見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

『風林火山』で暮れる大晦日

2007-12-31 23:52:29 | 見たもの(Webサイト・TV)
 2007年、大晦日。朝起きたときから、今日は『風林火山』総集編を見ることだけを考えていた。

・午後1:55~2:55 風の巻(信虎追放まで)
・午後3:00~4:00 林の巻(勘助仕官~両雄死すまで)
・午後4:00~5:00 火の巻(景虎登場~由布姫の死まで)
・午後5:00~6:00 山の巻(信玄誕生~川中島まで)

 1巻ずつ感想を書いて、今年最後の記事にしようと思っていたのだが、展開が早すぎて、スジを追うのに精一杯。感想どころではなかった。このドラマ、中身がありすぎて、4時間にまとめるなんて、どだい無理だったのだと思う。

 というわけで、なんだかガッカリのまま、2時間電車に乗って実家へ。いま、父親のパソコンで書き込みをしている。ところが、そんな不完全燃焼気分を吹き飛ばしてくれたのが、紅白歌合戦のGackt。いや、笑った。ドラマの謙信(上杉政虎)公そのままの甲冑姿で「Returner~闇の終焉~」を熱唱。一歩間違えれば、NHKのベタな宣伝戦略に乗せられただけの、ものすごくカッコ悪い役回りになるところを、全部「持っていっちゃった」感がある。おかげで、2007年に思い残すことなくサヨナラを言えそうだ。

 ほんとに今年(特に後半)は『風林火山』に明け暮れた1年だった。なので、最後は、11月の長野旅行で訪ねた勘助の墓所の写真と、おまけ「勘助飴」の写真で。

 

来年も、よい年になりますように。
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笑う門には福/江戸絵画万華鏡(榊原悟)

2007-12-30 23:22:35 | 読んだもの(書籍)
○榊原悟『江戸絵画万華鏡:戯画の系譜』(大江戸カルチャーブックス) 青幻舎 2007.11

 久しぶりに都心の本屋に行って、おお、こんな本が出ていたか!と胸を躍らせながら手に取った。表紙には蘆雪の虎(和歌山・無量寺の)。サントリー美術館で長く学芸員をつとめられた榊原悟氏が、江戸絵画の魅力を縦横に語った1冊である。

 北宋の『宣和画譜』は「倭画屏風」(日本の屏風)を評して「設色甚ダ重ク、多ク金碧ヲ用フ。考フルニ其ノ真未ダ必ズシモ有ラズ、此レ第(ただ)綵絵ノ燦然トシテ以テ観美ヲ取ラント欲スルノミ也」と記しているそうだ。へえ~初耳。『宣和画譜』といえば、宣和2年(1120)に成立した徽宗皇帝の宮廷収蔵絵画目録である。その中に日本の屏風があったというのも驚きだし、日本絵画の特質が、「真」を追究する中国絵画と異なり、「観美」(工芸的な美しさ、おもしろさ)にあることを見抜いているのも、大したものだ。辻惟雄氏が『日本美術の歴史』で語られた「かざり」「あそび」に通じる指摘だと思う。

 とりわけ、江戸の絵画は、この「観美」「かざり」「あそび」、具体的には「即画」「意表を衝く」「機知」「見立て」「茶化し」などの趣向が爆発的に興盛をきわめた時代である。難しい議論はさておき、ほぼオールカラーで収録された80点余り(たぶん)の図版を、まずは無心に楽しんでみよう。

 私は、江戸の絵画に本格的な興味を持って、まだ10年にならないと思うが、意外と見たことのある作品が多いので驚いた。「即画(即席画)」の例に挙げられた蘆雪『大仏殿炎上図』は大倉集古館で見た。光琳の『蹴鞠布袋図』は出光美術館で見た。林十江の『双鰻図』も『蜻蛉図』も覚えがある。曽我蕭白の『達磨図』(見返り達磨)に至っては、先週、京都国立博物館で見てきたばかりだ(欄外の解説が、京博の解説プレートと瓜二つなのにも驚いた。本書の流用だったのか)

 これは江戸絵画の嬉しいところである。中世以前の美術品だと、名前だけは知ってはいても、実物を見る機会は、一生に一度あるかないかだったりする(源氏物語絵巻とか)。江戸絵画なら、ちょっと頑張って美術館や博物館の常設展に通っていれば、けっこう名品に出会えるものだ。しかし、本書で初めて知る作品もあった。いちばん驚いたのは司馬江漢の『太陽真形図』。京都大学附属図書館が画像を公開しているので、ここに貼っておこう。

