三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ミセス・ノイズィ」

2020年12月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミセス・ノイズィ」を観た。
 奈良県の騒音傷害事件では、騒音おばさんと呼ばれた女性が「引っ越し、引っ越し」と大声で叫ぶ動画が拡散されて、一方的に頭のおかしな人と決めつけられた。マスコミも面白おかしく扱って、事件の当事者たちの人権は蔑ろにされた。いつの時代もマスコミに扱われた事件は関係者の被害を数倍にする。
 マスコミは個人の小競り合いみたいなトラブルをネタみたいに報道するのではなくて、もっと国民のためになるようなことや戦場での悲惨な現実を伝えなければならない筈だが、週刊誌だけでなくテレビや大新聞といった全国的なメディアですら、事件の被害者を執拗に追いかけたり、芸能人の不倫などをニュースにする。
 マスコミのレベルが低いのは間違いなく、マスコミに関わる人々の猛省を促す必要はあると思うが、そういう低レベルの報道を求める人々がいる限り、マスコミの姿勢は変わらないと思う。まともな報道もあるのだが、それはあまり相手にされず、芸能人の不倫みたいなどうでもいいことが視聴率を上げるのだ。マスコミのレベルが低いのは国民のレベルが低いからである。
 さて本作品は個人同士の小競り合いがSNSで拡散され、おまけに当事者が作家でその小競り合いを自分の目線だけで小説にして雑誌に連載したことから、マスコミも巻き込んで大事件に発展する話である。
 主人公の女流作家は子育てをしながらの執筆で疲れ果てているが、売れたいために必死でストーリーをひねり出しながら執筆する。勢い、子育てが雑になる。自分はプロの物書きだ、執筆が優先されるのは当然である、子供との約束は二の次でも仕方がないといった思考過程で、自分を正当化し続ける。ある種の一元論であり、それを押し付けることは他人の人格を蹂躙することになる。子供にも基本的人権があることを母親は理解しない。言うなればミニヒトラーである。
 一方、隣の主婦も自分の事情を他人が理解してくれるのは当然と考えている。加えて自分の価値観が正しいと思いこんでいるから、行動を批判されることに我慢がならない。こちらもミニヒトラーである。そして不幸なことにミニヒトラー同士が隣に住むことになった訳で、小競り合いが生じないはずがない。
 人間が自分の性格を変えるには、努力し続けても生きてきた年月の三分の一を要するという。ミニヒトラー同士が和解するには相当の年月が必要だが、事態はそれを待ってはくれない。それでなくても変わろうと努力する人は稀である。事件でも起きて自分が間違っていたことを目の当たりにしない限り、人は変わらない。
 本作品はそのあたりを上手なストーリーで描き出していて、望ましい大団円を迎える。主人公の吉岡真紀(水嶋玲)を演じた篠原ゆき子の演技力は凄まじく、自己正当化の精神性を前面に出して不快に感じるほど嫌な女を見事に演じきったと思う。この人は映画「罪の声」でも悲惨な運命に遭った母親役を演じていたのが記憶に新しい。本作品とまったく違う、ひたすら子供を思う、愛に満ちた母親役を、年齢と見た目を変えつつ演じていた。大変ポテンシャルの高い女優さんである。
 スクリーンを出ると、騒音おばさん役を演じた大高洋子さんがお礼の挨拶にマスクを配っていて、受け取りながら顔を見てそれとわかってびっくりした。「ありがとうございます。面白かったですよ」と声をかけると、少し微笑みながら「ありがとうございます」と返してくれた。たった今スクリーンで観た不機嫌で無愛想なおばさんとは打って変わって、とってもチャーミングな人だった。

