映画「フィリップ」を観た。
昔の娼婦は客とキスをしなかったという話を聞いたことがある。映画「プリティ・ウーマン」でも、ジュリア・ロバーツの台詞にそんな文言があった。愛のあるセックスと愛のないセックスなのだろうか。
本作品のフィリップも、挿入している最中に、女がキスを求めてくるのに対して、その口を手で塞いでしまう。それは自分の情が移ることよりも、女の情が自分に移ることを避けているのかもしれない。俺は男娼じゃないという台詞は、お前は娼婦だという侮蔑の裏返しだろう。このセックスは愛ではなくて欲望なのだと、そういう意味だ。
恋人サラとやたらにキスをしていたフィリップだが、ナチに家族とサラを殺されたあとは、誰ともキスをしていない。しかし知的な女性リザには、思わずキスをしてしまう。観客はフィリップが恋に落ちたことを理解する。
百戦錬磨のフィリップだ。様々な言葉と態度で、リザを揺さぶり、翻弄する。うぶなリザはたちまち恋に落ちる。
舞台は1943年のフランクフルト。戦時下の恋だ。ナチスの差別と権威主義と暴力と弾圧、要するにヒトラーの狂気がヨーロッパの人権を蹂躙する。恋を成就させるには、逃げるしかない。
生き延びるために出自を隠し、狂気にへつらう。ひたすら耐えてきたフィリップだが、耐え難い出来事が起こってしまう。フィリップは恋とリザの安全を天秤にかけた。
恋と戦争のテーマは昔からある。しかしフィリップのような立ち位置の主人公は、とてもユニークだ。あっさりとしたラストだが、濃い余韻が残る。
映画「違国日記」を観た。
人間関係におけるパターナリズムは、立場の強い人間が、お前のためだと言って立場の弱い人間に強制したり介入したりすることだ。かつてのスポ根ドラマで、指導教官や監督が生徒を殴ったり、丸坊主にしたりするのは、独善と権威主義のハイブリッドで、非常にたちの悪い精神性である。「その口の利き方はなんだ」と怒鳴るのは、自分が上で相手が下だという上下関係の意識、つまり権威主義が根底にある。
ただ、親子の関係は、もっと複雑になる。親には子供の安全や健康を守る義務、成長させる義務、教育を受けさせる義務などが課せられている。過保護からネグレクトまで、親の態度の振り幅はかなり広い。
つまり親は、パターナリズムに陥らないように自省しながら、子供の行動を制限したり、ときには強制しつつ、一方では親としての義務を果たさなければならず、そのバランスが難しい。
パターナリズムの被害に遭った人は、たくさんいると思う。被害を与えた側は忘れてしまうことがあっても、受けた側は決して忘れない。パターナリズムに遭った経験は、人格の危機である。決して許すことはできない。
新垣結衣が演じたマキオがパターナリズムの被害を忘れず、決して許さないのは当然だ。独善主義の権威主義者は、自身の人格が破綻していることに気づかないまま、他人の人格を壊そうとする。ヒトラーも東條英機も安倍晋三もそうだった。なるべく関わらないほうがいい人物であり、決して共同体の指導者にしてはいけない人物だが、いかんせん、こういう人物は世に溢れている。常に見極めることが大事で、マキオが嫌悪し続けたように、我々もそういう人物を嫌悪しつづける必要がある。いちばん大事な教育は、パターナリズムに負けない精神性を教えることだ。
マキオはアサに上手に伝えることが出来たと思う。アサはまだ理解できないが、言葉は覚えているだろう。いつかパターナリズムの被害に遭いそうになったとき、マキオの言葉を思い出して、危機を回避できるかもしれない。
アサの子供っぽいこだわりを聞いて、マキオは「面倒くさ」と吐き捨てる。子供ながらの独善を本人に気づかせると同時に、ひと言で否定してみせる。アサは他人の人権を意識しはじめる。別の言い方をすれば、思いやりを知ることができた。パターナリズムの母親から自由人のマキオに保護者が変わったことで、アサの人生が変わったのである。
では、マキオの方はどうか。夏帆が演じた友人は「エポックだね」と言う。フランス語で時代とか、変わり目を意味する言葉だ。ベル・エポックというと、いい時代ということになる。同じ名前の美味しいシャンパンがある。ヘミングウェイとダリがパリにいた時代も、そう呼ばれる。アサとの暮らしは、マキオにとってもベル・エポックとなったはずだ。