 「あとがき」によれば、著者は昭和61年(1986)にサントリー美術館で『日本の戯画』と題した展覧会を企画実施した。同業の学芸員からは一定の評価を得たものの、「戯画」というタイトルを嫌がる所蔵者に出品を拒否されたり、展示作品につけたキャッチコピーに対して、一部のお客から「こんな戯れ文みたいな一文をつけて、日本美術を冒瀆するものだ」というキツイお叱りを受けたりした。美術といえば「有難いもの」。そんな認識の時代だったのだ。

 江戸絵画の魅力のひとつが遊戯性であることは、先入観のない若者を中心に、今では広く理解されるようになった。本書は、声をあげて笑いながら楽しめる美術書である。ぜひ正月の寝酒のお供に。
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読むに値せず/張家三代の興亡(古野直也)

2007-12-29 23:53:14 | 読んだもの(書籍)
○古野直也『張家三代の興亡:孝文・作霖・学良の”見果てぬ夢”』 芙蓉書房出版 1999.11

 しまった。しょーもない本を読み始めてしまった、と思ったが後の祭りであった。今年11月、浅田次郎の『中原の虹』を読んだあと、張作霖・学良父子について、もっと知りたくなった。すぐに見つかった参考文献は、澁谷由里『馬賊で見る「満州」』(講談社新書メチエ)と本書の2点だけだった。澁谷さんの著書は、やや散漫な印象があるが、学者らしい堅実さは守られている。

 一方、本書は、素人の講釈の域を出ない。著者は著者なりに勉強しているらしく、微に入り細に入って興味深い記述もあるが、情報の出典を明記しないので、検証しようがない。また「中国人とは○○な民族である」という類の、著者の信念の表明が随所に混在していることにも、かなりうんざりする。要するに、まともな学問的著作としては読むに堪えないということだ。

 本書は、タイトルだけ見ると、張作霖・学良に対して、敬意とは言わずとも、好意的な関心を持った著作のように感じられたが、内容は全く逆だった。何もこんな冷笑と誹謗のために本を書かなくてもいいのに、と思った。しかも、一見好意的に見せる本のつくりが「故意」であるとしたら、ずいぶんあざとい出版である。

 それでも、本書出版の時点で、「(戦後)学良と個人的に会談できた日本人は過去に二人しかいない」そうで、そのひとりが著者であるという。どういう情熱なんだろうなあ。もっともその会見の様子は至極簡単に片付けられており、読むべき内容はない。その前段の李登輝氏との会見のほうが著者にとっては感銘深かったらしく、ずっと具体的に記述されている。まあ、そんな本である。
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年の瀬京都旅行:承天閣美術館

2007-12-28 22:21:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
■承天閣美術館 開基足利義満公600年遠忌記念『相国寺の禅林文化-室町から近世へ-』(後期)

http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/index.html

 今年5月に新装オープンした承天閣美術館。開館記念の『若冲展』では『釈迦三尊像』と『動植綵絵』に突進してしまったので、ほとんど周りを見ていなかった。今回、あらためて、きれいになった建物に感心した。本展は、相国寺の豊かな禅林文化を紹介するもの。絵画、墨蹟、茶道具など、さまざまな文物が並ぶ。

 前回、すっとばした鹿苑寺大書院の障壁画(若冲筆)も久しぶりに堪能した。『月夜芭蕉図』は、無人の荒野に「婆娑(ばさ)と」(→解説板の表現)立つ芭蕉の大木を描く。「婆娑」とは、蕪村の自賛句の自注に「月婆娑と申事は、冬夜の月光などの木々も荒蕪したる有さまに用ひる候字也。秋の月に用ひず、冬の月に用ひ候字也」とあるそうだが、この画にぴったりくる用語だと思う。私は、アンリ・ルソーの『眠るジプシー女』に漂う、甘い孤独を思い浮かべた。

 それから『葡萄図(葡萄小禽図)』。ここは後水尾天皇の玉座の間であり、「虫食い葉や病斑までも入念に仕上げられた」というが、いいのか、玉座に虫食いや病斑って?! 稀代の芸術家君主なればこそ、それもアリか。余談だが、松岡正剛さんの「千夜千冊」サイトで、熊倉功夫著『後水尾院』という本を見つけた。鹿苑寺サロンについての記述がある。読んでみようかな。

 水墨の『竹虎図』も若冲筆。前日、京博で見た正伝寺の『虎図』(高麗時代)の模写である。なんというグッド・タイミング。当館初公開という『十六羅漢図』(室町時代)は、「和様」(穏やかで、背景や細部の描写を重視)と「唐様」(中心人物の羅漢を強調、魁偉で超現実的)の折衷的な、ちょっと不思議な画風だった。

