三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

サラ金生保連合軍

2006年09月07日 | 健康・病気
 仕事復帰に先立って病院で診察を受けました。医者から、多分、坐ってする仕事なら大丈夫でしょう、と言ってほしかったわけですね。ところが想定した言葉とは違って、新しい病気というか症状を宣告されました。それは脊椎管狭窄症。脊椎の中が狭くなって中枢神経が圧迫される症状ですね。「みのもんたさんと同じですよ」と軽く言われてしまいましたが、椎間板ヘルニア、腰椎分離すべり症に加えてこれで三つ目ですから、それは坐骨神経痛もひどくなりますわな。
 ところで「治りますか?」と誰もが聞く質問がありますが、これがなかなかしづらいもので、もし軽く「治りませんよ」といわれてしまったらどうしようかと、そう考えて躊躇してしまいます。病気がひとつ追加されたとなると、なおさら聞きづらくなりました。
 しかしどうせいつかは聞くんだからと、今回ついに聞いてみました。すると、
「治るかもしれません、何年か安静にしていれば」
 ・・・・「何年」って何年?とは聞けなかった。一概に何年と言っても、まあ1年は1年だし、9年になると「10年くらい」という言い方になるから、大体2年から8年くらいの間ということになるんでしょうけれども、2年と8年じゃずいぶん違うぞなどと意味のないことを考えながら、がっかりした気持をごまかそうとしました。やっぱり腰痛というのは治らないものなんですね。人類が二足歩行をはじめた宿命だ、と学者先生は言いますが、もちろん何の慰めにもなりません。
 会社でデスクワークの仕事を用意してくれたのは大変ありがたいことなんですが、その仕事の中にさりげなく「クレーム処理」が入っていまして、初日からたくさんのクレームと対峙することになりました。これがなかなかストレスのたまる仕事でして、身体は動かさないので楽なんですが、精神的にはとても「安静にしている」とはいえないような気がしつつ、まあ、働かせてもらえるだけでもありがたい話だと、謙虚に考えて過ごす事にしました。
 実際、休職している間というのはそれはそれは暗い気持で、このまま職場復帰できなかったらどうしようとか、最後は浮浪者になるしかないのかなとか、もしそうだったら路頭に迷う前に自殺しようとか、悪いほう、悪いほうにしか想像が進みません。自殺する前に遺書を書いたほうがいいだろうかなどと、財産を残すようになってから言え、と突っ込まれそうなことまで考えました。もしこれで借金があったら、本当に自殺していたかもしれません。
 というのも、借金取りは相手が病気だろうがなんだろうが関係なく、最後は殺して保険金を取ればいいと、そこまで本気に考えているからですね。そしてこれが冗談で済まされないのは、実際にサラ金大手5社が、去年1年間で4万人分の死亡保険金を受け取っているからです。
 090金融が危ないのはみんな知っています。しかし武富士アコムプロミスアイフルレイクといった大手も、同じように危ないんですね。これらの大手消費者金融は、消費者金融連絡会などという偽善的な団体を作って、「借りすぎに注意」などと、心にもないことをテレビでコマーシャルしています。どこまで性質が悪ければ気が済むのか、まるで暴力団です。そういえばテレビで放映していた武富士の上司の人の
 http://www.youtube.com/watch?v=k-u-XdIRaMo&eurl=
「ぜんぜん足りねえじゃん!」の繰り返しは、暴力団員以上の迫力がありました。頭のねじが外れていれば外れているほど、凄みは増すものです。そして、この上司の体質が企業の体質そのものだと思われます。
 生命保険会社がどうしてサラ金がらみの保険契約を受けるかというと、それは儲かるからに決まっています。生命保険には死差益というものがあって、契約者が死ぬと保険金を支払わなければならないので、どれぐらいの割合の人がどれぐらいの年数で死ぬか、あらかじめ想定しておいて保険料を決めますが、想定よりも死ぬ人が少ない場合、支払う保険金も減るので、その分が利益となり、これを死差益といいます。字面を見ると、なんとも非人間的なものである印象を受けますし、内容はというと、まさに非人道的なものなんですね。
 だから4万人分の死亡保険金を支払ってもなお、生命保険会社は儲かっているわけです。ということは死亡する4万人の何倍も何十倍もの人が、サラ金がらみの生命保険に加入させられているわけで、中には病気をして仕事ができなくなる人もいるでしょうけれども、そういう人からも容赦なく取立てをして、絞るだけ絞ったら、自殺を強要して保険金までむしりとると、そういうことなんでしょう。サラ金と生保が結託して、脅しやら暴力やらに弱い人を餌食にしているわけです。
 次期総理とか言われているお坊ちゃんは、そういう修羅場を知っているんでしょうか。最底辺で、生きたままハゲタカに身をついばまれている痛みがわかるんでしょうか。
 それに、こういったサラ金生保軍団は、人からむしりとる商売で、自分ではなにも生み出さないわけで、なくなったからといって経済が変になるわけじゃありません。取締りを強化しても、誰も反対しないと思うんですけどね。


