三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「さがす」

2022年02月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「さがす」を観た。
 
 誰かから問いかけられたら、その問いかけに対して必ず返事をしなくてはならないものだろうか。顔見知りからならまだしも、見知らぬ人間からの問いかけに、返事をする義務があるのか。
「聞こえとんなら返事せえ」と責める大阪の女子中学生は、返事をしない人間が許せないようである。東京の女子中学生だったらどうだろうか。「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」くらいは必ず言うだろう。相手が無言だったら、諦めて「失礼しました」と、頭のひとつも下げるに違いない。
 
 そういう訳で伊東蒼が演じる女子中学生の楓には少しも感情移入できなかった。しかし相手はサイコパスだ。対抗するにはこれくらい自分勝手なキャラクターが必要だったのかもしれない。
 佐藤二朗が持ちネタみたいな顔芸や、同じ言葉を何度も繰り返すギャグを封印して、真面目に演技しているのがよかった。片山慎三監督の演出の賜物だろう。さすが「岬の兄妹」の監督さんだ。演出に隙がない。
 
「岬の兄妹」もテーマが重かったが、本作品はさらに重い。連続殺人犯の山内は「この病院に来る人は二種類いる。生きたいと思っている人と、周囲に無理矢理に生かされている人だ」と言う。
 佐藤二朗が演じた原田智の妻はALSである。ALSで思い出すのは理論物理学のホーキング博士だ。車椅子で移動し、音声合成装置で話す。身体はまったく動かないが、頭脳はきわめて明晰で、宇宙の起源やブラックホールについてまで理論を展開する。
 しかし進行の速さが遅かったホーキング博士は例外だ。大抵のALS患者は徐々に筋力が弱まって、何もできなくなることに絶望する。特に話すことができなくなって意思疎通が困難になると、絶望はいや増す。死にたくなるのも当然だ。しかしALS患者は自分で死ぬこともできない。手伝ってもらえばその人が自殺幇助の罪になる。助成金でまかなえるのは医療費だけで、24時間交代制のヘルパーなどは自腹となる。家族が24時間にわたって介護をするが、その負担はとてつもなく大きい。そして家族に負担をかけているという罪悪感が、さらに患者を絶望させる。
 
「死ぬ権利」という言葉がある。人が自殺する自由を認めるという意味である。これ以上生きたくないと決意したら、その人には死ぬ権利がある。その権利を認めれば、自殺幇助や医師による延命措置の停止が罪に問われなくなる。
 自殺は旧約聖書の昔から禁止されている。いろいろ理由づけをする人はたくさんいるが、自殺が禁止されている根本的な理由はひとつしかない。自殺は共同体にとって不利益だからである。
 家族で自営業を営む場合でも、浜で村人が共同して漁をする場合でも、人が次々に自殺してしまったら、働き手が少なくなる。家族という小さな共同体から国家という大きな共同体まで、その構成員の自殺は共同体にとって不利益なのだ。だから自殺を防ごうとする運動や組織がある。目的は共同体の維持なのだが、それについては何も触れない。そこには欺瞞がある。「こころの健康」という言葉にどこか胡散臭さがあるのは、自殺防止運動が欺瞞だからだ。
 自殺者を罪に問えないから、自殺幇助した人間に罰を与える。自殺幇助罪がなくなったら、自殺屋ができるだろう。あるいは自殺マシンのレンタルが始まるかもしれない。それがいいことなのかどうかは言えないが、少なくとも通勤列車の遅延は劇的に減るに違いない。

映画「The Colony」(邦題「プロジェクト:ユリシーズ」)

2022年02月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Colony」(邦題「プロジェクト:ユリシーズ」)を観た。
 
