映画「さがす」を観た。
誰かから問いかけられたら、その問いかけに対して必ず返事をしなくてはならないものだろうか。顔見知りからならまだしも、見知らぬ人間からの問いかけに、返事をする義務があるのか。
「聞こえとんなら返事せえ」と責める大阪の女子中学生は、返事をしない人間が許せないようである。東京の女子中学生だったらどうだろうか。「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」くらいは必ず言うだろう。相手が無言だったら、諦めて「失礼しました」と、頭のひとつも下げるに違いない。
そういう訳で伊東蒼が演じる女子中学生の楓には少しも感情移入できなかった。しかし相手はサイコパスだ。対抗するにはこれくらい自分勝手なキャラクターが必要だったのかもしれない。
佐藤二朗が持ちネタみたいな顔芸や、同じ言葉を何度も繰り返すギャグを封印して、真面目に演技しているのがよかった。片山慎三監督の演出の賜物だろう。さすが「岬の兄妹」の監督さんだ。演出に隙がない。
「岬の兄妹」もテーマが重かったが、本作品はさらに重い。連続殺人犯の山内は「この病院に来る人は二種類いる。生きたいと思っている人と、周囲に無理矢理に生かされている人だ」と言う。
佐藤二朗が演じた原田智の妻はALSである。ALSで思い出すのは理論物理学のホーキング博士だ。車椅子で移動し、音声合成装置で話す。身体はまったく動かないが、頭脳はきわめて明晰で、宇宙の起源やブラックホールについてまで理論を展開する。
しかし進行の速さが遅かったホーキング博士は例外だ。大抵のALS患者は徐々に筋力が弱まって、何もできなくなることに絶望する。特に話すことができなくなって意思疎通が困難になると、絶望はいや増す。死にたくなるのも当然だ。しかしALS患者は自分で死ぬこともできない。手伝ってもらえばその人が自殺幇助の罪になる。助成金でまかなえるのは医療費だけで、24時間交代制のヘルパーなどは自腹となる。家族が24時間にわたって介護をするが、その負担はとてつもなく大きい。そして家族に負担をかけているという罪悪感が、さらに患者を絶望させる。
「死ぬ権利」という言葉がある。人が自殺する自由を認めるという意味である。これ以上生きたくないと決意したら、その人には死ぬ権利がある。その権利を認めれば、自殺幇助や医師による延命措置の停止が罪に問われなくなる。
自殺は旧約聖書の昔から禁止されている。いろいろ理由づけをする人はたくさんいるが、自殺が禁止されている根本的な理由はひとつしかない。自殺は共同体にとって不利益だからである。
家族で自営業を営む場合でも、浜で村人が共同して漁をする場合でも、人が次々に自殺してしまったら、働き手が少なくなる。家族という小さな共同体から国家という大きな共同体まで、その構成員の自殺は共同体にとって不利益なのだ。だから自殺を防ごうとする運動や組織がある。目的は共同体の維持なのだが、それについては何も触れない。そこには欺瞞がある。「こころの健康」という言葉にどこか胡散臭さがあるのは、自殺防止運動が欺瞞だからだ。
自殺者を罪に問えないから、自殺幇助した人間に罰を与える。自殺幇助罪がなくなったら、自殺屋ができるだろう。あるいは自殺マシンのレンタルが始まるかもしれない。それがいいことなのかどうかは言えないが、少なくとも通勤列車の遅延は劇的に減るに違いない。