三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「燃ゆる女の肖像」

2020年12月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「燃ゆる女の肖像」を観た。
 ジェンダーフリーの風潮のせいか、このところ邦画でも洋画でも同性愛の作品が多く上映されているように感じる。最近では「おっさんずラブ」というテレビドラマまであった。映画では2016年に鑑賞した「アデル、ブルーは熱い色」が最も印象に残っている。その4日前に観たのが邦画の「リップヴァンウィンクルの花嫁」だ。黒木華の演技に舌を巻いた記憶がある。
 同性愛は太古の昔からあって珍しいものではない。古代ギリシアでは同性愛が当たり前だったという説があり、カエサルはバイセクシャルで、映画「テルマエ・ロマエ」で市村正親が演じたハドリアヌス帝は同性愛者という話だ。日本では在原業平は老若男女何でも来いだったようだし、江戸時代は男色が日常的だったらしい。
 いつからか、同性愛は生殖を伴わない性行為として、キリスト教によって禁止されたり、または国家によっては法律で禁止されたりした。しかし聖職者が実は少年愛者で沢山の少年が児童虐待の被害にあったという「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」みたいな映画もあったりする。
 人間の性は個性と同じように、古来から多様なのである。フェチやマニアという言葉には沢山の接頭語がつく。性的な快楽は人それぞれであり、故に相性というものがある。相性のいい相手、言い換えれば同じフェチ、同じマニアであれば性的な快楽は増大し、そうでなければマイナスになる。人が浮気したり離婚したりする理由の「性格の不一致」は主に「性の不一致」なのだ。だから少し前まで結婚式の挨拶では「昼は淑女のように、夜は娼婦のように」という言葉が使われていた。多分いまの結婚式で使うと炎上必至の言葉だが、真実を衝いている言葉であることは間違いない。
 国家という共同体の中の個人は、国家に守られている従順な羊の群れで、共同体が何かを禁止したら、それを悪いことだと思ってしまう傾向にある。精神的な自由を投げ出してしまうのだ。日本の男色や浮気を悪と定めて一夫一婦制を導入したのは明治の国家主義者である福沢諭吉たちである。ちなみに国家主義とは国家に主権があるとする考え方で、国民に主権があるとする民主主義とは正反対である。ナチスも国家主義だ。明治維新の国家主義者たちは、国の労働力や兵力を増強するため人口増加策として一夫一婦制を提唱したのであって、国民の幸福を願った訳ではない。
 さて従順な日本国民は国家主義者の横暴に従い、一夫一婦制に背く行為を悪としてしまった。同性愛についても一部のマニアックな人の特有のものとして限定的な扱いを受けるようになったのである。「LGBTは生産性がない」という発言をしたのも国家主義者の国会議員だ。浮気が不倫として咎められるようになったのは人類の歴史で言えばごく最近の話なのである。民主主義国家は個性の多様性を認めるわけで、同時に性の多様性も人権として認めなければならない。
 民主主義国家フランスには不倫という言葉はない。ミッテラン大統領の浮気や隠し子の報道があっても、それによって大統領が責められることはなく、逆に報道したマスコミの方が「プライベートに立ち入るのはよくない」と非難された。フランスの人々は性の多様性を認め、人間が物や人に飽きることも認めているのだ。
 新しいものは誰しも試したくなるが、思い切って試す人と怖気づいて我慢する人がいる。我慢する人は試す人が許せない。不自由な人は自由な人が許せないのだ。他人の浮気を非難する人の心理はそれで、つまりは不寛容で狭量な精神性である。嫉妬や羨望もある。日本ではそういう精神性が支配的だ。だから浮気した有名人が、違法行為でもないし国民に迷惑をかけている訳でもないのに謝罪を強要される。非難する人たちの精神性はほぼ国家主義のネトウヨたちと同じである。日本に民主主義は根付いていないのだ。
 本作品はフランス映画である。だから性の多様性が広く認められているという前提の上で作られていると思う。本サイトの解説によると、主人公の相手役となるエロイーズを演じたアデル・エネルは本作品の監督セリーヌ・シアマと交際しているそうだ。レズビアン監督が交際相手の女優を出演させてレズビアン映画を撮るのが普通の時代になったのは、古代の性に対する自由な精神を取り戻したようで、喜ばしい限りである。本作品の美しいレズビアンシーンを非難する人はいないだろう。
 18世紀のフランスと言えば、1789年7月14日の市民によるバスチーユ監獄の襲撃事件が有名で、そこからフランス革命がはじまった。本作品はおそらくそれよりもかなり前の話で、貴族による封建主義の支配体制が残っており、女性の権利は認められていない。女性画家は男性を描くことが出来なかったり親が決めた相手と結婚しなければならなかったりする。
 殆ど二人芝居のような映画で、互いの会話やアップで映される表情には、性衝動や人格のせめぎ合いや諦めや運命を受け入れる覚悟みたいなものが混ざりあったような、複雑な意識と感情が見て取れる。主人公の画家マリアンヌを演じたノエミ・メルランは、力強い目を存分に生かして繊細な女心を演じきった。対するエロイーズを演じたアデル・エネルは、主演映画「午後8時の訪問者」で見せた冷静さよりも、はじめて胸がときめいた性的な衝動と快楽、それに別れの予感に心が揺り動かされる感情を前面に出して、相手役としての存在感を十分に発揮した。両女優ともに見事である。
 こんな時代をこんなふうに生きた女たちがいたという実存的な表現であり、冷たい潮風や固いパンや暖炉の熱が、あたかもその場にいるように感じられた。カメラワークも音響も秀逸だ。世界を実感するためにマリアンヌは絵を描き、アデルは海に入る。歌う女たちのシーンは素晴らしい。焚き火の向こうで火のついたドレスを気にせずすくっと立つアデルが印象的だ。そして音楽。女たちの心を解き放つのは自然と恋と芸術なのだ。ヴィヴァルディの「四季」は名曲だと、あらためて思った。

