某夕刊紙の9月9日分に、肩書きがファッションイラスト・ライターとなっている綿谷寛なる人物が、堀江貴文の洋服について、言いたい放題を書いています。
ホリエモンのトレードマークだったセレブカジュアルはどこへ行った
右も左も知らない社会人1年生のリクルートスタイルでもあるまいし、いまさら紺無地スーツで優等生ぶってどうする!
潔白を主張するなら時代の寵児らしく、もっときばりやー!
といった調子です。堀江貴文のかつてのTシャツスタイルを「セレブカジュアル」と勝手に命名して、それを「どこへ行った」と非難する頭脳構造がどこから来たものなのか、理解不能です。私は別に堀江貴文の味方でも何でもありませんが、有名人とはいえ見ず知らずの人間を、その洋服について傍から批判する神経は、どうかしているとしか思えません。しかもその内容は「優等生ぶってどうする!」とか「時代の寵児らしく」などといった意味不明な批判で、さらにイクスクラメーション(!マーク)を打って自分の精神年齢の低さをさらけ出すという、まことにもって読むのが恥ずかしくなるような低レベルのコラムでした。
中原中也という夭折した詩人がいまして、「憔悴」という詩の中に次のように書いています。
さて、どうすれば利するだろうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだろうか、とか
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
洋服や着物はそもそも衣食住の衣に過ぎないものです。そこに美意識というものが絡んできたから話がややこしくなった。美意識について論ずるのは哲学的になりすぎるのでここでは省略しますが、簡単に言うと、その地域、その時代で流行するものがあり、それは洋服だったり化粧だったり髪形だったり靴だったりしますが、それは決して絶対的な価値ではなくて、すぐに移り変わるものです。そんなことは年中行なわれているファッションショーを見れば一目瞭然で、流行り廃れの速さは季節の流れよりも速く、無常感を感じる暇さえないほどです。
なぜファッションを人が気にするかという本質は、中原中也の詩そのままで、つまり、変な格好をすると人から哂われるかもしれない、ダサいと言われるかもしれない、そういう自意識です。そして中原中也が言っているのは、そういうものは常に移り変わるもので、何の価値もなく、付き合いきれないので、私はもう自分のしたいようにするのだ、ということです。しかし中原中也だからそうできるので、私たちはどうしても他人の目を気にしてしまう弱さを持っています。ダサいと言われたくないし、できれば洋服のセンスを褒められたい。たとえそれが一過性の価値に過ぎないとわかっていても、です。
人間のそういう弱さにつけこんでいるのがファッション業界であることは、誰も認識していません。洋服の流行り廃りを決め、次から次へとトレンドを変化させていかないことにはファッション業界は飽和状態になってしまいます。だから、去年着た洋服はもうダサすぎて今年は着られない、という感覚を世間に蔓延させようとしています。それに応えるかのように「一度着た洋服は二度と着ない」などという叶姉妹みたいなノウタリンが出現して、傾向を煽っています。
自分たちが作ったものを売るために、自分たちが作ったものが最新の流行であるかのような印象を植え付けたい。そのためにブランド、ファッションリーダーなどといった言葉に権威を持たせ、一般人が好き勝手に自分の好きな洋服を着ないような方向にもっていく。評論家やマスコミも操作する。
可哀想な一般人はそれに左右され、またファッション誌という名の扇動雑誌を買って、それを食い入るように読み、中で自分にあったものを買う。「ポップでキュートな」といった、日本語として意味を成さない言葉に踊らされていることには気づきもしていません。
ファッション業界のやり口は、かつてヒトラーが行なったやり方にそっくりです。もうこんなデザインは古い、これからはこういうデザインの時代だ、という言い方と、アメリカの支配は終わった、ユダヤ資本が悪の元凶だ、これからはゲルマン民族の時代である、という言い方は、心理構造までまったくおなじです。人間の弱さにつけこむ卑劣な商売、それがファッション業界である、という本質を認識すると、洋服を選ぶのに苦労することはなくなります。
The clothes that are considered right to wear
Will not be either sensible or cheap,
So long as we consent to live like sheep
And never mention those who disappear.
着るのにちょうど恰好の衣裳を見ていると
間が抜けているうえに、値段が決して安くない、
羊のように従順に生きる限りは
失せる奴らに遠慮しているあいだは。
(ウィリアム・オーデン、深瀬基寛訳)
まさか中原中也やオーデンもこんな文脈の中で自分の詩の一部が紹介されるとは思わなかったでしょう。しかしファッション業界が、中原中也やオーデンといった、人間の本質に迫ろうとする詩人たちの感覚とは対極の位置にあることは、よくわかります。