国内のテロ

2006年09月06日 | 政治・社会・会社

 小泉純一郎さんが靖国神社に参拝した日、同じ自民党の加藤紘一さんの家が放火されました。この事件について、小泉さんがコメントを出したのは8月も終わりになってからで、「言論の自由を封殺するようなことは厳に慎まなければならない」と言い、それに対して小沢一郎さんは「郵政民営化に反対するのは悪いやつだ、靖国神社(参拝)で何が悪いんだという手法や考え方が、日本の社会に危険な結果をもたらす」と語りました。衆議院議長の河野洋平さんは、「政府は国内のテロにも毅然として対応してほしい」と言っています。それぞれにもっともらしい発言ですが、改めて読んでみると、どこか引っかかるものを感じます。

 小泉さんの発言はとにかく遅すぎて話になりません。靖国参拝に賛成反対のいずれにもかかわらず暴力に対しては「断固として否定し、徹底的にこれを取り締まる」くらいの発言を、直ちに行なってほしかったと思います。言論の自由についての「あなたの言うことには一つも賛成できないが、あなたがそれをいう権利があることは、私は命をかけても守るつもりです」という言葉を持ち出すまでもなく、民主主義国家の首相なら、今回の放火事件を民主主義に対する挑戦だと受け止めるのが筋で、発言もそれに沿ったものにすべきではなかったでしょうか。総理大臣自らが断固とした姿勢を見せなかったら、まだまだ暴力は続きますよ。
 一番驚いたのは、河野洋平さんの「国内のテロ」発言で、テロというとビンラディンとかイスラム原理主義とか、そういうイメージだったので、え、これもテロ?と、ちょっとびっくりしました。しかしよく考えれば、政治活動と暴力が結びついているわけですから、まさにテロそのものです。
 小沢さんの発言は、ちょっと無理があります。たしかに小泉政治によって、もともと殺伐としていた日本がさらに殺伐としてきたのはたしかです。しかしそれを直ちにテロの原因と考えるのは論理的に無理です。むしろ小泉流に内外に敵を作って国民の目をそらせ、政権を維持していく姿勢をその後継者がとろうとしており、今後は国内の敵が作りがたいのでおもに国外に敵を想定していこうとしているところに、「危険な結果をもたらす」元凶があり、小沢さんは多分、そちらのほうを言いたかったようです。

 安部さんはその発言を見る限り、強硬なタカ派です。そして愛国心を説く。ほとんど右翼と変わりません。加藤さんの放火事件の犯人も右翼で、小泉さんは聞かれるまでコメントしなかった。このあたりの姿勢がそのまま国の姿勢となってしまうと、国内のテロだけではなくて国外へ向けてのテロが実現してしまいそうです。去年の総選挙のときにすでにこのような方向性はわかっていました。にもかかわらず、小泉一派が大勝しました。それはとりもなおさず国民自身が強硬なテロ国家実現を望んだということなのでしょう。


