三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「前科者」

2022年02月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「前科者」を観た。
 
 有村架純が演じた主人公阿川佳代のことを、森田剛の工藤誠が「先生」と呼んだことに、何か違和感があった。北村有起哉が演じた上司みたいな人(保護観察官か?)も、佳代を「阿川先生」と呼んでいた。これにも違和感がある。
 私見ではあるが、自分のことを「先生」と呼ばせる連中にろくな人間はいない。国会議員のセンセイたちを見れば一目瞭然だ。人に「先生」と呼ばせると、おのずから目上、目下の上下関係が出来てしまう。それは近しい関係ではない。「先生」と呼ばせたい人は自分を目上の存在にしたい訳で、レベルの低いマウンティングである。
 友だちには話せるけれども教師には話せないということがある。「先生」と呼ばせてしまうと、本当のことを話してもらえなくなるのだ。だから保護司を「先生」と呼ばせることに強い違和感を覚えたのである。もし教師を「〇〇先生」ではなく「〇〇さん」と呼ぶようになったら、それだけで学校の問題のいくつかが解決すると思う。
 
 保護司を「先生」と呼ぶ人がいる一方で、佳代のことを「佳代ちゃん」と呼ぶ前科者がいる。石橋静河が演じたみどりである。そんなふうに呼ぶ以上、佳代とみどりは友だちの関係だ。なんでも話せる。頼ったり頼られたりする信頼関係がある。そういう関係は、自分にも生きる意味があるのだという自覚を促す。いわゆるレーゾンデートルだ。
 保護司が前科者に持たせなければならないのは、環境への適応力ではなく、まずはレーゾンデートルだと思う。それがなければ頑張れないし、頑張っても長続きしない。みどりが「佳代ちゃんは弱いからいい」と言う。弱い佳代ちゃんが信頼してくれるから、裏切ることはできないのだ。佳代がみどりの言葉の本質を理解したら、次の担当対象者には「私のことは佳代ちゃんと呼んでください」と言うだろう。
 本作品で最もよかったのはみどりを登場させたことである。みどりの存在がなかったら、本作品は単なる保護司残酷物語で終わってしまっただろう。みどりの立ち位置に、保護司という仕事の今後の展望がある。それにしても、石橋静河の演技の幅が広がっていて嬉しかった。
 
 本筋とは無関係の話で恐縮だが、本作品ではラーメンを食べるシーンがある。ラーメンの食べ方で、麺を途中で切る人と最後まですする人がいると思う。当方は断然、最後まですする派である。有村架純も森田剛も、麺を最後まですすって食べていた。とても好感が持てた。