神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

光秀謀反の本能寺なーんちゃって㉔

2021年03月07日 20時23分49秒 | 光秀の本能寺
徳川家康は織田家の内輪もめをのうちに、尾張半国を手中にして
更に清洲も落とさんと狙ったが、さすがに守りは固く諦めた
だが手に入れた知多半島、渥美半島には昔からの徳川と親しい海賊衆がいる
それを使って伊勢長島と伊勢に軍を送り込んで滝川一益を挟撃した
滝川はたまらず清洲の信孝と大和の筒井に援軍を要請した
しかし信孝は清洲と伊勢の通路も徳川軍に押さえられているし
清洲から兵を出せば守りが薄くなって自分の方が危うくなるので援軍を出せない
筒井は徳川と織田の力関係を計りかねて兵を出し渋っていた
そんな中、伊賀から蒲生氏郷が5000の兵を引き連れて伊勢を救援に来た
感激した滝川一益は勇気100倍となって、徳川軍を撃退した
しかし伊勢長島は徳川軍が占領して橋頭堡を構築してしまった
長島は川と水路が複雑に交差して大軍に守られると攻め落とすことが難しい
滝川単独ではとても無理なのであきらめた、こうして三河から伊勢湾岸北部まで
徳川が占領した
ここを押さえてしまえば美濃、尾張、伊勢どこへ行くにも便利である
まさに徳川は要の要地を押さえたのである

信忠の安土城天守閣工事は遅々として進まない。 ところが半年前から秀吉が着手した摂津の城は着々と出来てきた
それは信長と10年にわたって戦った末に退いた石山本願寺の跡地に建てている城である、秀吉は浪速城と呼んでいる
本来は主君の織田信忠の許しを得るべきだが報告すらしていない秀吉であった
今や内緒であるが毛利を味方に引き込み、四国、淡路、備前、播磨、摂津、山城、丹波、河内、越前、近江長浜まで
直轄領と与力大名で固めた秀吉の支配地は実に400万石前後に拡大していた
毛利の助けが無くとも10万の兵をたやすく動員できる力を持ったのだ、これは信忠と信孝の領地を合わせたよりも多い

徳川家康もまた駿、遠、三、尾張半国、信濃の七割、甲州、北伊勢を支配下に置いて250万石ほどに広がっている
しかも背後には親戚となった300万石を誇る北条氏が控えている、これに北陸、越後を抑えた上杉景勝でほぼ中央は固まった
その上杉にも秀吉は誘いの手を打っていた、同盟して徳川、北条に当たろうという誘いである
さすがに織田を倒そうとまでは言わない、だが上杉の参謀直江兼続には秀吉の意図がよく分かる、心は秀吉に傾いている

四国から長宗我部が消えて地方の有力大名は九州に島津、龍造寺、大友
関東に佐竹、奥州には芦名、伊達、最上、南部、九戸といったところだ
九州では島津と龍造寺が戦い勝者が九州全土を手にするだろう、その後は毛利との対決か安定か?
奥州は動きが鈍く統一は遠い、いずれ中央の覇者に飲み込まれる運命となるだろう

信忠に呼び寄せられて安土城に駐屯している丹羽長秀も頭を悩ませている
信長から「米の五郎左」と言われたほど勘定を任せられる堅実な武将である
きまじめで冷静な大人の風格を持つ
柴田勝家と共に古くから織田家に仕えた老臣だ、年齢も信長とほぼ同じだから
まさに信長一筋で仕えてきた人なのだ
しかしこの頃は(どうもいかん!)なのである、なにがいかんのかといえば
信忠、信雄、信孝の年長の三兄弟の仲が悪すぎる。 信忠を中心にして力を合わせれば織田家は安泰だったはず
ところが信忠の命で信孝が信雄を攻めて、恐れた信雄は徳川家康を頼りに遁走した、それが原因で徳川と戦争になり三河全土と北伊勢を取られた
しかも信孝と信忠の仲も険悪になり出した、信忠の戦は全く計画性に欠けている
上杉にも徳川にも手玉に取られているとしか見えない
大事な功臣が次々に戦死した、池田勝入、森長可、柴田勝家、佐久間盛政、佐々成政たちである
唯一、羽柴秀吉だけが四国を制圧し、上杉が占領した越前を取り返した、今や織田家と羽柴家がひっくり返ったような気がしている長秀である
安土に信忠がいたときには幾度も諫言したが聞こうとせず煙たがるばかりだった
今は岐阜に行ったきり閉じこもつてしまった
これでは織田家の先が見えない、どうして良いか途方に暮れている、前田も島も信忠を見限ったのか尾張から去っていった
そんなある日、秀吉がわずかな家来だけ連れてふらりと訪ねてきたのだ
「丹羽様、今は危急の時でござる、織田家の危機でござる
こんな時こそ多くの兵を養うが肝要かと」
「いかにも申すとおりじゃ、だがわしは若狭の兵があるだけじゃ」
「丹羽様ほどの功臣を若狭一国で放っておく信忠様の気が知れぬ、いかがでありましょうか、わしが治めておる越前70万石もお頼みしたいと思うが?」
「..なんと!」
丹羽長秀は絶句した、越前を得れば一気に4倍の領土100万石の大身となる