「残虐性」の政治利用

2006年09月04日 | 政治・社会・会社

 以前山手線に乗って通勤していて、毎日ほぼ同じ電車の同じ車両に乗っていました。すると他にも毎日同じ電車の同じ車両に乗って通勤する人がいて、よく見かける人は自然に顔を覚えて、アレ、今日は乗っていないなとか、今日は黒のネクタイだ、不幸でもあったのかなとか、そんな感じでした。電車を降りたらすぐ忘れてしまうんですけれども。
 ただひとりだけ、忘れられない人がいまして、それは朝9時半ごろに目黒から品川の間に乗ってくるおばあちゃんで、ちょっと変わった人でした。いつもスカートを穿いた地味な格好で乗ってきまして、いつも同じ鞄を手に提げていて、入り口から数えて3番目か4番目くらいの吊り革まで行き、そこで足を肩幅に開いて右手で吊り革を持つと、その姿勢からてこでも動くもんかと、気負いこんでいる感じで立っていました。電車が混んできても、決して奥に詰めたり、ひとつ隣の吊り革に持ち替えたりはしません。とにかく何があってもその場を動かないことに決めているみたいでした。このおばあちゃんは、座席に坐って脚を組んでいる人がどうしても許せないらしく、そういう人が自分の前に坐っていると、必ずわざと左手の鞄を、組んでいる脚のヒザかスネのあたりにぶつけます。ぶつけられた人はたいていの場合、電車がゆれたからぶつかったんだろうなという感じで、少し脚を引っ込めます。でもまだ脚を組んだままなので、おばあちゃんはまだ許せません。そこでもう一度ぶつけます。二度もぶつけられた人は、二度もぶつかるということは脚を組んでいるとぶつかるということなんだなと、そんな感じで組んでいる脚をほどいて脚をそろえます。人によっては三度目で脚をほどく場合もあります。おばあちゃんは表情ひとつ変えませんが、もう鞄をぶつけることはしません。きっと満足したんですね。
 同じことが何回もありまして、何度も目撃したのは私だけではないだろうと思います。おばあちゃんが乗ってきて、その前の人が脚を組んでいると、やるぞ、やるぞ、と内心で少しワクワクしながら見ていると、必ずやります。ほとんどの場合は、二度か三度、鞄をぶつけられた人が脚をほどいて終わるんですが、ときどき、おばあちゃんに食ってかかる人がいまして、たしか5回ほどありました。なぜかすべて女性でした。

「鞄をぶつけないでよ」
「ぶつけてないわよ、あなたが脚を組んで前に出しているからぶつかるんでしょ」
「わざとぶつけたじゃない」
「何をわけのわからないことを言っているの。年寄をいじめて楽しいの?」
「年寄りじゃなくて、意地悪ばあさんでしょ」
「あんたね、因縁つけるって言うの。電車の中で大声出すんじゃないよ」
「てめえがぶつけるからじゃねえか、ババア」
「冗談じゃないわ、フン」

 といったような会話があって、かといって暴力沙汰になることもなく、品川でおばあちゃんは降りていきます。なんでもないような出来事なんですが、振り返ってみると気になるところがあります。
 おばあちゃんは相当頑なな人で、自分の前に坐っている人が脚を組んでいると、周囲の期待を裏切ることなく必ず鞄をぶつけていきましたが、見知らぬ人にわざと鞄をぶつけるというのは、普通はなかなかできないことで、特別な意志というか、精神状態が必要になります。それを勇気と呼ぶと、いいことのように聞こえてしまいますから、あえて残虐性と呼びます。おばあちゃんは他人を許せない狭量な性格で、しかも残虐性の持ち主で、だから平気で見知らぬ人の脚に鞄をぶつけることができたと、そういう言い方ができるでしょう。残虐性は年齢に関係ありません。83歳のおばあちゃんが80歳のおじいちゃんを殴り殺した事件もあったばかりですし、おばあちゃんだからといって温厚なわけじゃないんです。トルーマン・カポーティの『冷血』ではありませんが、電車のおばあちゃんも、夫殺しのおばあちゃんも、精神構造としては『冷血』の人物とあまり変わらないような気がしています。
 そして、おばあちゃんが鞄をぶつけるのをワクワクして見ていた私にも問題があると思います。どうしてワクワクしたのか? それもまた、他人の喧嘩、対岸の火事を安全なところで見たいという卑劣な残虐性の現れである気がします。別にこの場で懺悔している訳ではなくて、もしかしたら残虐性というのが誰にも普遍的にあるのかもしれないと、危惧しているのです。
 そしてこれを敷衍すると、観客を集めて行なう格闘技の存在理由にも繋がっていきます。しかし、もし人間がもともと、平気で他人を殴ったり殺したりする残虐性を持っているのだとしたら、一方でそれを押さえ込んできた歴史というものもまた間違いなくあるわけです。でないと、今ごろ人類はひとりも残っていないでしょうから。
 人間は残虐な生き物だから救いがない、というのではなくて、自らの残虐性を自覚し、それを抑制する理性と文化を育んできた、というところに、もしかしたら希望を持てる部分があるかもしれません。希望的観測に過ぎないとわかってはいますが、そう思いたい。
 人間は他人との係わり合いの中でしか生の充実を得られないという不自由な動物で、しかもその方向が、他人のために何かを行なう無償の行為へと向かうのはごくわずかで、たいていは他人よりぬきんでたいとか、他人よりいい暮らしをしたいとか、他人よりも有名になりたいとか、他人よりも尊敬されたいとか、他人からちょっとでも迷惑を被りたくないとか、そういう方向に向かいがちです。そしてそれを推奨する傾向さえあります。この傾向をどうにかして逆転させない限り、おばあちゃんは電車で鞄をぶつけるのをやめないでしょうし、老いた夫を老いた妻が殺す事件もまた起きるでしょう。
 それにしても、他人のことが許せないというのにも限度があります。極端な話をすれば、ひとりの人間が存在していると、存在することによってさまざまな影響を及ぼすわけですから、そのひとつひとつについて、「迷惑だ」と感じる人がいれば、それはまさに迷惑となってしまうわけです。生きているだけで迷惑だと。ちょっと前に捕まった、近所の人に大音量を向けて脅しまくっていたおばさんの心理です。それは、自分が存在することによって他人に何らかの影響を及ぼし、場合によっては迷惑と感じる人もいるかもしれないという反省が、まったくないことの現われです。自分が他人に迷惑をかけるのは一向に構わないし考えもしないけれども、他人がほんのわずかでも自分に迷惑をかけると、殺したくなるほどの怒りを覚えて、ときには殺してしまう、そういう精神構造ですね。現代はそういう精神構造が蔓延していて、そういう精神構造の人に必要なのは「敵」ですから、国民に「敵」を与えて支持を得ようとしている総理大臣候補がもてはやされています。これでいいのでしょうか。


