神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (122) 長尾家 35

2024年06月25日 15時39分38秒 | 甲越軍記
 ここ信濃、甲斐の国境白峰の麓に二郎吉という若者がいる
五歳の時に父母と離れ、叔父に養われていたが幼い時より腕力強く、大胆不敵な童子にして、尋常の子供の遊びには親しまず、常に山野を駆け巡って猪、猿を相手に修練すれば、叔父はこんな風に勝手我儘な二郎吉を説教すれども、聞く耳持たず、あきらめて放っておいたが、次第に二郎吉は家に寄り付かぬようになった。

この辺りは山深く、峰々が幾重にも重なり、谷が幾筋も流れ、人が入るなど稀な場所である。

悪鳥、猛獣の棲み処となってはびこる、里を襲って幼子を連れ去って喰らうことも度々で、この度は叔父の愛子までも連れ去られ、夫婦は嘆き悲しみ「せめて亡骸だけでも」と言うのを二郎吉が聞き、悪鳥を殺して叔父夫婦の嘆きを慰めようと、悪鳥が巣くう奥山の断崖絶壁を目指した。
夜は岩を枕に、昼は谷を下り、峰を上って進むこと十数日、あてなき冒険であるが人跡途絶えた大山に至ると、森は深く猿も容易に動けぬところである
渓は深く、峯高く、爆風の大滝は斜めに飛び散る様であった
その時、頭上にさ~っと一陣の風が起り、二郎吉の体も傾くほどであった
怪鳥のけたたましい鳴き声が響き渡り、上を見るとまさしく二郎吉が求める人食い鳥である。
鳥は二郎吉を歯牙にもかけず目の前の大木に止まり、いずこかで捉えて来た幼子を引き裂いて食べようとするのを、二郎吉はさっと槍をしごいて思い切り鳥に差し込めば、鳥は驚いて幼子を離すと、子は谷底に落ちていった。
怪鳥は二郎吉に向かって爪を立て、掴もうと襲い掛かって来たが、怪力の二郎吉は逆に鳥の足をむんずとつかんで離さない。
片手で足をつかみ、片手で槍を繰り出し首を貫いた
流石の怪鳥も首を上げて飛び跳ねることもできず、羽を羽ばたかせて吠え猛る声は山野に響き渡った
二郎吉はここぞと、腰刀を抜いて飛び掛かり、所かまわず突きまわれば、ついにも猛鳥も息絶えた。
一息つくと谷底から幼子の泣き声が聞こえて来た、二郎吉は驚き、生きているならばこれを救おうと、深い谷を蔦につかまり、岩に足をかけて下って行った
谷底に下りると三歳ばかりの子であった、このまま捨てておくのも哀れと、子を懐に入れて、また崖を上っていった
途中で息絶え大鳥をひき担ぎ峰々を下れば、ようやく山道に出た
この時、ちょうど景虎らの一行がこの道を通りかかって、二郎吉と出会った。

初めてのMRI

2024年06月24日 18時59分36秒 | 病気と健康
 MRI、人間の臓器を輪切りにした映像を撮る、体が丸ごと入る大きな機械だ。
一度だけ母がこれで検査した時、立ち合いをしたが廊下まで「が~ん が~ん」とブリキの一斗缶をバチで叩き続けるような音が聞こえた。
これは機械にかかっている母は、そうとうダメージだなと思っていたが、わりとケロリとしていたのを覚えている。

そして今日は、いよいよ私がその機械にかかることになった
まずは内科の準備室で点滴の準備、ガドリニュウム造影剤を入れるので太さも針の長さも普通の点滴より大きい。
最初は失敗、まだ若い看護師だった、針を刺した途端に親指の先に電気が走った、針先も痛い「電気が走ったよ」と言ったら、本人も気づいて「すみません針を抜きます」と言って抜いた。
私は、こんなことは慣れっこだ、入院中も二度血管からはみ出て液漏れした
私の血管は細くて、看護師泣かせなのだ、だから失敗を責めたことは無い
「すみません、代わります」と言って年配の看護師と代わった。
小太りのにこやかな50歳前後、話も旨いし余裕がある、最初の子は少し緊張気味だったからなあ、まだ経験も少ないのだろう。
さすがベテラン、上手に針も収まった。

