神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

ラジオ放送 便秘について

2024年06月20日 19時03分47秒 | 病気と健康
 わが生活圏に於いて聞こえてくるラジオ放送は富山県のKBS「北日本放送」
新潟県のBSN「新潟放送」、長野県のSBC「信越放送」である。
夜ともなると海沿いの地では日本海を超えた中国語や韓国語がラジオを占領してしまう。
長野に行けば新潟や富山の放送はあまり聞こえないが、文化放送など東京のラジオ放送が何局も鮮明に聞こえる。

どこの曲にも名物アナがいて面白い番組を聞かせてくれる
私は主に木曜と金曜の昼前しか聞かないので、その範囲であるが
「新潟放送」は「近藤丈靖の独占ごきげんアワー」、近藤丈靖、表佳世
「北日本放送」は「とれたてワイド朝生!」佐藤栄治、大沢綾子
「信越放送」は「坂ちゃんのずくだせえぶりでぃ」、坂橋克明、峯岸悦子
聞き比べていると、それぞれ県民性が見えて面白い。

「ごきげんアワー」はベテラン近藤アナが福山雅治、宮澤ミシェル、山内恵介など10数名の物まねをこなす他、新潟弁で有名曲を歌ったり、表アナと二人で外国人キャラで世相をコミカルなドラマ仕立ての番組など、多彩で退屈しない。
前回は金沢出身のおしとやかで優雅なイメージがあった表アナが、まさかの便秘トークで実体験をあからさまに披露してリスナーを驚かせた
それはともかく、公共放送では準タブーともいえる便秘トークには、思いのほかリスナーの反響が多く、実体験の投稿が相次いだ
いかに世の中に便秘の悩みを持つ人が多いかわかった。

大学から専門家も登場して医学的に解説したり、なかなかの良い番組になった
便秘を電車になぞらえて、エスカレートして新幹線まで登場したり時折脱線
それがまた想像を掻き立てて面白い
リスナーや司会者の個人体験もたくさん出て、便秘解消法が面白かったし、中には役立つものも多く、ついには便秘解消グッズが当たる応募まで登場
私も手術前まで、わりと便秘気味になることが多かったのでついつい聞き入っていた
もっとも、その慢性化に慣れたため、このたび腸閉そくの発見が遅れたことにもなったのだが。
だから私も、便秘にはガンや腸閉塞などの怖い病気が隠れていると投稿しようかと思った矢先、放送内で専門家が同じことを言ったので安心した。

日本人と欧米人は体格、体形、腸の長さが違うので90度で座る洋式便座は日本人にとって便秘になりやすいという
日本人には、お尻を足の膝より下になる和式が合っているのだという
我々年代は20代までは和式であった、いつ洋式になったのか覚えていないが、もしかしたら30代、40代前半でも和式だったかもしれない
時代と共に、正座同様、日本人も楽な姿勢が一般化されて過去のものは遺物扱いされたが、中にはこうした日本人の生活様式、体形に合ったものもあったのだと知った。
いまさら和式トイレにもできないので、和式に近づくグッズを購入して見ようと思った、たしかに別のもので代用して見たら、お尻が下がるのでまことに良い
今回の入院でいろいろと消化器や内臓器官について真面目に考えるようになった、そんな意味でもBSNラジオのこのコーナーは大ヒットと言って良い。

今朝の食事
ささみの塩こうじ焼き おなじみ、ふろふき大根 サニーレタスの味付け卵とじ 白菜とブロッコリーのお浸し 手術後初めてのごはん&シラスととろろ芋
(よく噛んで食べた) つみれ汁、大根入り 自家製の焼きナス




