三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「特捜部Q 知りすぎたマルコ」

2022年02月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「特捜部Q 知りすぎたマルコ」を観た。
 
 このシリーズは初めて観た。デンマーク映画を観ること自体も殆どないが、本作品は無条件に面白かった。
 推理力と観察力と記憶力は抜群だが、それらが暴走しがちになるカール・マーク警部補と、カール警部補の暴走をしばしば止める役割のアサドのコンビである。アサドは無尽蔵のスタミナと、カール警部補にないPCスキルと射撃能力の持ち主でもある。二人の見た目がいい。カール警部補はマフィアの中ボスにしか見えないし、アサドはアラブ人のテロリストに見えてしまう。二人とも決して笑わないところもいい。この二人が訪ねてきたら、少し怖いだろう。
 
 原作はミステリーだが、映画はサスペンス仕立てになっている。多分そのほうが観客に解りやすいからだ。マルコの単独シーンやタイス・スナプの屋敷のシーンがなかったら、観客はカール警部補は何をやっているのかと思ったはずだ。そういったシーンがあってこそ、そこに辿り着くカール警部補の推理力に感心する。そして危険を顧みない行動力と、それ以上にアサドのアシスト能力に感心する。
 サスペンス仕立てだから、いくつかの場所で起きるいくつかの出来事が、やがてカール警部補の頭の中でひとつの大きな事件に収斂していく過程が楽しめる。彼の頭の中は見えないから、信頼してサポートする特捜部Qのメンバーの一方で、疑って否定する上司がいるのは当然で、現実感がある。
 
 変な喩えだが、自然薯を掘るときには、一本の蔓から自然薯を発見し、周囲から少しずつ掘っていくと、やがて自然薯の全貌が出てくる。自然薯は切れてしまうと価値が下がるから、切らないように丁寧に掘り出す必要がある。地中には石や大木の根っこなどが埋まっていて、それを避けるように伸びている自然薯は想像のつかない曲がり方をしたりしている。それが自然薯掘りの難しくも面白いところだ。
 本作品はカール警部補が自然薯を掘り出すようなストーリーである。大変な仕事ではあるが、徐々に全体像が明らかになっていく醍醐味がある。途中、微かにご都合主義が見え隠れするシーンもあったが、大半は骨太の刑事ドラマである。とても見応えがあった。

映画「Settlers」(邦題「マーズ」)

2022年02月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Settlers」(邦題「マーズ)」を観た。
 https://ttcg.jp/movie/0822300.html

 ライオンが群れで生きていることはよく知られているが、群れが常に平和な訳ではない。子供のうちは親から面倒を見てもらえるが、雄は成長すると群れを追い出される。そしてサバンナをさまよい、別の群れを見つけて、そこの雄ライオンに戦いを挑む。運よく勝つことができたら、群れから追い出す。負けた雄ライオンは、老兵は死なずただ消え去るのみで哀れに逃げていく。
 勝った雄ライオンはその群れの子供を残らず噛み殺す。すると雌ライオンはどうするか。発情するのである。育てる対象の子供がいなくなったためらしいが、ライオンのことなので、本当の理由は定かではない。ただそういう感じで群れが新たに形成されるようである。

 人間をライオンにたとえるのも語弊があるかもしれないが、本作品を観て、ライオンの群れのことを思い出した。人間もライオンも生命で、生命とは自己複製のシステムである。あらゆる細胞は一定の期間で複製、再生している。それは自動的に、不可逆的に行なわれる。生殖もある種の自己複製だが、自動的ではない。生物もライオンのレベルあたりまでは種の保存本能は100%の稼働率だろうが、人間は違う。子孫を残すか残さないかは自分の意志で決めることができる。しかし問題がひとつある。それは人間においては生殖とは別に性欲があるということだ。
 本作品のイルザは、夫を殺されて、群れの雌ライオンのように振る舞う。まだ子供のレミには母の態度が理解できない。人間の母親はたとえ子供が殺されたからといって、ライオンみたいに発情することはない。殺した者に対する憎しみはいつまでも消えないのだ。襲撃者のジェリーもそれを知っていたからレミを殺さなかった。イルザはジェリーと融和してレミの安全を図るために、発情を装った訳である。
 一方レミは子供で、まだひとりで生きていく力がない。ジェリーは親の仇だが、両親がいなくなってしまうと、当面はジェリーに頼るしかない。しかし人間はライオンと違って恨みを忘れない。

 警察庁の発表によると、殺人事件の半分以上は親族間で起きており、その中心は家庭内の殺人だ。育ててくれた親でも、一方で暴力を振るい続けられたら、中学生や高校生になって反撃できる体力ができたら、親を殺す。親が子供を育てるのは当然だ。ライオンだってそうしている。育ててやったと考える親は、自分が子供を作った責任を忘れている。だから子供の中で怨嗟の念が膨れ上がっていることに気づかない。
 本作品のジェリーにもそんな驕りがあった。レミが自分の言うことを聞くのは当然だと考えていたのだろう。レミはライオンの子供ではない。レミにとってジェリーは、どれだけ年月が経っても、父と母の仇なのだ。

 マット・デイモンが主演したリドリー・スコット作品「オデッセイ」では、主人公が火星で生き延びるリアルな描写がたくさんあったが、本作品はややご都合主義で、大した努力もせずに野菜や家畜が増えている。
 やはり本作品の主眼にあるのは火星での延命ではなく、夫ないし父親が殺されたあとの、襲撃者と母と娘の3人の関係性の変化の物語なのだろう。狭い舞台の演劇みたいな作品である。妻・母を演じたソフィア・ブテラの演技が秀逸だった。

映画「誰かの花」を

2022年02月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「誰かの花」を観た。
 
 本作品の物語は常に現在で、時系列が移動することはほぼない。しかし現在は必ず過去に左右されるから、思い出やフラッシュバックのシーンがないと、登場人物の現在を理解し難い。その点では難解な作品の部類に入ると思う。
 
 タバコを吸ったりパチンコをしたりするのが悪い訳ではないが、否定的な印象を与えることは確かだ。主人公の孝秋にタバコを吸わせパチンコをやらせるのは、それが狙いだろうか。演じたカトウシンスケは、有村架純主演の映画「前科者」で公園のホームレスらしき人を演じていた記憶が残っていたから、尚更ダメ人間みたいに感じてしまった。
 しかしそれは、観客が孝秋に無為に肩入れしないための、周到な土台作りだったのかもしれない。というのも、後半で孝秋のナイーブで臆病な人柄が明らかになると、クズ男ではないことがわかり、徐々にバランスが取れてくるのだ。誰が悪いというのでもない、俺にどうしろっていうんだという、孝秋のやりきれない気持ちが切ないまでに伝わってくる。
 プロットには意地悪な部分もある。ちょっとした衝撃でも落ちそうな状態の植木鉢、子供の指の怪我や失せ猫のポスター、それに姿の見えない猫の鳴き声が観客をミスリードするのだ。そのミスリードによって興味を失うことなく鑑賞し続けることになる。当方もうまくしてやられた。
 
 いくつかの仕掛けを上手に配置する一方で、本作品は痴呆症とその家族の問題、家族ロスの問題、加害者に対する恨みと許しの問題という、骨太なテーマを投げかける。更に裏のテーマとして、格差と貧困の問題と不十分な政治サービスの問題が隠されている。シンプルで落ち着いたストーリーだが、重いテーマでお腹いっぱいになる。考えながら鑑賞する人にとっては、ずっしりと見応えがある作品だ。消化に時間がかかりそうである。