 コロナウイルスの地球規模のパンデミックは世界を変えてしまった。コロナ前と後とでは、我々の生活は明らかに異なっているし、コロナ禍が終息しても、元に戻ることはない。
 
 コロナ禍以上に危惧されるのが戦争の危機である。
 2022年2月9日現在、ロシアへのウクライナ侵攻の可能性は高まっている。アメリカが譲歩して、ウクライナのNATOへの加盟を拒否または保留すれば、プーチンも鞘を収めることができるかもしれないが、弱腰外交で人気を落としたくないという個人的な理由で、バイデン大統領はプーチンの要望に従わないかもしれない。人気取りよりも世界の平和、軍備の縮小が優先することがわからない大統領が世界一の権力者であるところに、人類の不幸がある。
 ウクライナ危機と同様に台湾危機も迫っている。北京オリンピックが終わったら、中国が台湾近海に迫っていく恐れは十分にある。日本が地政学的に果たす役割は大きいが、残念ながら岸田総理大臣はそのことを理解していない。外務大臣を戦後で最長期間務めた経験は、何の役にも立っていないようだ。ここで日本が中国とアメリカの橋渡しをして、台湾危機を回避することができれば、台湾からはもちろん、本当は戦争などしたくない中国人民からも感謝されるだろうし、平和外交の立役者としての名誉と人気を得られるだろう。引いては参院選の勝利にも繋がる。「聞く力」がウリの岸田は、アメリカと中国の両方の話を聞いて頷くだけにして、後は成り行きにまかせるのかもしれないが、八方美人外交は、信頼を失い、軽蔑されることを知らないのだろうか。
 
 ということで、世界の終わりがそう遠くないかもしれないという絶望感の中で、本作品を鑑賞すると、まさにタイムリーな作品ではないか。地球はウイルスと放射能で住めなくなり、富裕層はケプラーという惑星に移住した話である。富裕層は、というところが大事で、当然ながら99%の貧困層は地球に置き去りにされる訳である。
 ウクライナ危機と台湾危機とコロナ禍の現在、富裕層や政府高官などは、ケプラー惑星は遠すぎるとして、火星に移住などのプランを準備しているかもしれない。いや、既にしていると考えるのがむしろ現実的だろう。
 本作品はそのはるか先の物語で、移住先では生殖機能が駄目になるから、一度地球に戻ってみようという訳だ。時間が経過したから、放射能とウイルスが減少して、再び住めるようになっているかもしれない。貧困層を置き去りにしておきながら、随分と虫のいい話である。
 本作品の宇宙船がどれくらいのスペックなのかは不明だが、ケプラーまでは1000光年以上あるから、仮に宇宙ロケットがものすごく進化して、宇宙船が光の半分の速度を出せるとしても2000年以上かかる。往復で4000年以上だ。速度が光の速度に近づくと時間も変化するが、難しいのでここでは割愛する。
 4000年後の地球を想像するのは難しいが、放射能とウイルスで人類のほとんどが死滅した状態だ。生き残った少数の人間は子供や赤ん坊かもしれない。言語を獲得するにはそれほどの時間がかからないかもしれないが、と言っても数百年は必要だ。テクノロジーとなると一からで、人口が少ないほど文明の発展スピードは遅いから、4000年経っても原始時代とそんなに変わらないはずだ。
 そういう意味では、本作品の描写は真に迫っている。言語に関してはやや疑問だが、ストーリーを進めるためには誰かが言語を理解しないといけない。
 
 終始、見えにくいシーンばかりなのは、地球が水で覆われているという設定なのだろう。原題は「The Colony」だが、スクリーンに出るのは「THE TIDES」(潮)である。こちらが本当の原題なのかもしれない。
 ノラ・アルネゼデールが演じたヒロインのルイーズ・ブレイクの不屈の精神に脱帽である。原住民(失礼!)に痛めつけられても、子供がいることを喜ぶ。人類存続の希望が見えたからだ。本作品はこの女優の熱演に支えられている。
 
 人類が存続しなければならない理由はひとつもない。むしろ絶滅するのが必然だと思える。山は登れば下りなければならない。いつかは人類もピーク(山頂)を迎える。それはいまかもしれない。先進国で人口が漸減しているように、いまは人口爆発のアフリカも、いつかは人口が減るようになるだろう。地球の資源とはつまり人間にとっての資源という意味だが、それを使い果たしてしまえば、あとは消え去るのみである。人が穏やかな死を望むように、人類も穏やかな死を望んだらと思うのだが、繁栄にしがみつきたい我利我利亡者が地球を支配している限り、人類は苦しくて辛い死を迎えることになりそうだ。