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (116) 長尾家 29

2024年06月20日 08時42分56秒 | 甲越軍記
 佐平治景房は本丸を攻め落とされ、景虎と共に二の丸に引き入るところを、金津の士卒、大槻半弥が良き敵を求めて廊下を飛び回っていたが、景房を見つけると拳を握りしめ槍の柄を捻って躍り上がり、景房の腰のあたりを突くと
景房十九歳、痛手を受けてどっと倒れたところに、藤井源八が駆け寄って来て、たちまち景房の首を掻き切った。
喜平二景虎は時に十三歳なれど駆け戻り、兄の仇、藤井源八を一刀のもとに切り伏せた
大槻半弥は、これを見て景虎に突きかかるところに、二の丸の番士、戸倉興八郎、曽根半兵衛が駆け寄り大槻の槍を切り落とし、さらに大槻をも縁より下に切り落とした。
両士は景虎を守って、二の丸に入ったが敵が満ち満ちており、今は外へ逃れること叶わず、二の丸の板敷をはがして「しばらくここに身を隠し賜え、夜には必ずお迎えに参ります故」と景虎を隠し、二人は敵の囲みを切り抜けて落ちていった。

 府内の勇士たちは敗れてみな散り散りとなり、あるものは絶望して討ち死にするもの、あるいは晴景と死生をともにせんと思う者、冑を脱いで敵に降る者とさまざまであった。
照田常陸介、黒田和泉守、金津伊豆守、そのほか与力の諸将は本丸に入り、城の門を固く閉ざして大篝を焚いて逆襲に備えた。

その夜、本丸では勝どきを上げて、諸勇士をねぎらい、長尾景康、長尾景房の首を並べて見聞した。
城外では、長尾の士、戸倉興八郎と曽根半兵衛が景虎を救い出さんと、密かに城際にへばりついているところに、鬼小島弥太郎、秋山源蔵の二名もやって来た。
問えば、この二人は昼間の惨敗に腹を立て、城内に切り込んでうっぷんを晴らすつもりで来たという
戸倉はこれを「わずか二人で敵中に切り込んだところで、敵の二三人を討って返り討ちに会い、むなしく死ぬるだけのことである
我らは二の丸に隠した景虎さまを救いにやって来た、景虎さまを救って再び長尾の家を再興させるのが我らの務めである、合力せよ」と言えば
鬼小島、秋山は大いに喜び、共に手伝うことを快諾した
「某が一人で勝手知ったる二の丸に忍び込み、景虎さまを救い出すから、三人はここで待ち受けて路地の敵を防ぐべし」と言って戸倉興八郎は赤裸になり太刀を履き、水門より忍び入り、敵の虚を伺い何なく二の丸に入り、板敷の下から景虎を救い出した。

再び水門に向かって堀に身を沈めたところに、たまたま見回りの番兵がこれを見つけた
しかし、この兵は手柄を我一人のものとしようと考え、仲間にも知らせず水門出口で槍を構えて待ち構えた
戸倉は水中にて早くもこれを察して、足を蹴って素早く浮かび上がると、番兵は乗ったりと槍を戸倉めがけて下ろしたが、戸倉は槍先の柄をつかむと同時に全力で引きづりこんだ、番兵はたまらず真っ逆さまに水門の中に落ちたところを戸倉が首を掻き切り、景虎を連れて三人が待つ場所へ行くと、三人は喜び、急いで景虎をひき上げた。
番兵たちは、ようやく物音に気付いて五人の方に向かって駆けだした
五人は「もはや遠くへ逃れるは難し、近くでかくまわれるところに参ろう」というと
「なれば長尾家の菩提所、林泉寺はいかが」と誰からとなく声があがった。



次回検査までにやっておくこと

2024年06月19日 19時39分30秒 | 病気と健康
 一昨日の久しぶりの雨で気温が下がり、30度越えの日々も二日にわたって涼しい日和となった
それなのに私は半袖ポロシャツで病院を訪れて2時間も冷房きいた廊下にいたから、寒くて仕方なかった。
今日はまた暑さがぶり返して日中は30度近くなった、だが日没前には東風涼しく、気持ちよく散歩が出来た。