映画「ミッドナイト・スカイ」

2020年12月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ミッドナイト・スカイ」を観た。
 ジョージ・クルーニーは現代という時代に相当な危機感を抱いているのではないか。2018年5月に鑑賞したジョージ・クルーニー監督、マット・デイモン主演の映画「サバービコン 仮面を被った街」のレビューの冒頭にそう書いた。本作品では危機感を抱いていた事態が現実になってしまった世界を描き出した。
 世界に警鐘を鳴らしていたオーガスティン博士は、病気で自分の寿命が残り少ないことを知っている。終盤で宇宙船から見た地球の様子からすると、地上の殆どの場所は台風と砂嵐が居座っているように見えた。住める場所は北極と地下だけだ。多くの人は宇宙船に乗って旅立った。博士は、任務を終えて地球に戻ってくる宇宙船に引き返すように伝えるために北極の基地からたった独りで無線を飛ばし続ける。「NO」を伝えるためだけにか細い生を繋いでいるのだ。なんとも悲壮な覚悟である。アンテナが壊れてしまうと、幼いアイリスを連れて離れた別の施設に移動する。はぐれたアイリスを見つけたのはある種の邂逅であった。
 一方の宇宙船には5人のクルーが乗っている。こちらもアンテナが損傷し、そのために悲劇が起こる。修理したアンテナでオーガスティン博士に交信できるのだろうか。ここにもある種の邂逅がある。ふたつの邂逅は偶然だったのか、それとも必然か。映画は観客次第でどちらにも取れるような選択肢を提示する。
 深読みだろうとは思うが、オーガスティンはアウレリウス・アウグスティヌスから取った名前かもしれない。Augustinus(アウグスティヌス)の英語読みはAugustine(オーガスティン)である。アウグスティヌスは国家を否定した聖人として有名であり、吉本隆明の「共同幻想論」にも通ずるような国家観の持ち主であった。人間の支配欲が国家を形成していると言ったのである。支配欲が源だから、自国だけでなく他の国家も支配したがるのが当然で、戦争は愚劣な支配欲同士の堕落した現象だと看破した。紀元4世紀から5世紀にかけての人である。
 本作品がアウグスティヌスの世界観に基づいているのかは不明だが、地球を人間が住めない場所にしてしまったのは、愚劣な人間同士の堕落した現象であることは間違いない。松田聖子が歌った「瑠璃色の地球」(松本隆作詞)には、「~争って傷つけあったり 人は弱いものね~ひとつしかない私たちの星を守りたい~」という歌詞がある。宇宙船から見た地球はもはや、瑠璃色ではなかった。その映像に、ジョージ・クルーニー監督の深い悲しみが見て取れた。
 アメリカやロシアや北朝鮮、それに日本の政治指導者を見渡せば、まさに支配欲に冒された愚劣な人間同士である。しかし選んだのは国民だ。国家は堕落した存在だと否定したアウグスティヌスの気持ちがよく分かる。本作品では、地球を護ることが人類を守ることだというクルーニー監督のメッセージが伝わってくる。そして人類はおそらく地球を守れないだろうという諦めのこもった確信もある。
 宇宙船はUターンする。もはや地球に未来はないのだ。しかし人類には未来があるかもしれない。生と死。本作品ではその両方が描かれる。宇宙の歴史と人類の歴史。時間と空間の壮大な広がりに思いを馳せれば、国家も地球も人類も、ほんの小さなひとときの変化に過ぎない。そういった達観が心を平安にしてくれる。観終わってどこかホッとした穏やかな気持ちになるのは、そのせいかもしれない。素晴らしい作品である。

