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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

光秀謀反の本能寺なーんちゃって㉛

2021年03月24日 16時20分56秒 | 光秀の本能寺
*これは歴史上の出来事をベースにして書いたフィクションです

長久手では秀吉の甥、羽柴秀次の大敗北があったが
織田長益が犬山城を陥し、織田信雄不在の岐阜城も羽柴秀長が包囲しているなど全戦線で、大軍の羽柴勢が押し気味に戦っている
徳川家康にも焦りが見えてきた、こちらから積極的に動くことができない
敵は並の者ではない、織田家にとって代わる勢いの羽柴秀吉なのだ
そんな家康に追い打ちをかける情報が入ってきた
上杉景勝と真田昌幸の軍が松本城(深志城)の徳川方、小笠原氏を攻めているとの情報だった
家康以上に動揺したのは織田信雄だった、いざとなれば家康は本国三河に戻れば良いが、信雄は本拠の岐阜城に入れない
優柔不断な信雄は暴挙に出た、なんと!同盟者の家康に相談せず、直接秀吉に講和を持ちかけたのだ
秀吉は信雄などいつでもどうにもできると踏んで承諾した
いよいよ家康は窮地に追い込まれた、ここは決戦か退却かの分かれ道だ

ところが秀吉軍でも簡単に攻撃できない事情が起きていた
まずは陣中にて大和の太守、筒井順慶が急死した、更にあろう事か織田家全体に影響する越前100万石の丹羽長秀も死んだ
それだけでは終わらない、秀吉の養子、信長の四男羽柴秀勝が重態に陥った
池田家の当主、池田元助も長久手で戦死したし、さすがの秀吉もこれ以上戦争を続ける気力を失った
そしてどちらからとも無く、戦場からの引き上げが始まった
織田信雄だけが小牧城に取り残された形になった

小牧の戦は2ヶ月にも及んだが、なんともあっけない幕切れとなった
もともと秀吉と家康は、信長のもとでの戦友であった、それも秀吉と柴田勝家のように憎み合っているわけでもなかった
どちらかと言えば互いの力量を認め合ってきた感はある、それは互いに尊敬しあっていると言っても良い
今度の戦いも織田信雄に泣きつかれた家康が男気で味方しただけの事、秀吉も信雄を懲らしめようとしたところに家康が出てきた感じである
しばらくは両者の戦争は起こらないであろう
それにしても気の毒なのは池田勝入とその婿、森長可の一族であった
まずは長可の父、森可成が戦死、続いて本能寺で信長に小姓として仕えていた森可成の2男森蘭丸から4男までの3人が討ち死に
それから池田勝入が明智光秀との戦闘で討ち死に、森長可も討ち死に、さらに今度は長久手で池田元助までもが討ち死にした
残ったのは池田輝政と森家の末弟だけという有様であった、秀吉はこれを気の毒に思い戦後に二人の家名存続に気を使った

羽柴秀勝は看病の甲斐もなくついに亡くなった
秀吉はさすがに気落ちしてしまった、だが戦後処理はしっかりとやらなければならない、これまでは織田家に少しは遠慮していたが
今や羽柴秀吉が畿内、中部東海北陸の覇者と誰もが認める存在になっていた
秀吉は盛大に秀勝の葬儀を執り行った、秀吉に従う大名たちは争って葬儀に参列した、そして朝廷からも公家が遣わされた
また遠く中国の毛利、九州の大友、伊東、薩摩の島津からも弔文が届いた
北からも伊達、真田、佐竹などからも弔文、そして上杉景勝の重臣が名代で参列した

誰もが驚いたのは昨日の敵、徳川からも重臣中の重臣石川数正が参列したことである
秀吉はこれを讃えて近習に言った
「家康こそ真の武士である、戦場にあって全力を尽くし、戦場を離れれば花を愛でる心がある、今後はともに手を携えていく相手であろう」
しかし関東の覇者、北条家はなしのつぶてであった
秀吉は(いずれ北条を叩き潰す)と心に決めた

