三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「白い牛のバラッド」

2022年02月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「白い牛のバラッド」を観た。
 監督、脚本、主演のマリヤム・モガダムという女性は本作品ではじめて知った。素晴らしい才能である。テヘランの現在がよく伝わってくる。
 夫を失ったイスラム教徒の女性がテヘランで暮らすことがどういうことなのか、ハンディキャップのある子供を抱えて生きていく勇気はどこから導き出せばいいのか。役所も裁判所も大家も、社会はいずれも冷たい。義理の家族は金目当てで接してくる。主人公ミナはどうやって生きていけばいいのか。
 娘との関わりの中で、ミナは夫が処刑されたことを話せない。だから嘘を話す。嘘が嘘を呼んで、夫ババクに関することは、ほぼ嘘だらけになってしまった。自分は娘ビタに本当のことを話せなかった。教師にそのように説明する。説明するということは理解を得ようとすることだ。しかし自分に嘘を吐いた男のことは許せない。自分がビタに本当のことを話せないことを思い起こせば男の嘘も許せたはずだが、そこまでミナが追い詰められていたということなのだろう。
 
 夫が死んで、遺族がもらえる給付金が月に20万トマンだと役人から告げられるシーンがある。イランの通貨について調べておけばよかったと思ったが、そのあとのシーンで新聞を買うときに、3部でいくらと聞くと6000トマンという答えが返ってくるシーンがあった。新聞が200円だとすれば、トマンは円の30倍くらいである。ということは20万トマンの給付金は月に7,000円ほどだ。給付金にしては少ない。道理で金額を聞いたときにミナの反応が素っ気なかった訳だ。
 夫が無実と分かったときの賠償金は2億7千万トマンほどで、日本円だと900万円くらいということになる。ミナの年齢を考えるとババクは処刑時にはまだ40歳より手前である。日本式の賠償金計算では、それから死ぬまでに稼ぐ金額から夫の分の生活費を引くので、年平均400万円-200万円=200万円×25年で5,000万円くらいとなる。5,000万円×30=15億トマンとなる。2億7千万トマンはやはり安すぎる。
 ミナは夫の命を金で、、、と言っていたが、下世話に考えれば、安すぎたからと見ることも可能である。そして、そんなはした金を求めてミナの娘の親権を求める義理の家族の愚劣ぶりも明らかになる。
 
 ラストシーンの解釈は人それぞれだと思うので、当方なりの解釈を披露してみる。
 レザと名乗った男は牛乳の食品アレルギーである。重度のアレルギーだ。ミナはレザの覚悟を測るために温めた牛乳を飲ませる。レザはミナの真意を知って、意を決して牛乳を飲む。案の定、アナフィラキシーを発症したが、死ぬほどのことはなかった。ミナはレザを許すが、一緒にいることはできない。
 
 イスラム教が政治を支配するイラン。国民全員にイスラム教が強制される。信教の自由はない。中には無宗教の人間もいるかもしれないが、言葉にはできない。国外退去になるか、場合によっては死刑になる。厳格な宗教だから罪刑も厳しい。もちろん極刑は死刑だ。本作品は死刑廃止の問題を正面から問いかける。
 イランの映画は検閲を経なければならないから、イスラム教支配の問題を正面からは扱えない。本作品は鑑賞した観客の誰もが、イスラム教が支配する政治には問題があると気づくように出来ている。脚本と演出の工夫が伺える。マリヤム・モガダムの面目躍如である。
 本作品は、イスラム教支配の社会の中で差別や格差と戦いながら生きていく姿を、検閲をかいくぐりながら上手に描いてみせた佳作である。脚本、監督、主演のマリヤム・モガダムは大変に見事だった。

映画「ウエスト・サイド・ストーリー」

2022年02月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ウエスト・サイド・ストーリー」を観た。
 チンピラのクズ同士が争っているように見える映画だ。そして実際にその通りである。クズのクズたる所以は、自分で考えないことにある。その上、無意味に高いプライドがある。だから反省がなく、うまくいかないのは全部他人のせいだという思考回路になる。

 本作品は、クズたちが社会に蔓延している民族その他の対立という固定的なパラダイムに乗じて、仲間内での地位向上や鬱憤ばらしをする物語で、その精神性は暴走族となんら変わらない。

 ナタリー・ウッドが主演した作品が上映された1961年当時は、多くの問題をロミオとジュリエットに似せたストーリーでミュージカル映画にしたことで高い評価を得られたが、それは当時のアメリカ社会の問題意識があまり進んでいなかったためだと思う。だから作品が問題を明示したことの衝撃は大きかった。当時の人々は暴力に対する耐性があり、銃に対する馴染みがなかったことも、作品が受け入れられた下地となっていた。

 映画には旬があるものとそうでないものがある。言い方を変えれば、時代が移ると色褪せるものと色褪せないものがある。いまは価値観が相対化されたり、新しい価値観が創造されたりする時代である。普遍的な問題に深く斬り込んだ作品だけが100年後も生き残る。残念ながら本作品は生き残る作品でも、旬の作品でもなかったようだ。
 主演の女の子の歌は抜群に上手い。バーンスタインの音楽はいま聞いても新鮮である。しかしそれ以外はひたすら退屈であった。天下のスピルバーグといえども、凡作を作ることはあるのだ。