東京オリンピックは必要か?

2006年09月03日 | 政治・社会・会社
 福岡市民も東京都民も嫌がっていて、市役所と都庁だけが盛り上がっていたオリンピックの候補地争いですが、大方の見方どおり、東京都に決まりました。噂では、施設の準備に大規模な利権がからんでいて、しかもオリンピックが日本に決まるかどうかに係わらず、予定の2016年には準備を完成させるとのことです。そして予算は5,000億程度ですが、最終的にはアテネと同じように倍くらい、つまり1兆円くらいかかりそうで、しかも資金のあてはなく、結局は税金が投入されそうです。この計画で森派と森派の息のかかった企業がかなり儲かるそうです。資金の元が税金だから、森派と森派系の企業が税金の分捕り合いをやるということです。石原慎太郎は、開発が止まっていた臨海副都心が気になっていて、もしオリンピックを誘致できれば、東京都が金を出さずに再開発ができるという思惑もあったみたいです。それもまた利権がらみで、土地のディベロッパーやゼネコン、何にでも顔を出す金融関係と暴力団が儲かるようなことが言われています。あくまで噂ですけれどもね。
 東京オリンピックで儲けようという人たちの中には、ホリエモンのことをゼニゲバだとか自分さえ儲かればいいんだとか、そう言って非難していた人たちがたくさんいまして、彼らはどう言っているかというと、「経済効果」という言葉を持ち出して、なにも儲かるのは我々だけではなくて、皆さんもちゃんと儲かりますよと、なんとか正当化しようとしています。あくまで噂ですけれどもね。

 再来年のオリンピック開催が決まっている北京では、工事だけでなくて社会全体のモラル向上に努めているようです。その内容は、
 
 道路を横断するときは横断歩道を横断する
 交通信号を守る
 タバコをポイ捨てしない
 ごみをポイ捨てしない
 むやみに痰を吐かない
 つばも吐かない
 立小便しない
 他人の自転車を勝手に使わない
 鼻毛を伸ばしっぱなしにしない
 毎日入浴する
 鳩を捕獲して食べたりしない

 といった、笑えるものから私たちも身につまされるものまで、たくさんあります。
 そして人がたくさん集まると集まってくる売春婦やスリ、ばくち打ち、香具師、偽物売り、クスリ売り、ダフ屋、蛇頭、暴力団、チンピラ、政治家、書記などを取り締まるために、警察はじめ公安関係者の綱紀粛正に勤めているそうです。中国の警官は犯罪の取り締まりや治安維持よりも自分の立場維持や利益追求に一生懸命で、これは実は日本の警官とまったく同じですが、日本の警官が立場維持のほうに重点を置くのに対し、中国の警官は立場維持よりも身近な利益を求める傾向にあるそうでして、知り合いの中国人に聞いたところ、中国では道でお金を拾っても交番に届ける人はいない、自分がネコババしなければ警官がネコババするだけだ、と言っていました。そしてそれが当たり前という倫理感覚だから、警官がネコババしたのがばれても大問題になることはないそうで、日本では大問題になるから警官がネコババしないだけの話です。日本の警察官が優れているわけじゃありません。