映画「私をくいとめて」

2020年12月20日 | 映画・舞台・コンサート
映画「私をくいとめて」を観た。
 
 とても文学的で、どこか哲学的な作品である。大九明子監督は今年9月に鑑賞した映画「甘いお酒でうがい」に続いて、都会でひとり生きる女性を生き生きと描き出した。「甘いお酒でうがい」の主演は松雪泰子だったから、妙齢に達した女性のある種の達観のようなものと、年齢に関して感じる引け目や消極的な態度があったが、本作品では、それよりも10歳以上若い30代という設定の主人公だから、自分の年齢に対する捉え方が若干異なっている。しかしところどころで現れる乙女の感情は共通している。女性というものは幾つになっても心は乙女のままなのである。
 主人公みつ子は、恋人もいないのに派手でエロティックな下着を持っている。のんがそういう下着を身に着けているシーンがあれば更にリアリティが増したと思うが、流石にのんにはそこまでの覚悟はなかったようだ。27歳ののんは見かけが若すぎて、31歳のみつ子を演じるのは少し無理があるような気もしたが、最近の31歳の女性はかなりの割合で20代に見える人が多いということもあるから、これでよかったのだろう。それに本作品は主人公の内面を描く文学的な作品だから、見た目よりも演技力が問われる。
「甘いお酒でうがい」では松雪泰子演じる主人公佳子がモノローグで自分の日記を語る形式だったが、本作品はみつ子が心のなかに設定して昼夜会話をしているAとの自問自答で行動が決まり、生き方の方向性が決まっていく。Aは自意識そのものだから、Aと会話している限り、恋に落ちることはない。自意識は落ち着いた部分と落ち着かない部分があるから、その落ち着かない部分をのんの台詞が担当し、落ち着いた部分を中村倫也のモノローグが担当した。
 自意識も含めて、意識は脳の働きの数万分の1でしかない。脳の殆どの役割は無意識にある。喜怒哀楽も恋も憎しみも、すべて無意識の働きだ。みつ子は自意識が強すぎて、無意識に自分を任せることができない。喜怒哀楽から遠くにいて平和な日常を送ることができるが、ときに自意識が暴走して失敗することもある。無意識の領域である性欲や食欲の情熱も感じていて、食欲のために自分で料理をしたり、ひとりで焼肉を食べたりするが、内なる乙女が求める恋のロマンスは押さえつけている。
 自意識がみつ子の幸せの邪魔をしていることは間違いなく、自意識が顔を出さなかったローマでは、親友との旧交が温まることに感動する。幸せな涙である。しかし日常に戻ると再び自意識との問答の毎日となる。理性は意識によって自意識をコントロールすることで、それができるようになることを大人になると言うのだが、みつ子は自意識が肥大しすぎて暴走する。
 自意識が暴走してしまうのは思春期に発現する自意識の急激な膨張をうまく乗り切れなかったせいだ。反抗期がなかった人は、大人になっても自意識が肥大したままでいることがある。みつ子はまさにそれだ。幸せは意識でなく無意識の領域だから、自意識の肥大しすぎたみつ子には幸せは来ない。誰かに自意識の暴走を止めてほしい。それには無意識の領域である恋の情熱に身を任せるしかない。多田くんはみつ子の自意識の暴走を食い止めることができるのだろうか。
 みつ子のような30代女性は日本にかなりいると思う。自意識が肥大したおかげで保守的になり、人付き合いも苦手だから、あまりお金を使わず溜め込んでいる。異性にときめきを感じることもあるが、自意識の警戒心が強すぎて基本的に誘いを断るから、恋に落ちることはない。安全で安心で平凡な日常だが、それに満足しているわけではない。本当は冒険をしたり恋に落ちたりしたいのだが、一歩を踏み出せないまま年をとっていく。こんな人生は嫌だと感じているが、どうしても勇気がない。都会に暮らす微妙な年齢の女性の心情を上手に描いてみせた佳作だと思う。

