左岸の住居跡、自転車でないと見つけられない。



 そして細見梅原も当時は下川合となっている。大正七年(1918)に分村したそうだる
 梅原を走っていると左手に小さな祠があるので昼食でもとろうかと寄って見る。お祭りの準備の方に神社名を聞く。祇園社ということで、隣の稲荷さんは単に稲荷さんということだ。水鉢には天保五年の銘があり、旧いものだと言っておられた。梅原という地名から開拓地だと思われるが、今となれば高台で開放感のある良いところだ。P1020917
 
梅原の祗園神社、祭神は素戔嗚命他、文政年間の創設。




 人の居られるところでの食事も落ち着かないので、辻河内ヶ野(こうじがの)まで足を伸ばす。
街道脇に愛宕さんの祠があり、そこで食事をとる。その後は柏田の道わけ地蔵を右にとり、旧京街道探索をする。これ以降は別稿に譲ることとして、晴徨報告を終わる。
P1020918P1020920
河内ヶ野の愛宕さん。




【晴徨雨読】66日目(2006,10.5)鹿部~長万部
 北海道らしいといえば北海道らしい、何も無いところを99Kmも走った。道沿いに遺跡とか名所とかあれば立ち寄って話題作りも出来るんだが、景色と言っても殺伐としているし、大型トラック、バスがバンバン走り、面白くも何ともない一日だった。Img_0981

あきるぜ。



【今日のじょん】:先日のど根性里芋が大きくなった。草刈りの人もちゃんと残していたようで、そのうちあや新に載るかしら。ど根じょん芋なんちゃって。
P1020912P1020913           

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須恵器、鉄滓発見(2) 10/4

2012-10-04 | 歴史・民俗

2012.10.4(木)雨、曇

 近所でも出ないところと出るところがある。よく出るのはゲートボール場のところである。最も大きな破片はここで発見されたものだし、須恵器もそれ以外の陶器の破片も出ている。ひょっとしたらずっと時代が下がっての陶器もあるようだが鑑定が出来ないのでとりあえず保管しているものもある。P1020894
 
整理箱等作って整理しないと訳が解らなくなる。


 念道で土器の発見が多いのはいまのところじょんのび附近とゲートボール場附近でこの附近に工房があったのでは無いかと考える。
それは附近に谷があることが重要なことかと思うし、材料となる粘土も近くにあるのではないだろうか。
 例えば土器の様な形では無くて、不定型な塊が発見されることがある。土器とは違って岩石の一部かなと思って捨てたものもあるのだが、軟らかくて砕くと細かい粉になる。ひょっとすると原料の一部なのかも知れないが、専門家でないと分からない。
P1020897
ゲートボール場附近、造成のため持ってこられた土の可能性もあるが、山手の斜面にも出るので、元々の土地らしい。


 土師器と須恵器は時代的にある程度並行していたということだが、見つかった土器を見ると原始的なものからかなり高度なものまであり、この地で長い間発達しながら焼かれていたのではないだろうか。そうだとすると、もし近くで粘土が調達されていたら相当大規模な採取跡があっても良さそうなものである。
 じょんのびで発見された土師器の中に面白いものが一個ある。甑か壺の底のようなものだが、底の部分と内側の部分が黒く焦げているのだ。外側全体が黒焦げなら火に掛けて焦げたものと理解できるが、内側となると不可解である。P1020907 P1020908
 
内側と底部分が黒く焦げている。



長い間不思議に思っていたのだが、どうやらこれは素焼きの土器の水漏れを防ぐための工夫らしい。植物油や草木の葉などを焼き付けたもので内黒土器などと呼ばれているもののようだ。内側が焼けているのがポイントである。
 このように土器の発見には興味深いものがあり、当面収集と分類保管をしていきたいと思っているがやはり材料採取跡、窯跡など発見したいものである。
 そして念道(ねんどう)の地名について、練土の意味が浮上してきた。京都では唯一同名の和束町の念道にいって、そこに土器が出ないか確かめてみたいものだ。
 そして先日、ゲートボール場で記念すべき発見があった。つづく