ところで、新垣結衣の箸の使い方がとても美しいことに気づいた人は多いと思う。箸は正しい持ち方をすることで、効率よく使うことができる。言葉も同じだ。マキオの言葉からは独善が排除され、思いやりと率直さがある。晴れやかな映画だった。
映画「蛇の道」を観た。
柴咲コウが演じる精神科医の真意がどこにあるのか、あれこれ考えながら鑑賞することになる。もしかしたら、異国で精神のバランスを保つために、見境なく人を殺すシリアルキラーなのか、そのために患者の復讐に手を貸したのか、などと考えもした。終盤で真相が明らかになってくると、その推理も、強ち間違いではなかったことがわかる。
本作品のいくつかの特徴は、黒沢清監督の過去の作品に通じるところがある。
絶対的な悪意は「クリーピー 偽りの隣人」(2016年)
ある意味、奇想天外なストーリーは「散歩する侵略者」(2017年)
異国文化との微妙なふれあいは「旅のおわり世界のはじまり」(2019年)
主人公の思惑が最終盤まで明らかにならないところは「スパイの妻」(2020年)
考えてみれば、本作品は1998年の第一作目の「蛇の道」のリメイクだ。黒澤監督の世界観やら映画の手法やら、いろいろな要素が詰まっているのは当然のことだが、その詰まり具合が丁度よくて、物語の進行を邪魔しない程度に世界が膨らむ。
柴咲コウはすっかり中性的な感じになった。美人がコケットリーを削ぎ落とすと、近寄りがたい孤高の存在になる。主人公サヨコの精神性は如何なるものか。黒沢監督は、本作品では人間の心の闇に踏み込もうとしている。覗きたい気もするが、恐ろしくもある。
映画「骨を掘る男」を観た。
「私は戦没者に対する最大の慰霊は、二度と戦争を起こさせないことだと思っています」
本作品の内容は、具志堅隆松さんの言葉に集約される。戦争をしないでもなく、起こさないでもなく、起こさせないという言い方に、具志堅さんの並々ならぬ覚悟がうかがえる。
具志堅さんは、壕(ごう)やガマを掘る。そこに戦没者の遺骨が埋まっているかもしれないからだ。
土の中に埋まった戦没者の遺骨は、前腕部の橈骨や尺骨が折れていたり、大腿骨が砕けていたりする。中には前腕部はあるのに、手の骨が見当たらない場合もある。具志堅さんの推測は、手榴弾だ。両手で手榴弾を抱いて、胸に押し当てて自決するシーンは、沖縄戦を扱った映画で、何度か観た記憶がある。具志堅さんによれば、自決したのではない、追い込まれて自決させられたのだ。
今年の正月2日に、沖縄戦で象徴的な2つのガマを見てきた。チビチリガマとシムクガマである。集団自決したガマと、全員が助かったガマだ。
集団自決のチビチリガマの正面には、大きなガジュマルの木があって、周辺には祈っている小さな像がいくつも置かれていた。犠牲者の名前を彫った石版や、板に書かれた「チビチリガマの歌」という歌碑があった。ガマの入口には千羽鶴が吊るされ、立入禁止の看板がある。1月2日ということもあって、誰もいなかった。
戦没者の名前を読み上げる活動があるのは、本作品で初めて知った。3年前からの取り組みだそうだ。人は人に名前をつける。名前は愛着を生み、触れ合うことで心が豊かになるが、失ったときの悲しみは大きくなる。人々は確かに生きていた。名前を読むことで、生きていたときの温かみが甦る気がする。
読んだ中には、沖縄人だけでなく、本土の兵隊の名前、朝鮮半島の人々の名前もあった。アメリカ兵の名前の中には、フランス人やイタリア人の名前もある。それらの名前の人々の多くは、まだ骨が見つかっていない。
遺骨が埋まっているかもしれない土を、辺野古の埋め立てに使ってほしくない。具志堅さんの主張はもっともだ。デニー知事は理解して、なんとか阻止しようとするが、土地の持ち主と国との取引は自由であり、県知事の権限が届かない。防衛省が国民から吸い上げた税金を使って地主と裏取引をしたであろうことは、想像に難くない。