映画「新解釈・三國志」

2020年12月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「新解釈・三國志」を観た。
 不出来なコントか漫才みたいな作品である。コメディというものは、登場人物が大真面目にバカを演じるから面白い訳で、俳優が面白がっていると観客は白けるだけだ。本作品はコメディの悪い見本みたいだった。
 大泉洋やムロツヨシといった芸達者の悪ふざけが多すぎる。本人たちはさぞ楽しくやっているのだろうが、観ているこっちはちっとも笑えない。賀来賢人のひとりボケツッコミみたいな演技も疲れる。橋本環奈の演技が一番それらしかった。
 コメディだから笑わせようとする演出をしたいのは理解できるが、求める笑いが安っぽいのだ。例えばチャップリンの映画はいずれもシリアスな演技で、偶然や失敗や誤解などでおかしなことになってしまうことで笑いを取り、その一方で社会や政治の批判にもなっているという深くて面白い作品ばかりである。チャップリンと比較するのは可哀想だが、それにしても出来が悪すぎる。ストーリーの中で笑いを取るのがコメディであり、役者が漫才をして笑わせるのは、もはやコメディでもなんでもない。
 福田雄一監督は今年の2月に観た映画「ヲタクに恋は難しい」のレビューで「金返せのレベル」と酷評したが、本作品は豪華な役者陣、特に大泉洋とムロツヨシの演技を信じて、いい作品であることを願いつつ鑑賞した。しかし「ヲタクに恋は難しい」と同じレベルの駄作であった。スガ総理みたいに中身がスッカスカの作品だ。もう今後はこの監督の作品を見ることはないと思う。

映画「#フォロー・ミー」

2020年12月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「フォロー・ミー」を観た。
 ドッキリ番組があまり好きではない。かつては芸能人相手に過激なイタズラを仕掛ける「スタードッキリ㊙報告」というフジテレビの番組があって、現在ではTBSの「モニタリング」という素人を驚かせようとする番組がある。いずれの番組も見ていて不快である。
 どうして不快に思うのか。それはイタズラを仕掛ける側の心理がいじめっ子の心理とほぼ同じだからである。相手が反撃して来ないことを見越して、または反撃してきても簡単に撃退出来ると自負してイタズラを仕掛ける。ネタばらしにキョトンとした顔をするのを腹を抱えて笑う。
 ドッキリ番組がイタズラを仕掛ける相手が素人の場合は、どんな反応をするか予想がつかない。場合によっては手酷い暴力を振るうかもしれない。ヤクザや半グレの連中であれば、落とし前と称して多額の現金を要求してくるかもしれない。テレビ番組がそんなリスクを冒す筈もなく、いたずらを仕掛けるのは番組が期待する反応をしてくれる相手に限定しているのだろう。そこに製作者の傲慢さがあり、ドッキリ番組が好きではない理由もそこにある。
 本作品にも最後にキョトンとした顔をする登場人物がいる。呆然とすると言ってもいい。呆然としたのは誰か。世界的にSNS全盛の現在、思想も信条もなくて、ただ面白ければいい、いいね!やフォロワーが沢山つけばいいという動機で沢山の人が沢山の動画をアップしている。それで儲けている人間もやはり沢山いて、テレビマンのように徐々に仕掛けがエスカレートしていく。大掛かりなドッキリやイタズラ。その先に待っているものは何か。それが本作品のプロットの中心部分である。
 ネタバレ厳禁なのでわかりにくレビューになったが、殆どの観客は鑑賞途中で結末が見えてくると思う。そしてその通りの結末となる。どんな結末かは観てのお楽しみである。ある意味で痛快な作品と言っていいと思う。