【晴徨雨読】65日目(2006.10.4)函館~鹿部温泉
函館から東回りに海岸沿いを回る道は大沼などを通る観光ルートと違いわたし好みの絶好のルートとなった。戸井鉄道跡、恵山、海岸沿いの断崖、大船縄文遺跡、後ろから見る駒ヶ岳、三味線滝、鹿野の間歇泉など一般的でない観光地?は面白い。客はほとんどわたし一人だ。
大船遺跡の資料館は係員さんも遺跡の調査に行っており留守になっている。立派な土偶も展示されている。Img_0959 Img_0956

ここの遺跡の特徴は深い穴の住居と豊富な出土物。







【今日のじょん】:じょんのレインコートは同じサイズ同じ柄のものを二代使っている。偶然なんだがあやバス(綾部市を走るバス)と同じ柄でツーショットを撮りたいと思っていたが、一時間一本のあやバスとレインコートが一致する瞬間がなかなか無かった。やっとこさの一枚である。P1020901
 
 

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須恵器、鉄滓発見(1) 10/3

2012-10-04 | 歴史・民俗

2012.10.3(水)曇

 9月20日にじょんのび村の府道側のり面で須恵器を発見したと言う記事を書いたが、本日近所のゲートボール場附近で鉄滓を発見した。これ等のことについて記録しておきたい。

 2008年4月じょんのび村に越してきてすぐの事である。動物除けのネットを張るために、北側の隅を掘っていたところ妙な土器が出てきた。素焼きの分厚いもので、壺か皿の底のようなものはともかく、人形の手足のような形のものは一体なんだか分からない。小学生の粘土細工の破片かなとか、墓に供える容器や埴輪のように使用する何かの呪術的用具かなと考え気味悪くて埋め戻した。表面が朱のように赤っぽいのも気になったし、少しずれてはいるが鬼門の方向でもあるわけだ。Img_2195
 
最初に出てきた土器、ビビるわなあ。


 そのうち小林さんから、裏を流れている谷は鎌谷(かまだに)といってどうやら過去に土器の窯があったらしいと言う情報を得た。それならばと再度掘り起こし保管しているのだが、同寺に須恵器らしき破片も一個出土していた。素焼きの赤っぽいものはおそらく土師器で、手足のようなものは甑の取っ手ではないかと思う。いずれにしてもその分厚さなどからみて、技術的には低いものだと思われる。
 昨年川端先生に見て貰って、土師器であることを確認して頂いたのだが、甑の取っ手の件も予想が当たっていた。小さな薄い灰色の破片も須恵器だろうと言うことだったが、須恵器特有の濃い灰色のロクロ使用の跡があるものとは随分違うので不満であった。
  ところがひょんな事から完璧須恵器という破片を意外なところから発見した。それが9月20日の草刈り時で、じょんのびの府道側ののり面東側である。色は濃い灰色、薄くて叩くと金属音、ロクロ使用で細い盛り上がった線も入っている。あたりを見回すと土師器の破片もいくつか落ちている。しかしこののり面はこの地に住んで以来何十回と草刈りをしていたわけだ、表面を注視してする草刈りなのにどうして今まで発見することが出来なかったのだろう。P1020758
P1020759 
のり面から発見された須恵器と土師器


 西側ののり面でも同様に土師器と須恵器の破片が出てきた。不思議なことはどうして今まで発見できなかったことかということである。
 この発見に気をよくして、近所でも探し始めたらあるわ、あるわ小さな破片ならいくらでも出てくる。もちろん、コンクリートで固められたところも増えているし、他所の庭や畑に入っていくわけにも行かない。特に今回設置されたワイヤメッシュの防獣柵で入れるところは随分少なくなった。つづく