そこから歩いてMRI室へ、40代の男性技師もにこやかだ
「この部屋寒いですね」と技師に言ったら、「機械を冷やすために冷房が強いんですよ、寒ければ毛布掛けますけど」と言うので頼んでかけてもらった
外は暑いので半袖で来たのだ。
思ったより快適、目を閉じると寝てしまいそうだ。

ベッドに横になって、そのままカマクラのような機械の中に吸い込まれていく
最初に「音がうるさいですから」とヘッドホンを耳につけた、そして両手は頭の上に万歳の姿勢
「『息を吸ってください、吐いてください、止めてください』と言いますから、その通りにしてください、一回だけ20秒の息止めがありますから苦しくても我慢してください」
「ヘッドフォンしていても聞こえますか?」「大丈夫と思いますが、聞こえなかったらこれを押してください」と言って、ブザーのスイッチを渡してくれた
「顔も中に入ります?」と聞いたら「全部は入りませんが」と言ったが、始まったら全部入ってしまった、たぶん撮影のカメラ部分までは入らないという意味だったのか。
それにしても、天井までは15cmあるだろうか?、かなり低くて狭い
狭所恐怖症には無理だと思う。 昔一度だけカプセルホテルで泊まったことがあるが、あれはまだ顔の上30cmはあった、もう30年くらい前だから、今は遥かにカプセルHも快適になっただろう。

そして始まった、体が顔まですっぽり入った、「ブーブーブー」という少し大きいブザーが鳴って、そのあと切れ切れのブザーの連続音、そして「息を吸ってください・・・」が始まった。
息を止めると別の独特な音が何度も鳴り響くが、ヘッドフォンのお陰でうるさいまでは行かない。
母の時に廊下で聞いたけたたましい音とは、全然違っていた、頭にも響かない
最初から造影剤の点滴かと思っていたが、途中で技師が「ここから造影剤を入れますよ」ヘッドフォン越しに小さな声で聞こえて来た
(へえ!なんか普通だなと思っていたが、これから本番か)
緊急入院の時にCTにかかったが、その時、初めて造影剤を使った、体がカ~っと熱くなるあれだ、危険度もあるので一応は許可を得る、書いたものを読むと腎臓などに障害がある場合最悪、重態もあるというから、絶対安全ではないのだ。
この日も前もって承諾書を渡しておいた。

だんだん上げている両手がしびれて来た、こんな姿勢で15分20分が過ぎたからだ、特に右手は点滴の長い針が入っているから余計に気を使って疲れる。
20分くらい経ってから、一度外に出た、「手を前に下ろしてもいいですよ」
「ああ、この姿勢結構疲れますね、痺れて来た」と言ったら、両方の肩を少しマッサージしてくれた、大きな男だが、なかなか気が付く。
再び入って10分少々撮って終わった。
「お疲れさまでした、点滴を抜きますよ」,
やっとらっくりした、「息止め20秒は楽勝だったよ」と言ったら
「そうですねぇ、息止めは全部バッチリでしたから、予定よりかなり早く終わりました、ありがとうございました」と礼を言われた。
そして「30秒でも大丈夫ですかね」「30秒も余裕ですね」なんて言っちゃった
「うまくやってくれる人もいますけど、10秒もできない人もいるんですよね
何回もやり直しになるんで時間かかります、なにか運動してるんですか?」
「いや別に! 毎日散歩しているだけですよ」
「ああ、それで息が続くんですね、どのくらい歩くんですか」
「7000歩だけど、退院後は3000歩くらいだね」
「へえ!7000歩、僕も歩かなきゃいけないんですよね、少しこんな体型だし」
「ああ、歩くといいよ、絶対いいよ」
「そうですよね」
「ずっと歩いていると飽きるから、バスに乗って行って、停留所から停留所までとか、駅から駅までとか歩くと気分転換になるよ、高岡の万葉線に乗って行ったりね」
「凄いです、それいいですね」「いいよ、やって見たら」「はい」
なんか病院の職員と話が合う、退院した後の虚脱感はこれだったのかもしれないな。