光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉓

2021年03月06日 18時56分31秒 | 光秀の本能寺
上杉と一揆が攻め寄せる前に柴田勝家を見捨ててさっさと敦賀に戻った秀吉軍
しかし府中(武生)に前線を置き、鉄砲1000挺で厳重に警備していた
秀吉の本隊は金ケ崎にて戦闘態勢を維持していた、本貫地の近江長浜にも兵を集め、更に配下の丹波衆を小浜に呼び寄せて万全の迎撃態勢を整えた
若狭を本貫としている丹羽長秀は織田信忠に安土城の守備を任されてこの地を留守にしている
結局3日経っても上杉勢は攻め寄せてこなかった、秀吉の元には次々と知らせが入ってきた
秀吉が思ったとおり上杉勢は越前を去って加賀まで退いた、おそらくそのまま直江兼続は越後へ戻るであろう
しかし越前の北部には未だ一向一揆勢がかなりの数で付近を制圧しているとのことであった
秀吉はただちに命令を下した「一揆の者どもを越前から追い払え、だが加賀までは深追いしてはならぬ」
1万の軍勢はたちまち一揆勢を加賀まで追い払った、こうして北陸はとりあえず平穏が訪れた
上杉は越中全土と加賀の東部尾山までを領地として加え、加賀の西部と能登を一向門徒の一揆勢の国として認めた
但し七尾城から阿尾、氷見越中までの海岸線は上杉領とした
越前は全土を秀吉が完全制圧して配下の武将を各城に配置した。 そして秀吉は休むことも忘れて次の行動に移った
(遅かれ早かれ、わしが勝家と市様を見殺しにしたことは織田宗家の耳に入るであろう、しかし信忠は徳川との戦でどうも出来まい
ここで又左《前田利家》と丹羽様を味方に引き込めば織田家の命運は尽きるであろう、信長様には恩を受けたが子供らには義理などない
又左は一も二もなくわしの元に来るであろう、丹羽様はわしと違って義理と恩を忘れぬお方じゃから信忠の失策が必要となろう)

前田利家と秀吉は下級武士の頃から武家長屋で隣同士で暮らした仲だという
秀吉の妻、禰々と利家の妻マツも大の仲良しであった
府中で3万石の大名に取り立てられた利家は信長の命令で柴田勝家の与力(軍団長の配下に属する小大名)となった
しかし柴田勝家は上杉勢に敗れて自害した、利家は徳川攻めの応援で尾張に行っていたので難を逃れた

さて岐阜の織田信忠の心中は複雑であった、徳川家康との戦いであれこれと考える事が多いのに、柴田勝家が討ち死にしてしまった
幸い羽柴秀吉が越前を取り返したのでひとまずは安心したが、越中、加賀、能登を失った
しかし勝家が死んだのは羽柴秀吉の裏切りだという噂も耳に入っている、どういうことなのか? たしかに二人が不仲である事は知っている
それにしても叔母にあたる、お市様まで見捨てられたことになる、それが事実なら秀吉を不問というわけにはいかない
だが徳川との戦が始まった今は秀吉にかまっているわけにはいかない
信忠は何が何だかわからなくなってきた、全てを放り出したい気分であった
そんな時、三河で信孝が敗れたという報せが入った
岡崎城と徳川家康のいる浜松城を分断しようと迂回させた滝川一益の8000の部隊が、徳川の新進気鋭の若武者井伊直政と無敵の本多忠勝の部隊に
急襲されて壊滅状態になったというのだ、滝川一益は、ほうほうの体で信孝の元に逃げ帰ってきた
織田信孝は怒った、そして力攻めで何が何でも岡崎城を攻め落とすと言って、多くの犠牲を払ってついに二の丸まで攻め寄せた