映画「天外者(てんがらもん)」

2020年12月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「天外者(てんがらもん)」を観た。
 時間の流れが分かりにくい作品である。主人公五代友厚の見た目が歳を取らないから、シーンの変わり目にどれくらいの時が流れたのか、見当がつきにくい。せめて西暦とその年の友厚の年齢のテロップでもあればよかったと思う。
 加えて、五代友厚が実際に何をしたのか、肝心の実績についての具体的なシーンがないから、五代友厚に関してよほど詳しい人でなければ感動もしないだろう。当方も恥ずかしながら五代友厚のことをよく知らない状態で鑑賞したので、何がなんだかよくわからなかった。起承転結の起と結だけを見せられた感じである。
 当方の勝手な推測ではあるが、こんな外箱だけみたいな映画になってしまったのは、主演の三浦春馬の自殺が大きな理由に違いない。しかし公開された映画は製作者や出演者と切り離されて、独立したひとつの作品として評価されなければならない。主演俳優の自殺は話題ではあるが、作品の価値とは無関係だ。
 とは言え、いいシーンはいくつかあった。序盤の地球儀のシーンや万華鏡のシーン。空間把握力に優れ、手先が器用であったことがわかる。三浦翔平の坂本龍馬とのシーンでは剣術と柔術の腕が達者であったこともわかった。それらが中盤や後半に発揮されるのかと思ったがそうではなかった。帝国主義真っ只中の時代に列強の植民地にされず、外国と対等の関係を作るために富国強兵の上申書を書いたことが高く評価される。器用さや腕っぷしよりも、将来を展望して目的のために進むこと、進みつづけることが五代才助、友厚の身上なのである。
 三浦春馬は去年(2019年)の1月にBunkamuraシアターコクーンでの舞台「罪と罰」を観たのが印象に残っている。筋肉質で鍛えられたシャープな体を晒して主人公ラスコリニコフを演じる存在感に感動したことを憶えている。本作品の切れのある動きはあのシャープな肉体あってのものだろう。
 人間は多面的である。本作品の五代友厚は国家の発展のために尽くす維新の立役者としての一面をクローズアップして表現したが、機関車のようにパワフルに突き進んでいった人間の、そのエネルギーのよって来たる源を表現できれば更によかった。三浦春馬のナイーブな演技は五代才助、友厚という人間が悩みの中で自分を叱咤するように進んでいったことがよく分かる。それは三浦春馬なりの解釈だったのであろう。俳優としてできる限りの演技をしたことが窺える。その熱意を受け止めるような、五代友厚の現実的な活躍ぶりを存分に見せるシーンがなかったことは、返す返すも残念である。三浦春馬の演技を評価して4.5をつけたいところだが、映画としては少し分かりづらい惜しい作品として3.5とする。

映画「Deux Moi」「パリのどこかで、あなたと」

2020年12月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Deux Moi」「パリのどこかで、あなたと」を観た。
 フランス映画やアメリカ映画では屡々精神科医のカウンセリングのシーンが登場するが、邦画ではあまり見かけたことがない。その理由は社会構造に由来すると思う。
 日本は忖度社会だ。それは日本の社会が未だに封建的であることを示している。忖度するのは常に立場が下の者であって、部下が上司を相手に、官僚が大臣を相手にするのが忖度である。その動機はと言えば、どうすれば相手の望むようになって、結果的に自分が不利にならずに済むかという保身に過ぎない。忖度は思いやりでも配慮でもないのだ。
 そういう精神性は当然カウンセリングの場でも現れる。日本でカウンセリングを受けるのは、会社が契約している産業医の定期カウンセリングを受けるか、鬱病で会社を休んだり退職したりするために自分で病院に行くときである。そしてカウンセリングでは本当のことは言わない。自分が鬱だと判断されずに済むためにはどう言えばいいか、あるいは逆に病気だと判断されて会社を休んだり辞めたりするためにはどんな台詞が相応しいかを忖度しながら発言する。カウンセラーは深入りしないから、本人の発言を尊重する。結局問題は何も解決しない。日本ではカウンセリングはまだまだ一般的ではないのだ。だから邦画のシーンに登場しない。
 本作品はたまたま住んでいるアパルトマンが隣の建物で、部屋が隣り合っているだけの男女の話である。舞台はパリ。それぞれが仕事に悩み、親族との関係に悩んでカウンセリングを受ける。自分の心の中を探っていくうちに、さらなる迷宮に迷い込む。しかしやがて一筋の光のようなものに辿り着く。それが必ずしも正解とは言えないのがカウンセリングの限界でもあるが、最終的には本人が決めることだ。自殺も否定されない。
 レミーとメラニーは隣とは言っても建物が違うから交流はない。パリも東京と同じように殆どの隣人は他人なのだ。近くに住んでいるからアパルトマン周辺で何度もすれ違うが、他人にいきなり話しかけることはない。ストーリーが進むにつれて、観客はこの二人はいつ出逢うのだろうかと疑いながら観ることになる。出逢いそうで出逢わない二人だが、それぞれに抱えている問題に向き合ううちに、少しだけ心が自由になっていく。
 なるほどと思った。心が病んでいる状態で出逢ったら、互いに行き場のない悩みをぶつけ合って傷つけ合ってしまう。カウンセリングの成果が吹っ飛んでしまい、以前にも増して苦しい日々となるのだ。だから敢えて出逢わない設定にしたのかもしれない。粋な作品である。同時に、自分の悩みは自分でしか解決できないという突き放した実存主義的でもある。スーパーのオーナーの、おせっかいの一歩手前ぎりぎりとも言える親切でエスプリの効いた声掛けが凄くよかった。近くにこんなスーパーがあれば毎日通うだろう。フランス映画らしく、哲学的だが恋愛の度合いも高いという国民性をよく描いている。地に足のついた優しい作品である。観ていて楽しかった。