演説する具志堅さんの後ろを右翼の街宣車が通る。そして大音量で何かを怒鳴っている。もちろん具志堅さんは、愚かな右翼など相手にしないが、そういう連中が一定の支持を得ていたり、裏で政治家と結んでいたりすることが許せない。それは再び戦争を起こす勢力だからだ。
EUでは極右政党が議席を伸ばしている。危機感を覚えたフランスのマクロン大統領は、下院を解散して総選挙に打って出た。場合によってはフランス国内の極右勢力が躍進するかもしれない。危険な賭けだが、国民の良心に賭けたといっていい。
日本の右翼も、ヨーロッパの極右も、自分たちの税金が困っている人たちのために使われることが許せない。幼稚で不寛容な精神性である。それは戦争を起こす精神性でもある。具志堅さんの危機感が、押し寄せるように響いてきた。
映画「HOW TO BLOW UP A PIPELINE」を観た。
かなり面白かった。石油パイプラインの爆破計画が着々と進む中で、参加者それぞれの事情が明かされていく。その展開が面白く、しかも緊迫感があって、物語に引き込まれていく。
何の訓練も受けていない素人たちが、石油開発のせいで被害に遭ったり、政府と巨大資本の癒着に怒りを覚えたり、あるいは成り行きだったりという、いろんな理由で集まり、首謀者であるソチの計画を進めていく。
それぞれに覚悟の度合いが違うし失敗もあるが、必死という点では一致している。みんなが一生懸命に役割を果たすことで、荒唐無稽に思われた計画が、現実性を帯びてくる。もしかしたら、本当に成功するのか。カネもない、技術もない、しかし考える時間だけはある。だったら、チャンスはある。
素人たちの描写がリアルで、もしかしたら自分にも出来るのではないかと思わせるほどだ。本作品について、テロを助長するとFBIが警告を出したのも頷ける。作品の中でFBIがとんだ間抜け扱いをされているのも、警告を出した理由のひとつかもしれない。FBIも日本の警察と似たようなレベルで、市民の安全よりも警察の威信を大事にする。
物語が進むにつれて、計画は徐々に明らかになっていくが、本当の目的と計画のコアな部分が明らかになるのは、最終盤である。ソチの頭のよさに、快哉を叫びたくなる。仲間に対して冷徹に見えたソチが、実は一番仲間の安全を考えていた訳だ。頭脳明晰な彼女にとっては、計画は爆破だけでなく、準備から後始末までのすべてが計画だったのだ。
俳優陣はいずれも素晴らしく、土埃が眼前に漂ってくるような映像も見事だし、劇伴もいい。上映館が少ないのがもったいないと思えるほど、よく出来た作品である。
映画「左手に気をつけろ」を観た。
犬笛は、特定の動物だけに聞こえる周波数を出す笛で、人間に聞こえず、目的の動物だけに聞
かせて、呼び寄せたり、指示をしたりする。
本作品には、犬笛と似たような、こども警察を呼び寄せる笛が登場する。子供を殺すのが好きな人にとっては、魔法の道具だろう。鎌や斧、鉄筋といった武器を用意して笛を吹けば、親や保母といった責任者の管理から離脱した子供たちが集まってくる。殺し放題だ。
そんな不埒な想像をしながら鑑賞したが、シリアルキラーは登場せず、子供たちは無傷でいられる。元々、ほのぼの、のんびりした作品で、コロナ禍が我々の日常に何をもたらしたのかを、象徴的な映像で問いかける。
こども警察はマスク警察の比喩で、政府のプロパガンダに踊らされて、マスクをしていない他人を咎めた人々の愚かな姿である。
日本の警察は一般に民事不介入を言い訳にして、ストーカーなどにも対応しなかった。被害が出たら、刑事事件として対応するという姿勢であり、ストーカー事件の場合は、被害が出たのはイコール被害者が殺されたという訳で、多くの場合、警察の無策が非難されている。
マスク警察は、警察と逆で、被害がないのに相手を攻撃する。それもわからないでもない。自動車の無謀運転をする人間は大変危険であり、取り締まらなければならない。そのために道路交通法が定められている。しかしマスクをしない人間が危険かというと、それは一方的な思い込みに過ぎない。まだ何も断定されておらず、道路交通法のようなマスク義務法みたいな法律は存在しない。マスク警察には、他人を取り締まる根拠も権限もないのだ。
