見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

秘仏と書画の旅(2):日曜美術講座(大和文華館)

2006-09-30 10:46:40 | 行ったもの2(講演・公演)
○大和文華館 日曜美術講座(9/24)塚本麿充『東アジア最後の文人皇帝・乾隆帝の文化帝国建設計画』

 先週末、突発的に関西方面に行こうと決意した理由は、この講座である。清の最盛期に君臨した乾隆帝には、もともと好印象があった。中国の通俗テレビ時代劇の影響が大きい。講座の冒頭で、塚本さんも触れていたが、乾隆帝というのは、日本でいえば、暴れん坊将軍吉宗や水戸黄門のように、「弱きを助け、強気をくじく」絶対権力者として、今なお大衆に親しまれている存在なのである。

 けれど、今夏の中国旅行で訪ねた乾隆帝陵の地下宮殿の有り様は、通俗的な乾隆イメージを吹き飛ばしてしまうような衝撃があった。この人の実像が知りたくなって、ひとつは平野聡さんの『清帝国とチベット問題』(名古屋大学出版会 2004)を読み始めた(実は関西旅行にも携行して、新幹線の車中でずっと読んでいた)。もうひとつ、この日曜講座の存在をネットで見つけて、聴いてみたくなった。

 私は、「東アジア最後の文人皇帝」という題目であるから、乾隆帝の漢字・儒教文化圏寄りの一面に比重を置いた話になるのだろう(平野聡さんの著書が論じているような、多文化統合的な面には触れないだろう)と、勝手に予想していた。「乾隆帝の文化帝国」というのも、もっぱら中国(漢民族)趣味の書画骨董でイメージしていた。

 しかし、予想は楽しく裏切られた。女真族、漢族、モンゴル、チベット、ウイグル等の他民族が共生する「大清」の帝王であった乾隆帝の姿が、さまざまな具体的な図像で示されたのは面白かった(甲冑姿の騎馬像もそのひとつで、西洋における君主像を演じてみせたのではないか、という)。

 乾隆帝には、東アジアの文化的辺境(女真族)の出身でありながら、大中華の帝王となったことに「強い文化的矜持とコンプレックス」があった。そのことが、旺盛で徹底した各種の文化政策(叢書・カタログの編纂や名品の模写・摸造による、中国歴代芸術の価値付け、ヒエラルキーの再編)の根底にあると思われる。

 日本人が教科書で教わる「世界史」では、清(女真族)は漢民族を征服しながら、次第に「漢化」し、中華(漢民族)文明の中に飲み込まれてしまったと考えられている。しかし、清が漢化すると同時に、中華文明そのものも、乾隆帝の関与によって作り変えられたのではないか。そして、いまの我々が享受している「中華文明の精華」とは、実は「乾隆帝の文化帝国」の価値体系なのではないか。

 近代以降の東アジアでは、大量の文物が国や地域を越えて移動するようになった。その一部は、帝国主義的な戦争を契機とする接収や略奪によるため、今なお、各地で文化財の返還要求問題を起こしている。しかし、考えようによっては、「乾隆帝の文化帝国」は、文物の移動とともに、不可視の帝国となって拡散し、今やアジアを越えて世界を覆いつくしているのではないか。だとすれば、東京で、ロンドンで、ニューヨークで、中国の書画骨董に魅了される我々は、今なお、文化帝国の盟主・乾隆帝に拝跪しているのかもしれない――そんなことを思った。

 中国では、易姓革命の思想によって、歴代王朝が交代してきた。だから、乾隆帝も、いずれ「清朝の終わり」とともに、自分の築き上げたコレクションが、崩壊し、拡散していく運命にあることを、自覚していたと思われる(清朝最盛期の皇帝なのに!)。だからこそ、彼は、お気に入りの名品に、何度でも倦むことなく「跋」(批評・感想)を書き加えたのではないか。

 うーん。この話は印象的だった。直前に読んでいた、井上章一さんの『夢と魅惑の全体主義』で、ヒトラーが第三帝国の建築について「いずれは美しい廃墟となるような建築」を目指していたことと重なるような気がした。「滅びるもの」と「滅びないもの」について、いろんなことが考えてみたくなった。

