この三条長尾家に金津新八という士が仕えていたが、彼は景虎の幼き時からの守役の金津新兵衛の弟である。
新八は近頃の主人平六郎の暴悪を憎み、しかもこれから討とうとしている景虎に従う唯一の従者が兄であることを知り、この危機を知らせねばと百姓に身をやつして、浄安寺に走り、このことを告げた。
景虎は、これを聞いても少しも慌てず「さようなこともあろうかと思っていた、速やかにここを出て府内に戻ることとしよう」と言って、新兵衛と寺を去った。
その後に間もなくして股野荒河内が三十人の士卒を率いて馬を飛ばし、浄安寺に着き、寺内をくまなく調べたがどこにも景虎主従の姿は無かった。
「これは気が付いて既に逃亡したのであろう、ここで取り逃がしては館に顔向けできぬ、直ちに街道を追って、何が何でも首を取らねばならぬ」と揉みに揉んで後を追った。
景虎と新兵衛は道を急いでいたが、こちらは徒歩である
まもなく後方から馬の集団の音が聞こえ、土埃舞い上がる姿さえ見えるようであった
「さては進退ここに極まった」と景虎は言い、新兵衛を密かに農家の小屋に隠れさせて、自分は近くに居たみすぼらしい孤児らしい少年に声をかけた
「そなたの着物と儂の着物を取り換えようではないか」と言って、早くも脱ぎだすと、孤児は喜び、きらびやかな衣装に手を通した
景虎はシラミまみれの、つぎはぎだらけの上に、なおも破れたる汚れた衣を身に着け、髪を乱れさせた。
そして孤児に、「そなたは、この街道を西に向かって急ぎ足で歩いてゆくが良い、かならずや良きことが待っているであろう」と言った
孤児は喜び勇んで街道を走って行った。
景虎は辺りを見回すと、少し高い山際に辻堂があるのを認め、そこに入って内から石を当てて戸を閉めた
そして忍んで街道を見れば、先を行く孤児の跡を馬を走らせた武士が近づくと韋駄天の如くたちまち追いつき、白刃一閃の早業、声も無く童の首と胴は真っ二つに分かれて倒れた。
荒河内は童の首を衣の袖に入れて、勇み立って馬首を翻して一団となって去っていった。
景虎と新兵衛は頭が無い孤児の遺体をねんごろに葬り、「われが世に出た際には、厚く弔いを致すゆえ許し賜え」と言って、その場を去った。
府中に着いた景虎一行は、まずは屋形兵庫守にまかり出て挨拶をした
兵庫守は景虎の才覚を愛していたので、晴景に景虎を府内の城中に住まわせるよう命じた、以後兄の養育を得ることとなった。