 むしろ日本に比べてはるかに法律の厳しい中国の警察官のほうが、修羅場に強いかもしれません。日本では、草加の交番の事件を覚えている方もいらっしゃると思いますが、やくざに狙われた人が交番に逃げ込んだのに、そこにやくざが飛び込んでくると、交番の警察官たちは知らん顔で、やくざがその人を連れて行くのにまかせました。そしてその哀れな男性は大怪我をしたそうです。その場にいた警察官は4人、やくざは3人でした。4人の警察官はやくざが怖くて手を出さなかったそうです。
 いいでしょう、この警察官たちは暴力に反対だった、だから手を出さなかった、それならそれでいい。しかし市民を守るのが警察官の仕事なら、やくざに手を出さなくても、その男性を抱え込むとか、上に覆いかぶさってやくざたちの殴打から守るとか、そういったことならできたでしょうし、もっと普通に考えれば、警察官は日常的に逮捕術の訓練を受けているわけですから、なぜそれを使わなかったのかと、いろいろ疑問はありますが、人間というのはとっさのときには本性が出るんですね。それともくぐった修羅場の数によるんでしょうか。または訓練不足だったのか。ともかく、警察官がこんなレベルで大丈夫かあ?というのが、感想でした。3人のやくざに対してもこのていたらくなんですから、オリンピックを誘致して悪党が大挙して押し寄せてきたら、どうなるのか、本当に心配です。凶悪事件の検挙率も年々悪くなる一方だし、1964年の東京オリンピックのときとはだいぶ違うと思います。

 長野県も冬季オリンピックが終わった後、莫大なお金をかけた設備や施設は負の遺産となって県民を苦しめました。石原慎太郎は臨海副都心を負の遺産だと言っていましたが、もしオリンピックが開催されたとしても、その後に負の遺産となりかねない。ましてや、オリンピックの誘致に失敗した場合、その場合でも施設は建設されたり修復されたりしているわけですから、経済効果はないわ、お金はすでに使ってしまったわで、単に無駄なハコモノを増やしただけとなって、やっぱり負の遺産に変わりはありません。
 どう転んでも、日本国民にとっても東京都民にとっても東京オリンピックを誘致することになんのメリットもありません。開発途中でほったらかしにされていたところがとにかく何らかの結末を得るだけです。都庁の中にどうしても途中で放り出したプロジェクトを何とかしたい分子がいて、利権がらみでそこにつけこみたい政治家や暴力団や土地ころがしや土建屋、金貸しなどがいて、自己顕示欲をかなえたい都知事がいて、この三者の思惑が一致したのが、今回のオリンピック誘致なんですね。
 福岡市のアンケートではオリンピックの候補地として立候補することに賛成なのはわずかだったと聞きます。8割以上の市民が反対だった。東京都民も半分以上が反対でした。政治家というのは、どういう神経なのか、理解に苦しみます。そういえば小泉さんも、一方では国民の支持を訴えながら、一方ではたとえ国民に反対されてもやらなければいけないことがある、と言っていました。この理屈が通るのなら、政治家はやりたい放題ができることになりますが、そういう政治家を許しているのが国民自身なのですから、言うことはなにもありません。有名な格言で、国民は自分たちのレベルに見合う政治家を選ぶ、というのがあります。その意味が、日本国民は救いようのない国民で、日本は救いようのない国だ、ということにならなければいいのですが。


メタルギアソリッド3 ゲーム評価

2006年09月02日 | アニメ・コミック・ゲーム
 ゲームソフトを作っているコナミという会社がありまして、有名なクリエイターの小島秀夫さんがいらっしゃいます。小島さんの代表作は「メタルギアソリッド」で、一昨年の冬に発売になった「メタルギアソリッド3スネークイーター」(MGS3)は評判もよく、100万枚くらい売れて、いわゆるミリオンセラーとなったんじゃないかと思います。モードがベリーイージー~ハードまでの4つの難易度になっていまして、まだイージーを一度クリアしただけでそれっきりだったのを、このところまたやっています。今度はノーマルの難易度。やってみると、やっぱりかなり難易度の高いゲームで、しかし少し操作になれると、やっぱり面白い。ミリオンセラーになるだけのことはある、傑作です。
 ストーリーは、冷戦の真っ最中である1964年、米ソ中の軍人と工作員の暗躍を描いたもので、主人公は米軍人です。各国の思惑と、国内事情、異端分子とその資金源、作戦の目的の変遷とその成就、情報操作、二重スパイの活躍など、政治ドラマに欠かせない要素はすべて揃っています。
 画像の作りこみは細かく、最初にプレイしたときは森の中の様子などがあまりにもリアルに描かれすぎているので、周囲が非常に見にくく、ゲームを諦めようかと思ったくらいでした。しかしもう一度メニューを見直してみると、持っているアイテムの中に、双眼鏡や生体探知機、赤外線眼鏡、動体探知機や集音マイクなど、見えない聞こえないを補うものがたくさんあって、それらを駆使することがゲームの楽しみの一つになっていることがわかりました。それからは俄然、面白くなりました。
 操作性も慣れれば快適で、登場人物のそれぞれに小ネタのような発言があり、サイドストーリーもそれなりに作りこんであります。ゲームの進行とは無関係な人形撃ちだとか、食物をすべて集めるとか、一度も見つからないとか、そういったことがクリアしたときの特典や与えられる称号に影響したりして、何通りかの遊び方があり、飽きがこないゲームになっています。何よりも、バグがないのがいいと思います。アクションゲームは他に「天誅紅」や「トゥームレイダー」をやりますが、バグがあって、よろしくありません。

