先週末、突発的に関西方面に行こうと決意した理由は、この講座である。清の最盛期に君臨した乾隆帝には、もともと好印象があった。中国の通俗テレビ時代劇の影響が大きい。講座の冒頭で、塚本さんも触れていたが、乾隆帝というのは、日本でいえば、暴れん坊将軍吉宗や水戸黄門のように、「弱きを助け、強気をくじく」絶対権力者として、今なお大衆に親しまれている存在なのである。
けれど、今夏の中国旅行で訪ねた乾隆帝陵の地下宮殿の有り様は、通俗的な乾隆イメージを吹き飛ばしてしまうような衝撃があった。この人の実像が知りたくなって、ひとつは平野聡さんの『清帝国とチベット問題』(名古屋大学出版会 2004)を読み始めた(実は関西旅行にも携行して、新幹線の車中でずっと読んでいた)。もうひとつ、この日曜講座の存在をネットで見つけて、聴いてみたくなった。
私は、「東アジア最後の文人皇帝」という題目であるから、乾隆帝の漢字・儒教文化圏寄りの一面に比重を置いた話になるのだろう(平野聡さんの著書が論じているような、多文化統合的な面には触れないだろう)と、勝手に予想していた。「乾隆帝の文化帝国」というのも、もっぱら中国(漢民族)趣味の書画骨董でイメージしていた。
しかし、予想は楽しく裏切られた。女真族、漢族、モンゴル、チベット、ウイグル等の他民族が共生する「大清」の帝王であった乾隆帝の姿が、さまざまな具体的な図像で示されたのは面白かった(甲冑姿の騎馬像もそのひとつで、西洋における君主像を演じてみせたのではないか、という)。
乾隆帝には、東アジアの文化的辺境(女真族)の出身でありながら、大中華の帝王となったことに「強い文化的矜持とコンプレックス」があった。そのことが、旺盛で徹底した各種の文化政策(叢書・カタログの編纂や名品の模写・摸造による、中国歴代芸術の価値付け、ヒエラルキーの再編)の根底にあると思われる。
日本人が教科書で教わる「世界史」では、清(女真族)は漢民族を征服しながら、次第に「漢化」し、中華(漢民族)文明の中に飲み込まれてしまったと考えられている。しかし、清が漢化すると同時に、中華文明そのものも、乾隆帝の関与によって作り変えられたのではないか。そして、いまの我々が享受している「中華文明の精華」とは、実は「乾隆帝の文化帝国」の価値体系なのではないか。
近代以降の東アジアでは、大量の文物が国や地域を越えて移動するようになった。その一部は、帝国主義的な戦争を契機とする接収や略奪によるため、今なお、各地で文化財の返還要求問題を起こしている。しかし、考えようによっては、「乾隆帝の文化帝国」は、文物の移動とともに、不可視の帝国となって拡散し、今やアジアを越えて世界を覆いつくしているのではないか。だとすれば、東京で、ロンドンで、ニューヨークで、中国の書画骨董に魅了される我々は、今なお、文化帝国の盟主・乾隆帝に拝跪しているのかもしれない――そんなことを思った。
中国では、易姓革命の思想によって、歴代王朝が交代してきた。だから、乾隆帝も、いずれ「清朝の終わり」とともに、自分の築き上げたコレクションが、崩壊し、拡散していく運命にあることを、自覚していたと思われる(清朝最盛期の皇帝なのに!)。だからこそ、彼は、お気に入りの名品に、何度でも倦むことなく「跋」(批評・感想)を書き加えたのではないか。
うーん。この話は印象的だった。直前に読んでいた、井上章一さんの『夢と魅惑の全体主義』で、ヒトラーが第三帝国の建築について「いずれは美しい廃墟となるような建築」を目指していたことと重なるような気がした。「滅びるもの」と「滅びないもの」について、いろんなことが考えてみたくなった。
最後になるが、講師はとてもお若い学芸員の方で、「今日が日曜講座のデビューです」とおっしゃっていた。機会があれば、またお話を聴いたり、著作を読んだりしてみたい。