三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

どこまで個人どこまで組織

2006年09月17日 | 政治・社会・会社

 オウムの松本の死刑判決が確定となりました。テレビに評論家がたくさん出て、松本サリン事件、地下鉄サリン事件のことやオウム真理教のこと、松本自身のこと、弁護団や裁判についてなど、さまざまなことを述べていましたが、気になったことがひとつあります。ある評論家が現在の信者やアーレフについて、オウムとなんら変ることのないテロ集団だと断定していたことです。この断定の仕方は正確性を欠いているのではないかと思いました。

 たとえば会社員が会社の起こした不祥事について、当の会社の社員であることによって、偏見や先入観を持って見られるの同じで、その人物がその不祥事について関係があったのかなかったのかを些かも検証することなく、ただ同じ会社の社員だからということで断罪されてしまうのは、ちょっとおかしい。ブッシュがイラクに戦争を仕掛けてたくさんのイラク人を殺したからといって、アメリカ人はみんな人殺しだと断罪することができないのと同じ構図です。だから、オウムはサリン事件を起こした、オウムの信者はみなテロリストだ、というのは短絡的に過ぎます。オウムがサリン事件を起こしたから、その後継組織のアーレフも同じように危険な組織である、その信者もみな危険な存在である、という言い方も正確ではありません。

 私は別にオウムを弁護しようというのでもないし、知り合いや親戚にオウムがいるというのでもありませんが、組織と個人の係わり合いについて、正確を期したいと思っています。私も会社勤めですが、私の会社の社長がたとえば痴漢をして逮捕されたからといって、私まで痴漢扱いされるのは勘弁してほしいわけです。自分のことは、そうやってみんなわかっています。組織は組織、自分は自分。家族もそうです。父親は父親、息子は息子。お父さんが汚職をした官僚だからといって、その小学生の息子も同じように汚職官僚扱いされることはありません。却って同情されるくらいですよね。家族というもっとも小さな単位にもかかわらず、その構成員は同一には扱われないのに、会社とか国家とかいった大きな単位になると、「あの会社の社員は」「日本人は」「中国人は」「アメリカ人は」という言い方になってしまう。私も日本人ですが、「日本人は」という言い方には引っかかるものを感じます。
 だから、オウムとオウムの信者とアーレフとアーレフの信者をひと括りにして話すことについて、やはり同じように引っかかるものを感じます。たとえばちょっと前に大規模な牛乳食中毒事件を起こした雪印の社員は今後も食中毒を起こす、という言い方はできませんし、三菱自動車はリコールを隠した、だから三菱の社員はみんな嘘つきだ、という言い方もできません。ここまでは誰もが理解できると思います。理解できるのは、もし自分がその立場だったらと考えるからわかるんです。もし自分の父親が痴漢をしたらとか、もし自分の会社がなんか起こしたらとかですね。しかし、オウムとか中国人とかアメリカ人とか、自分がその立場になることがない組織に属している人間のことは、どういうわけかひと括りにして断定、断罪してしまうんですね。

 もちろんある組織の傾向としての特徴はあるでしょうし、たとえば「アメリカの意向は」という言い方をしなければ表現できない場合もあるでしょう。それは組織全体としての方針や発表などについての場合です。「ゲーム会社のカプコンは来年春にバイオハザード5を発売すると発表しました」と報道する場合、「カプコン」を個人名に変えることはできません。会社の方針として売り出すわけですから個人を特定できないというのがその理由です。では次の言い方はどうでしょう。

「中国人は不法入国し不法滞在して犯罪を犯す」

 この言い方だと全ての中国人が不法入国して不法滞在して犯罪を犯すみたいで、誰もが変に感じると思います。なにせ13億人もいるし、全員が海外に行くことはありえませんからね。しかし次の言い方になるとどうですか?

「中国人はエチケットやマナーを守らない」

 もしかすると、まさにその通り!なんて思っている人もいるのではないでしょうか。しかしこの言い方も間違っています。間違っているのに間違っていないような錯覚を起こす言い方であるところが、こういう言い方の罪深いところなんですね。逆に日本に住んでいる中国人が「中国では・・・・」と言うときも、たいてい、間違っています。その人は「私が中国にいたときは・・・・」という言い方をするべきです。その中国人が中国のことを代表しているわけでも、中国については古今東西隅から隅まで何でも知っている、というわけでもありませんから。たとえば日本人について、

「日本人は眼鏡をかけて腰に刀を差してちょんまげを結っている」
「日本人は着物を着て革靴を履いて首からカメラを提げている」

 といった笑って済まされる誤解については、まさに笑って済ませますが、笑って済ませない誤解もあります。

「日本人はまた戦争をしようとしている」

 誰がですか?と、真剣に聞き返したくなるような誤解が現にアジア全域に広がりつつあります。そのように誤解されることは日本人として本意ではありません。しかしこれも、私たちが「中国人は」や「アメリカ人は」として外国人を国家という共同幻想のもとに断罪しているのと同じで、組織と個人の区別を他人に対して行わない、という法則の現われなんですね。

 個人が組織に属するのは、その組織に属しているのが得だとか安全だとかそこから収入を得ることができるとか、そういう理由からです。メリットデメリットの関係だったり権利と義務の関係だったり契約関係だったりしますが、組織に完全従属してしまっているわけではありません。会社勤めだからといって会社の汚名を全部かぶることはないし、会社の奴隷でもありません。こういう、わかっていることが実はわかっていないために、日本人が戦争しようとしているというとんでもない誤解にまで発展してしまいます。

 日本人は日本という国家の奴隷ではありません。

 そんなことは誰もわかっている? そうでしょうか? 「日本人は日本という美しい国を命を懸けて守らなければならない」とか、そういうとんでもないことを言っている人はいませんか?
 そういう人は個人と組織の関係性も、個人と組織とをどこで区別しなければならないかも、そもそも国家という共同体の成り立ちについても、多分何もわかっていないと思います。