映画「フード・ラック!食運」

2020年12月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「フード・ラック!食運」を観た。
 失礼ではあるが、お笑い芸人の寺門ジモンの監督作品ということで観るかどうか保留していた。しかし先入観を捨てて鑑賞したら、これが意外に面白い。
 ストーリーはベタというか、行き当りばったりの展開だし、主人公の小学生時代のシーンはいまどきそういうアホな小学生はいないとツッコミが入りそうだが、それはそれとして、りょうが演じる主人公の母安江さんが見せる器量の大きさと優しさが凄い。この人の人格が物語全体を包み込んでいるから、放っておいてもまとまりのある作品になっている。
 安江さんのエピソードを語る登場人物を演じるのは、大和田獏、寺脇康文、竜雷太、東ちづる、白竜と、錚々たるメンバーで、主人公の相手役を演じた土屋太鳳やワンポイントの大泉洋も含めて、達者な役者ばかりである。残念だが主人公を演じたNAOTOとの演技力の差がありすぎて、主人公が逆に悪目立ちになってしまったのが憾まれる。子供時代の子役の演技もいまいちだった。
 しかし料理のシーン、といっても殆ど焼肉のシーンだが、これがよかった。主人公が食材と料理人に対する考え方を披露する場面は、流石に食通のジモンが監督だけあって、とても説得力がある。松尾諭の演じた嘘くさいフードライターとは知識においても哲学においても一線を画していて、アンジャッシュの渡部建が紹介する料理があまり美味しそうな感じがしなかった訳がわかった気がした。
 主人公以外はちゃんと見ごたえがあるので、映画館で鑑賞して損はないと思う。当方は以前から、美味しい焼肉屋と美味しくない焼肉屋があることには気づいていたが、肉を焼くだけなのにどうして美味しくない焼肉があるのかがわからなかった。本作品はその理由をわかりやすく解説してくれたので、とてもためになった。ステーキも焼肉も肉を焼くだけの料理だが、結構奥が深いのだ。これからは焼肉が食べたいではなく、美味しい焼肉が食べたいと思うのだろう。意識がワンランク上がったのは喜ばしいことだが、食費もワンランク上がりそうで心配である。