ワシントン広場の夜はふけて/ヴィレッジ・ストンパーズ

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (121) 長尾家 34

2024年06月24日 10時10分37秒 | 甲越軍記
  旅脚絆に草鞋がけ、勧進柄杓を腰に差した姿で五人は益翁に付き、廻国修業に身をやつしての密かな旅立ちであった。
ついに敵地を凌いで府内にたどり着き、兄晴景に対面して晴景を責めた。
「御父、越中にて討死して早六年の歳月が過ぎました、越中は永遠の敵国、黒田、金津は御舎弟の仇である、景康、景房討死ありてから当年まで、兄上は義兵を揚げて、父と舎弟の仇を討とうという気配を見せませぬ
御年四十一になるというのに、安然と年月を無為に送り給うこと、敵から見れば長尾家の武威を落すことではありませぬか
速やかに義兵を揚げてまずは黒田、金津を討つべし、それから越中に入り父、為景公の弔い合戦あるべし
某も本庄、宇佐美を催して旗を揚げ申さん」と言った。
しかし晴景は末弟に辱められたと、これを悪意にとり、心中怒りで一杯になったが、景虎の理は誰もが認めるところであるから、言葉なくこれに従ったふりをして、その場を切り抜けた。

そうとは知らず、景虎は喜び府内の城を発ち、越中に入った
そして父が討ち死にした「センダン野」の古戦場に至り、涙を含めて念仏読経をし(やがてこの国に攻め入り、怨敵を討ち滅ぼし亡魂を安んじたまわらん)と心中に誓った。

その後、能登、加賀、越前を廻り、自ら杓を振り、民百姓の門に立ち食を乞い
乞食僧の如くに身をやつして、国々の風俗を伺い、後年攻めいる時のために、道筋、城郭の難易、山川林、野原里村、地形、山野の交通の難易、道の遠近、抜け道、奇道、城の寄せ場、攻め口の長短、堀の深さ、勢の多少を計り
土地土地での作戦を細かく心の中で立てて収め、これより信濃から甲州へと巡っていった。

私がパンをあまり食べなかったわけ

2024年06月23日 19時24分31秒 | 時代検証
 今日は、さっぱり朝の4時半から時間が進まない。
最近の決め事、「5時前に間が覚めても布団の中で、まどろみながら5時半過ぎまではじっとしている」
それが今日は守れなかった、外では早くも鳥たちが夜明けと共に活動を始めている
決め事をするまでは、5時でもおかまいなくチュン太たちに朝ご飯を提供していたが、さすがに今は早く起きても、そこまではやる気は無い
この頃は6時から7時の間で定まって来た。

朝のルーティンも定まって来て、まずは顔を洗って神棚の榊の水と、水を取り替えて拝礼をする。
それから、仏壇のご飯を取り替え、花の水を新しくする、そして焼香と朝の挨拶をする。
その後で、庭の畑の空き地でチュン太に朝ごはんを振る舞い、楽チェアーに足を延ばして10分ほどチュン太たちを見ている
頭を空っぽにして眺めて居るだけの、この時間が至福の時、一番好きだ。
空っぽと言いながら、チュン太たちのほほえましい姿に何かを思っている。

