神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

車と仕事とドライブ

2024年06月28日 20時42分24秒 | ライフスタイル
 74歳になった、私と自動車との付き合いも長い
自動二輪の免許を取って57年、普通自動車免許が56年、大型免許は38年になる
いずれも趣味のためと言うより、仕事のためにとったという方が正しい
高校生の時には家業の配達のためにとった自動二輪と普通免許
それまでは自転車で配達していたから、足腰はそれで強くなったともいえる
家業は魚屋+仕出し店で魚の配達を手伝っていたが、自動車免許を取ってからは仕出し料理の配達も手伝うようになった。
板前修業に行った時も、傍らその店の仕出し配達もした
個人宅への法事や祝い事の料理を運んだり、寺へも法事や葬式料理を20人前、30人前と運んだ、御膳一式すべて届ける時代だった
もっと大変だったのは、結婚式場への配達で、これは普通でも50人前以上だったからワンボックス営業車で二台くらいで運んだ、一人前が9品、それに籠盛りも人数分運ぶ、それに一の膳、二の膳も人数分、更に銚子、盃、はかま、箸、風呂敷まで届ける
しかも部屋に配膳までしてくる、今思えばよくやったものだと思う
結婚式が終われば30分以内で片づけをしなければならない、次の夜の部の披露宴の準備があるからだ
残物を全て処理して、皿、御膳すべて回収してくる、式場の仲居さんたちが片付くのを待っていて終わると同時に換気、掃除、準備を行うからうかうかしていられない。

寺の場合はお御堂で配膳してくるが、法事を行っている間に控えの間か、御堂の裏の狭い仮納骨室で料理を膳に配膳するのだ
それは、御膳を縦に7つくらい重ねて、御膳の足の間から5品を差し込んでいくという技で、それもすぐに慣れた。
二の膳には4品を入れていく。

大型免許はマイクロバスを運転するためにとった、お客様の送迎だ、板前をしながらバスの送迎もした
だから忙しいこと忙しいこと、毎日が時間との戦いだった、38年間、いろいろな職種の送迎バスの運転をしたのだったが、70歳でやめた、来年の書き換えでは大型免許は返還する。
人を乗せる運転だったから、普通車でも人を乗せていると安全運転に気を遣う
だから割と私の運転は「がっつん、ごっつん」にならないから安心感があると言われることが多い。

観光旅館の仕事の時には、県をまたいでの送迎もたまにあった、そんな時は片道100km以上を送迎したこともある
また上田市の老人会から送迎依頼もあったが、さすがに何かがあれば困るので、それは中止になった
取引があった富山の旅館業者などは毎日のように群馬県まで送迎していて、手伝いを頼まれて行ったこともあったが日帰りと言う強行軍で一回きりで社長が断った。

結婚式場の仕事の時には、特に気を使った、何より自分の服装も決めていかなければならないし、ヘアスタイルから話し方まで注意が必要だった
当然板前兼用と言うわけにはいかず、運転手専門だった、これも県をまたいでの送迎が度々あった
送迎以外は暇が空くので、披露宴の裏方を手伝う、新郎新婦の入場の時にドライアイスの演出があるが、あれを担当した
2会場掛け持ちもあった、30分差なので会場から会場への移動、ドライアイスの取り換えや温湯の管理など、慌ただしかった。
でもきれいな花嫁さんを見ることが出来たのは嬉しかった、キャンドルサービスの時にはスポットライト係をして、新郎新婦を追った
同時に調光の仕事もあるので幾つもある調光器のボタンを薄明かりで見定めてやるのもテクニックが必要だった。

仕事と車はこんな風だったが、趣味のドライブも楽しんだ
マイクロ運転は、同級生旅行、友達との旅行、ボランティア団体と、ほとんど自分から買って出て運転した、とにかく運転するのが好きで好きで仕方ない
一日300~400km平気で走っていた。
乗用車だと日帰りで600kmくらい走ったこともある
74歳の今でも1日200kmは肩慣らしで、300kmくらいは走ることができる
というより走りたい、でも50代ころのように400kmも走れば、流石に下りた時フラフラする、途中で足に痙攣が来ることもあるし眠気もでてきた
見学しながら一日250kmくらいが一番良さそうだ。

人生を振り返ってみれば冠婚葬祭と、料理と、観光の仕事ばかりだった、ある意味、動的な部分で自分に合っていた仕事を形を変えながらやっていたと言える
静的な部分で考えれば、恐竜や宇宙の学問か、歴史研究、物書きをして見たかった、あるいはゲーム作り(当時はボードゲーム)または確率とかデーターの活用ができる仕事・・・いまさら、詮もないが。