医師の説明の中に冒頭で、私のS字直腸がん、別の患者の直腸がんの結果を並べて「yottinさんと、この患者さんは奇跡の患者さんです、部位は多少違いますが同じ状態なので、彼の患者さんの資料で説明します」
なぜ奇跡かというと二人共、きわめて肛門に近い手術だったが、人工肛門を免れたのが奇跡だという、そして回復が早い
これを聞いて私も、まだまだ「ツイてる」と神様に感謝するばかりであった
この先もきっと良い方に向かって進めるであろう。
私も守ってくれている、すべての力に感謝するばかりである。

人は生きていく上で直感に頼って道を行く人と、多くのデーターをもとに最良の道を探って進む慎重計画的タイプとがある
この他に人任せ、運任せで行くタイプもある、このタイプがもっとも多いだろう。
私がどのタイプかと言えば、臨機応変、都度変わるから直感に頼って進むタイプなんだろう。
でも肝心な場面ではデーター収集をして参考とする、というタイプなんだろう。
近いうちに、そのデーター集めに歩こうと思っている、大腸がんの先輩である食堂の親父と、86歳の寅子さんに会って抗がん剤投与の参考意見を聞こうと思っている、もう一人すい臓がんの大先輩もいるが(奇跡的に超初期に発見された)、さすがにレベルが違って参考にはできない。
迷う時は人の話を聞くことも大事だ。

気分転換に妹夫婦をも訪ねる、妹も明日はもう片方の目の白内障手術に行くが、前回の手術で視力0.1だったのが0.8くらいまで回復したと喜んでいた
私もいずれ近いうちに白内障手術をやることになるのかも
今年中に肺炎球菌ワクチンの接種もしなくてはならないだろうし、私の体も調整して優先順位を決めないと、なかなか忙しいことになって来た。

昨日、医師の部屋から出る前に質問を思い出して聞いてみた
「先生、いつから普通のご飯を食べられますか」
「ああ、それ! もういいですよ、何でも食べてください」
「ええ? ラーメン、牛肉もいいんですか?」
「はい、もう大丈夫です、なんでも食べてください、食べすぎないように」
「いやあ嬉しい、食べたかったんですよ、ラーメンに焼き肉」満面の笑みで
言ったら、先生も、傍にいた若い看護師も笑っていた。
今夜は冷やしそうめん、自家製牛丼ハーフを食べた。

一昨日の夕飯
上段緑の小鉢 つー君にもらったサニーレタスを湯通しして、キューリ千切り、玉ねぎみじん切り、鶏もも塩こうじ焼き、ハムをオリーブ油と塩コショウ、コンソメで炒めて、片栗粉を敷いてロールキャベツのように巻いて、蒸し器で蒸しあげたもの。 自家製干物、卵入り味付け七分がゆ




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (115) 長尾家 28

2024年06月19日 08時14分00秒 | 甲越軍記
 長尾為景には四人の男子がある、嫡男晴景、二男平蔵景康、三男佐平二景房、四男喜平二景虎である。
既に敵勢は本丸に攻め寄せ、城中に満ち満ちている
主だった城方は多くが討死していたが、晴景の周りには未だ屈強な旗本がこれを守り、「ここで反逆人の手にお屋形を討たしてはならぬ、一刻も早くここを落ち延びさせねばならぬ」と言えば
臆病風に吹かれた晴景はこれに従って、近習の士ら百五十人に守られて、金津勢が攻め入った搦め手門へ向かった
幸いに金津勢も多くが大手や本丸に向かって、ことのほか搦め手は手薄だったので、これに勇気を得た近習らは勇み出て敵を薙ぎ払い、脱出に成功した。

一方、府内の勇士は千騎が一騎になっても引くまいと奮戦する
中でも高尾遠江、斉藤佐々衛門は今日を限りと向かう敵を縦横に切り据え、薙ぎ伏せて柄も刃も折れるまでと討って回り、黒田勢の多くが討たれ数知れず
松本文吾、一柳主馬などの勇士も彼らのために討死する。