それから自分の朝食のご飯やおかずを作り始める、だいたい30分くらいで出来る、ほとんどが野菜料理と卵料理、それにみそ汁やスープ作り
パンを朝食べる習慣は74年間ない、朝はご飯に味噌汁と決まっている
パンは中学の学校給食で三年間毎日冷たくあじけない「こっぺぱん」を「キャラメルみたいな固いバター」をかじりながら(塗るのは不可能)、アメリカからもらった栄養不良を補うための脱脂粉乳の冷たいミルクと一緒に胃に流し込んだ
まれに「小倉ミルク」と言って、甘い小豆入りの脱脂ミルクが出て、それはうまかった。(脱脂ミルクは、アメリカでは家畜の飼料との噂があった)
おかずはだいたいがうまくなかったが、「クジラの竜田揚げ」と「春雨サラダ」だけは数少ないうまいおかずの記憶がある、それ以外は記憶にない
パンの話が中学校の給食に脱線したが、そんな冷たく固い、まずいパンを食べていたのでパン嫌いになった。
それが滅多にパンを食べない理由である。
そもそも「こっぺぱん」が大きすぎる、たいてい半分食べて残りは紙にくるんでカバンに入れて持ち帰り、家でスライスして素揚げして、砂糖をかけておやつ代わりに食べたが、やはり毎日だと飽きる。
人それぞれで中には私のように残す者からもらって2人分食べる奴もいた。

これは中学校の給食の話だが、小学校の時はうまいパンを食べていたのだ
弁当を持って行くのは自由だったが、昭和30年代の事だから、朝から色とりどりの弁当を作ってくれるのは町場の豊かな家の奥様位なもので、私たちのような下町のかあちゃんは忙しいから、たまに作ってくれるのは「のり弁」
運が良ければ、小さな卵焼きが入っていることがあったが、卵も貴重な時代。
さすがにのり弁は味気ないから、のりを二段にしてくれと頼んで「二段弁当」
これで昼飯は終わったが、弁当が無い日はパン食
朝、パンの注文当番が点呼をとる「こっぺぱん」「ぶどうぱん」「ジャムパン」「クリームパン」「栄養パン」など何種類かを読み上げ、挙手で数を書いていき、それを先生に提出すると、昼に廊下でパン屋から受け取る仕組みだった
牛乳も注文出来て、ビンに入った牛乳と、コーヒー牛乳があった、断然コーヒー牛乳が甘くて好きだった
甘いものが不足の時代だった、支払いはどうしたか覚えていない。

高学年になると、少し利口になって情報を活かすことができるようになった
学校の正門の前に食料品店があって、そこの奥でこっぺぱんを買うと、ジャムなどを選んで塗ってもらうのだが、中に「バターピー(バターピーナッツ)」があって、これが抜群の旨さだった
もう学校の注文パンなんか食べていられない、少数の情報を得た子供だけが、特別美味しいパンを食べられる
私も、その一人であって、密かに優越感を持ちながら食べていた。
それが中学校に行って、あのまずい「こっぺぱん」に戻されたのだから、パンを嫌いになって当然だった。

今は女房殿がパンやケーキを焼く文明の利器で、毎週一回は焼いてくれるので温かくて柔らかいパンを週二回は食べている。

女房殿が実家の畑で作ったジャガイモを持って来た、ざっと200個以上はありそう。 でもほとんど女房殿の叔父さんが作ってくれたのだ。
ベーコンとで「チーズポテトグラタン」でも作ろうかな。


橋幸夫 雨の中の二人

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (120) 長尾家 33

2024年06月23日 08時11分59秒 | 甲越軍記
 三人は「いや儂らは何もしてはおらんが」と言ってから、夕べの不思議な怪女の事を主に話した。
すると主は顔色を変えて「これは・・・心に覚えがある」と言い
「恨みの報いとは逃れがたいものだ、あなた方には、隠し立ては致さずすべてを話しましょう
某の妻は気性激しくて少しの事でも頭に血が上り、見境がつかなくなり下女奉公の娘たちの些細な過ちにも腹を立てて、むごい折檻を繰り返していました
そんなおり、一人の下女がまたしても犠牲になり、激しい折檻に耐えられず首をくくって死んでしまったのです
世間に漏れることを恐れて、あの榎の木の下に埋めたのです
されども無念の死を遂げた娘の執念は妻の業となって、夜な夜な妻に復讐していたのでありましょう」と話し
その日のうちに、無念の娘の供養を丁重に行い霊を祀った。
そして「我とても遊侠の暮らし気ままに行い、あらぬ悪事も度々行ってきた
人の恨みとは恐ろしきものである、これからは心を入れ替えて生きよう」
そう言うと、髪を剃って益翁と名も改めて出家した。