映画「魔女がいっぱい」

2020年12月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「魔女がいっぱい」を観た。
 出来のいいファンタジー映画には、芭蕉の俳句「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」に通じるような物悲しさある。逆に言えば、そういう部分がない能天気なファンタジーは世界観が浅くて観客を感動させることが出来ない。
 本作品は出だしからして悲しい出来事からはじまる。ところどころで誰かが死ぬという、割とシビアな展開でもある。前向きな部分と死に対して冷徹な部分とがあり、揺らぎながら物語が進むところにリアリティがある。
 魔女は残酷で子供が大嫌いという設定が面白い。アンジェリーナ・ジョリーの「マレフィセント」と正反対のような設定だ。アン・ハサウェイが登場してからは、アメリカのTVシリーズ「Tom & Jerry」みたいな感じで物語が展開する。ホテルで出会った少年ブルーノの両親は魔女と同じくらい子供に冷淡で、これも典型的な人物造形だ。
 ホテルの大魔女の部屋が666号室であるのが示唆的である。ご存じない方のために説明すると、聖書の「ヨハネ黙示録」第13章に「思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間を指すものである。そして、その数字は六百六十六である」と書かれてある。大魔女の部屋は666号室以外にあり得ないのだ。
 ファンタジー映画は必ずしもハッピーエンドとは限らない。本作品は将来かならず訪れる別れを予感させる物語で、無常観みたいなものも感じられる。面白かったし、とても印象に残る映画だった。

映画「サイレント・トーキョー」

2020年12月05日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「サイレント・トーキョー」を観た。
 今年はそうでもなかったようだが、例年のハロウィンの渋谷は、ハロウィンの意味も知らずに集まった若者たちで賑わう。何を主張するでもなく、他人に受けるためにSNSで画像や動画や短い文章を発信する。仲間とつるんで同じ仮装をする者もいれば、ひとりで堂々と仮想を披露する猛者もいる。中にはハメを外して公共の物や他人の物を壊す愚かな人間もいる。渋谷を爆破するならクリスマスではなくハロウィンだろうとよからぬことを考えてしまった。
 さて本作は役名があまり意味をなさない作品である。登場人物は怪しい年配男と怪しい青年、刑事1、刑事2、管理官、平凡な主婦に見える女、テレビマン1、OL1、OL2、それに自衛官1、自衛官2、自衛官1の妻、それに暗愚の総理大臣とすれば事足りる。ネタバレにはならないと思うので書くが、怪しい年配男は自衛官2と、平凡な主婦に見える女は自衛官1の妻とそれぞれ同一人物と思われる。それだけ頭に入れて鑑賞すれば、悩むことなく楽しめると思う。
 刑事1の捜査能力が超人的すぎるのとOL1がアホすぎてややリアリティに欠けるところがあり、刑事1と管理官の過去の出来事や怪しい青年の仕事の内容は明らかにされないままだし、結末が本当はどうだったのか不明のままだ。なんとなく消化不良のもやもや感が残る作品だが、音響や画像処理には迫力があって、作品としての見応えは十分にある。
 特に緊迫した場面での年配男(自衛官2)と自衛官1の妻の会話は、作品を最後まで見ないとその意味がわからないという仕掛けになっていて、思い返してそういうことだったのかと膝を叩く。序盤のテレビマンに対する平凡な主婦に見える女の態度が強引すぎて違和感があるのだが、それも最後になって意味がわかる。
 ネタがわからないままの壮大なイリュージョンを見せられたような印象の映画で、佐藤浩市と石田ゆり子をはじめとする役者陣の熱のこもった演技が危なっかしいショーを必死に支えているように感じた。あとに残るものはないが、楽しめることは楽しめる。
 鶴見辰吾演じる暗愚の宰相はドナルド・トランプと金正恩とアベシンゾウを足したような人物に描かれていて、製作者がそこまで踏み込んだことは評価されるべきだ。ちなみに当方は選挙は毎回投票しているが、安保法制や秘密保護法などの戦争法をすすめた政党や嘘つきの知事に投票したことは一度もない。しかしなるべく渋谷には近寄らないようにしようと思う。