ところがあろうことか宗家の織田信忠が弱気になったのか?徳川家康に和議の使者を送ったという
驚いたのは織田信孝であった、あと一息で岡崎城を攻め落として三河を制圧するところまできたのに頭越しに和議とは!
同様に徳川攻めに参加している織田家の武将たちも驚いた、重臣にさえ相談せずに信忠が徳川と和議交渉を始めたのだ
まず最初に動いたのは島左近であった、左近は今やかっての主君であった筒井順慶に並ぶほどの大名になっていたが失踪した
織田信忠を見限ってひとりでいずこかに消えてしまったのだ
そしてなぜか忠義に厚いはずの前田利家も3000の兵を率いて戦場を離脱して長浜に向かって行った

徳川家康は織田家に乱れが生じたことを敏感に感じ取った
本多作左衛門、酒井忠次などの老臣たちも「和議などとんでもない、今こそ尾張を攻め取る絶好の機会ですぞ!」
せっかく二の丸まで攻め込んだ信孝勢も滝川の敗北、信忠の愚かな行為に失望して一気に戦意が消えてしまった
それを見透かしたように岡崎城将の鳥井元忠はここぞと逆に攻めかかった、同時に外からは援軍の石川数正の本隊が攻め寄せた
織田勢はたまらず逃げ出した、そして安城城も置き去りにして清洲城目指して落ちていった
三河から安城、刈谷はもとより大高、鳴海までかって信長が桶狭間で今川義元を討ち取ったラインまで徳川勢が占領したのである
腹の虫が治まらないのは織田信孝であった「信忠め血迷うたか、もはや織田宗家の主の器ではない、わしがとってかわらねば織田家は滅びる」
信孝の敵は徳川ではなく矛先は岐阜の織田信忠にむかった










光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉒

2021年03月05日 19時06分57秒 | 光秀の本能寺
⑯から⑱に飛んだ気がするのですが確認する気力が無いので、まあいいとしておきましょう

で...北陸では柴田勝家が大軍で逆襲に出て、上杉軍の謀将直江兼続軍を高岡城から追い払って追撃中
そこに突然、山の手から思いもしなかった明智光秀の旗が....これには勝家も驚きました
柴田勝家と言う人はいまや織田家になくてはならぬ忠義の老臣、憧れのお市様と結婚して1年、今が幸せの絶頂期
だが過酷な戦場で暮らすことが多くてなかなか、お市様とラブラブと言うわけにはいかない
お市様は言わずと知れた織田信長の妹で美人とされている、政略結婚で近江(滋賀県)小谷城の浅井長政に嫁いで娘3人と長男を産んだ
ところが信長が協定を破って、浅井の同盟者越前朝倉家を攻めたので長政の父浅井久政が怒って織田を攻めた
それで結局、浅井も朝倉も信長に攻め滅ぼされてしまう、そして長男満福丸は伯父さんの信長の命令で殺されてしまう
その命令を受けて串刺しにして殺したのが秀吉の軍であったからお市様は秀吉を生涯の敵とみなしていた
ゆえに秀吉嫌いの柴田勝家に嫁いで復讐を期していたかもしれない
お市様から見たら勝家は頼りになる武将だが家来筋で老人だ、心から喜んで一緒になったわけではないけれど寡婦のままともいかない時代だったかも

柴田勝家は表裏の無い男らしい人であった、若いころは信長の弟が信長と戦った時、弟側について信長と戦った男だ
その後許されて、以後信長に忠義を貫き、ついに信長の一の重臣として重宝されて北陸軍団長を賜った
秀吉が得た近江の国と勝家が得た越前の国は当時どちらも豊かな国だったので
他の重臣の明智光秀、丹羽長秀、滝川一益より兵数が多かった
それで今も勝家と秀吉は二大巨頭として織田家のライバルなのだ、一説には秀吉もお市様に気があったと言われるが秀吉は年増の(失礼)より
20代そこそこの妾妻の竜子の方がずっとお気に入りなのだ