それからは諸国行脚の旅に出て歩くこと数年を経て、栃尾にやって来たのであった。
景虎は益翁の事を風の便りに聞き知って、ぜひ会いたいものだと思い、招いた
益翁の諸国の地理に詳しいことは一日では語り尽せず、何度も景虎は益翁を招いて話を聞いた。
益翁も景虎が若年ながら、虎をも呑む志あることを悟り、戦国諸将の強弱を話して聞かせると、ある夜、益翁に囁いた
「わが兄、晴景に申したき談あるが、周りは敵ばかりで動くこともままならない、貴僧は我を伴い府内に連れて行ってはくれぬか」と言うと、益翁はこれを快諾承知した。
「但し、その姿では行けませぬ故、髪を剃り愚僧の弟子の体で行かねばなりません、それであれば心安く行くことが出来ましょう」と言うと景虎は喜び勇み、早速に美作守に話した。
美作守は驚き、果たして敵ばかりの道中を無事に府内まで行けるだろうかといぶかしがり「長尾平六は雄略他の大将を遥かに超えております、いまだ年若い景虎さまの、照田父子討伐の志には涙溢れるばかりに感動していますが、敵勢の強い今は時期尚早と思われます、いましばし時節が到来するまで、待たれるのが宜しいかと思います」と言い
「その廻国の僧も果たしていかがなものであるかわかりません、もし道中で心翻せば、御身はたちまち危うく成るでありましょう、大切な御身でありますれば軽々しい行動は慎むべきでは」とも言った。

景虎は、心は違えども、その場は美作守に従うかの体に見せかけて退出した
そして(益翁が裏切れば、某の運の極みなり、それも仕方あるまい、ただただ手をこまねいて月日の経つのを待つことこそ悔しけれ)
益翁と心合わせて早々に髪を剃り、僧形に姿を変え、従う戸倉、秋山、曽根、鬼小島もまた髪を剃って僧形に姿を変えて、栃尾を旅立った。






終活開始

2024年06月22日 20時11分33秒 | ライフスタイル
 退院後、終活をゆっくりと始めている、入院中から手術にかけても重要事項だけはノートに書いておいたのだが。
それにしても「終活」「エンディングノート」「遺言」「断捨離」と、なんか寂しい響きだね、ほかにもっと楽し気なネーミングは無いのかね。
「人生満足ノート」「残りの人生やることノート」「やり残しノート」「みんなへの伝言版」「ありがとう、これからもノート」「老いの一押しやったるでぇ」「100歳までの人生プラン」なんてのはどうだろう。
人は知らねど、わが気概はかくあるべし。

ともあれ始めたのは、がちゃがちゃに、あちらこちらに散らばっている「紙」
相変わらず「紙」の多いこと
電子書面が横行する時代だが、スマホやパソコンであっても、望みの資料を一瞬で引き出せる人間はどれだけいるだろうか、ましてや70歳過ぎでは
結局、紙であれ、パソコンであれ整然と分類が出来ていて、しかも目次らしき分類と、そのありかを明記した一覧表がある
そんな状態でなければ、電子でも紙でも、探す手間は一緒だ。
自分の部屋の中で、一目で見える引き出しや、ボックスに分類の紙を貼り付けて、その資料がどこにあるか見えるようにした。
これなら、小さなスマホ画面でキーボードを誤字、脱字でてまがかかってイラつくより遥かによい。
しかも紙だから文字も大きい実物大、読むにも楽だ。
今、そんな作業が古い書類を廃棄しながら、ほぼ90%出来上がった
これで本棚もすっきりしたし、病院へ行くときは病院資料の引き出しを開ければ、すぐに出てくる
年金、筆記具、郵便・宅急便、文房具、使用頻度高い道具、テープ・ガムテープ、薬、取り説、保険証券、公共料金、支払い納付書、諸団体資料、ルーツ資料、電池、税金関係、etc
ざっと、こんな風に分類してある、本棚もすっきりしたし、少しは人間の生活に近づいた、あと10%
これが終わったら、最初に書いた「老いの一押しやったるでぇ」「100歳までの人生プラン」を書き始める

