三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

他人の痛み

2006年09月22日 | 健康・病気
 久しぶりに坐骨神経痛について。
 坐骨神経痛は人によって多分痛み方が違います。私の場合は腰からつま先にかけて常に鈍い痺れがあり、寝ていたり椅子に腰掛けていたりする分には大丈夫なんですが、長時間連続して歩いたり立っていたりするとだんだん痺れが痛みに変わってきて、最後は立っていられなくなります。どれくらいの時間でそうなるかというと体調や天候?によって違っていて、大体10分から30分くらいの間ですね。寝たり坐ったりしているときも脚に触れるとかすかなバイブレーションがあって、きっと神経が悲鳴を上げているんだろうなと思います。そのせいなのかわかりませんが夜中に脚がつることが非常に多くて、これがつらい。レム睡眠時の半覚半睡の状態であっても脚がつりそうになっているのがわかって目が覚めます。そして、確実に脚がつります。仕方なくベッドから降りて痙攣が解消するまで待ちますが、このとき失敗すると一日中痛むことになりますのでううっとうなり声を上げつつも、慎重に脚の筋を伸ばしていきます。脚がつるのはビタミンやカルシウムマグネシウム不足だと聞いたのでサプリメントでたくさんとりましたがまったく変わらないので、もしかしたらと思って調べると案の定、ヘルニアや脊椎管狭窄症が原因で脚がつることがあるのがわかりました。脚がつるのも腰痛のうち、ということです。
 しかし一番つらいのは通勤電車で、私が使っている東急線はいつもいつも行きも帰りも満員で、朝はまだ元気なので耐えられますが、夜になって帰るときには痺れが飽和状態に達していて、会社を出て歩き始めるとすぐに痛みに変わります。それで電車に乗るとただ立っているだけでも痛いのに、そこに電車の揺れやら他人の体重やらがかかってきて、思わず悲鳴を上げそうになりますが、そこは大人ですからグッとこらえつつも顔をゆがめて我慢しています。つらいのは自分が坐骨神経痛であることを他人に分かってもらえないことですね。一見病人に見えないところがつらい。松葉杖を突くとかすればわかってもらえるんでしょうけれど、松葉杖があってもなくても神経痛ですから関係ないんですね。つまり不必要なので松葉杖は突きませんけれども、たとえば電車の優先席に坐っていると目の前にお年寄が来たらやはり席を立たなければならない。説明するのもなんですし、かといって「私は坐骨神経痛で立っていられません」と書かれた札をぶら下げるのも同情を買おうとしている乞食みたいでとてもできません。
 同病相憐れむといいますが、同病でない人は決して憐れまないわけで、同じ坐骨神経痛であっても人によって痛み方が違うわけですから、坐骨神経痛でない人に坐骨神経痛の痛みがどれほどのものかわかるわけはないし、だから「腰痛くらいで休むな」という発言があったりします。この発言者は実は自分も腰痛持ちでそれに耐えつつ仕事をしているから同じ腰痛を抱える者に対して励ましの意味合いもこめて言ったんだと思いますが、坐骨神経痛の痛みはまた格別で、私の場合は特にすべり症もありますから、なんと言っていいかわからない、情けない感じの痛みなんですね。ヘナヘナとなってしまう痛み。

 やっぱり自分の痛みの話というのはあまり長いこと書けませんね。だんだん自分が情けなくなってきます。痛いのは自分の問題ですから、他人と分け合うことができません。ただ、自分が坐骨神経痛を経験すると、他人の坐骨神経痛の痛みがだいたい想像できて、さぞかし痛むだろうなと思いますし、そういう人が困っていればなんとか手を貸してあげたいと思います。坐骨神経痛は見た目ではわかりませんが、歩き方だとかが少し普通じゃないので、よく見ればわかります。簡単に言うと老人のような歩き方というんでしょうか。たいした段差じゃないのになぜか慎重に降りたりする人は、たいてい足腰に問題を抱えていると思っていいでしょう。逆にいうと、お年寄でそういう動きをする人は坐骨神経痛の人と同じように困っているわけで、やはり手を貸してあげたくなりますね。以前はお年寄がもたもたしているのに少し腹を立てたりすることもあったのですが、お年より自身はもっとすばやく動きたいし人に迷惑をかけたくないと思っているのに体が言うことを聞かないので非常にもどかしい気持なのではないかと、自分が自分自身について思っているように老人たちも彼ら自身について思っているのではないかと考えるようになってからは、体が動かずに困っている人を見ると必ず手を貸すようになりました。そういう意味では坐骨神経痛のおかげで少しは人の痛みがわかるようになったのかもしれません。
 毎年自殺者が3万人も出ている国の次期首相も少しは他人の痛みがわかってほしいものです。