 特に「トゥームレイダー」は、外国産のゲームだけあって、どうも日本人の感覚にあわない部分があります。具体的に言うと、あるステージがスタートしたときにすでに主人公が坂道を滑り降りていて、降りた先がどうなっているのか確かめる間もなく、そのまま落ちて死んでしまったりします。実は坂の途中でジャンプしなければならないのですが、最初はわかりませんよね。だからセーブしたところからまたロードしなおすことになります。ゲームオーバーありきの、こういった作り方にはちょっと疑問を感じます。
 しかし、以前やったことのある「トゥームレイダー2」では、ひとつのエリア内ではどこに行ってもloadingの画面になることなく、自由度が高いといいますか、わりと快適にゲームができた記憶がありました。製作者は「バイオハザード」がドアを開けるたびにロードしなおすのを非難していまして、「トゥームレイダー2」の空間移動の自由度とスムーズさを強調していましたが、その考え方はよろしいと思います。まだプレイステーション1の頃で、DVDでなくてCDの時代でしたから、たいした開発技術だなと感心しました。これが「トゥームレイダー6華麗なる逃亡者」になるとプレイステーション2のソフトでしかもDVDで、マシンスペック、ディスク容量共に飛躍的に向上しているわけですから、かなり期待して買いました。ところが、いざやってみると、たしかに画面の作りこみは丁寧になりましたが、いいところはそれだけでした。ある場面がスタートして、周囲を調べる暇もなく数秒後には転落してゲームオーバーになってしまうのは相変わらずだし、予期せぬところでロードしなおす画面になるしで、しかもロードにかなりの時間がかかるのでストレスを感じます。かといってそれを補うほど遠近感のある絵作りにもなっていませんしね。バグもかなりあります。「バイオハザード」が新作のたびに進化していったのに比べて、「トゥームレイダー」はあまり進歩していないというか、操作性や視点関係については逆に悪くなった気がします。警官と墓泥棒の違いよりもずっと差が開きました。

 さて、MGS3では個人的に感心した部分がいくつかあります。
 アクティブソナーは、映画「Uボート」や小説「レッドオクトーバーを追え」にも出てきましたが、おもに潜水艦が敵船の位置を確認するのに使っていました。漁船では魚群探知機として使われています。探信音と呼ばれる音を発生して(たしか「レッドオクトーバー」では「打つ」という言い方をしていました)、戻ってくる音を分析して位置を特定するものですね。それを陸上で歩兵が使うという発想が面白いし、探信音が敵に聞かれて警戒されるのも潜水艦の場合と同じで、よく調べられています。
 ほかのゲームでは体力ゲージはHP(ヒットポイント)と呼ばれて、これがゼロになると相手は死ぬか無力になり、自分だとゲームオーバーになりますが、MGS3では体力ゲージと呼ばずにLIFEゲージと呼び、そのほかにスタミナゲージという考え方が導入されています。まあ、体力とスタミナはどう違うのか、という議論はさておき、スタミナキルという戦法があるのが面白い。これはおもに閃光手榴弾や麻酔弾などを使用することで相手のスタミナをゼロにすると、相手が戦闘不能になるというものです。メタルギアソリッドシリーズはなるべく敵を殺さずに目的を達するゲームで、ボス以外の敵は見つからなければ戦闘にならないし、殺すこともありません。ボス戦は必ず戦闘になるので、そこでもなお殺さずに済ませることができる方法としてスタミナキルの考え方が導入されたんですね。納得できるアイデアです。
 食料庫や武器庫などがあり、食料庫を爆破しておくと敵の体力が、武器庫を爆破しておくと敵の戦闘力が、それぞれ落ちるのも面白いところです。食料庫を破壊したエリアの敵は、体当たりされただけで気絶するという弱りようで、なんとも傑作でした。隠れていると、「ひもじい・・・腹減った・・・ずいぶん食ってない」といったひとり言が聞こえます。
 食料といえば、「スネークイーター」という副題の通り、ジャングルや森の中で見つけた動植物を食べてスタミナを回復します。うまかったりまずかったり、いろいろですが、ほとんどが荒唐無稽な動植物で、シベリアにニシキヘビやアナコンダがいたり、ツチノコがいたりして、小島監督らしい洒落っ気がちりばめられています。食べると電池が回復するキノコ、なんてのもあったりします。採取したときに通信すると、その動植物について詳しく説明してくれるのも、考証好きな小島さんらしいところです。
 通信については、手が塞がっていなければどんな状況でも連絡ができて、ボス戦の最中に通信すると、相手の弱点やら主要な攻撃方法、有効な反撃方法などを解説してくれますし、武器を装備しているとその武器についての詳細な情報を提供してくれます。武器や兵器についてはトムクランシーの小説とMGS3のおかげでかなり詳しくなりました。
 武器も現地調達ですが、ストーリーが進むとそれはもう、使いきれないほどたくさんの武器が手に入ります。それぞれの特徴を武器専門家に通信で聞いて、自分に合ったものを選べるのもいいと思います。アメリカの突撃銃とソ連製の突撃銃では、ソ連製がかなり優れているのに驚きました。ただ、連射すると反動が大きくて最後はどこを撃っているのかわからなくなります。それもおそらく実物の特徴に基づいているのだと思います。
 メタルギアソリッドシリーズをやったことのない人にとってはかなり難易度の高いゲームですが、操作とアイテムの使い方に少し慣れれば、快適に進められてしかも頭を使うように出来ています。ストレス解消にもなりますし、頭の体操にもよろしい。こうなるとどうしても、小島さんの次回作を期待してしまいますね。