「これでいいのだ」、またワクワクが一つ増えて来たぞ。

早くこれを食べたいよ~






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (119) 長尾家 32

2024年06月22日 15時07分30秒 | 甲越軍記
 景虎に対面した駿河守は、景虎の風貌をよくよく見れば、識量人に優れ、勇威寛大にして、天性の名将の気が備わり、駿河守はたちまち大いに帰伏して、甥の宇佐美行孝を人質として霊社の起請文を添えて景虎にたてまつり、これより無二の味方となった。

景虎は宇佐美が軍術に秀でていると聞き、これを師として軍法を学んだ
駿河守は軍の備え、奇計の奥義、および孫子、呉子など奇正の法を逐一伝えた
景虎は一を聞いて十を悟る英才あってその軍学、討論も師の駿河守を超えたので、駿河守も舌を巻かざるを得なかった。

その頃、栃尾の城内に由縁の者ありと廻国の僧が逗留していた。
その名を益翁という、生国は飛騨の落合の産で田畑を数多作り、財に富んでいたが、性質は勇猛なので、物を物ともせず、好き放題勝手の暮らしぶり
その妻もまた夫に倣い人を使うこと犬畜生の如し、少しでも気に入らないと杖で殴る、あるいは赤裸にして、木から吊るして下から火であぶるなどの責めごとを好んだ。
ところが、この妻は一朝、おかしな病にかかった
昼は何事も無いが、夜になれば悲しみ叫んで狂いまわる、そのお様は憑物あるが如し
治療をしても、巫女を雇って祈れども少しの甲斐もなく、毎夜責められるがごとくそれは続き、すでに四月たつが一向に治らない
このため心身疲れ、体はやせ細り骨と皮ばかりの姿になりにけり

夫も藁をもすがる思いで卜者に占ってもらうと、「三人の客を得て吉なり」という
だが、三人の客がどうするとも、どうすれば良いとも言わなかった
ある夜、三人の旅人が戸を叩き、一夜の宿を求めて来たので「これこそ」と夫は喜び、早速に招き入れた。
その夜、旅人はこの家の一室から苦しみ呻き、泣き叫ぶ物音に目が覚め、ただ空恐ろしく、とうとう一睡もできずに夜が明けた
夜が明けると、物音は鎮まり静かになった。

旅人は昨夜の騒ぎを主人に問うと「これこれしかじかで」と、すべてを話して
「あなた方こそ、三人の客そのものですが、なにか心当たりはありませぬか」と聞いたが、三人とも何も知らぬ様子であった。
この夜もまた三人はこの家で泊まったが、またしても夜更けに、また奥の方で鳴き叫び、苦しみもがく叫び声が狂うがごとく聞こえて来た。
旅人たちは皆、生きた心地も無くもはや寝ることもならず、外に出て高塀の辺りを徘徊していた
すると怪しや、この家の前庭より瘦せ衰えた女が、しとしとと出て来た
三人は生きたここちもしなかったが、息を詰めて伺っていると、怪女が家を出たとたん、奥の叫び声は止んだ
怪女が再び家に入ると、またしても奥の間からは泣き叫ぶ声が聞こえてくる
三人は「これこそ怪女の仕業であろう」と合点がいき、東に帰っていく女の後を付けて行くと、東の村はずれの大きな榎の木のもとで消え失せた
三人は夜が明けるまで、木の周りを巡って探したけれど、何もわからなかった