 最後になるが、講師はとてもお若い学芸員の方で、「今日が日曜講座のデビューです」とおっしゃっていた。機会があれば、またお話を聴いたり、著作を読んだりしてみたい。
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独裁者は廃墟を夢見る/夢と魅惑の全体主義(井上章一)

2006-09-27 22:21:52 | 読んだもの(書籍)
○井上章一『夢と魅惑の全体主義』(文春新書)文芸春秋社 2006.9

 著者紹介を見て、笑ってしまった。「国際日本文化研究センター勤務」「評論家」とあるだけで、何が専門とも書いていない。そうだろうなあ、霊柩車からラブホテルまで、最近はジャズピアノにも手を染めている、多芸多趣味なおじさんだもの。しかし、『つくられた桂離宮神話』(1986)や『法隆寺への精神史』(1994)から読んできた私にとって、やっぱり、著者は建築の人である。

 本書の主題は、「建築を愛した独裁者/独裁者に愛された建築」である。古代ローマに自らの帝国を重ね合わせようとしたムッソリーニ。プロイセン=ドイツ帝国を凌駕しようとしたヒトラー。そして、スターリンのモスクワ、蒋介石の南京、毛沢東の北京でも、都市建築は、過去の栄光を想起させ、未来のビジョンを与えることで、民衆の熱狂を誘い出すための重要な装置だった。

 しかし、日本ファシズム下の建築が、こうした「夢と魅惑の装置」であった形跡はない。戦時日本には、総動員体制のリアリズムだけがあった(私なら、貧乏人リアリズムと呼びたい)。鉄鋼の消費を抑えるため、東京の官庁街には、安っぽいバラックばかりがつくられた。意匠を凝らした建築は贅沢品として敵視され、明治の名建築(たとえば鹿鳴館)も、この時期に壊されてしまった。ここには、日本ファシズムとヨーロッパのファシズムとの、明らかな差異が見て取れる。著者は、建築の扱われ方を、政治体制の性格を考える、ひとつの指標と考える。

 一方、建築は「時代や政治をこえてはばたく生き物」でもある。たとえば、共産党政権がモスクワに設けようとしたソビエト・パレス。その落選案には、モダンデザイン上の傑作として知られるル・コルビュジェの作品もあった。戦時下、日本建築学会が行った「大東亜建設営造計画」コンテストで、1位を獲得したのは、若き日の丹下健三だった。彼の応募案は、富士の裾野に壮大な忠魂神域を造営するもので、平面計画(2つの台形をブリッジでつなぐ)には、ル・コルビュジェのソビエト・パレスの影響が強いという。このコンテストは、そもそも実現を度外視したものだったが、丹下は、戦後、広島の平和記念公園のコンペに、再びソビエト・パレスふうの平面計画を採用している。さらには、イタリアのファシスト政権が計画していた新都市EUR(エウル)の特徴的なアーチも取り入れられている。

 共産主義もファシズムも、大東亜共栄圏も戦後民主主主義も、全て踏み倒していくような、建築家・丹下のふてぶてしさが印象的である。

 建築を含む空間演出に、最も熱心だった独裁者はヒトラーである。1936年のナチス党大会では、130本のサーチライトが用意され、虚空に「光の神殿」を描き出した。これは、ニューヨークの9.11テロの追悼式典において、光のツイン・タワーを出現させた趣向に受け継がれている(上記のナチス党大会も9月11日だった、というのは、因縁話めいているが興味深い)。

 ヒトラーについて、印象的だったことを、もう1つ。党大会場を設計したシュペーアは、同時に「この会場が廃墟になったときの様子」を描いて、ヒトラーに示した。側近たちは、この絵を冒涜的だと感じたが、ヒトラーだけはシュペーアの意図を正確に理解した。「いずれは美しい廃墟となるような建築を、第三帝国はうみださなくてはならない」。ああ、真の独裁者とは、自分の帝国が廃墟となる日をどこかで確信しているのだなあ。なんという、甘美な夢か。
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文楽・吉田玉男さんを悼む

