甲越軍記、そろそろ再開しようかと思っています
病院では原本も無く、ましてスマホではとても無理
マイクモードにしても大部屋ではダメ、面談室でも人がいますからねえ
パソコンなら、ばしばし打てるのでやはり家でないとだめですね。
今日は、これまでのまとめ
日本の16世紀はまさに全国で戦の無い場所は無く、特に前半は今でいうところの市や郡ごとに地方豪族が居て、隣の郡や市に攻め寄せて、敵を皆殺しにするか支配下におさめて拡大していった
16世紀、中期にはかなり大きな単位にまでまとまり、現代の県ひとつを支配する者が現れた
甲斐(山梨県)では、源氏の一族である守護(県知事)武田信虎が一国を支配した
さらに信州(長野県)で反抗する同じ源氏の一族を攻めて滅ぼして、長野県の佐久地方まで占領した
だが信虎は異常なほど残虐を好み、領民を恐れさせた。
これを止めようとして諫言する代々の重臣たちさえも、一刀のもとに斬り捨てる暴挙、もはや誰も諫言する者はいなくなった。
そんなとき、信虎の長男が誕生した、勝千代、後の武田信玄である
子供の時から利発で大将の器であったが、信虎はこの利発さを嫌い、次男に家督を譲る算段を始めた
一方、信虎の悪行に辟易していた正義の家臣たちは勝千代を立てて、信虎を追い出すクーデターを計画していた
そしてまんまと信虎を親戚の駿河(静岡県)の今川義元に頼んで信虎を幽閉することに成功した
謀られた信虎はあきらめて人が変わったように趣味一筋に生きるようになった、生涯甲斐には戻らなかった。
武田家の惣領となった武田晴信(勝千代)だったが、若さを侮って信州の村上、小笠原、諏訪などが攻め寄せて来た
しかし晴信は優秀な家臣団によって勝利を続けた
そのうちに三河から山本勘助を迎え入れて軍師として遇した、勘助はさらに上州にいたこれも参謀の真田幸隆を武田家に引き入れた
これによって武田家は武力だけでなく、作戦面でも敵を勝って、ついに諏訪を滅ぼした
上田の村上義清は難敵で、上州(群馬県)の上杉(当時は謙信とは関係ない)と手を組んで、軽井沢の武田勢を挟み撃ちにしたが、武田の老臣、板垣信形の獅子奮迅の働きでこれを破った
こうして晴信は、いよいよ最大の敵、村上義清との決着をつけようとするのであった。
同じころ越後(新潟県)では守護代(守護の代官)の長尾為景が反乱を起こして、守護の上杉を殺した
越後は為景派と上杉派にわかれて内乱となった
上杉派は上州からも兵が集まり大軍となった、為景は劣勢となって越中(富山県)へ逃げたが、味方と思った越中勢も為景に向かってきて、家臣たちの多くが討死した
為景は、ようやく船で脱出して娘婿のいる佐渡に逃げ込んだ
ここで一年ほど忍んでいたが、越後の味方、高梨播磨と連絡を取って反撃に出た、そして勝利を重ね、味方も増えてきて各地で上杉勢を破り越後の過半を手に収めた。
そんな戦乱の中で為景の四男が生まれた、虎千代と名付ける、後の上杉謙信である
為景は相変わらず管領、越後守護の上杉勢と戦っていたが、柏崎には為景でも破ることができない名将、宇佐美定行がいた
そして膠着状態になり、為景は越後守護と和睦して、さらに宇佐美とも和睦して越後は平和になった
為景はなぜか利発な虎千代を嫌い、とうとう林泉寺に僧として入れた
しかし虎千代は、まったく出家の気は無く、近所の百姓の子を集めて戦ごっこに明け暮れた
ついに林泉寺住職も虎千代に武家の血が濃すぎると為景に帰した
怒った為景は、度胸試しなどさせて諦めさせようとしたが、虎千代は子供らしからぬ勇気と度胸と策略をもった少年だだった
為景は平凡な長男の脅威になると恐れて、虎千代を中越後の三条に追い出した。
それから為景は自分を裏切った越中勢を攻め滅ぼそうと、宇佐美と共に攻め込んで連戦連勝の勢いで、滑川まで攻め寄せた。
以上ここまで書いた、ここより再開することになる。