尾張でもいよいよ織田の大軍が織田信孝を大将に徳川家康の三河に攻め入った
そして岡崎城を取り囲んだ、岡崎城を守るのは鳥居元忠、家康が今川の人質の時代から付き添った股肱の臣である
勇猛果敢な三河武士に信孝軍は攻めあぐねた、三河軍団は1万、いくつかの城に籠って、時には織田軍の後方をつく
こんな状況で織田対徳川の戦いは行われていた

さて北陸では勝家軍が明智らしき軍団に向かって進んだ、二万のうちから3000ほどを向けた
明智勢は500足らずだが高台から鉄砲を撃ちかけてきた、勝家軍は盾を先頭にじわじわと進みやや広い谷筋に入って止まったそして鉄砲で応戦した
谷は狭くも広くもなくおよそ5列縦隊で進める広さだ
先鋒の500ほどが最前線で、次いで500とじわじわと攻め寄せた
谷筋が少しずつ狭まってきた、明智方も次第に押されてじわじわと後退していく
勝家隊の中ほどの数百は左岸の緩やかな崖を上り始めていた、上と下から挟み撃ちにしようという算段だ、明智勢の正面とは300mほどしかない
そのとき突然上流から川水がどっと流れ出してきた、鉄砲水のように濁流が勝家軍を襲った
あわてて左の崖に上がった、ところが尾根から鉄砲と弓矢がいかけられてきた岩も落ちてくる
勝家軍は大混乱になった、鉄砲水に押し流されて勝家軍の兵は押し流された、中流の軍も腰まで水浸しになって後退を始めた
かなりの人数が討ち取られたが、やはり柴田方は数で圧倒している、柴田方が平地に戻ると明智勢は足を止めて陣形を整えた
そして勝家の軍は何事もなかったかのように前方の上杉軍への攻撃を再開した

川を背にして上杉軍は死に物狂いで戦っていた、とにかく前に進むしかない
何度も柴田隊と正面で戦っては引いた、その都度兵の数は減っていく、しかし柴田隊の方が犠牲者は多かった、とはいえ柴田の方が倍以上の兵力だ

「殿、ここらが引き時では」と直江兼続の家臣が問いかけた
「ふふふ、間もなく来る 待て」
「・・・?」
突然、柴田軍の後方から軍団が押し寄せてきた
「どこの隊だ?」高岡城から出て指揮を執っていた柴田勝家が側近に聞いた
「さて? 丹羽殿の援軍では?」
「ばかな、五郎左に、そのようなことは頼んでおらぬ」
ところが数千の軍団は後方から柴田勢に襲い掛かってきた
「なんだ! 上杉か?」
「景勝の軍がきた?」どこの敵かわからないので柴田軍は本陣から混乱が始まった
「今ぞ!押し出せ!」直江兼続の声を聞いて耐えていた上杉軍が一斉に突撃を開始した
同時に明智隊らしき500ほどの一隊も山裾から駆け出して退却を始めた柴田隊の先鋒に横槍を入れた
「一揆だ! 一揆が攻めてきた」悲鳴が上がった
後方から来たのは加賀や能登から集まった一向一揆の軍団だった、信長に徹底的に殲滅された一揆勢が再び集まってきたのだ
これは直江兼続の作戦であった、倶利伽羅峠で堅い守備を保ち、柴田勝家の本隊を待っていた柴田勢は破りがたかった
それで勝家が到着すると多勢に無勢と庄川まで下がって見せた
しかし隠れていた一向一揆の大将と上杉は取引をした、能登を一向一揆の国と認めることと引き換えに援軍として柴田を攻める
「われらには領土的野心はない、ただただ義の一文字にて戦うのみ」
一揆勢は承諾して立ち上がった、加賀能登に潜んでいた者たちがたちまち集まってきて5000もの大軍になったのだ