2006-09-25 23:31:00 | 見たもの(Webサイト・TV)

○読売新聞(関西発):吉田玉男さん死去 文楽人形遣い、人間国宝 87歳

http://osaka.yomiuri.co.jp/bunraku/news/bn60925a.htm

 昨夜、旅行から帰って、ネットを立ち上げてびっくりした。「吉田玉男さん死去」の文字を見て、ああ、とうとう来るべきものが来た、と思った。

 吉田玉男さんへの哀悼を表すために、今日は、文楽のことを話そうと思う。私が文楽を初めて見たのは「高校生のための文楽教室」だった。ところが、これが面白くなかった。『塩原多助一代記』だもの、辛気臭いったらありゃしない。どうして、お染久松とか八百屋お七とか、高校生が胸をときめかすような演目を選ばないのか。教育的な配慮なのかなあ。

 とにかく、文楽の第一印象は、ものすごく悪かった。それから数年後、大学(院?)生のとき、友人が、留学生を文楽公演に連れて行くという。一緒に行こうよ、と誘われて、え、文楽なんて面白くないよ、と思いながら、しぶしぶ付いて行った。このときの演目が『近江源氏先陣館(盛綱陣屋)』。盛綱を遣っていたのは、たぶん吉田玉男さんではないかと思う。

 2回目の印象は、なかなか良かった。それで、次の機会には、私のほうから友人を誘った。そして見に行ったのが『曽根崎心中』である。これは、ものすごい体験だった。幕が下りたとき、私は衝撃と感激で、体の力が抜けてしまって、すぐに椅子から立てなかった。徳兵衛がお初の足を自分ののどにすりあてるという印象的な演出が、玉男さんの創意だということを、私は今日のニュースで初めて知った。あのときの徳兵衛役も玉男さんだったに違いない。しかし、私が、人形遣いや大夫さんの顔と名前を覚えるのは、まだこのさきのことである。

 それから、1980~90年代にかけて、大学院を出て就職し、またアルバイト生活に戻り、別の仕事に就くなどの転変の間、私はずっと文楽を見続けた。まわりに賛同者はいなかったが、気にせず、ひとりで国立劇場に通った。家の中では、いつの間にか、母親が(のちには父親も)私に感化されて文楽ファンになってしまった。

 吉田玉男さんといえば、やはり立ち役のイメージが強い。それも、男性的な悲劇の主人公、文七のカシラを使う役。『義経千本桜』の平知盛とか『絵本太功記』の光秀とかね~。一方で『冥途の飛脚』の忠兵衛とか、『傾城反魂香』の吃又とか、欠点だらけの卑小な姿をさらけ出した庶民の役にも、得も言われぬ味わいがあって、好きだった。

 かなり晩年だと思うが、『女殺油地獄』で、立女形に定評のある蓑助さんが、与兵衛を演じ、玉男さんが、殺される女房お吉を演じたことがある。これも衝撃的だった。濡れ場みたいに色っぽかったのが忘れられない。

 しかしながら、この5、6年は、いろいろなことに興味が拡散して、少し文楽から遠ざかっていた。先日、久しぶりに国立劇場に復帰し、次回公演も見に行こう!と誓った矢先にこの訃報である。私の手元には、『第156回文楽公演』のプログラムが残された。考えてみると、人形遣いの写真名鑑に玉男さんが載った、最後のプログラムになったわけである。不遜なことをいうと、呼び戻されたようで、感慨深い。

 国立劇場の12月公演は『義経千本桜』である。なんだか、これも符丁を合わせたようだ。平知盛の、最後まで自分を崩さない、端正な死に姿に、多くの文楽ファンは、玉男さんの面影を重ね合わせるのではないかしら。合掌。

