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『街の案内板を巡る』その3。今度は小伝馬町まで足を伸ばす。小伝馬町駅を降りてすぐのところに『三縁史蹟』という石碑があり、そこには在町宝永時の鐘、江戸伝馬町牢屋敷跡、吉田松陰先生終焉の地と刻まれている。
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そこから2分ほど歩くと十思公園と十思スクエア(旧、十思小学校)。ここに三縁史蹟は全てある。
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まずは『時の鐘』、江戸最初の時の鐘は2代将軍秀忠の時代に江戸城西の丸で撞いたのが最初だが、御座のそばで鐘を撞くのはうるさいということから日本橋石町に移された。しかし、火事で燃えたため、宝永年間に作られたのがこの鐘である。伝馬町牢屋敷でも処刑はこの鐘を合図にしていた。明治になり廃止されたが、昭和5年に十思公園に鐘撞堂を建設し、この地に移されたもの。なお、この鐘の音が聞こえる町内からは運営費用を徴収していたというのも面白い。通常は鐘には上がれないようになっている。
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その横には伝馬町牢屋敷の遺構が遺されている。江戸に牢屋敷ができたのは1590年と言われ、現在の日銀あたり(日本橋本石町)にあったが、1613年頃にこの地に移され、1873年に目黒の刑務所に移されるまで施設としては使われた。十思スクエアには模型も展示されている。
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向かい側には牢屋敷で刑死した吉田松陰の終焉の石碑もある。石碑には辞世の句『身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、止め置かしまし大和魂』が刻まれている。わずか30歳でこの世を去る無念さがにじむ句である。
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ほかにも『杵屋勝三郎歴代記念碑』という長唄の三味線の名跡を記念する石碑などもある。
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小伝馬町駅からすぐのところにあるため、訪問して江戸を彷彿するのもまたよしである。