三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「チェチェンへようこそ ゲイの粛清」

2022年02月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「チェチェンへようこそ ゲイの粛清」を観た。
 ナチスがユダヤ人の他にLGBTの人々を虐殺していた話はかなり知られている。国家主義者はLGBTが許せないということだ。国会議員の杉田水脈が「同性愛者は生産性がない、税金を払って彼らを支援する大義名分などない」と発言したのも、国家主義の文脈としては当然のことであった。国家主義は国家の利益にならないと判断された人間を排除する排除主義でもあるのだ。
 
 国家主義と民主主義の違いについては、難しく考えるといろいろあるのだが、簡単に考えても間違いではない。つまり国家を主とするのが国家主義、民を主とするのが民主主義である。国民よりも国家のほうが大事なのである。国家というのは実体のない共同幻想だから、威信みたいなものを大事にする。国家の威信みたいな言い方があるが、国家の威信という概念を理解できるのは国家主義者だけだ。
 日本では戦後民主主義が政治の主流となって、表向きは国民のための政治をしているように見せているが、ことあるごとに国家主義を宣伝してきた。特にオリンピックをはじめとするスポーツの世界大会で「日の丸を背負って」という言い方をさせている。その言葉に当方は激しく違和感を覚えたが、テレビのインタビューなどでは「日本のために頑張ってほしい」などといった発言が放映されていた。日本は隠れ国家主義の国なのである。
 完全な民主主義の実現が難しいのは、ひとりの人間の中に国家主義的な傾向と民主主義的な傾向の両方があるからだ。多くの人々は、民主主義の完成のためには他人の自由を認める寛容さが必要であることが解っていると思う。
 しかし国家主義的な傾向の強い人は、自分の自由を優先して社会のパラダイムに従わない人が許せない。日本でもマスク警察、自粛警察が多く出現した。他人を村八分にしたり非国民と非難したりする精神性と同じである。
 
 本作品は、国家主義者たちによって排除されようとしている同性愛者を密かに脱出させる組織の活動に密着したドキュメンタリーである。緊迫した場面の連続で、何度も息を呑んだ。特に警官や空港の係官、国境警備隊など、政府の役人とのやり取りの場面が一番緊張した。相手は国家権力である。捕まればもう浮かばれない。
 警官は命令系統上、どうしても国家主義的にならざるを得ない。本来の職務は国民の生命と身体と財産を守ることだが、それらを脅かす人間を取り締まるのが近道だ。警官の多くは本来の職務を忘れて、国民を取り締まることが職務だと勘違いしている。だから軽微な犯罪を取り締まり、悪の本丸を見逃す。悪の本丸には権力者がいるからだ。
 その権力者が差別主義者だったら、警官も当然のように国民を差別する。ロシアのプーチンもチェチェンのカディロフも、国家主義者である。即ち差別主義者だ。だからチェチェンの警官もロシアの警官も当然のように差別主義者になる。自分を国家権力に同化させて、強いと勘違いするから、国民に対して強権的に高圧的になる。
 
 権力は恐ろしい。逆らうとどんな目に遭うかわからない。しかし国家主義の権力者がいたら、勇気を出して逆らわなければならない。逆らって損をする人間のことを逆らわない奴らが笑うだろう。笑われても蔑まされても、それでも逆らう。やがて仲間が増えて、権力は倒される。
 しかし新しい権力もまた腐敗する。そうしたら再び逆らえばいい。そうやって少しずつ権力が浄化されれば、やがてLGBT差別も人種差別も女性差別もなくなる日が来るかもしれない。その日は多分そう遠くない。情報技術の飛躍的な変化が社会のスピードを変えた。歴史は加速度的に変化しているのだ。

映画「GAGARINE ガガーリン」

2022年02月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「GAGARINE ガガーリン」を観た。
「地球は青かった」でお馴染みのソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンと同じユーリという名前の黒人青年が主人公である。宇宙飛行士の資料映像が流れるシーンもある。ユーリは親しみを感じ、憧れを抱いていたのだろう。
 ガガーリンの宇宙飛行の年に建てられたガガーリン公営住宅も築60年。名前の由来である宇宙飛行士はとうの昔にこの世を去った。公営住宅は耐用年数をはるかに超え、取り壊しの調査がはじまる。ひとり暮らしのユーリにとって、この公営住宅とその住民は、家であり家族のような存在だった。他の住民たちと違って、親戚や知人もないユーリには、団地を取り壊されたあとの行き先がない。
 
 人は南の無人島でない限り、人間関係の中でしか生きていけない。人間関係は場所と密接な関係がある。ユーリは団地を出ることができない。そんなユーリをロマのディアナは「意気地なし」という。蛇足だが、ロマはボヘミアンとかジプシーの意味で、日本語で言えば「流浪の民」である。ディアナにとっては流浪が日常であり、別れに慣れている。
 ユーリはディアナとの関係をひとつの絆だと思っているようだが、ディアナにとって他人との間に絆などない。実はディアナが正解で、人と人との間に絆などないのだ。家族の間にもない。日本の殺人事件の半分以上は親族間で起きている。家族の関係は絆ではなく、忍耐と諦めの関係なのだ。年数を経て忍耐の堤防が決壊した結果が殺人となる。
 絆などという言葉を使うのは、他人との関係性に対して根拠のない幻想を抱いているか、甘えているか、またはその両方だろう。ボヘミアンのディアナは人間関係を楽しみはするが、あっさりと捨てられる。そこが甘えん坊のユーリと決定的に違うところだ。
 
 手先が器用で努力家のユーリは団地の中で様々な工夫をするが、団地は確実に取り壊される予定だ。ユーリは団地への依存心を断ち切って、ロケットで外界に飛び出さなければならない。果たして打ち上げは成功するのだろうか。
 ユーリが少しも考えなかったことがひとつある。それはガガーリン公営住宅が建設される前に、その土地に住んでいた人々のことである。農家が牧畜をしていたかもしれないし、第二次大戦のときは戦場になったかもしれない。そのずっと前は貴族が浮気をしていたかもしれない。時間を軸に想像力を巡らせれば、この場所には既にたくさんの出逢いと別れがあったことに気づく。ユーリは悟ることができたはずである。サヨナラだけが人生なのだ。