80歳まではドライブを続ける気持ちである。








「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (124) 長尾家 37

2024年06月28日 09時33分07秒 | 甲越軍記
 さて、二郎吉と別れた景虎一行は、いよいよ甲斐国に入り、あまねく地理を調べて白峰にさしかかる。
ところが深い山道で迷い、道を失い行けども行けども、獣道すら見えない森の中に入り込み、もはや見えるのは木々の重なり、背丈を超える木草、蔦は絡み、枯れ木は足を痛め、木々の枝は目丈にあって顔を打つ
上を見ても覆い茂る木の葉、幾重にも重なり高低さえもわからず、昼なのか夜なのかもしれず、かすかに木々の合間からこぼれる光、あるいは星の瞬きで、昼夜を知る。
草露を飲み、樹汁をすすり、草の実、木の実で飢えを凌ぐ
すでに日数は5日を超えて、いまだ道は見えず、木こりの一人にも出会うことがない

さすがに主従壮健といえども、足は疲れ気根も費える頃、谷の彼方に、一筋の煙たなびくを見た
大いに力を得て、そこを目指すが行けども行けどもたどり着かず、相変わらず谷と崖が交互に現れ、谷を渡る道も見えず途方にくれた
そのとき傍らの崖に緑樹の天然の枝が谷を越えて伸びるを発見して「これは究極の天然の吊り橋也」と、まず曽根平兵衛が蔓を伝って、谷を渡れば、続いて景虎、鬼小島、戸倉、秋山、益翁の順に曽根に続いて谷を越えた。

かろうじて彼の小屋を見つけて中に入った
中には老人夫婦と十八、九くらいの壮士が住んでいた
一行は、これまでの成り行きを話して道を問う、囲炉裏を囲っていた三人は驚き、「この土地は、木こり、山賊も入らぬ深い山奥でつつがなく人の入れる場所ではないのだが、けがも無く着いたとは驚くばかりであります、今宵はここに泊まり疲れを休めたまえ」と親切に言ってくれた。
一行も、今日の旅立ちは無理と知り言葉に甘えて泊ることになった。

あれこれと旅の話をしながら、景虎は家の隅ずみまで目をやると、傍らに弓、槍、太刀、具足が見えたので「何かの由緒でもあるのか」と問うと
老人は「されば申そう、某はかっては越後国上杉家の家臣で荒川伊豆と申す者である、馬にもまたがる身分であったが、去る永正六年、長尾信濃守と府内に於いて合戦の時、敵のために手足を射られて、不具の身となり自由に戦もできず、功なく禄を食むのは恥と思い、この地に引きこもった次第である
某が、このような暮らしになったのは身から出たさびであるが、ここに在る息子は何の罪もなくわれら夫婦を助けているが、元来は人並みの働きをもって、良き主に仕えるべき壮士であるがゆえ、心苦しく思っています」
それを聞いて、景虎は
「さては、上杉の家臣であったのか、我は敵将、長尾為景の子、長尾景虎である」と次第を語り
「今にては代も変わり、上杉、長尾和睦もなり何のはばかりもない、壮士われに仕えて見ぬか」と申せば老人は大いに喜び「願っても無いこと」と彼の身を預けるに同意した。

早速に主従の約束を交わし、これよりどこまでもお供しますと誓った
景虎は、この壮士に荒川吉蔵という名を与えて翌日早朝に旅立った
吉蔵を先頭に案内させて千じんの谷を下ること数か所、吉蔵は草を抜くように大木を引き抜いて橋を作り、猛獣襲ってくれば、これを退治して道を案内した
(吉蔵は後に、荒川伊豆守となり、永禄の年に川中島合戦に加わり、武田信玄と太刀打ちして討ち死にしたのはこの吉蔵である)
ようやく甲斐の村々に至り、その後は甲斐国の地理を調べ、各所の砦、城郭についても、その強弱、武備、軍場切所を調べて、ついで出羽、陸奥の国まで巡覧して十月に至って栃尾の城に戻った。

本庄美作は景虎が無事に戻ったことを大いに喜び
「さては敵方に捕えられたのではあるまいかと、大いに気を揉んでいたところ、かくもつつがなく戻られるとは、かえすがえすも嬉しきことなり、これは長尾家の御運を開かれるべき神仏の守護でありましょう」と言い
早速に宇佐美駿河守にも伝えれば、ただちに栃尾にやって来て、これを祝した
景虎も晴景に会って義兵を催す約束を取り付けたこと、諸国を巡って地理、軍備、兵の強弱などを調べ上げたことを話せば、本庄、宇佐美ともに驚き
「いかさま、御大将こそ東国、北国を斬り従え天下に名を成す無双の名将となられるであろう」と喜ぶこと限り無し。