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秘仏と書画の旅(1):湖東三山ご開帳

2006-09-24 21:44:45 | 行ったもの(美術館・見仏)
○天台宗開宗1200年記念 湖東三山 秘仏本尊ご開帳

http://www.biwako-visitors.jp/oshirase/detail1172.html

 例によって突発的な決断で、週末、関西に来てしまった。初日の目的地は滋賀県である。昨年の湖南三山、一昨年の櫟野寺に続き、またまた大好きな滋賀県に来てしまった。この秋、湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)では、「史上初・秘仏本尊同時ご開帳」が始まっているのだ。秘仏ファンとして、どうしてこれを見逃すことができよう。

 湖東三山をまわるのは初めてではない。そこで、前回とは趣向を変えて、百済寺→金剛輪寺→西明寺の順でまわることにした。近江鉄道の八日市駅から路線バスに乗り、40分ほどで(この間、私以外の乗客は無し)百済寺(ひゃくさいじ)に到着した。

 紅葉シーズンを外れているせいか、境内は思ったほど人が多くない。それでも本堂に入ると、ご本尊の前に大勢の参拝客が群れていて、「3人ずつお進みください」と誘導されている。正面を外して、斜めからゆっくり眺めることにする。かなり大きな仏像で、金箔がよく残っているので、暗い中でも見やすい。十一面観音である。

 どこにも写真がないそうだから、なるべく詳しく描写しておこう。右手はだらりと下げ、左手に水瓶(ちょっと大きすぎ)を持つ。胸は繊細な装飾で飾られ、額から頬の両脇に垂れる髪飾りもきれい。でも、胸の厚みや肩幅、手の長さに対して、少し顔が小さすぎる。丸顔で、あごも小さく、遠目には、眉を寄せて顔をしかめているようだ。頭部だけ後補なのかも知れない。頭上の十一面は整った顔立ちである。

 今回は55年ぶりのご開帳だそうだが、「私は小学生だったけど覚えてますよ」と話している地元のおじいちゃんもいた。公開のあと、数年かけて学術調査を行うとのこと。「さあ、何が出てきますか」というお寺の方も楽しそうだった。

 続いて、金剛輪寺。ここも正面が混んでいたので、脇から覗こうと思ったら、何も見えない。金剛輪寺のご本尊は小さいのである。大きな厨子の薄暗がりに控えめにお立ちになった姿は、恥ずかしがりの少女のようだ。蓮の蕾を持った聖観音である。小さな目鼻で表された表情はおぼつかなく、動きも少ない。それでも、かすかに腰をひねっているように見える。このご本尊は、彫りすすめようとすると血が流れたので、そこで止めたという伝承がある。ノミの跡を残した粗彫りである。古体なありさまが慕わしくて、いちばん心惹かれた。

 最後が西明寺。ご本尊は薬師如来で、右手を上げ、下ろした左手に薬壺を載せている。ちょっと太りじしだが端正なお姿である。赤みがかった木肌で、螺髪や衣のひだもはっきりしている。しかし、お厨子の前面には、錦の幔幕が下りていて、なかなか全身が見えない。残念だなあ、と思ったが、ふと隣を見たら、写真が貼ってあった。ご開帳期間に限り、ご本尊の入った仏像写真セットを売っているのだそうだ。ふくよかな頬、光背の彫刻など、細部は写真で確認できるのでお見逃しなく。

 特別運行のシャトルバスのおかげで、効率よく三山をまわることができ、まだ少し時間があったので、多賀大社にも寄って帰った。写真は、遅い昼ごはんとなった多賀うどん。


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寺院に響く妙音/金沢文庫

2006-09-21 22:51:37 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立金沢文庫 企画展『寺院に響く妙音』

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 「寺院に響く妙音」と聞いて、最初に連想したのは鐘の音だった。しかし、そうではなくて、仏をたたえる僧侶の歌声「声明(しょうみょう)」がテーマである。「声明」とは、元来、音韻学のことで、僧侶の歌唱=梵唄(ぼんばい)を声明と呼ぶようになったのは、鎌倉以降のことだという。へえー。私は禅宗で使う「梵唄」のほうが新しいのかと思っていた。