映画「タイトル、拒絶」

2020年12月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「タイトル、拒絶」を観た。
 紳士淑女が決して表に出さない裏の顔がある。性衝動と暴力衝動だ。聖書にこう書かれている「『汝姦淫するなかれ』と言われているが、私はあなた方に言う。情欲を抱いて女を見る者は、心の中で既に姦淫している」(マタイによる福音書第5章)。心の中で云々はともかく、聖書が書かれた紀元1~2世紀頃には既に姦淫が罪だと考えられていたことがわかる。
 聖書には姦淫についてもうひとつの興味深い記述がある。ヨハネによる福音書第8章には次のような一節がある。───イエスがオリブ山で話しているときにパリサイ人や律法学者が女を連れてきて「この女は姦淫をした。モーゼの律法にはこういう女は石で打ち殺せと書かれてある。あなたはどう思うか」とイエスに聞くと、イエスは「あなた方の中で罪のない者がまずこの女に石を投げつけるがいい」と答えた。石を投げつける者はおらず、女を残してみんな去っていった。そしてイエスは女に「私もあなたを罰しない。家に帰りなさい」と言った。
 姦淫は陰茎を膣に挿入する行為のことだから、本番NGのデリヘル嬢の商売は厳密に言えば姦淫に当たらない。売春にも当たらない。従って売春防止法に抵触しないから罰せられることもない。雇っている側は本番NGを客も含めて厳格に周知することで違法スレスレの商売を成り立たせている。だから本作品の女の子たちもかろうじて捕まらずに済んでいるのだ。
 紳士淑女の対極にある登場人物たちは、飾りを捨てて本音をぶつけ合う。彼らに共通する思いは、自分たちの仕事は社会から必要とされているが、世間の評価は最低だということである。中には最低の自分たちを買う客の容貌や振る舞いを嗤う者もいる。目くそ鼻くそを笑うという喩えみたいで見苦しいが、折れそうになる心をなんとか保つのに必死なのだ。中には恨みや妬みや憎悪や軽蔑をノートに書きつけることで精神的な立場を別の世界に置こうとする者もいる。歳だからと割り切って淡々と仕事をこなす者もいる。
 そういう中に社会の底辺を経験していない平凡な女の子が入ったらどう変わるのか、きれいごとを排除して現実的に想定したのが、伊藤沙莉演じるカノウである。デリヘルの面接にリクルートスーツで来た場面は、本人と状況のギャップに笑える。
 ぬるま湯の中で生きてきたカノウにとって、原始的な仕事で大金を稼ぐ彼女たちや脅しと暴力で管理する店長がとても怖いが、就職活動を悉く失敗した彼女には行き場所がない。取り敢えずはここにいるしかないのだ。そしてデリヘル嬢たちや店長の振る舞いを見る。異常な世界だが、これも現実だ。
 ナンバーワンのマヒルを演じた恒松祐里がとてもいい。ずっと笑っている姿が逆にずっと泣いているように見えた。マヒルは泣くかわりに笑うのだ。誰も信じない。何も信じない。少しだけ信じられるものがあるとしたら、それはお金だ。
 妹役のモトーラ世理奈との会話でマヒルの悲しみが分かる。クズの子供を妊娠。病院に行く。そして妹に会い、無心されるままにカネを渡す。実は私は人殺しでもう二人殺していると言ってみる。嘘だよとすぐに否定しながら笑う姿に、報われない女の哀しみがある。妹は姉に何が起きたかを悟るが、慰めたりはしない。「ご愁傷さま」と言って去っていく。
 特殊な世界を描いた作品に見えるが、実はそんなことはない。紳士ヅラ、淑女ヅラしている人々も、一枚仮面を剥がしたら似たようなものだ。性欲があり物欲がある。欲望と打算しかないみたいな世界でも、純粋に男に惚れる女もいる。いいことも悪いこともひっくるめて、世界の縮図のようなデリヘル事務所。面白い作品だった。