【晴徨雨読】64日目(2006.10.3)函館市内周遊
 観光客なら絶好の場所である函館市だが、この二ヶ月の旅行で都市部の観光には何の魅力も感じなくなっている。博物館と空港に行く。早く街を出たいなあと思うばかりである。Img_0938

函館空港のロビーから向こうに見える景色は下北半島か、それなら右側のは岩木山かなどと思いを馳せる。



【今日のじょん】:暑さが去ったら天気が悪くなってきた。というわけで散歩も遠出ができないことが多いので晴れたときには念道橋を越えようと思う。P1020888
   
晴れたときはじょんだって気持いいと思うのだよ。 

 

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別所探訪(13) 菟原中⑫ 10/2

2012-10-02 | 歴史・民俗

2012.10.2(火)晴れ

 別所探訪の目的は別所と産鉄の関係を証明するものである。それなのに未だに別所に行きもせず、京街道の探究に費やしているのか不思議に思われるかもしれない。それは「別所地名事典」で柴田氏が別所が産鉄の地であるという事項にされているのが、不寝大明神であり、不寝の森だからである。不寝の森が別所にあってこそ別所=産鉄の地という構図が成り立つのである。P1020808
 



向こうに大きな養鶏場の建物が見える。菟原中別所である。(旧国道から)

 わたしは不寝大明神が三日三晩タタラの火を寝ずに見守るタタラ師の信奉する神という説には納得がいかないものであるが、よしんばそうであっても不寝大明神が別所に存在しなければ意味の無いことなのである。
 わたしは不寝大明神は関所、番所の神と考えた。そしてどうやら宿垣内の手前の林の中にいくつかの宿とともに、不寝大明神が不寝の森に鎮座していた事を突きとめた。もしこれが事実であったなら、柴田氏の菟原中における別所=産鉄の地という根拠は何も無くなるわけである。
 しかしわたしは柴田氏の説を覆す目的で調査しているわけではない、むしろ別所=産鉄の地というのは間違いないだろうと考えているところである。
 別所探訪のトップにこの地を選んだのは、この地が最も産鉄の地らしくないからである。菟原を訪れる以前に各地の別所を訪問している。その中には実際に鉱山があったところや鉄滓や鉄製品が出土しているところもある。だからこそそういった匂いのしない菟原を選んだのだ。柴田氏の菟原の現地調査は残念ながらずさんといえる。わたしの高々三日間の調査だけでその根拠が覆されそうになっているのだから、、。
 その地が産鉄の地であると言う証拠は、製鉄遺跡、鍛冶遺跡、鉄滓の発見である。記録も重要な証拠だが、中世以前のしかも地方の山間部の記録などあろうはずも無い。
 鉄製品が出土しても、その地で生産されたかどうかは判らない。むしろ鉄滓ならわざわざ他の地に移動させることは無いだろうと考え、信憑性がある。しかしこれら具体的な遺物を発見できるのは極希なことである。ましてやたまの訪問で調査するぐらいでは発見の可能性はゼロに近い。そこで、地形、気候、地質、材料、信仰、伝説、近世以降の産業、流通などあらゆる状況証拠を集めなければならない。
 「別所地名事典」の数少ない状況証拠の不寝大明神が覆ろうとするとき、新たな有力な状況証拠が発見された。それが偶然に写真に撮った毘沙門堂である。つづくP1020848




景清稲荷の脇にある毘沙門堂には祠と木像の毘沙門天と古い地蔵さまが祀られている。問題は祠の中である。

【作業日誌 10/2】
聖護院カブラ播種、いまから育つだろうか。

【晴徨雨読】63日目(2006.10.2)八甲田~函館湯の川
 八甲田の紅葉が忘れられず、ロープウェイで見に行く。田茂萢岳(たもやちだけ)周辺の紅葉も素晴らしいが、作日の毛無岱が遠くに見えるのも感激もの。青函フェリーで函館に渡り、どしゃ降りの湯の川温泉に行く。いよいよ北海道だ。