長尾佐平二景房は手勢三十を率いて追手の城門で戦ったが半数を討たれて、本丸に引き返す。
長尾平蔵景康は本丸に在って、今は兄、弾正左衛門を落して、今は心やすしと広縁の中央に立ち士卒を下知するところに佐平二景房が二十余人を率いて合流した
「敵は早くも本丸に至り、某もこの通りの手傷を負った、ここは某が承る故、兄上はここを落ちて、後日、憎き裏切り者の照田親子を討ち果たし賜え、ここは某が承り、快く討死仕る」
そうこう言ううちに、黒田の軍師、松田長門守が手勢を率いて本丸城戸に攻め込んできた
長尾勢の勇士、遠山八弥、鈴木総六郎、築地掃部、岡本孫六、片山新八郎、上田飛騨、真田竹丸、福富長門、矢作源蔵、下曽根ら五十余人かけあわせて、ここを破られまいと敵を討つこと数度
軍師松田は采配を振るい、兵を励ますと長柄の槍うち揃えて突きたて攻め寄せる、ついに遠山ら長尾勢は三十余人相次いで討死となる

松田勢は勢いを増して本丸に攻め込むと、これを見て黒田勢、神保に続いて打って入る。
長尾の近習、安原織部、薬師寺、綾部、酒匂兵庫、五太院、宮崎、佐用、江波、宍戸、上月、神戸、鹿目ら三十余人切っ先並べて敵を恐れず斬りまわる

黒田伊豆守はこれを相手とせず広縁に上がる、これを長尾勢の鬼小島弥太郎、戸倉三左衛門、秋山源蔵、金津新五ら十余人があがる敵を突きまくって、黒田の勇士牟礼忠左衛門を始め二十余人を討つと、黒田勢は恐れて近づく者なし
しかし黒田伊豆守、味方を二つに分けて自ら三十余人を率いて、引き違い南の廊下に回り、ここから広縁に上がって打って出る
このとき長尾景康の周りには僅か八人の近習ばかりとなり、景康も自ら戦うところに黒田和泉守が駆け寄り、太刀打ちとなった
火花を散らして討ち合うが、流石に黒田和泉は剛の者にて次第に景康は追い詰められ、憐れむべし、歳三十六歳、逆賊の手に討死する。



手術から三週間、次の段階に入って来た

2024年06月18日 17時34分19秒 | 病気と健康
 予約時間に病院へ行って、すぐに血液採取したものの、外科の前で待つこと2時間、やっと順番が来た
これは想定内
10年くらい前に母のMRI検査の時は、朝8時半の予約時間で行って、実施されたのが午後2時頃だったこともある
田舎の病院事情は、これが普通、検査機器が一台、医師も少ないでやむを得ない
だから田舎の住民もみな気が長くなるし我慢強くなる。

さて、手術をしてくれた外科医と二週間ぶりの再会、あいかわらず頼もしい風貌の50前後の先生だ。
血液検査の結果は全て良しで、順調に言っているとのこと、リンパ節への転移も無いという
だが、これで安心してはいけない、ガンのレベル判定には三つの基準があって、一つは忘れたが、これは問題ない、次のガン患部の状態であるが腸管の深く第三層まで達していたことで、これはレベル3
もう一つは他臓器への転位があるかどうか、これはまだ検査していない
MRI検査が必要、なぜ手術前にやらなかったかというと、その時点では私の腸の中には閉鎖部を広げるための金属の管が入っていたからである
このままMRIをやるとMRIは磁力で検査するため金属と反応して凄い熱が出るそうだ、その為に腸が焼けきれるのだという
それで、手術後に再検査をやることになった、それが24日、そして翌25日には大腸カメラを挿入してS字結腸より上部の大腸(ほぼ全部)の検査をすることになった、これで肺、肝臓、大腸の転移あるか無いかがわかる。

