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『町の案内板を巡る』その2。人形町1丁目の魚久の先には『株式会社東京米穀商品取引所跡』の案内板がある。江戸時代には米が租税対象であったが、明治政府による租税改正に伴い、ら米穀物納から金納に変わり、米穀は商品化した。
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1893年の取引所法によりこの地に米穀商品取引所が開設され、さらに東京商品取引所とも合併、東京米穀商品取引所となり、活発に取引された。しかし、1939年に米穀が統制品となり、存在価値がなくなったため、廃止されたのである。その後、1952年に復活したが、その後移転、さらに2013年には立ち合いが廃止されたのである。
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また、魚久まで戻り、左に曲がると日本橋小学校の前に出るが、ここにも『西郷隆盛屋敷跡』の案内板がある。明治の初めにはここには2633坪ある広大な屋敷があり、西郷隆盛が住んでいたが、明治6年に下野(明治6年の政変)、この屋敷を安く売り払い、鹿児島に帰った。
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その後、鹿児島では私学校を立ち上げ、若者の教育に没頭したのである。しかし、中央政府に不満をもつ下級武士などとともに西南戦争に巻き込まれ、1877年には自害したのである。
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そのまま大通りまで歩き、左に曲がると信号のところに『親父橋』跡の案内板。現在では名残もないが、日本橋からこの先まで堀があり、そこには親父橋、荒布橋がかかっていて周辺には芝居小屋、この辺りには傘屋や下駄屋が軒を連ねていたのである、とある。少し前までは商店もあったが、現在ではオリンピックに向けビジネスホテルやオフィスビルばかり、堀も道路になり、当時を窺い知ることも難しい。
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ここまでご紹介した案内板は全て日本橋人形町1丁目の狭い範囲に全てある。少しタイムスリップしたら随分違う風景が広がっていたのだろう。