映画「The kindness of Strangers」(邦題「ニューヨーク 親切なロシア料理店」

2020年12月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The kindness of Strangers」(邦題「ニューヨーク 親切なロシア料理店」を観た。
「ニューヨーク 親切なロシア料理店」という邦題から、てっきりレストランを舞台の悲喜交交を描いた映画だろうと踏んでいたが、少しだけ違っていた。原題は「The kindness of Strangers」である。映画を鑑賞したあとで邦題をつけるとしたら、当方なら「ニューヨークの優しい人々」か、直訳の「他人たちの親切」としたい。邦題をつけた人はちゃんと作品を観たのだろうか。
 ニューヨークには様々な問題を抱えた人たちがいる。明日をも知れぬホームレスから大金持ちまで、或いは社会で上手く生きていけない精神的な悩みを持つ人から世渡り上手だけで贅沢な暮らしを手に入れる人まで、縦も横も雑多な人々の集まりと言っていい。
 そして大半の人は、自分が上に行くよりも下に墜ちる可能性の方がよほど高いことを知っている。いつどんなきっかけで自分がホームレスにならないとも限らないのだ。雇われている人は目の前の人が困っていると分かっていても、雇い主の金でその人を助ける訳にはいかない。そうしたら解雇されて自分が目の前の人と同じ立場になってしまう。助けるのも助けないのも、どちらも辛い選択だ。他人に優しくすることはとても勇気のいる行動なのである。
 主人公クララは二人の男の子を連れて、逃げるために家を出た。行くあてもなく自動車を走らせ、ニューヨークに辿り着く。IDカードとクレジットカードだけが物を言うニューヨーク。金持ちに優しく、貧乏人に冷たい街だ。クララに必要なのは温かい食事と雨風をしのげて安全に寝られる場所である。しかしIDもクレジットもないクララには、そんなものは提供されない。
 本作品のリアリティは、クララが必ずしも善良なだけではないことだ。嘘も吐けば盗みもする。人は追い詰められたら普段は出来ないこともやってのける火事場の馬鹿力がある。だがいつもうまくいくとは限らない。次第に追い詰められるクララだが、無償で食事を提供してくれる場所を発見してひと息つく。しかしそこに寝場所がある訳ではない。
 看護婦のアリスはロシア料理店の常連で、病院の仕事以外の時間はボランティアでホームレスたちに無償で食事を提供したり、立ち直りたい人たちのための会話サークルを運営している。そこに加わったマークは刑務所を出たばかりだが、ロシア料理店に拾われてマネジャーとなる。友人のジョン・ピーターは彼の裁判で尽力してくれた。
 クララのように親切な他人に巡り合うのは極めて稀だと思う。ニューヨークに生きる多くの貧乏人は救いがない。冬の寒さに勝てずに凍死したり、夏の暑さに衰弱死する。または生きる希望をなくして自殺する。本作品は不運の中の幸運に恵まれたケースを描いているが、恵まれない人も沢山いることも同時に描いているし、今は寝るところと食べ物にありついている人も、いつそれらが失われるかもしれないことも描いている。クララの奇跡的な僥倖を描くことで、その他の人々の不幸を浮き彫りにしているのだ。
 アリスを演じたアンドレア・ライズボローがとてもよかった。優しい人は時として他人を突き放す。自立を促すためだ。頼ってばかりではなく他人から頼られる存在にならなければならない。人を否定せず、受け入れる寛容さが大切なのだ。しかしアリスは受け入れてばかりで疲弊している。アリスにも頼る相手が必要だ。そういったアリスの心模様を上手に表現していたと思う。名演である。
 映画「マイ・ブックショップ」に重要な役どころで出ていたビル・ナイがホテルのオーナー役で登場。この人がいると作品の厚みが増す。クララ役のゾーイ・カザンは初めて見たが、母親の顔と女の顔の使い分けが見事だったと思う。