仮に転移が無いとした場合、先ほどの三つの条件の総合判断は、私のガンがステージ2ということに決まる。
これは3,4と違って抗がん剤治療が必要ないレベルなのだそうだ
これで喜んだのもつかの間、私の手術個所ではリンパ管や血管がいくつかあって、これはある程度のリスクなのだという
すなわち文句なしのステージ2ではなく、かなり3に近い2らしい。
これによって、抗がん剤治療が3のように病院が勧めるレベルではなく、患者本人が選択するレベルなのだそうで、「さあ、どうしましょう、手術後2か月以内に始めればよいので、しばらく考えてみてください」と言われた。
そして、この治療には様々な副作用があるそうで、手足のしびれから、包丁も持てない、ピアノも弾けない重症になる場合もあるし、白血球減少で耐菌性が弱まって病気を誘発するなどの危険もあるという
もちろん、大した副作用が無い人もいる、ただ世界中で大腸がんの人がこれを行っている
だが、これをやったからと言って、対ガンの数値があがるわけでもない、ある意味、むなしい作業でもあるが・・・ともいう
「でも、やらないより、やった方がいいんでしょ?」と聞いたら、「これで進行しない人は多くいます」程度の事しか言えないという
けれど、「健康体のyottinさんなら、やった方が良いと思います」とも言った
「友だちに二人、大腸がんの先輩がいるので、まずは抗がん剤治療体験を聞いてみます」と言ったら。「それがいいですね」と言った。

まあ、私の心は90%決してはいるがね、「可能性に賭ける」ですね
それに、これもまた未知の体験、あの手術も乗り越えたし、それに病院が好きになった気がするのだ。
治療法は最初の日だけ一泊入院でオキサリプラチンの点滴をする
そして退院後、家でゼローダという飲み薬を二週間服用する、そして一週間、薬を休む、その後、通院で点滴、また家で服用を4サイクルやるらしい
副反応が強めに出たら、そこで中止することも可能だというので、まずはやってみるしかないだろう。

付け加えれば、これはがん細胞をやつけるのでなく、がん細胞が無いから、万一の予防のためにおこなうのです。








退院後初めての外来診療

2024年06月18日 14時19分15秒 | yottin日記
 退院の時、外来予約券を渡されたのが今日の診察予約であった。
何が、どうなり、どのような話や診察があるのか、まったくチンプンカンプンだが少しの不安と、ワクワク感がある。

退院後、今日で2週間、相変わらず七分がゆ、全粥、柔らか野菜の食事を続けている
体重は入院前より6㎏、退院直後から1㎏減って62㎏弱になった
入院前の体重には腸内に在った不要物が2~3㎏含まれていたから、差し引けば3~4㎏減である
胃の下からのポッコリお腹が手術後、10cm近く減って、すっきりとなった、これが痩せたという言い方にもなるが、普通の体形になったということだ
ボランティアの会合でも女性陣から「すご~い、すっきりしたわね」などと言われて「惚れちゃいけないよ」と調子に乗って。「・・なわけ無いでしょ」とやり返された。
高校1年の時にはウェスト67cmだったんだから、明らかに中年太りしたんだな
同級生には高校時代とまったくズボンサイズが変わらないというのが居るから奇跡だね!

これから病院へ行ってきます。        つづく

今朝の朝食
ふろ吹き大根 自家製甘みそ 白菜の浸し サニーレタスと卵のオリーブオイル炒め 卵とコンソメの七分がゆ 卵麩と白菜の味噌汁 焼きタラコ




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (114) 長尾家 27

2024年06月17日 19時59分16秒 | 甲越軍記
 神保並びに越中諸将の起請文を見て、常陸介は心を決した
元より野心満々だった照田親子である、早々に味方を募ると。八条左衛門大夫、風間河内守、五十嵐小文四、野本大膳等と時節を計っていると、府内の諸将諸兵は相次いで三条征伐に府内を発向していった。
これにより、城内は空虚となり「これぞ天が与えた好機なり」と常陸介は喜び、兵を揃えて整え、天文十一年三月十三日の夜、にわかに府内の城を取り囲み、冑の兵らは一斉に城内になだれ込んだ。