三方から攻められて柴田軍は一斉に逃げ出した、もはやこうなると2万の大軍も統率が取れず高岡城も捨てて加賀を目指していく
それでも援軍として参加していた森長可は「それがしが、しんがりを承る、早々に落ちられよ」と柴田勝家に言った
「かたじけない、また加賀にて会おうぞ」乱戦の中、勝家は落ちて行った
そして間もなく森長可は500の兵と共に奮戦のしたが力尽きて全滅した
一揆勢と共に直江兼続は柴田隊を執拗に追っては撃ち殺して進んでいった、あの明智の旗をかざした一隊は信州からの援軍真田軍1000であった
明智の旗で柴田軍を驚かして燃え盛っていた火に水をかけたのだった、柴田勝家はまんまとこの策に引っかかってしまった
戦争は数ではない、士気が大切なのだ、一度逃げ腰になると鳥の羽音に驚いて逃げ出した富士川の平氏の如くであった
逃げ道の途中にはいくつもの大河があり、その都度追いまくる上杉勢によって柴田の勇者は討ち取られていった
いつしか柴田勝家もわずか数十騎を従えるのみとなった、そしてようやく加賀と越前の国境、手取川までたどり着いた
ここで落ち延びてくる兵をまとめようと考えた、そして北の庄にいる羽柴秀吉軍に出陣を促す使いを出した

北陸の現状は以下の通りだ
柴田軍団の中核、前田利家は徳川攻めに引き抜かれてここにはいない、柴田勝家は2万5000の大軍で高岡まで攻め上ったが敗れた
そして今、手取川でまとめた兵は3000に満たない
川の向こうには追ってきた上杉と一揆勢が15000が疲れも知らず攻め寄せようとしている
ここから間もない北の庄には味方の羽柴秀吉が1万の軍を率いて軍営を構えている
まだ戦っていない羽柴勢の精鋭は勝家にとっても頼もしかった
そして使者が北の庄で秀吉に援軍を要請した、ところが秀吉はこれを蹴った
「いまさら何を申すか、若狭で昼寝をして居れと申したのは勝家殿ではなかったか、わしはこれより若狭に戻って昼寝をするのじゃ邪魔をするな」
そういうと1万の全軍に命令を出した
「柴田殿の御命令でわれらの役目は終わった、これより敦賀まで引き上げることにする」
そして使者に言った「柴田様も川でこらえるより城に入った方が守り強いのではないか、そうそうに城に戻られるよう申し上げよ!」
秀吉にとって、足元が浮き出した柴田も織田信忠も怖くはない、いまや自ら天下を狙う気持ちが大きく膨らんできたのだ
(おそらく尾張も終わりであろう、戦上手の徳川殿に勝てることはあるまい)
秀吉が立ち去った後、赤鬼の形相で柴田勝家は北の庄城に落ちてきた、その兵数は1500ほどであった
上杉勢と一揆勢は25000に膨れ上がり、越後からも柿崎勢が5000を引き連れて応援に来た
取り囲まれて3日目に最後を悟った柴田勝家は城に火をかけ火薬を爆発させてお市と共に死んだ

三人の娘は秀吉軍が若狭に立つ前に、お市によって秀吉に託されて無事であった、お市にとって大嫌いな秀吉に頼むことは屈辱であったろう
それでもまだ若い娘たちを一緒に殺すことは忍びなかったのだ
そしてこの三人の娘は長女茶々は秀吉の愛妾となって跡継ぎを産み、二女の小督は京極高次に嫁ぎ、
三女の江は後に徳川2代将軍秀忠の正妻となって三代将軍家光の生母となる












光秀謀反の本能寺 なーんちゃって㉑

2021年03月01日 18時43分58秒 | 光秀の本能寺
1583年7月と同時に羽柴秀吉の軍は毛利軍と呼応して一気に四国へ攻め込んだ
淡路島からは羽柴秀長軍が仙石久秀と三好が案内して阿波(徳島)へ5万の軍でなだれ込んで長曾我部の兵が籠る小城を次々に落として土佐に迫る
毛利水軍を先導に毛利の小早川軍は伊予(愛媛)に上陸した、伊予は四国では最も豊かな国である、秀吉は惜しげもなく毛利に任せると言った
だから毛利軍の勢いは強かった、次々と小城を攻め落とした
備前の宇喜多軍も瀬戸内海を渡って讃岐(香川)に攻め入った、長曾我部は全軍あげて戦ったが総勢2万を三方に分けての戦いだから守戦一方で9月と同時についに羽柴秀長に降参を申し入れた
秀長は明智光秀を差し出せと迫った、しかし明智はすでに船で徳川家康を頼って行ったことを知った
さすがの秀吉も明智が海から三河に逃げ込んだことは知らなかった
「光秀め、やはり気働きの名人じゃ今度ばかりはやられてしまったぞ! しかし家康も目ざとい、おそらく光秀の利用価値を見つけたのだろうよ」