 開山・審海上人の名前の入った鈸子(ばっし=シンバル)など、実物展示も多少はあるが、中心は文書類なので、華やかさに欠ける。しかし、これだけまとまった数の楽譜を見たことはないので、ものめずらしかった。声明の旋律は、詞章の隣に記された、クネクネと折れ曲がった線(博士と呼ぶ)で表される。寺院には、同じ楽曲の譜が多数、残っていることがあるが、全て手書きなので、微妙に線の曲がり具合が違っている。

 それから、同じ旋律を、さまざまな詞章に宛てることもあったようだ。パターン練習用の楽譜では、詞章を「□○△」に略していたりする。泉鏡花の『草迷宮』を思い出すのは、考え過ぎかしら。

 金沢文庫は、平成2年、いまの建物を建設した記念行事に、所蔵の楽譜から古代の声明を復元して、演奏したそうだ。1階のホールでは、その録音が流れていた。ひとつは「三十二相」と言って、雅楽つきの声明である。そういえば、東京国立博物館の「天台声明公演」で聴いたのも、雅楽つきだった。

 余談になるが、「○○菩薩讃」「○○経讃」に混じって、「天龍八部讃」の楽譜が目立って多かったように思う。金庸の武侠小説を思い出して、にんまり。

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Gold ~金色が織りなす異空間/大倉集古館

2006-09-20 21:10:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
○大倉集古館『館蔵日本美術による Gold ~金色(こんじき)が織りなす異空間』

http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/

 金色(Gold)をテーマにした美術展。ひとことでレビューするなら、予想を上回る名品揃いだった。日本美術ファンは、お見逃しなく!

 会場に入ってすぐ、目に入るのが平家納経。といっても、大正時代に田中親美が制作した模本であるが、この摸本の素晴らしさは、何度繰り返しても言い過ぎにならない。現在、展示されているのは、全部で5巻。『法華経勧持品第三十三』は、見返しに、室内で金色の仏像を礼拝する老尼と尼そぎの若い女性を描く。大胆な構図、華やかな色彩、2人の女性のふくよかな横顔が、ちょっと琳派みたいだ。庭に向かって開け放たれているのは、明り障子なのかしら? 描かれた建築様式も気になるところ。→ちなみに、こちらは本物?(個人HP「平家礼賛」より)。

 『妙荘厳王本事品第二十七』は、二条の光明を合掌礼拝する2人の女房を描く。周囲には五色の蓮弁が舞い散る。経文の地は、赤みの強いピンクに、金・銀・茶で、雲・山・日輪が描かれていて、「全巻の美を象徴する」という評語に恥じない。

 仏像・仏具は「個人蔵」が目立った。毛彫りの『阿弥陀如来懸仏』は、平安期らしいおおらかな筆致。ピカソのデッサンみたいな趣きがある。その隣、『蔵王権現懸仏』は、銅板に図柄を立体的に打ち出したもの。はためく天衣、片足を上げて見得を切るポーズが、風神雷神図に似ていなくもない。

 2階に上がると、宗達派の作品と考えられる『扇面流図(せんめんながしず)』。渦巻く波濤の上に、40余りの扇を散らしたもの。右の画面より、左のほうが波が荒い。風雨にあおられ、壊れかけた扇もあるのが、リアルでワイルド。さらに10図の源氏物語色紙が貼り込まれている。そうか、源氏物語か、と思って眺めるのだが(教養不足で)何の場面か判然としないものばかり。碁盤の上の姫君は分かったけど。

 扇の上には和歌も書かれている。判読できたものを書きとめて帰り、あとで調べたら、「昨日だにとはむと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり」(新古289)「月をまつたかねの雲は晴れにけり心あるべきはつしぐれかな」(新古570)など、新古今の和歌だった。

 その向かいには『桜に杉図』屏風。全株表現の桜と杉がほぼ交互に並んでいる。16世紀・桃山時代の作品だというが、うーむ。あまりにもモダンで、私は「モダン」という概念を間違って捉えているのだろうか?と悩んでしまう。