城中では「すわ、なにごとぞ!」、晴天の霹靂、もってのほかに驚き、甲冑をつける間もなく、素肌の上に太刀を履き、城門に切って出て一人も城内に入れぬ構え、切っ先揃えて黒田勢を切って落とす
三度まで押しては引き、引いては押す展開に、黒田和泉守は大いにいらだち「不甲斐なき者めらめ、敵は素肌武者と言うに、ここまで支えられるとは、打ち入ることの遅かりし、悪清水はどこぞ、五十嵐やあるか、あれを蹴散らして攻め入れや」と馬を乗り回して下知すると、黒田勢の中より、悪清水主計、五十嵐左近、伊益藤九郎、藤波八郎、遠藤新一、片島鬼三、北川六助等の勇士十八人、太刀をかざし、槍をひねり、どっと声を上げて攻め入れば、勢いに押されて長尾勢は十六名まで討ち死にした。
この勢いに長尾勢は少し引けたと見るや、黒田和泉守は士卒を率いて、どっと攻め入れば、長尾勢も金津新五、松本半二、安田熊七ら勇士が口々に「これは君の御大事ぞ、いつまで命永らえん」と叫んで、黒田勢の中に切り込んだ
その激しい戦ぶりはすさまじき有様である
照田常陸介の勢も、黒田勢に続いて城中に攻め入り、本丸めがけて駆けのぼる
城方も必死にこれを防ぐが、敵は甲冑武者、こちらは素肌、心は猛っても人数に於いても劣勢なれば討死、手負いは数知れず、東西に別れ、南北に引き裂かれて囲まれ戦う
金津伊豆守、八条左衛門、野本大膳は搦め手より本丸を目指す
長尾勢の大半は大手口に戦っており、搦め手には僅かな兵が守るだけであった
敵の勢いに、搦め手はたちまち打ち破られた
長山半三、佐藤伝助、井口久作ら三十余人は敵を防がんと一文字に割って入り、群がる敵をものともせず、前後左右に追いまくり、敵五十余人を切って落とし、ついに全員討死する。

大将、長尾弾正左衛門晴景は物音を聞き、ただちに小具足に弓矢を手ばさみ、座敷に馳出て「敵は越中勢か、はたまた裏切りか」と問えば
近習の士、藤島晴丸馳帰り、「照田親子が反逆を企て候」と申すを聞き
「さては喜平治景虎が申せし言、真となったか」と悔やみ、近習の士に本丸を守らせて自身も防ぎ矢を放ったところに、二男平蔵景康もやって来た。




日本有数のミニ畑の近況

2024年06月17日 09時43分30秒 | 家庭菜園
 畳二枚分の一坪畑+畳半分の分室畑しかない我が畑
十坪強の庭を掘り起こして畑と花壇を作った、その周囲には前の持ち主が植えた梅の木、サルスベリ、紅葉、クロガネモチ?、牡丹、バラ、藤、ツツジ、アジサイ、スズラン、が狭い庭を彩る
クロガネモチは甘い樹液が出るというし、実はヒヨドリら野鳥の好物だという
今は朝のうちに様々な蜂が集まって来て、ブンブンとすごい羽音がする
足元にはチュン太たちが朝食中で賑やかな朝になっている



一昨日はドジャース戦が始まる前に一仕事、30分ほどかけて一人で防鳥ネットを張った、これでトマトなどが食いしん坊の鳥から守れるようになった
サイドは防虫ネットで囲ってある、但し受粉のために土面から50cmほどは空けて在り、その上からも防鳥ネットをかけた。