国からもらえるもの

2006年09月01日 | 健康・病気
 半年ほど休職していましたが、半年を過ぎると退社扱いになるのでその前に復職できないか?と、会社から連絡がありました。坐骨神経痛がまだひどいのでどうかなとは思いましたが、このところ椅子に坐っている分にはそれほどの痛みがないので、頑張って復職することにしました。腰痛くらいで休んじゃいかんよ、という人もいらっしゃると思います。もちろん筋肉痛などの普通の腰痛なら休むことはありません。腰痛にも二種類ありまして、ひとつがいま書きました普通の腰痛、もうひとつはみのもんたさんなどが患っていた神経痛です。神経痛は我慢できない類の痛みでして、痺れて痛いものですから、それが足腰の場合はほぼ歩けないし、立ってもいられません。みのもんたさんは、常人には考えられない努力をしていたと思います。神経痛は、見た目は病気に見えないので、たとえば電車で優先席に坐っていると、白い目で見られがちになります。老人や妊婦さんなどが来たら、席を替わらざるを得ません。わざわざ周囲の人に、私は坐骨神経痛がひどくて電車では立っていられないのです、と説明するのも変ですからね。
 ところで、復職にあたって聞かれたんですが、休業補償とか傷病手当金と呼ばれるものがあるんですね。民間の保険会社だったら保険金に相当するものです。知らなかったのでもらっていなかったのですが、最長1年半にわたって、平均給与の約6割が支給されるとのことです。そして時効は2年なので、まだ間に合うらしく、医者と会社の証明が必要になりますが、申請すればもらえるだろうとのことでした。もらえればかなり助かるので、ありがたいなと思いました。

 ありがたいなと思って、そして気がついたんですが、ありがたいと思う心理は、もしかしたら少し変なのかもしれません。たとえばお百姓が、新しいお代官様に年貢を軽くしてもらったら、それをありがたいと思ってしまう心理と同じような気がします。
 健康保険は曲がりなりにも保険の一種なのですから、病気になったら保険金を支払うのが当然で、しかも公的保険は選んで入るのではなくて、否応なしに加入せざるを得ない強制保険ですから、なおのこと保険金はしっかり支払ってもらわないといけない、なんといっても給料から天引きで保険料を徴収しているわけで、所得税の源泉徴収も同じですが、給料をもらって生活している人間にとっては、拒否のしようのない有無を言わさない強引なやり方で取り立てているわけですから、保険金を支払うときくらいはきちっと支払ってほしいと、そんなふうに思わなければいけないのかもしれません。相手が民間の保険会社だったらきっとそう思うでしょう。明治安田生命のような保険料を集めるだけ集めて保険金を支払わない会社には憤りさえ覚えるくらいです。
 ところが相手がお上となると、途端に腰砕けになってしまうのは日本人の習性なんですかね。それとも私が古い? 当然の権利なのに、保険金(保険給付、傷病手当金)をもらえるのがありがたいと思っているようでは、役人の言いなりになっても仕方のないところです。逆の言い方をすれば、役人は「払ってやる」と思っているわけですから。

