見もの・読みもの日記

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翻訳された風景・亜欧堂田善/府中市美術館

2006-03-12 21:51:21 | 行ったもの(美術館・見仏)

○府中市美術館 企画展『亜欧堂田善の時代』

http://www.art.city.fuchu.tokyo.jp/index.html

 亜欧堂田善(1748-1822)は江戸後期の銅版画家、洋画家。高橋景保の『新訂万国全図』の作成者でもある。私は、つい先日、天理ギャラリーの『幕末明治の銅版画』で彼の作品に出会い、名前を覚えたばかりである。

 この展覧会でも、会場に入るとすぐ、江戸の名所絵を集めた『銅版画見本帖』が広げてあって、目を引く。奥行きを強調する、極端なまでの遠近法。小さく描かれた人の姿。その結果、まるでローマ遺跡の円柱のように聳え立つ樹木。描かれているのは「佃島」とか「吉原大門」とか、浮世絵でお馴染みの風景なのに、不思議なもので、描画の技法が違うと、「日本でない、どこかの風景」を見ているような気持ちになる。日本語であって日本語でない――明治の翻訳文学の世界を可視化すると、こんな感じになるのではないか、と思った。

 しかし、田善の銅版画には、時として、新しもの好きの驚異以上のものを感じさせる。たとえば、上記『見本帖』の「品川」で、海の見える座敷にひとり佇む痩身の女性には、静謐な情緒が漂っている。

 亜欧堂田善は奥州白河藩(福島県)の生まれ。子供の頃から絵が好きだった。藩主松平定信に認められ、御用を務めるようになったのは47歳のときだという。ずいぶん遅いスタートである。洋画の技法を学ぶため、司馬江漢(田善より1歳年上)に入門するが、すぐ破門されたと伝えられている。江漢が、田善の鈍重さを嫌ったためともいう。

 うーむ、分かるなあ。司馬江漢って江戸っ子だもんね。そして、江漢(関係ないが、この名前は”江湖好漢”から取ってるのかなあ)の洋風画は上手い。誰にでも分かりやすく上手い。歴史の教科書に「洋風画の開拓者」として載せるのは、やはり江漢の作品でなければならない。

 一方の田善。このひとの絵はヘンだ。技術者としては器用だったのかも知れないが、画人としては、鈍重といわれても仕方のない面があったのだろうと思う。しかし、その素人っぽさが、彼の絵に奇妙な魅力を与えている。それは、とりわけ、田善の油彩画に顕著である。愚直に写実的でありながら写実を超え、江戸の町を描きながら、どこでもないネバーランドの光景を描き出してしまった。その魅力は、アンリ・ルソーの絵に少し似ている。緑色が印象的な点でも。

 司馬江漢に破門された田善は、松平定信のお抱え絵師である谷文晁に学んだ。また、定信やその周辺の蘭学者のもとで、西洋の書物に接し、挿絵から銅版画を学んだらしい。『西洋公園図』『ゼルマニア廓中之図』など、風景・人物とも、西洋そのままの模写も残している。

 また、当時、フランスでは「ジュイ(地名)の更紗」と呼ばれる、銅版画をプリントした更紗が人気だった。田善はこれを真似て、自作の銅版画をプリントした帛紗(ふくさ)や帽子や煙草入れを作っている。帽子のプリントに使われた銅版画は、その元ネタとなった挿絵のあるオランダ語の本まで分かっている(静岡県立図書館蔵←南葵文庫←松平定信旧蔵本なのかしら?)。

 さて、この展覧会の後半は、田善と同時代に生きた画家たちを紹介している。実はその中に、東博の特集陳列『幕末の怪しき仏画』で一部にブレイク中(?)の、狩野一信の五百羅漢図の1枚(増上寺蔵のホンモノ)が出品されている。しかも、数ある中から、『日本美術応援団:オトナの社会科見学』(中央公論社 2003.6)で取り上げられていた1枚が出ているのが嬉しい。正直にいうと、私はこの1枚を見るために来たのだが、はからずも、亜欧堂田善という画家にハマってしまった。

 それから、若い頃の田善の師匠、月僊(月遷)もいい。もう1人、全く知らなかったが、安田雷洲という画家もいいなあ。『赤穂義士報讐図』という作品では、討ち入りの後なのだろう、大石内蔵助と思しき人物が、吉良の首を、赤子をあやすように抱いて微笑んでいる。周りの義士たちも嬉しそうだ。キリストの誕生を思わせる構図だが、あまりにもあやしい。江戸の画人たち、あなどれない。

※2023/2/26補記:展覧会名『亜欧堂田善の世界』の誤りに気づき、『亜欧堂田善の時代』に修正。会期は、2006年3月4日~4月12日。

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