【今日のじょん】:今日は定休日でかみさんと病院などに出かける。久々に留守番させられて、帰ってきたらこのとおり。P1020893 P1020891




ゴミを放り出すのは欲求不満の時みたい。 

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別所探訪(12) 菟原中⑪ 10/1

2012-10-01 | 歴史・民俗

2012.10.1(月)雨、曇

 三和町史上巻に但馬国豊岡町の町名主由利六左衛門の「参宮道中記」という道中記が載っている。

一 伊(菟)原村但馬屋義左衛門方ニて我等も昼弁当遣、此家ハ茶至而宜候、宇治茶同様之品も出候旨承也、、、、、

 一行が菟原中の但馬屋で昼食をとった様子が書かれているが、説明文では次のように書かれている。

 屋義左衛門の家は「直ニ大久保峠(細野峠)ニかかり」とあるように菟原中村の宿垣内にあったものと思われる。

 つまり但馬屋の位置は確定されていないのである。京街道の宿場町と言えども数百メートルの間に数軒の宿があるだけなのにどうしてその位置が確定できないのだろうか。しかも真粉屋、藤屋、あたらし屋の三軒は街道沿いに確定できているのにだ。
 これこそが但馬屋、油屋、さかもと屋という宿が山側の道筋にあったということにならないだろうか。不寝の森にしてもそうである、あらゆる文献に「不寝の森」と出てくるのだが、その位置を確定している文は一つも無い。P1020872
 
道上の林の中を京街道は走っていると言うのだけど、、、。



  「京街道を行く」(三和町郷土資料館発行)が京街道についての詳しく書かれた資料だと思う。その後のパンフレットや立て看板などもこの資料をもとに作製されたのだろう。これらの資料の中に不寝の森や但馬屋などの宿があったとするいわゆる山側の道は載っていないのである。
 もし藤田さんが言われるように山沿いに街道が走っているとしたら、それは短い距離の一部分だが、重要な施設があるだけに無視できない部分である。
 地元の藤田さんが知っていることがなぜ街道の調査に活かされなかったのか、わたしには大きな疑問である。
 例によってげすの勘ぐりなんだが、バンド坂からの街道が高杉に向かう府道79号線を横切って、あまりに素直に宿垣内の家並みのところに続いているので、まさか山側に道があろうとは思わなかったのではないだろうか。P1020794
 
京街道が府道79号線を横断する部分。「山陰道細野峠越」という立派な看板がある。



 また、山側に街道があったとして、その取り付きはどうなっているのだろう。府道横断部分からヴェルディみわの取り付け道まで100mほどあり、その間北側に一軒の家がある。府道横断までの道の角度からいうとこの家の裏手を通っていたのだろうか。いろいろと疑問が沸いてくるが、現地を歩いてみないことには始まらない。つづく

【晴徨雨読】62日目(2006.10.1)八甲田山登山
9月22日に訪れたとき全然紅葉していなかったので10日振りに訪れる。酸ヶ湯から登りはじめ仙人岱、大岳と登りそれなりの紅葉に満足していた。井戸岳とのコルから毛無岱に向かっているとき、下から登ってくる登山者に、「驚きますよ」と言われた。何に驚くのか不審に思って下って行くと、急に林が開け、一面の紅葉、それも黄、赤、緑が混ざってこの世のものとは思えない景色が拡がったのである。長い間山も登ってきたし、紅葉の名所も巡ってきたのだがこんなに素晴らしい紅葉にはあったことが無い。人間は美しいものに取り囲まれていると幸せを感じるものである。心も足もすこぶる軽くなる。しかし今、写真を見てみると曇のせいか腕のせいか知らないが体験した美しさが再現されることは無い。Img_0921





【今日のじょん】:ここんとこ天気悪いので焦るんだが、うんPするまでが大変、この画像に至るまでに5分ぐらいうろうろしてるんだからも~。

</object>
YouTube: はよせ~よ

 

 

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