 最後に展示室の中ほどに腰を下ろし、椿椿山の『蘭竹図』に向かい合った。左を見れば『扇面流図』、右奥には『桜に杉図』。茶と白で統一された展示室のしつらえが、金地屏風を引き立てている。しかも、展示ケースの高さが、屏風の高さにピッタリなのだ。まさに「金色が織りなす異空間」そのものを味わえて、至福のひとときであった。

 帰りがけに、収穫がもう1つ。ミュージアムショップのショーケースに、前期だけの出品だった『伝源俊頼筆・古今和歌集序』(国宝)の複製色紙が飾られていた。説明が難しいが、中国ふうの衣冠を整えた官人たちの図(欄干の先に、芭蕉のような植物が見える)を赤一色で刷った紙を使っている。上記サイトの画像を見ると、さまざまな紙(雲母入りとか、摺りものとか)を継いで、筆写したものらしい。面白い~。次回はぜひ本物が見たい。覚えておこう。
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文楽・仮名手本忠臣蔵/国立劇場

2006-09-19 21:59:28 | 行ったもの2(講演・公演)
○国立劇場 9月文楽公演『仮名手本忠臣蔵』第2部(5~7段目)

http://www.ntj.jac.go.jp/kokuritsu/index.html

 いやー久しぶりの文楽である。私は、学生の頃、たまたま友人に連れていかれたのが機縁で文楽にハマり、以後、20代から30代まで、時代で言えば、1980年代から90年代後半まで、ほとんど毎公演、文楽を見てきた。それが、5、6年前、一時的に東京を離れて暮らすことになり、パタリと国立劇場から遠ざかってしまったのである。

 また運の悪いことに(?)その頃から文楽の人気が沸騰し始めた。演目によっては、初日までに全席を売り切ることもあると言う。嬉しいけれど、とんでもない話だ。80~90年代は、開演までに劇場に行けば、たとえ休日でも1枚や2枚のチケットは手に入った。平日は空席が目立つことが多くて、新聞の劇評が「なんとかならないものか」と嘆いていたのを覚えている。

 そういう時代の劇場通いに慣れた身には、数週間先の予定を決めて、前売券を取るという作業が、わずらわしくて仕方ない。というわけで、もう何年もご無沙汰をしていた。2004年から書き始めたこのブログに1度も文楽公演の記事がないのが、何よりの証拠である。しかし、先週、思い切って前売券を買いに出かけ、休日の月曜日、久しぶりに見てきた。

 出し物は『仮名手本忠臣蔵』の第2部。五段目「山崎街道出合いの段/二つ玉の段」から六段目「身売りの段/早野勘平腹切の段」、七段目「祇園一力茶屋の段」と続く。勘平のダメ男ぶりがいい。周囲の人々の無邪気な善意と正義感が、彼を悲劇に追い込んでいく。江戸時代の人間省察って、鋭いなあ~。

 曲が始まって、舞台の左右上方の小さなスクリーンに、床本の詞章が映し出されたのにびっくりした。へえー。いつからこんなことをするようになったのだろう。でも、いい工夫である。オペラや京劇でもやっているものね。それから、七段目「祇園一力茶屋の段」で、大夫のひとりが、上手の床とは別に、客席に正対する舞台上の席で語り出したのにもびっくりした。この段、以前にも見ているはずだが、こんな演出あったかしら。

 出演者には、見覚えのある顔が多くて、懐かしかった。へえーこの人が、こんな大役をこなすようになったのか、と思うと、しみじみ歳月の流れを感じた。人形遣いといえば、相変わらず、玉男・文雀・蓑助で持っているのかと思っていたが、ちゃんと後進が育っているのね。安心した。大夫さんの場合は、声が根本から変わるんだなあ。むかしは高声で聞きづらかった人が、深みのある美声になっていたりする。

 満員の客席からは、終始、暖かい拍手が響き、ああ、いまの舞台にめぐり合わせた出演者は幸せだなあ、と思った。でも、これも文楽不振の時期に苦労した先輩たちのおかげと肝に銘じて、精進してほしい。また見に行こう。