9m×3.6mの大きなネットを、高さ2m×横幅2m×縦幅2mで畑を覆うのだから一人ではなかなか苦労した。
力任せでなく、頭の中で完成図と手順を考えるのに2日を擁した
一番の難点は支柱がない2m×2mの天井部、高さも2mあるから、これが一番頭を悩ました、すでにスナップエンドウの頭は2mに達していたので、これを痛めるわけにいかず、足元もナス、キューリ、トマト、ネギ、スイカの蔓など大わらわで足の踏み場が無い
僅かな隙間に入り込んで、四方八方を動きながら少しずつ前後左右と縦の支柱に網をかけながら前進して完成させた
最後の仕上げまでは行っていないが、後はひもで支柱に括れば完成だ。

6月に入って、キュウリ6本、スナップ2枚が今のところの収穫だ
今年は去年来なかったアブラムシにスイカの葉がやられて、一部はキューリの葉にもやって来た
スイカが全滅すればこれは大ごとだ、だが化学薬品、農薬は使う気が無いし、第一大病の後のわが身も危うくなる
去年は初めてだったが無農薬でキューリ、スイカ、メロン、トマトなどが採れた、今年も無農薬でやっていく。
木酢水溶液で近づかないようにして、葉に着いた奴らはガムテープで除去する根気のいる仕事になるが仕方あるまい、どうせ暇な隠居の身だ。



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (113) 長尾家 26

2024年06月16日 19時45分11秒 | 甲越軍記
 城戸を叩く音に、番兵が出てみると怪しき男がそこにいた
番兵が咎めると男は「某は常陸介殿と同国の者で、松野小左衛門と申す者である見参申したく、急ぎここに参ったので、御取次願いたい」と言った
番兵は直ちに、これを常陸介に取り次ぐと、元来越前では深き友であったので、すぐに中に招いて、しばし別れたのちの話で時を過ごした。

そのうちに松野は常陸介の膝元ににじり寄り、小声で囁いた
「貴殿の存亡は此のときにありまする、某はこれを見るに忍びず密かにやって来て是を告げるのです、貴殿はこれを思慮なさるか?」
常陸介は眉を潜めて「某には何の思い当たるところが無い、今少し詳しく話し賜え」
松野は、さらに一歩進み出て言うには「貴殿父子が長尾家に在って朝日が昇る如く勢いを増していることは承知している、これは為景殿の寵愛深き故である、しかし為景殿が討死となられて、日頃から貴殿らの出世を苦々しく思って憎んでいた老臣たちは、貴殿らの没落を願い、それが今と思っている
新しい後主、弾正左衛門も父、為景に倣い貴殿らを頼りにするであろうが、性質愚にして、老臣を始め家臣たちは尊信せず、貴殿らを亡き者にせんと思う者で満ちている、これが第一の理由である
また越後に騒乱、謀反が起きているが、これはそれぞれが己の意のままに動き出したからである、それも為景殿が生前は従っていたが、尊敬して従ったのではなく、その威を恐れて従っていたのである、今や重しが取れてそれぞれが勝手に動き始めた、これは長尾家の存亡の危機である
三条の長尾平六郎殿が府中に攻め込めば、真っ先に血祭りにあげるのは貴殿ら親子であるのは間違いない、これが理由の二である」
これを聞いた常陸介は、真顔になり「ふっ」と一息吐いて、松野の次の言葉を待った。
松野は手ごたえを感じて、力を込めて「今、ここで貴殿が何もせずにいたら、某が申した通りになるであろう、早く心を決して人より早く旗を上げて味方を募ること、多くは日和見ゆえ先を打つものに従うのは道理である、勢力が整ったならば、直ちに三条に馬を走らせて、三条殿と心を合わせて府中長尾の勢を挟み撃ちにするのが最善の手である、三条殿も貴殿を頼もしく思い重んじるであろう、そして越後国を貴殿と三条殿で二分するのが最善策でありましょう」
常陸介は驚き、言葉も無く、されども心は動き始めた
松野は、更に畳みかけて「某は今、越中の神保殿に従っております、神保修理様は為景殿を謀りにかけて討ち取ったほどの名将であります、もし貴殿が立ち上がり府中の城を乗っ取るならば、必ずや後詰して力を貸すと申されております」


