映画「ミセス・ノイズィ」を観た。
奈良県の騒音傷害事件では、騒音おばさんと呼ばれた女性が「引っ越し、引っ越し」と大声で叫ぶ動画が拡散されて、一方的に頭のおかしな人と決めつけられた。マスコミも面白おかしく扱って、事件の当事者たちの人権は蔑ろにされた。いつの時代もマスコミに扱われた事件は関係者の被害を数倍にする。
マスコミは個人の小競り合いみたいなトラブルをネタみたいに報道するのではなくて、もっと国民のためになるようなことや戦場での悲惨な現実を伝えなければならない筈だが、週刊誌だけでなくテレビや大新聞といった全国的なメディアですら、事件の被害者を執拗に追いかけたり、芸能人の不倫などをニュースにする。
マスコミのレベルが低いのは間違いなく、マスコミに関わる人々の猛省を促す必要はあると思うが、そういう低レベルの報道を求める人々がいる限り、マスコミの姿勢は変わらないと思う。まともな報道もあるのだが、それはあまり相手にされず、芸能人の不倫みたいなどうでもいいことが視聴率を上げるのだ。マスコミのレベルが低いのは国民のレベルが低いからである。
さて本作品は個人同士の小競り合いがSNSで拡散され、おまけに当事者が作家でその小競り合いを自分の目線だけで小説にして雑誌に連載したことから、マスコミも巻き込んで大事件に発展する話である。
主人公の女流作家は子育てをしながらの執筆で疲れ果てているが、売れたいために必死でストーリーをひねり出しながら執筆する。勢い、子育てが雑になる。自分はプロの物書きだ、執筆が優先されるのは当然である、子供との約束は二の次でも仕方がないといった思考過程で、自分を正当化し続ける。ある種の一元論であり、それを押し付けることは他人の人格を蹂躙することになる。子供にも基本的人権があることを母親は理解しない。言うなればミニヒトラーである。
一方、隣の主婦も自分の事情を他人が理解してくれるのは当然と考えている。加えて自分の価値観が正しいと思いこんでいるから、行動を批判されることに我慢がならない。こちらもミニヒトラーである。そして不幸なことにミニヒトラー同士が隣に住むことになった訳で、小競り合いが生じないはずがない。
人間が自分の性格を変えるには、努力し続けても生きてきた年月の三分の一を要するという。ミニヒトラー同士が和解するには相当の年月が必要だが、事態はそれを待ってはくれない。それでなくても変わろうと努力する人は稀である。事件でも起きて自分が間違っていたことを目の当たりにしない限り、人は変わらない。
本作品はそのあたりを上手なストーリーで描き出していて、望ましい大団円を迎える。主人公の吉岡真紀(水嶋玲)を演じた篠原ゆき子の演技力は凄まじく、自己正当化の精神性を前面に出して不快に感じるほど嫌な女を見事に演じきったと思う。この人は映画「罪の声」でも悲惨な運命に遭った母親役を演じていたのが記憶に新しい。本作品とまったく違う、ひたすら子供を思う、愛に満ちた母親役を、年齢と見た目を変えつつ演じていた。大変ポテンシャルの高い女優さんである。
スクリーンを出ると、騒音おばさん役を演じた大高洋子さんがお礼の挨拶にマスクを配っていて、受け取りながら顔を見てそれとわかってびっくりした。「ありがとうございます。面白かったですよ」と声をかけると、少し微笑みながら「ありがとうございます」と返してくれた。たった今スクリーンで観た不機嫌で無愛想なおばさんとは打って変わって、とってもチャーミングな人だった。