 私の傷病手当金がもらえるかどうかはまた後日報告しますが、昨日のニュースで伝えられた、生活保護費については、まったく笑えない実態が明らかになりました。地方自治体による生活保護費の不払いです。主に失業とか病気とかが原因で生活できなくなった人は、自治体に生活保護を申請しますが、誰にでも支払われるわけではなく、審査があります。ところが今回明らかになったのは審査の前の段階で、申請自体を拒む事例が、調査した180件のうちの118件、66%にも及んだそうで、これはかなり悪質というか、役人の正体がまたしても明らかになった典型的な出来事ではないかと思います。日弁連は申請自体を拒むことは違法であると言っていますが、憲法第25条に書かれてある有名な言葉、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」にも違反している、つまり違憲である、とも言えます。
 自治体の役人というのが、これまた国家の役人に勝るとも劣らずお手盛りのオンパレードでして、勤務先である役所の目の前に自宅がある人にも「徒歩手当」として通勤手当が出たりするくらいですから、自分や仲間内に支払うものは最大限度の支払いをしようとし、それ以外の住民に支払うものは最低限度、できれば支払わずに済ませたい、そういう傾向があります。ひとことで言うと、税金の集団的私物化、ですね。租庸調の昔からなんでしょうけれども、お役人というものは、徴収した税金が自分たちのものであるかのような勘違いをしがちです。だから自分たちの給料や手当はきちんと支払って当然、それ以外は節約して当然、そう考えています。住民に支払うべきものを支払わないで、それを「節約」だと主張するくらいに勘違いしているわけです。
 今回明らかになったことで一番ひどいなと思ったのは、生活保護の申請の拒み方で、それは申請用紙を渡さないのがほとんどだったというものです。申請用紙に不備があるとかで書き直させるとかならまだしも、申請用紙を渡すことさえしないというのは、ひどい話です。役人にしてみれば、とにかく生活保護費を支払いたくない、審査する時間も節約したい、用紙さえもったいないと、だから申請自体をさせないんだと、そういうことなんでしょうか。
 たとえば年を取って足腰が悪くて、にもかかわらず子供たちに面倒を見てもらえないお年寄が、
「生活保護を申請したいので用紙をもらえるかね?」と役所の窓口に来たのに対して、
 窓口の役人は、
「生活保護?」と目を吊り上げながら聞き返して、
「おじいちゃんね、生活保護を受けるには審査があるの、わかる? あなたは息子さんがいるでしょ、息子さんに面倒を見てもらえる人には生活保護は出ないの、わかる?」とかなんとか言って、申請用紙を渡そうとさえしません。
「いや、息子も働いてはおるんじゃが、会社からは請負だと言われてな、どれだけ働いても給料は変わらんので、息子たち夫婦が食っていくだけでやっとなんじゃ。わしが年金をもらえればいいんじゃが、未納でない証拠がないから、ということで払ってもらえなんだ。家賃も滞っておるし、かといって働き口もないし、体も動かんし、だから生活保護しかないんじゃ」
「そんなことはおじいちゃんの都合でしょ、きまりはきまりだからね、しょうがないの、わかる?」
 といったようなひどい場面が考えられます。これでは窓口の役人が審査しているのと同じです。しかも窓口の役人が勝手にやっているのではなく、生活保護費を支払わないですむように、役所ぐるみでやっていることなのです。
 このお年寄がこれまで、どれだけ健康保険料やら所得税やら住民税やらを納めてきたかについては、一顧だにされません。ボロ雑巾になるまで働いて、使い物にならなくなったらハイそれまでよ、ということでは、政治も自治体も国家もないほうがいい。人間をボロ雑巾扱いするような役人がのさばっている役所なら、そんなものは要りません。

 こういうことが起こる背景に、私たちの「もらえればありがたい」心理があります。裏返しにすれば、役人たちの「払ってやる」という心理があるのです。もし役人に、自分たちが扱っているお金は国民が一生懸命働いて得た収入から預かったお金で、それは国民が、うまく使ってくれよ、という願いを自分たちに託したものだ、という認識が少しでもあれば、窓口に来たお年寄を追い返すようなことはないでしょう。役人はもはや「お上」ではなく「公僕」でなければなりません。およそ人の上に立つ者は、人のために尽くす者でなければならない、というのは、二千年前からの常識なのです。そしてこの常識が実現したことはただの一度もありません。何十年にもわたって税金や保険料を納めてきたお年寄が、きちんと評価される日がいつか来るのでしょうか?