三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

国からもらえるもの

2006年09月01日 | 健康・病気
 半年ほど休職していましたが、半年を過ぎると退社扱いになるのでその前に復職できないか?と、会社から連絡がありました。坐骨神経痛がまだひどいのでどうかなとは思いましたが、このところ椅子に坐っている分にはそれほどの痛みがないので、頑張って復職することにしました。腰痛くらいで休んじゃいかんよ、という人もいらっしゃると思います。もちろん筋肉痛などの普通の腰痛なら休むことはありません。腰痛にも二種類ありまして、ひとつがいま書きました普通の腰痛、もうひとつはみのもんたさんなどが患っていた神経痛です。神経痛は我慢できない類の痛みでして、痺れて痛いものですから、それが足腰の場合はほぼ歩けないし、立ってもいられません。みのもんたさんは、常人には考えられない努力をしていたと思います。神経痛は、見た目は病気に見えないので、たとえば電車で優先席に坐っていると、白い目で見られがちになります。老人や妊婦さんなどが来たら、席を替わらざるを得ません。わざわざ周囲の人に、私は坐骨神経痛がひどくて電車では立っていられないのです、と説明するのも変ですからね。
 ところで、復職にあたって聞かれたんですが、休業補償とか傷病手当金と呼ばれるものがあるんですね。民間の保険会社だったら保険金に相当するものです。知らなかったのでもらっていなかったのですが、最長1年半にわたって、平均給与の約6割が支給されるとのことです。そして時効は2年なので、まだ間に合うらしく、医者と会社の証明が必要になりますが、申請すればもらえるだろうとのことでした。もらえればかなり助かるので、ありがたいなと思いました。

 ありがたいなと思って、そして気がついたんですが、ありがたいと思う心理は、もしかしたら少し変なのかもしれません。たとえばお百姓が、新しいお代官様に年貢を軽くしてもらったら、それをありがたいと思ってしまう心理と同じような気がします。
 健康保険は曲がりなりにも保険の一種なのですから、病気になったら保険金を支払うのが当然で、しかも公的保険は選んで入るのではなくて、否応なしに加入せざるを得ない強制保険ですから、なおのこと保険金はしっかり支払ってもらわないといけない、なんといっても給料から天引きで保険料を徴収しているわけで、所得税の源泉徴収も同じですが、給料をもらって生活している人間にとっては、拒否のしようのない有無を言わさない強引なやり方で取り立てているわけですから、保険金を支払うときくらいはきちっと支払ってほしいと、そんなふうに思わなければいけないのかもしれません。相手が民間の保険会社だったらきっとそう思うでしょう。明治安田生命のような保険料を集めるだけ集めて保険金を支払わない会社には憤りさえ覚えるくらいです。
 ところが相手がお上となると、途端に腰砕けになってしまうのは日本人の習性なんですかね。それとも私が古い? 当然の権利なのに、保険金(保険給付、傷病手当金)をもらえるのがありがたいと思っているようでは、役人の言いなりになっても仕方のないところです。逆の言い方をすれば、役人は「払ってやる」と思っているわけですから。

 私の傷病手当金がもらえるかどうかはまた後日報告しますが、昨日のニュースで伝えられた、生活保護費については、まったく笑えない実態が明らかになりました。地方自治体による生活保護費の不払いです。主に失業とか病気とかが原因で生活できなくなった人は、自治体に生活保護を申請しますが、誰にでも支払われるわけではなく、審査があります。ところが今回明らかになったのは審査の前の段階で、申請自体を拒む事例が、調査した180件のうちの118件、66%にも及んだそうで、これはかなり悪質というか、役人の正体がまたしても明らかになった典型的な出来事ではないかと思います。日弁連は申請自体を拒むことは違法であると言っていますが、憲法第25条に書かれてある有名な言葉、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」にも違反している、つまり違憲である、とも言えます。
 自治体の役人というのが、これまた国家の役人に勝るとも劣らずお手盛りのオンパレードでして、勤務先である役所の目の前に自宅がある人にも「徒歩手当」として通勤手当が出たりするくらいですから、自分や仲間内に支払うものは最大限度の支払いをしようとし、それ以外の住民に支払うものは最低限度、できれば支払わずに済ませたい、そういう傾向があります。ひとことで言うと、税金の集団的私物化、ですね。租庸調の昔からなんでしょうけれども、お役人というものは、徴収した税金が自分たちのものであるかのような勘違いをしがちです。だから自分たちの給料や手当はきちんと支払って当然、それ以外は節約して当然、そう考えています。住民に支払うべきものを支払わないで、それを「節約」だと主張するくらいに勘違いしているわけです。
 今回明らかになったことで一番ひどいなと思ったのは、生活保護の申請の拒み方で、それは申請用紙を渡さないのがほとんどだったというものです。申請用紙に不備があるとかで書き直させるとかならまだしも、申請用紙を渡すことさえしないというのは、ひどい話です。役人にしてみれば、とにかく生活保護費を支払いたくない、審査する時間も節約したい、用紙さえもったいないと、だから申請自体をさせないんだと、そういうことなんでしょうか。
 たとえば年を取って足腰が悪くて、にもかかわらず子供たちに面倒を見てもらえないお年寄が、
「生活保護を申請したいので用紙をもらえるかね?」と役所の窓口に来たのに対して、
 窓口の役人は、
「生活保護?」と目を吊り上げながら聞き返して、
「おじいちゃんね、生活保護を受けるには審査があるの、わかる? あなたは息子さんがいるでしょ、息子さんに面倒を見てもらえる人には生活保護は出ないの、わかる?」とかなんとか言って、申請用紙を渡そうとさえしません。
「いや、息子も働いてはおるんじゃが、会社からは請負だと言われてな、どれだけ働いても給料は変わらんので、息子たち夫婦が食っていくだけでやっとなんじゃ。わしが年金をもらえればいいんじゃが、未納でない証拠がないから、ということで払ってもらえなんだ。家賃も滞っておるし、かといって働き口もないし、体も動かんし、だから生活保護しかないんじゃ」
「そんなことはおじいちゃんの都合でしょ、きまりはきまりだからね、しょうがないの、わかる?」
 といったようなひどい場面が考えられます。これでは窓口の役人が審査しているのと同じです。しかも窓口の役人が勝手にやっているのではなく、生活保護費を支払わないですむように、役所ぐるみでやっていることなのです。
 このお年寄がこれまで、どれだけ健康保険料やら所得税やら住民税やらを納めてきたかについては、一顧だにされません。ボロ雑巾になるまで働いて、使い物にならなくなったらハイそれまでよ、ということでは、政治も自治体も国家もないほうがいい。人間をボロ雑巾扱いするような役人がのさばっている役所なら、そんなものは要りません。

 こういうことが起こる背景に、私たちの「もらえればありがたい」心理があります。裏返しにすれば、役人たちの「払ってやる」という心理があるのです。もし役人に、自分たちが扱っているお金は国民が一生懸命働いて得た収入から預かったお金で、それは国民が、うまく使ってくれよ、という願いを自分たちに託したものだ、という認識が少しでもあれば、窓口に来たお年寄を追い返すようなことはないでしょう。役人はもはや「お上」ではなく「公僕」でなければなりません。およそ人の上に立つ者は、人のために尽くす者でなければならない、というのは、二千年前からの常識なのです。そしてこの常識が実現したことはただの一度もありません。何十年にもわたって税金や保険料を納めてきたお年寄が、きちんと評価される日がいつか来るのでしょうか?