「虎に翼」花岡判事の餓死

2024年06月16日 06時24分31秒 | 昭和という時代
 一時、寅に恋慕の情を持っていた真面目で清廉潔白な花岡判事が「食管法」を守って飢え死にした。
一年間、米汁だけの食事を続けた挙句だという。
花岡判事のモデルは大分出身の山口良忠判事である、亡くなった時は34歳だったそうだ。

昭和20年8月、日本はアメリカ、中国、英、仏、蘭、豪などとの戦争に負け、アメリカに国土を占領されて食糧難の時代を迎えた。
アメリカ支配下の日本政府は「食糧管理法」を制定して、米や主力食材を国がいったん吸い上げて、それを国民に平等に(眉唾?)配給した(配給制)
そうはいっても農家だって、苦労して作った米、野菜を「はいはい」と100%政府に出すわけがない、当然我が家が不自由しないだけの米は隠しただろう
政府も。そこらあたりは目をつぶったに違いあるまい。

ともあれ、配給された米や食糧だけでは空腹を満たすことが出来なかったのは間違いなく、それを実践して餓死したのが法を執行する立場の山口判事だったのだ。
逆に言えば、政治家も法律家も警官も闇米を食っていたということだ。
農業の非生産的な都市部の住民は宝石や高価な着物などを持って、田舎の農家を訪ねて米と交換してもらったという
そうして、やっと手に入れた米、野菜は駅で待ち構えている警察の摘発で多くが没収された、泣きの涙である。
こんな状況下で小平事件のような連続性犯罪まで起きた時代である。

父は昭和23年、23歳であったが、当時東京調布で軍隊時代の上官に誘われて、終戦後から倒産すれすれの農機具店から農機具を安く買い取り、農家に売る農機具販売(と言えば聞こえは良いが、詐欺まがいの商法であり、目的は米を得る手段であった)
その後、これを批判した湯たんぽ製造会社の社長に気に入られて、湯たんぽを新宿の闇市で売る仕事に転職した
だが当時の東京は金はあっても、若い男一人では暮らせない事情があったらしく、北陸に僅かな伝手を頼りにやって来た。

有力者の手づるも、信用も無い東京育ちの若者が簡単に職を得ることはできず、たまたま知り合った魚市場の番頭さんの情けで、山間部の農業地帯に魚売りに行くことになった。
闇市経験で、ちょっと斜にかかった言葉遣い、都会的な父は山奥の農家のおんな衆にたちまち人気となって、商売も順調であった。
もっとも背中に缶一つ担いでいくだけの魚だから売り上げは知れているが、戦後のインフレでお金の価値など一日ごとに下がっていく時代だった
何といっても米がお金の何倍も価値あるものだった。
父は魚と米の物々交換というスタイルを築いた、田舎で得た米を町場で売る
しかも家でも食べられるから一石二鳥、25年に生まれた私も生活は貧しかったが、食べ物に不自由した経験はない。

但し、父はたいへんだった。
都会同様に警官が闇米取引に目を光らせていた、わが家と山奥の村の中間に谷筋で一番賑やかな集落があって、そこに駐在が居た。
これまた若いのだが頑固で職責に忠実な警官、父は余裕があれば山の中の道を通って、警官に会わずに済むが、なんせ道が悪い上に遠回りだ
だから米が多い時などは、駐在所の村を急いで通る、それを見つけて警官は自転車で追いかけてきて没収される

父は三回目の没収の時、ついに牙をむいた
開き直って「全部持って行け、俺も今日で闇米商売は辞める、辞めたら閑になるから、おまえの家を毎日監視する、おまえや、おまえの家族が一粒でも闇米を手にしたら、ただでおかないからな」と啖呵を切った
戦後の闇市で生き抜いた父だからこそ言えたセリフだった
警官はだまって缶に蓋をして「行け」と言ったそうだ
それ以来、二度と捕まることは無かったそうだ
父の頭の中にも昭和22年の山口判事の飢え死にがデーターとしてあったのだろう、そんな時代だった。

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