伊予一国は毛利が受け取った、備中も返した
讃岐と淡路は宇喜多に与えた、阿波を仙石に
土佐は蜂須賀に10万石、赤松に2万石、三好に3万石
残りは功労あった者たちに分け与えた

長曾我部には明智を匿った罪は重いが信長に恭順したにも関わらず攻められそうになって身の危険を感じた抵抗であり、あっけなく降参したことで
秀吉からの印象は悪くなかった、信忠は領地没収の上、安土に連れてまいれと言ったが殺すであろう、秀吉は独断で元親を姫路に護送した、そして播磨の内で5万石を与えた
人質として嫡男の盛親は秀吉が河内へ送り3000石を与えて旗本に取り上げた
こうして秀吉は毛利を除いても四国で新たに50万石分の家臣を得たことになった、信忠にこれを献上する気などもはや秀吉にはなかった
信忠からは秀吉に四国戦勝利の祝勝会を安土で開催するので長曾我部元親を連れてまいれとの使者がやってきた
けれど「四国は未だ安定せず、意外にも毛利も伊予に攻め込んできて占領したので、その対処に忙しく年内に戻ることはかないませぬ」
そう言って使者を返した、もちろん戦利品はたっぷりと持ち帰らせた
そして秀吉は、明智光秀が徳川家康に匿われていることを信忠に伝えた
(これで信忠殿は、どう出るか楽しみじゃ このまま静かになってもらってはわしが困る)

秀吉が四国を攻めたと聞いた時、家康はいよいよ織田との決戦を覚悟した
信孝と信忠を争わせようと考えていたが秀吉にまんまと見破られてしまった
信雄と光秀という反信忠を二人も抱え込んでしまったからには、さすがの信忠も黙ってはいまい
そして危惧は現実となった、織田の動きが慌ただしくなったという報告が家康にもたらせられた
尾張には続々と織田方の大名が集まってきた、滝川、蒲生、筒井、堀など畿内、近江の兵
柴田の越前からも前田利家と金森が呼ばれた、信忠は岐阜で指揮を取り、安土には丹羽長秀と軍団を守らせた
秀吉の与力の池田、高山も尾張に呼び寄せた、そして対徳川の総大将は織田信孝とした、前線の総兵力は6万
岐阜の本陣は25000、安土の丹羽軍団は15000、それに海からは九鬼水軍が3000
対する徳川は三河軍団1万、本隊遠州軍団15000万、駿河軍団1万

そして信忠から秀吉に安土に行った丹羽に代わり若狭から越前に兵を出すべしの命令が下った
秀吉は自ら2万の軍を率いて越前に向かった、そして柴田勝家に着任の挨拶をするべく訪ねた
しかし勝家は「秀吉!うぬの助けなど無用じゃ若狭で昼寝でもして居れば良い」と相手にしなかった
秀吉は顔色も変えず勝家に言った
「われらは後詰として上様からの命で来たまでの事、さればわれらは北の庄にて待機いたすから、柴田様は心置きなく上杉と戦うがよろしい」
「猿! うぬの指図は受けぬ、黙って北の庄で控えておれ」
相変わらず秀吉と勝家の仲は険悪である

秋の収穫が終わった10月、織田軍は北陸と尾張で一気に攻めに転じた
勝家率いる25000の織田軍は1万の上杉に攻めかかった
多勢に無勢、上杉軍はじりじりと後退した、高岡城を捨てて庄川を背に背水位の陣で向かい合った
勝家の軍は一斉に攻撃を始めた、圧倒的な兵力で上杉方の備えを一段、二段と破っていく、その時上流で勝どきの声が聞こえた
勝家はその方向を見た、そこに見たのは信じられない光景であった
「あれは....光秀」桔梗の紋が付いた旗印はあきらかに明智光秀の旗印であった
「おのれ!光秀」勝家の目の光がまたステップアップした
いまや敵は目の前の上杉軍ではなく、上流の明智軍であった、ここで光秀をとらえるなり殺せばこれは最大の勲功となる
「進め、光秀を捕らえよ」
勝家の軍団は桔梗の旗をめがけて進みだした