徳川家康は織田家の内輪もめをのうちに、尾張半国を手中にして
更に清洲も落とさんと狙ったが、さすがに守りは固く諦めた
だが手に入れた知多半島、渥美半島には昔からの徳川と親しい海賊衆がいる
それを使って伊勢長島と伊勢に軍を送り込んで滝川一益を挟撃した
滝川はたまらず清洲の信孝と大和の筒井に援軍を要請した
しかし信孝は清洲と伊勢の通路も徳川軍に押さえられているし
清洲から兵を出せば守りが薄くなって自分の方が危うくなるので援軍を出せない
筒井は徳川と織田の力関係を計りかねて兵を出し渋っていた
そんな中、伊賀から蒲生氏郷が5000の兵を引き連れて伊勢を救援に来た
感激した滝川一益は勇気100倍となって、徳川軍を撃退した
しかし伊勢長島は徳川軍が占領して橋頭堡を構築してしまった
長島は川と水路が複雑に交差して大軍に守られると攻め落とすことが難しい
滝川単独ではとても無理なのであきらめた、こうして三河から伊勢湾岸北部まで
徳川が占領した
ここを押さえてしまえば美濃、尾張、伊勢どこへ行くにも便利である
まさに徳川は要の要地を押さえたのである
信忠の安土城天守閣工事は遅々として進まない。 ところが半年前から秀吉が着手した摂津の城は着々と出来てきた
それは信長と10年にわたって戦った末に退いた石山本願寺の跡地に建てている城である、秀吉は浪速城と呼んでいる
本来は主君の織田信忠の許しを得るべきだが報告すらしていない秀吉であった
今や内緒であるが毛利を味方に引き込み、四国、淡路、備前、播磨、摂津、山城、丹波、河内、越前、近江長浜まで
直轄領と与力大名で固めた秀吉の支配地は実に400万石前後に拡大していた
毛利の助けが無くとも10万の兵をたやすく動員できる力を持ったのだ、これは信忠と信孝の領地を合わせたよりも多い
徳川家康もまた駿、遠、三、尾張半国、信濃の七割、甲州、北伊勢を支配下に置いて250万石ほどに広がっている
しかも背後には親戚となった300万石を誇る北条氏が控えている、これに北陸、越後を抑えた上杉景勝でほぼ中央は固まった
その上杉にも秀吉は誘いの手を打っていた、同盟して徳川、北条に当たろうという誘いである
さすがに織田を倒そうとまでは言わない、だが上杉の参謀直江兼続には秀吉の意図がよく分かる、心は秀吉に傾いている
四国から長宗我部が消えて地方の有力大名は九州に島津、龍造寺、大友
関東に佐竹、奥州には芦名、伊達、最上、南部、九戸といったところだ
九州では島津と龍造寺が戦い勝者が九州全土を手にするだろう、その後は毛利との対決か安定か?
奥州は動きが鈍く統一は遠い、いずれ中央の覇者に飲み込まれる運命となるだろう
信忠に呼び寄せられて安土城に駐屯している丹羽長秀も頭を悩ませている
信長から「米の五郎左」と言われたほど勘定を任せられる堅実な武将である
きまじめで冷静な大人の風格を持つ
柴田勝家と共に古くから織田家に仕えた老臣だ、年齢も信長とほぼ同じだから
まさに信長一筋で仕えてきた人なのだ
しかしこの頃は(どうもいかん!)なのである、なにがいかんのかといえば
信忠、信雄、信孝の年長の三兄弟の仲が悪すぎる。 信忠を中心にして力を合わせれば織田家は安泰だったはず
ところが信忠の命で信孝が信雄を攻めて、恐れた信雄は徳川家康を頼りに遁走した、それが原因で徳川と戦争になり三河全土と北伊勢を取られた
しかも信孝と信忠の仲も険悪になり出した、信忠の戦は全く計画性に欠けている
上杉にも徳川にも手玉に取られているとしか見えない
大事な功臣が次々に戦死した、池田勝入、森長可、柴田勝家、佐久間盛政、佐々成政たちである
唯一、羽柴秀吉だけが四国を制圧し、上杉が占領した越前を取り返した、今や織田家と羽柴家がひっくり返ったような気がしている長秀である
安土に信忠がいたときには幾度も諫言したが聞こうとせず煙たがるばかりだった
今は岐阜に行ったきり閉じこもつてしまった
これでは織田家の先が見えない、どうして良いか途方に暮れている、前田も島も信忠を見限ったのか尾張から去っていった
そんなある日、秀吉がわずかな家来だけ連れてふらりと訪ねてきたのだ
「丹羽様、今は危急の時でござる、織田家の危機でござる
こんな時こそ多くの兵を養うが肝要かと」
「いかにも申すとおりじゃ、だがわしは若狭の兵があるだけじゃ」
「丹羽様ほどの功臣を若狭一国で放っておく信忠様の気が知れぬ、いかがでありましょうか、わしが治めておる越前70万石もお頼みしたいと思うが?」
「..なんと!」
丹羽長秀は絶句した、越前を得れば一気に4倍の領土100万石の大身となる
