以前山手線に乗って通勤していて、毎日ほぼ同じ電車の同じ車両に乗っていました。すると他にも毎日同じ電車の同じ車両に乗って通勤する人がいて、よく見かける人は自然に顔を覚えて、アレ、今日は乗っていないなとか、今日は黒のネクタイだ、不幸でもあったのかなとか、そんな感じでした。電車を降りたらすぐ忘れてしまうんですけれども。
ただひとりだけ、忘れられない人がいまして、それは朝9時半ごろに目黒から品川の間に乗ってくるおばあちゃんで、ちょっと変わった人でした。いつもスカートを穿いた地味な格好で乗ってきまして、いつも同じ鞄を手に提げていて、入り口から数えて3番目か4番目くらいの吊り革まで行き、そこで足を肩幅に開いて右手で吊り革を持つと、その姿勢からてこでも動くもんかと、気負いこんでいる感じで立っていました。電車が混んできても、決して奥に詰めたり、ひとつ隣の吊り革に持ち替えたりはしません。とにかく何があってもその場を動かないことに決めているみたいでした。このおばあちゃんは、座席に坐って脚を組んでいる人がどうしても許せないらしく、そういう人が自分の前に坐っていると、必ずわざと左手の鞄を、組んでいる脚のヒザかスネのあたりにぶつけます。ぶつけられた人はたいていの場合、電車がゆれたからぶつかったんだろうなという感じで、少し脚を引っ込めます。でもまだ脚を組んだままなので、おばあちゃんはまだ許せません。そこでもう一度ぶつけます。二度もぶつけられた人は、二度もぶつかるということは脚を組んでいるとぶつかるということなんだなと、そんな感じで組んでいる脚をほどいて脚をそろえます。人によっては三度目で脚をほどく場合もあります。おばあちゃんは表情ひとつ変えませんが、もう鞄をぶつけることはしません。きっと満足したんですね。
同じことが何回もありまして、何度も目撃したのは私だけではないだろうと思います。おばあちゃんが乗ってきて、その前の人が脚を組んでいると、やるぞ、やるぞ、と内心で少しワクワクしながら見ていると、必ずやります。ほとんどの場合は、二度か三度、鞄をぶつけられた人が脚をほどいて終わるんですが、ときどき、おばあちゃんに食ってかかる人がいまして、たしか5回ほどありました。なぜかすべて女性でした。
「鞄をぶつけないでよ」
「ぶつけてないわよ、あなたが脚を組んで前に出しているからぶつかるんでしょ」
「わざとぶつけたじゃない」
「何をわけのわからないことを言っているの。年寄をいじめて楽しいの?」
「年寄りじゃなくて、意地悪ばあさんでしょ」
「あんたね、因縁つけるって言うの。電車の中で大声出すんじゃないよ」
「てめえがぶつけるからじゃねえか、ババア」
「冗談じゃないわ、フン」
といったような会話があって、かといって暴力沙汰になることもなく、品川でおばあちゃんは降りていきます。なんでもないような出来事なんですが、振り返ってみると気になるところがあります。
おばあちゃんは相当頑なな人で、自分の前に坐っている人が脚を組んでいると、周囲の期待を裏切ることなく必ず鞄をぶつけていきましたが、見知らぬ人にわざと鞄をぶつけるというのは、普通はなかなかできないことで、特別な意志というか、精神状態が必要になります。それを勇気と呼ぶと、いいことのように聞こえてしまいますから、あえて残虐性と呼びます。おばあちゃんは他人を許せない狭量な性格で、しかも残虐性の持ち主で、だから平気で見知らぬ人の脚に鞄をぶつけることができたと、そういう言い方ができるでしょう。残虐性は年齢に関係ありません。83歳のおばあちゃんが80歳のおじいちゃんを殴り殺した事件もあったばかりですし、おばあちゃんだからといって温厚なわけじゃないんです。トルーマン・カポーティの『冷血』ではありませんが、電車のおばあちゃんも、夫殺しのおばあちゃんも、精神構造としては『冷血』の人物とあまり変わらないような気がしています。
そして、おばあちゃんが鞄をぶつけるのをワクワクして見ていた私にも問題があると思います。どうしてワクワクしたのか? それもまた、他人の喧嘩、対岸の火事を安全なところで見たいという卑劣な残虐性の現れである気がします。別にこの場で懺悔している訳ではなくて、もしかしたら残虐性というのが誰にも普遍的にあるのかもしれないと、危惧しているのです。
そしてこれを敷衍すると、観客を集めて行なう格闘技の存在理由にも繋がっていきます。しかし、もし人間がもともと、平気で他人を殴ったり殺したりする残虐性を持っているのだとしたら、一方でそれを押さえ込んできた歴史というものもまた間違いなくあるわけです。でないと、今ごろ人類はひとりも残っていないでしょうから。
人間は残虐な生き物だから救いがない、というのではなくて、自らの残虐性を自覚し、それを抑制する理性と文化を育んできた、というところに、もしかしたら希望を持てる部分があるかもしれません。希望的観測に過ぎないとわかってはいますが、そう思いたい。
人間は他人との係わり合いの中でしか生の充実を得られないという不自由な動物で、しかもその方向が、他人のために何かを行なう無償の行為へと向かうのはごくわずかで、たいていは他人よりぬきんでたいとか、他人よりいい暮らしをしたいとか、他人よりも有名になりたいとか、他人よりも尊敬されたいとか、他人からちょっとでも迷惑を被りたくないとか、そういう方向に向かいがちです。そしてそれを推奨する傾向さえあります。この傾向をどうにかして逆転させない限り、おばあちゃんは電車で鞄をぶつけるのをやめないでしょうし、老いた夫を老いた妻が殺す事件もまた起きるでしょう。
それにしても、他人のことが許せないというのにも限度があります。極端な話をすれば、ひとりの人間が存在していると、存在することによってさまざまな影響を及ぼすわけですから、そのひとつひとつについて、「迷惑だ」と感じる人がいれば、それはまさに迷惑となってしまうわけです。生きているだけで迷惑だと。ちょっと前に捕まった、近所の人に大音量を向けて脅しまくっていたおばさんの心理です。それは、自分が存在することによって他人に何らかの影響を及ぼし、場合によっては迷惑と感じる人もいるかもしれないという反省が、まったくないことの現われです。自分が他人に迷惑をかけるのは一向に構わないし考えもしないけれども、他人がほんのわずかでも自分に迷惑をかけると、殺したくなるほどの怒りを覚えて、ときには殺してしまう、そういう精神構造ですね。現代はそういう精神構造が蔓延していて、そういう精神構造の人に必要なのは「敵」ですから、国民に「敵」を与えて支持を得ようとしている総理大臣候補がもてはやされています。これでいいのでしょうか。