家に戻ると、主が三人を表まで迎えに出てきて「やはり卜者が言う通り、あなた方三人が来てくれたおかげで、昨夜より妻はぐっすりと快眠した、このようなことは、発症いらい初めてのことである、まことにありがたき事です
いかなる方法を使われたのか」と問うた。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (118) 長尾家 31

2024年06月22日 08時36分45秒 | 甲越軍記
 越後国主、上杉兵庫頭定実は府内の落城を聞き、賊軍が上杉館へも攻め寄せるのではと危惧を抱いた。
直ちに諸将を呼び寄せて備えを固めた、だが待てども照田親子は攻め寄せてこないで、ひたすら府内城を守る姿勢に見えた。
兵庫頭の元には、日増しに軍勢が集まるので、兵庫頭は「敵の来るのを待つよりも、我らが府内城に攻め寄せて賊徒を討つべし」と勢を揃えて時を待った。

 一方、府内城にある照田、黒田、金津らは上杉館に大軍が集まって、今にも攻め寄せる気配と聞き、とても大軍には当たりがたしと思い、三条の長尾平六郎俊景と謀りを共にしようと城を出て蒲原郡に兵を進めた。

これによって屋形、上杉兵庫守は一人の手負いも出さずに府内の城に入城した
そして城主であった長尾弾正左衛門を城に呼び戻す使者を送った

晴景が城を抜け出て、笠島に備えを立てた時には僅か八十余騎だったものが、その夜には、落ちて来た士が続々と集まり、二千騎に膨れ上がった。
更に府内の変を聞いて、長尾一族の諸将も馳せ参じ、上田越前守、古志駿河守、刈田相模守、高梨播磨守、さらに大熊備前守、神余越前守などが笠島に集まると再び大軍となった 
これで勇気を得た晴景は恥を濯ぎ城を取り返そうと府中へ向かったが、途中で上杉定実の使者に遭い、照田親子が既に城を脱出して下越後方面に向かったと聞いた。
晴景は大いに喜び、やがて府内の城に入った。

喜平二景虎は、浄安寺門察西堂の手引きで栃尾に至った
密かに寺に入った景虎は、直ちに本庄美作守に対面した、美作守は大いにこれを喜び、景虎を城中に迎え入れ、世上の体を伺えば、近郷の諸将はみな平六郎俊景や黒田、金津の催促に従って国の大半は敵で満ち満ちている
一人、宇佐美駿河守が琵琶島の城に籠っている、それを知った本庄美作守は喜び、景虎に「今やわが周囲は賊徒で満ち溢れているため、某一人ではとても敵い難し、去れども琵琶島城主、宇佐美駿河守は文武の才に恵まれ、若年より数十度の戦に出て、その都度、誉を得て来た強者
その名は近隣諸国まで鳴り響き、その上に領地は五万八千石に至り。軍兵も数千を養う
天晴、彼のものを御頼みあらば、ご本意を遂げさせるために力を貸してくれるでありましょう
そう言って、美作守は琵琶島に向かい駿河守に対面し
「長尾景虎君、府内を逃れわが栃尾の城に至り、某を深く頼ってこられましたが、周りの全てが敵なれば、とても某一人では若君の願いをかなえるに至らず
そのような時、天晴、宇佐美殿の姿を聞きおよび、彼を頼み父兄の仇を報じ、逆徒を沈める由、宇佐美殿にお頼みあった」と言うと、宇佐美駿河守は誰に相談することもなく、これを快諾して本庄美作と共に栃尾に至る。