こども警察の比喩は、マスク警察にとどまらず、不倫警察やヘイトにまで及んでいると思う。他人の不倫を咎めたり、税金で補助されている外国人や生活保護の受給者まで、攻撃の対象にしてしまう、世間という怪物が、我々の日常から自由を奪おうとしている訳だ。
LGBTだけでなく、特定の特徴を持つ人々をカテゴライズし、差別する風潮に対して、危機感を示しているのが本作品である。
このところ、なんとなく世の中が不自由になっていると、じわじわと感じている人もいるだろう。被害を受けてもいないのに他人を非難したり、誹謗中傷の罵詈讒謗を浴びせかけるネット住民や、立場の弱い店員などに対して怒鳴り散らす高齢者の姿をときどき見かける。権威主義のパラダイムは、全体主義に直結するものだ。本作品は、戦争前夜みたいな嫌な予感を、穏やかな物語にしてみせたものだと思う。
映画「だれかが歌ってる」を観た。
一年に一度「あの素晴しい歌をもう一度」と題したコンサートが東京で催されている。2019年は日本武道館で開催され、2020年はコロナ禍で中止、2021年からは東京国際フォーラムホールAで行なわれている。タイトルはもちろん「あの素晴しい愛をもう一度」という歌に因んでいる。北山修が作詞し、2009年に首吊り自殺した加藤和彦が作曲した昭和の曲だ。キーとなるフレーズは次の一節である。
あの時同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が今はもう通わない
あの素晴しい愛をもう一度
昭和の歌には、毎年同じ時期に同じ星を眺めようと約束したといった、情緒あふれる歌詞がある。携帯電話がなかった時代だからだろうか。ひとたび離れ離れになったら、たとえ同じ日本に生きていても、再び巡り合うのは難しい。
本作品には、昭和の哀愁のようなものが感じられる。行き違い、すれ違い、そして誤解といった、人間関係の齟齬に対比して、同じハミングが聞こえる他人同士という共感の設定がある。今生の別れと再会というドラマを単純化して象徴化すると、こんな映像になるのかもしれない。
出逢いと別れと、再びの出逢い、それに思いやり。同じ絵を見て感動する人は、同じ花を見て感動する人だ。感動の共有は、同じ時間と空間を生きているという共生感の共有でもある。一緒にいることが幸せ。スマホ世代の観客には、この世界観は伝わらないかもしれない。
映画「オールド・フォックス」を観た。
社長のことを中国語で老板(ラオパン)という。社長のシャは漢字だと一般的には謝だろう。謝はピンインだとxieだから、シャよりもシェに近い。字幕がシャだったのは、日本の音読みに従ったのだろう。
謝老板の思想は単純だ。人間は勝ち組と負け組に分かれる。カネを儲けた人間が勝ち組で、勝ち組に使われて僅かなカネで細々と生きているのが負け組だ。他人のことを気にかけていては、金持ちになれない。他人を踏み台にして儲けるのが勝ち組だ。
他人を踏み台にするには、力が必要である。力は腕力だけではない。カネそのものが力であるのに加えて、情報も力となる。他人のことは気にかけないが、人の気持は読まなければならない。それも情報のひとつだからだ。
人の気持ちを読み、操る。世の中は不平等(プーピンダン)だ。人の不幸の上に勝ち組がいる。強い者といると上がっていくが、弱い者といると落ちていくと洗脳する。だから自分に従っていれば大丈夫なのだ。
金持ちの謝老板を紹介する一方で、カネに人生を左右される庶民の姿を描くことも忘れない。カネを得て喜ぶ人はカネを失って泣く。庶民は毎日のカネに汲々として生きている。しかしカネのこと以外にも、日々の小さな喜びがある。
リャオジエの父親はレストランのホール係だ。客の名前と顔を覚えて、予約の状況まで把握している。客から信頼されているのは、仕事のやりがいでもある。美しい思い出もある。思い出の蓄音機は、レコードの柔らかい音を流してくれる。古いサキソフォンは、音は濁っているが、それなりの味がある。
11歳のリャオジエにとって、父親はいい人だが、地味に映る。スポーツカーや運転手付きのロールスロイスに乗る謝老板は、派手で立派に見える。比較すれば謝老板に憧れてしまうのは、子供なら仕方のないところだ。実は謝老板にもたくさんの苦悩があり、父親にはたくさんの楽しみがあることを、リャオジエはまだ知らない。