付記:この記事を書いた直後に吉田玉男さんの訃報に接した。全盛期の芸をたっぷり見ることのできた私は幸せ者だったと思う。謹んでご冥福をお祈りします。(9/24)
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写真と肖像画/北京故宮博物院展

2006-09-18 21:18:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
○日本橋高島屋『北京故宮博物院展~清朝末期の宮廷芸術と文化~』

http://info.yomiuri.co.jp/event/01001/200608181265-1.htm

 北京故宮博物院が所蔵する文物・美術品の展示会である。よくある企画だと思ったが、これまでの故宮博物院展が、康煕・雍正・乾隆の清朝盛期、いわゆる「三世の春」の時代を中心としていたのに対し、今回は、清朝末年、女帝・西太后とラストエンペラー宣統帝溥儀の時代にスポットをあてたところが新しい(らしい)。

 私の関心にはぴったりだが、果たして、どのくらい人が集まるものか。いぶかりながら行ってみたら、そこそこ客が入っていた。デパートの催し物にしては男性客が多い。それから、男女を問わず、解説パネルを熱心に読んでいる人が多いことが印象的だった。

 会場に入ると、まず、清の太祖ヌルハチと、康煕、雍正、乾隆帝の巨大な肖像が眼に入る。黄色に龍の刺繍を施した龍袍(ロンパオ)を着て、威儀を正した厳粛な肖像画である。しかし、いずれも史伝や中国のTVドラマで馴染みの人物なので、ひとりひとり、懐かしい感じがする。

 西太后には、さすがに皇帝のような公式の肖像画はないのだろうか。会場で見た彼女の肖像画は、大きな画面に、広い余白を残して、小さく描かれたものばかりだった。丸顔で、4~5等身くらいしかない西太后は、なんだかマンガのように愛らしい。『慈禧太后朝服図』では、彼女は龍の縫い取りのある龍袍を着ている(いいのか?)。くつろいだ平服姿で碁を打つ図もあった。藍色の錦を着た対戦相手は恭親王奕訢である。彼もまた、私には懐かしい名前だ。

 宣統帝溥儀の時代になると、多くの写真が残されている。先だって、入江曜子さんの『溥儀:清朝最後の皇帝』を読んだこともあって、2人の皇妃、婉容と文繍の写真を興味深く眺めた。婉容は文句のない美人だと思う。颯爽として、しかも憂いを感じさせる。文繍は、顔、丸すぎ~。中国のTVドラマ『末代皇妃』では、細面の美人女優が演じていたのに。

 西太后も写真好きだった。ただし、日本では、彼女の珍妙なコスプレ写真が紹介されることが多く、バカなおばさんのイメージを増強する結果になっていると思う。今回、会場には、もう少しまともな彼女の写真も紹介されている。たとえば、頤和園の仁寿殿の前で輿に乗る西太后を写したもの。輿を担ぐ衛士たちの無防備な表情が印象的である(現代人は、カメラの前であれほど無防備な表情はしない)。それから、表情は分からないけれど、宮殿内で自転車に乗る婉容の小さな写真も心に残る。

 彼ら、清朝末年の皇族の写真を集めた写真集が、中国では刊行されているはずである。この時代を研究している友人に見せてもらったことがあるのだが、いま、書名が思い出せない。とりあえず、以下のサイトを参考に。

■Tomotubby's Travel Blog:今週の婉容
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/c/93325c1daa24e7403a25343d80cf3d91
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東アジアの近代/属国と自主のあいだ(岡本隆司)

2006-09-17 23:00:49 | 読んだもの(書籍)
○岡本隆司『属国と自主のあいだ:近代清韓関係と東アジアの命運』 名古屋大学出版会 2004.10

 昨秋、「2005年度サントリー学芸賞受賞!」のオビをつけた本書を書店で見て、読んでみたいな~でも歯が立つかなあ~と、さんざん逡巡を繰り返した。私は、韓国(朝鮮)近代史に強い関心があるのだが、どこから取りついたらいいのかも分からない、ド素人である。パラパラ目次をめくってみたが、知らない固有名詞ばかり並んでいたので、結局、購入を諦めてしまった。