映画「Love Sarah」(邦題「ノッティングヒルの洋菓子店」)

2020年12月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Love Sarah」(邦題「ノッティングヒルの洋菓子店」)を観た。
 やや盛り上がりに欠ける作品である。理由はみっつある。
 最大の理由は出てくるお菓子がどれも美味しそうに見えないことだ。松本穂香が主演した邦画「みをつくし料理帖」ではどの料理も美味しそうに見えた。本作品のお菓子類はなぜかそれほど美味しそうに見えなかった。こういう店を開く系の映画では、食べ物がどれほど美味しそうに見えるかで観客のテンションの上がり方が変わる。しかし美味しいだけでは店は流行らない。こんなに美味しそうに見えるのにどうして流行らないのか、主人公の創意工夫が試される。それが面白い。本作品では店が盛況なのかさえよくわからない。
 ふたつ目の理由は、ベーカリーなのにお菓子ばっかり作っていることである。原題は「Love Sarah」だが、邦題は「ノッティングヒルの洋菓子店」となっていて、解説もお菓子屋の設定である。お菓子ばかりでてくるから無理矢理にそういう邦題にしたのだと思うが、登場人物の台詞はベーカリーである。ベーカリーはお菓子屋ではなくパン屋だ。パン屋であれば、お菓子よりも焼きたてのパンが見たかった。仲間に加わったマシューは一流のパティシエという設定だからお菓子ばかり作る。
 しかしベーカリーなのだからお菓子でなくパンを焼くのが望ましかった。パティシエのマシューがクオリティの高いパンを作る中で、満を持してとっておきのお菓子が出てくる展開なら気分は盛り上がる。本作品ではお菓子の大安売りみたいにお菓子のシーンばかりで、しかもあまり美味しそうに見えないから気分が盛り下がってしまった。
 最後の理由は、登場人物の底が浅いことである。いろいろなものを捨てて人生をかけてパン屋をはじめた筈なのに、店の今後に対する危機感もなく、店作りに対する覚悟のほども感じられない。パン屋よりも人間関係にかまける部分もある。人間には多くの側面があるのに、たったひとつの事実を見て相手の思惑を決めつけてしまう。そして嫉妬し、拒絶する。不惑前後の女性がそんな単純であるはずがない。
 ノッティングヒルと言えばバッキンガム宮殿にほど近い場所で、有名な二階建てバスをはじめ、交通の便はいい。その分、交通量が多い。そういう場所で自転車を飛ばす危険性を不惑近くの女性が知らないはずもなく、映画は序盤からリアリティに欠けている。グロさを嫌ったのかもしれないが、せめてサラの交通事故現場のシーンはあったほうがよかったと思う。
 サラがいかに素晴らしい女性であったか。素晴らしい母親であり素晴らしい友人であり素晴らしい娘だったこと、そのサラを失った悲しみと、それを乗り越えていくシーンが揃ってこその感動である。本作品には悲しみのシーンがなくて、単に女性が集まってパン屋を作る話になってしまった。文化祭の喫茶店を出すみたいなレベルの話である。残念ながら駄作と言わざるを得ない。