思うようにならないのが人生だ。他人の不幸を乗り越えて幸運を掴んでも虚しいばかりだということを、謝老板は決して語らない。それは自分の人生そのものを否定することになるからだ。老板は裕福だ。しかし心は自転車操業なのである。
よく出来た作品だが、比喩的なシーンが多くて、頭をフル回転させながらの鑑賞となった。台湾語の響きがとても美しい。台湾語のニュアンスがわかれば、登場人物の機微がもっとわかったかもしれない。
真下飛泉 作詞
三善和気 作曲
ここはお国を何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下
思えば悲し昨日まで
真っ先駆けて突進し
敵を散々懲らしたる
勇士はここに眠れるか
ああ戦いの最中に
隣に居ったこの友の
俄かにハタと倒れしを
我は思わず駆け寄りて
軍律きびしき仲なれど
これが見捨てておかりょうか
『しっかりせよ』と抱き起こし
仮包帯も弾丸の中
折から起こる突貫に
友はようよう顏上げて
『お国のためだ構わずに
遅れてくれな』と目に涙
あとに心は残れども
残しちゃならぬこの身体
『それじゃ行くよ』と別れたが
永遠の別れとなったのか
戦いすんで日が暮れて
探しに戻る心では
どうぞ生きていてくれよ
物なと言えと願うたに
空しく冷えて魂は
お国へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いているも情けなや
思えば去年船出して
お国が見えずなった時
玄界灘に手を握り
名を名乗ったが初めてに
それよりのちは一本の
煙草も二人分けて喫み
着いた手紙も見せ合うて
身の上話繰り返し
肩を抱いては口癖に
どうせ命は無いものよ
死んだら骨を頼むぞと
言い交わしたる二人仲
思いもよらず我ひとり
不思議に命長ろうて
赤い夕日の満州に
友の塚穴掘ろうとは
隈なく晴れた月今宵
心しみじみ筆執って
友の最後をこまごまと
親御へ送るこの手紙
筆の運びは拙いが
行燈の影で親たちの
読まるる心思いやり
思わず落とすひと雫
映画「あんのこと」を観た。
2022年の邦画「遠いところ」と同じく、救いのない若い娘が主人公だ。同じように、社会背景が描かれる。
2023年の邦画「ロストケア」にも似ている。松山ケンイチが演じた主人公の介護士は、世の中はバケツみたいで、たくさんの穴が空いている。貧乏人や病人は、その穴から必ず落とされるという、切実な世界観を展開する。
本作品も同じだが、ふたつの印象的なシーンがある。ひとつは、生活保護の担当者に対して、佐藤二朗が演じた刑事が「困っている人を助けるのが、俺たち公務員の仕事だろうが」と怒鳴るシーンだ。予告編でも流れていた。
もうひとつは、主人公のあんがベランダに出ようとしたときに、上空で自衛隊のブルーインパルスが編隊飛行をするのが映し出されたシーンである。飛行機雲を見て勇気づけられたという人もいたが、迷惑だという人もいた。少なくとも、あんの心には何も響かなかったようだ。かなりの爆音で飛んでいたのに、空を見上げもしなかった。
生活保護は出し渋るが、ブルーインパルスの政治利用には惜しみなく金を使う。困っている人を助けないのが、この国の政治だということが象徴されたシーンだと思う。ブルーインパルスは何も救えない。
何も救えない政治が、幅広い支持を得ている。国政も地方自治も同じだ。東京都では、学歴を詐称し、外苑前の並木を切り倒す老女が、ずっとダントツの得票率で知事を続けてきた。今年(2024年)の選挙も同じ結果なら、これからも困っている人は助けられないだろう。あんのような娘がこれからも生み出されていく。
外面(そとづら)はいいが、困っている人を助ける気はないというこの国の人間の本質が、今後も描かれ続けることになる。それはあんの母親の精神性と同じである。いまだけよければ、自分さえよければ、それでいいのだ。
似たような映画が作り続けられることは、この国の危機を示していると思う。有権者に多少なりとも危機感が残っていれば、緑の老婆が再び当選することはありえない。