先輩からのアドバイス

2024年06月21日 20時28分27秒 | 病気と健康
 今日は昼に大腸がんの先輩、寅姐さんと、昔、看護士だった中姐さんの二人から、ガン治療に関するアドバイスを三時間にわたって聞かせてもらった。
虎姐さんはステージ2で抗がん剤治療はしていないが、手術終了後に二度にわたって新たな転移ガンが発見されて、都度手術をしている。
年齢も今年で86歳になるが、持ち前の負けず嫌いと根性で日舞の講師として今も活躍している。
最近は86の手習いで、習字を始めたという。 酒は飲むし、よく外出もするし、諸団体に顔を出すのも大好きだ
中姐さんは今日初めて知ったが、糖尿病持ちなんだそうだ
私の周囲でも、こんな風に病院の世話になっている人が10人を下らない
70歳も過ぎれば、何かかんかの病気はあるようだ、だが例外だってある
私の旧宅、8歳から70歳まで住んでいた家は、今は空き家だが、神棚には地元の神社の神様を未だ祭ってあるので、ときおり榊や水を取り替えに行く
近所の人は50年以上も付き合った人が多いので、この日もかって民宿を経営していたご近所さんのおじさんがやって来て、立ち話をした
もう民宿は辞めたという、「歳だからな」というので聞いたら、もうすぐ90歳だという
「見えませんねえ、元気ですね」と言ったら「そうさねえ、若い時から病気をしたことが無いからな」だそうだ。
山奥と言って良い集落の出身だから、若いころから畑仕事や力仕事で鍛えた体なんだろう。
私も病気になるまでは、自分もその類だと過信していたが、まさかのさかだった。
もっとも女房殿の父親も97歳まで大病もせず元気でいたからなあ、それに父の従兄は101歳になるが、今も大病もボケもせずに施設で暮らしている
こんな風に元気な人もいるのだ、羨ましいと今の私は思う。

数日後に神社へ行こうと思う、次男が今年は厄年なのだ、連れて行って私も一緒にお払いをしてもらう
父親が、こんなことになって、やはり息子から見れば厄年なのだ。
気持ちの問題かもしれないが、やらないでいるよりは、やった方が何となく安心感がある

最初に登場の二人は、私を見て「前と変わらない良い顔している、退院直後は目がくぼんで顔色も優れなかったけど、今は普段と少しも変わらない」と言ってくれた、たしかに体調は良い
だが、抗がん剤治療が始まれは、こんなわけにはいかないかもしれない
でも、それにも負けないで生活できれば、それはそれで見事だとも思う。
なにごともやって見なければわからない。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (117) 長尾家 30

2024年06月21日 09時35分58秒 | 甲越軍記
 一行は林泉寺に至り、景虎守護のことを願い出ると、僧徒らは方丈に集まり
「当寺は長尾家代々の菩提所にて恩を被ること永し、大壇那の一大事であるから、力の限りを尽くして若君を守りましょう」と言った
そして「もし敵勢が個々に押し寄せれば、若君を害し、寺は乱暴狼藉の上、灰燼とされるでしょう、各々心を一つに合わせてこれを防ぎ、叶わざる時は本堂を枕に討死すべし、速やかに用意せよ」と申し付けた。

時に栃尾の浄安寺の僧門察西堂は、ちょうど林泉寺に滞在していたが進み出て、「衆僧菩提所の由緒を以て、景虎殿を守って討死とのこと、まことに勇ましく思う、されども僅か一寺の兵を以て大敵に当たるのは、卵をもって大石に当たるが如し也、せっかくの勇気も、その甲斐なく若君は害され、寺は焼き尽くされるであろう、これは栓無きことである」
息を継ぎ「わが栃尾には城主本庄美作守あり、義勇抜群の勇士にて信義最も厚き将である
某は久しく美作守とは親しければ喜平二殿を栃尾に伴い、本庄を頼み本意を本意を達成するのは如何であろうか」と問えば
林泉寺の衆僧たも、これに同意し、その夜の内に闇に紛れて、景虎を守護して戸倉興八郎、秋山源蔵、曽根平兵衛、鬼小島弥太郎らと共に、栃尾を目指した。

ある説によれば、景虎は二の丸の床下に隠れている時も驚く様子もなく、土間の土で土偶人を作り、小石を拾って終日、武者配備の試しをしていたとのことである
名将になる人物の度量を知る逸話である。