映画「ヒトラーに盗られたうさぎ」

2020年12月02日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヒトラーに盗られたうさぎ」を観た。
 おじさんの懐中時計を受け取ったアンナが静かに嗚咽するシーンが印象に残る。本作品で一番のシーンだ。主人公アンナ・ケンパーを演じたリーバ・クリマロフスキという名前を覚えておきたい。順調にいけば演技派の女優になれると思う。
 映画にはナチスもドイツ軍も登場しないが、強大な権力が個人を追い詰めようとするそこはかとない恐怖感がじわじわと感じられる。行く先々で家族を迎える人々は様々で、スイスではおおらかで親切な大家さんがいて、フランスではケチで差別主義者の管理人や、アンナを平等に扱うフランス語(国語)の教師がいた。住んでいる場所はというと、広大で美しい自然に囲まれたスイスから、人と自動車がひっきりなしに行き交うゴミゴミしたパリの街に変わる。自由で寛容な両親に育てられた賢いアンナは、いい人からも悪い人からも、自然からも都会からも人生を学ぶ。
 フランスに移った当初、アンナは言葉がわからないから何もわからないと言う。その通りだ。言葉が違えば、文化も風習も人間関係も、全部違ってくる。外国生れで日本語ができない日本人よりも、日本生まれで日本語が母国語の外国人のほうが日本社会に受け入れられやすい。言葉は文化そのものだ。アンナは言葉を覚えることで文化を学び、世界を学ぶ。
 いよいよパリを出発する朝の、管理人のおばちゃんと父の会話のシーンがいい。何を話しているのかアンナからは聞こえないが、父にひと言も言い返すことが出来ず、タバコを投げ捨てて不貞腐れたような顔で扉を締めるおばちゃんの様子から、おばちゃんから受けた数々の非礼に対して、父が丁寧にそしてアイロニカルにお礼を言ったのだろうと想像できる。アンナはそれ以上聞かなかった。
 ユダヤ人に故郷はない。あちこちに故郷があると思えばいいと父は言う。人間はもともとボヘミアンだ。今いる場所、それが自分の居場所なのだ。悠久の時間のことを考えれば、人間なんてほんのいっときだけの間借り人に過ぎない。パラパラとめくるマンガのように、人は移動し、時代は移り変わる。アンナは空間を移動し時間を超えてきた。人生はさよならの連続である。
 さて次はイギリスだ。フランス語で苦労したアンナは、今度は英語で苦労することになる。「でも大丈夫!」とアンナは言う。ユダヤ人は迫害される。ましてや父親は反体制の批評家だ。パリの管理人から毎日のように嫌味を言われたり、幼いながらアンナにも亡命の苦労があったのだ。しかし、おかげでピンチを凌げる自信がついた。英語なんか楽勝だ。
 10歳になったアンナは他の10歳よりもずっと大人である。人生にはいいときも悪いときもある。人間の想像力は時空間を自由に行き来できる。作文も書けるし絵も描ける。しかしこれからは、もう悲しい絵は描かない。

映画「バクラウ 地図から消された村」

2020年12月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「バクラウ 地図から消された村」を観た。
 伏線はそこかしこに潜んでいる。村へ至る一本道の途中にある監視塔みたいな小屋には人が詰めていて、村に入る人がいることを無線で知らせる。南米の名もなき村にどうしてそんな歩哨みたいな設備が必要なのか。村に戻ってきた女が口に入れられる薬は何なのか。村人たちが何度も口にする博物館には一体何があるのか。何故村人全員で殺し屋の映画を観ているのか。市長はどうして避けられているのか。
 最後の最後に政治ぐるみの恐るべき観光商売が明らかになるが、それまでの村人たちは何の商売で生きているのか、売春婦と医者以外はよく分からない。セックスシーンが騎乗位ばかりなのは何か意味があるのだろうか。
 序盤は不穏な空気が流れて、村人たちと不安を共有し、中盤は狂気の遊びをする連中の凶暴さと愚劣さを実感し、終盤は村人たちの真の姿を見る。よくできた構成で、容赦ない殺戮シーンに心を顫えさせられる。
 登場人物からナチという台詞が出るシーンがあり、国家主義者同士のマウントの取り合いが演じられる。このあたりは個人主義的な集まりの中でも出自や母国のプライドを捨てきれない精神性の低さがある。一方の村人たちは政治よりも相互的な共同体としての村に重きを置いていて、村の歴史で培われたポテンシャルが終盤に発揮される。見ごたえのあるバイオレンス映画だと言っていい。