 しかし、今年の前半は、なんとなく「韓国づいた」状態が続いた。というか、日本の近代について考えたり、東アジアの近代について考えたりするのに、韓国(朝鮮半島)問題は外せない、ということが、分かってきたのである。というわけで、半知半解を承知で読み始めた本書。とにかく読み通せて、うれしい。

 本書が焦点をあてるのは、19世紀後半、西欧列強(および日本)の侵出によって揺らぐ清韓関係である。朝鮮は清朝に対して長く「宗属ノ関係」にあった。これを、清朝が暴力を以って朝鮮の自立を抑えつけていたと見るのは当たらない。文治を尊び、軍事力を養ってこなかった小国の朝鮮にとって、大国・清の庇護の下にあることは、周辺諸国に侮りを受けないため、必要なことだった。しかし、この時期、西洋諸国が朝鮮の開国・通商を求めて引き起こした擾乱に際して、朝鮮からの保護の要請に、清朝は応えようとしない。

 朝鮮は清の「属国」であるが、内政・外交は「自主」である。これが、伝統に基づく清朝の見解だった。「独立自主」ではなく「属国自主」。清の対外政策を担う北洋大臣・李鴻章は、この曖昧な解決に、当面(清・日・露の)勢力均衡をもたらす利点を見出していたようである。

 しかし、日本の琉球処分(1872)、台湾出兵(1874)に危機感を感じた清朝は、1880年代以降、朝鮮に対する宗主権の強化に乗り出す。李鴻章の名代として派遣された袁世凱は、「独立自主」を求める朝鮮の動きを封じ、清韓関係を、彼の考える「正常」に戻すべく、徹底した強硬姿勢で臨む。

 西洋諸国は、朝鮮に対する清の介入を不当なものと受け止めた。彼らには、「宗属ノ関係」というものが、分からなかったためである。一方、西欧諸国が覇権を握る「国際社会」においては、「宗属ノ関係」などという特殊事情は通用しないということが、清朝の役人には分からなかったようだ。李鴻章は、アメリカ駐華公使ヤングに、こう語ったとされる。「どうして、清朝と周辺諸国のあいだに、永年、存続してきた関係を外国が破壊せねばならぬ。理由がわからない。うまくやってきたのに」。しかし、時代は、西欧諸国の慣例を唯一無比の「グローバル・スタンダード」とする方向に進んでいく。よくも悪くも。ここのところ、中国びいきの私としては、ちょっと悲しいが、韓国人なら、また違う見方をするだろう。

 しかしなあ、この「属国自主」という概念、今の日本のアメリカに対する立場を表すのに適切なのではないだろうか。そんな皮肉なことも考えてしまった。ちなみに、サントリー学芸賞の選評が、韓国における「(独立)自主」を、米韓同盟との関わりにおいて取り上げているのも興味深い。
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流鏑馬(やぶさめ)!!

2006-09-16 21:06:50 | なごみ写真帖
鎌倉・鶴岡八幡宮例大祭の流鏑馬を見に行った。

4月の第3日曜日に行われる春の流鏑馬とちがって、秋は9月16日固定なので、休日に当たったのは久しぶりである。嬉しい。でも、春は馬場ギリギリまで客を入れている南側の空き地(一の的より少し下がったあたり)が、今日は立入禁止になっていて、思うように近づけなかったのが悔しい。次回は北側(国宝館側)に回ろう。来年も週末に当たるはずだし。

4月の様子と比べて御覧ください。↓この藁帽子は、9月独特の装束だと思う。白馬(あおうま)が多かったな。今日はコンディションがよかったせいか、よく的中していた。



騎射の合間に行われる「布引」。長い布を引きずらないように、馬を早足で駆けさせる。馬に乗り始めたばかりの子どもが行う。これも9月独特の行事である。




コメント (3)
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