しばらく時が過ぎると、秀吉に活力が戻った
そしてすごいエネルギーで仕事を始めた、まずは朝廷の帝から女官まで金銀を献上し、内裏の補修を行った
これに感激した帝は関白を使い秀吉を招き、従三位の官位を授けた、また弟の秀長にも従五位を授けた

それから秀吉はこの一年二年の近江から伊勢、尾張、美濃の騒乱に対する論功行賞を行い、大々的な領地安堵、加増、移封、減封を行った
すでに秀吉に臣従を誓っていた上杉景勝には本領越後の他、越中、信濃川中島から仁科、松本まで、更に北上野の100万石の現有安堵と佐渡、庄内の切り取り自由を許した
前田利家には加賀一国35万石、蒲生氏郷には伊勢、南近江合わせて55万石、弟の羽柴秀長には大和、伊賀、河内、山城85万石
池田輝政に摂津30万石、織田長益には美濃で60万石を与え、三法師を預けて守役とした

外様の毛利は秀吉を嫌っていた吉川元春が亡くなり、友好的な小早川隆景が甥の毛利輝元を支えていた
毛利には備中以西の西国と四国の伊予、讃岐合わせて120万石を安堵した
以後、毛利と秀吉はより友好関係を結び秀吉を支えることを誓った
四国の土佐20万石は秀長預かりとしていた長曾我部元親にあらためて与えた、元親は感涙の涙を流して秀吉に忠誠を誓った
隣の阿波18万石は秀吉が放浪した少年時代に仲間に入れて育ててくれた蜂須賀小六を大名として取り立てた

尾張60万石は加藤清正、福島正則、加藤嘉明、山内一豊など近習に10万石程度ずつ分け与えて大名に取り立てた
細川幽斎、忠興親子は忠興が明智光秀の娘、珠子を奥方にしていることで秀吉に引け目を感じていた
しかし秀吉は実直で豪胆なこの親子を評価して丹後、若狭合わせて20万石を与えた
長久手で大恥をかいた甥の秀次にも丹波26万石を与えてきつく申し付けた
肉親が少ない秀吉にとって愚かであっても情は切ることができなかったのだ

そして秀吉は多くの財を得る立場となり、朝廷に対してより貢献を深めた
そのため帝は大いに喜び秀吉に官位を与えることを惜しむことが無くなった
秀吉は有り余る財力でついに信長を悩ました本願寺門徒の城跡地に大坂城を完成させた、信長が建てた安土城をはるかに超える大きな城であった
そして京の都に別邸として華やかな聚楽第を建築した、ここに秀吉の趣味ともいえる高家の姫たちを妾妻として集めた
織田信長、前田利家、蒲生氏郷などの名家の姫たちである、その筆頭は京極の竜子であったが、信長の姪でお市の方の娘である茶々もここに加わった

だが茶々こそ気位と誇り高い娘であった、秀吉に媚びることもなく従うこともなく思うままに暮らしていた
秀吉も茶々だけは腫れ物に触るように一歩下がった扱いをした、南蛮渡来の美しいガラス玉や豪華な美しい着物などを与えた
秀吉は50歳近くになっていた、当時としては初老の域に達したことになる
茶々の気高さは信長とお市の影をときおり秀吉に見せつけた、秀吉が扱いづらいこの世にただ一人の女であった

信長の関係者で秀吉が対処すべき者が、もう一人いた
織田信雄は秀吉の元を訪れた時、「筑前、わしの負けじゃ、尾張、美濃、伊勢を所望したがあきらめよう、尾張一国で我慢しよう」と言った
秀吉はこれを恫喝した「信雄!いつまで主気取りでいるか! 世間を見て見よ、お前とわしは立場が逆になったことに気づかぬか
もはや尾張一国もやれぬ、大垣にて15万石を与える故、叔父の長益殿に仕えよ
不満あるならいつでも兵をあげても良いぞ」
これほど恐ろしい秀吉を信雄は初めて知った、慌てて秀吉にひれ伏した
「これにて存分でござります」