映画「100日間のシンプルライフ」

2020年12月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「100日間のシンプルライフ」を観た。
 本作品のテーマは物に別れを告げることである。目指すはシンプルライフだ。人間は生れてくるときは裸で何も持っていない。本来無一物とは仏教の言葉だが、当たり前のことでもある。当たり前を忘れるほど物に囲まれているということか。
 大人になると、裸になることに微妙な不安を覚える。財布やスマホが近くにないと困るのだ。公衆浴場に鍵のかかるロッカーがないときは、入浴を諦めようかとさえ思う。スマホも保険証もクレジットカードも手元になければ、社会生活に大きな支障を来たすことは間違いない。それがとても恐ろしい。
 人間のアイデンティティは記録と記憶にある。見知らぬ土地で素っ裸で発見されたら、自分を証明するのに自分の記憶と役所や病院の記録とを照会する。自分を知っている人がその場にいれば幸運である。有名人はその点有利だが、素っ裸で発見されると大スキャンダルになる分、かなり不利でもある。
 聞くところによれば、外国のあるIT系の会社の社員は手のどこかにマイクロチップを埋め込んでいるらしい。映画「トータル・リコール」(コリン・ファレル主演の方)では手にシート型の携帯電話が埋め込まれていた。ビデオゲーム「メタルギア・ソリッド」では体内にナノマシンを注入して、バイタルの管理や武器のIDとして使っていた。登録した武器は他の人間が使えないシステムである。
 自分が自分であることを電子情報に記録して体内に埋め込む方法は、管理する側がよほど信頼に足る共同体であれば、たしかに問題はない。しかし全体主義の人間が共同体の指導部に入り込んだら、電子情報を悪用しかねない。最悪は戦争だ。
 現在の段階ではスマホに多くの情報を入れている人が多いと思う。スマホで買い物をしたら、クレジットカードの情報や住所や生年月日などが漏れ、嗜好品の傾向を分析される。実際にインターネットを見ていると、興味のある物の広告が出る。今は万人受けする商品よりもピンポイントでその人向けの商品を売りつける時代なのかもしれない。
 本作品にもネット時代らしいたくさんの事例が登場する。電話番号さえわかれば、そこから芋づる式に名前や住所がわかるし、行動の軌跡までわかる。GPSを暫くつけっぱなしにしてからGooglemapのタイムラインを見ると、自分の行動が見事に網羅されているのがわかる。備忘的に助かるような、恐ろしいような感じだ。
 主人公二人はすべての持ち物を一旦倉庫に入れて、1日にひとつだけ取り出せるのだが、素っ裸だから最初に取り出すのは裸を隠すものであることは間違いない。その次となると少し迷う。段階が進めば人によって優先順位がバラバラになる。ただ取り出すだけのストーリーなら散漫に進んで終わりとなるが、本作品は共同経営者どうしが賭けをしているという設定だから、互いに競ったり協力したりする。そして第三の倉庫借主が登場して人間関係にダイナミズムを生み出す。物を持たないときのほうが人間臭い行動ができるという点は面白かった。
 とはいっても、物のひとつひとつに直接向き合って必要かそうでないかを考える訳ではないので、ややドラマ性に乏しいのが憾みだ。本作品の設定とは逆に物をひとつずつ捨てていくのはどうかというと、それはもう断捨離で、映画にならない気がする。最後までスマホが残るに違いない。ITとスマホのある時代とそれらがなかった時代とでは、世界が違うのだ。
 インターネットで情報が飛び交う現代は、20世紀後半の情報化社会と言われた時代よりも数万倍、数億倍、あるいは数京倍、数垓倍の情報量である。誰もがスマホやPCといった情報機器を使わざるを得ない状況では、物を捨てるよりもインターネット情報の取捨選択こそが、現代の断捨離なのだろう。