 墨蹟では、蘭渓道隆の「宋元」に腰砕けになった。世界史の勉強じゃあるまいし。しかし、考えてみれば、蘭渓道隆(1213~1278)は南宋の人。1246年に来日。1234年に金を滅ぼし、実質的に華北を支配していたモンゴルは、1271年に元を名乗り、1279年に南宋を滅ぼす。まもなく滅びる者と滅ぼす者になるはずの2つの国号を、どんな思いで並べてみたのか。なんとも不思議な書である。
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鍵善の粟ぜんざい

2007-12-27 23:56:46 | 食べたもの(銘菓・名産)
 久しぶりに冬の京都に来て、四条通りの鍵善良房に入った。鍵善といえば葛きりだが、冬のお気に入りは粟ぜんざい。底冷えの京都を一日歩きまわったあと、疲れと寒さを癒す、あつあつの粟ぜんざいは至福の一品である。私は「粟ぜんざい」という食べものを、この鍵善で覚えた。たまに甘味屋に入るとこれを探すのだが、置いている店は意外と少ない。慌てて「栗ぜんざい」をたのんでしまって落胆したこともある。

 さて、メニューを開くと「粟ぜんざい」は無くて「きび餅ぜんざい」とある。あれ?変わったのかな、と思いながら、ふと卓上を見たら、「お詫びとお知らせ」と題したシートが備えてあった。「以前より当店では、粟ぜんざいの材料としてもち黍(きび)を使用してまいりました。それはもち黍の方が、粟より粒が大きく、餅にしたときに美味しい為であります」「食品の不当表示の件もありお客様に誤解を招くような表示をなくす為、当店では、名称の変更をすることに致しました」という。

 いや、ご苦労さま。私は昔ながらの「粟ぜんざい」でいいように思うけど、そうもいかないのだろう。味は、以前と変わらず、極上だった。



※カテゴリー「食べたもの」を新設。今年の初めからの記事を移動してみた。
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古びないプロット、古びる言語/カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)

2007-12-26 23:07:56 | 読んだもの(書籍)
○ドストエフスキー著、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』1-5(光文社古典新訳文庫) 光文社 2006.9-2007.7

 タイトルは知っているけれど(あるいは、あらすじも知っているけれど)読んだことはない。多くの人間にとって、古典とはそういうものだ。私も、ドストエフスキーは、高校生の頃『罪と罰』と『白痴』を読んだだけで(うーん『悪霊』も読んだかな?)以後ずっと敬遠してきた。

 そうしたら、今年、亀山郁夫氏の新訳『カラマーゾフの兄弟』が、全5巻で30万部を超え、古典としては異例のベストセラーになっているという(→朝日新聞 2007年09月01日)。びっくりした。出版界にとってはいいニュースだと思ったが、自分には縁のない話だと思っていた。ところが、先日、イ・ヨンスクさんの新刊『異邦の記憶』を読んで、そこに引用された『カラマーゾフの兄弟』の一節に心を捉われ(亀山新訳ではなかったが)、この大作に挑むことになってしまった。

 読み始めてすぐ、なるほど読みやすい訳だと思った。むやみに現代的な流行語を使っているわけではない。訳者は「わたしがより多く気をくばったのは、リズムである」とも言う。小気味よく疾走する文章のリズムが、読者を苦もなく物語世界に連れて行く。

 登場人物は、男やもめのフョードル・カラマーゾフと3人の息子(長男ドミートリー、次男イワン、三男アリョーシャ)。カラマーゾフ家の料理番スメルジャコフは、フョードルの私生児という噂がある。フョードルとドミートリイは、裕福な老人の囲われ者であるグルーシェンカ(アグラフェーナ)をめぐって三角関係にある。ある晩、フョードルが何者かに殺害された。嫌疑をかけられたのはドミートリーとスメルジャコフ。スメルジャコフは自殺し、裁判の結果、ドミートリーに有罪の判決が下る。

 人物の造型や、提起されている問題は、非常に現代的に感じられた。まず、カラマーゾフ一家の、古典的な家族倫理からの逸脱ぶり。母親の違う兄弟、父親不明の私生児、男だけの家庭、ドメスティック・バイオレンス、老いてなお好色な父親と直情径行の長男による恋の鞘当て、そして父殺し。資本主義(金銭に翻弄される運命)、精神医学、幻覚、癲癇、陪審員制度(ポピュリズムに委ねられる正義)、経済力と意志力を持つ女たち、貧困、幼児虐待、成就しない奇跡、神の不在。さまざまな現代的主題が、ポリフォニックに噴出する。このまま、舞台を「現代」に移しても、ほとんど違和感がないくらいだ。

 いや、古典と呼ばれる小説は、100年や200年の時空なんて超越しているのかもしれない。プロットは古びない。ただ、言語表現だけが古びる――現代日本語は、とりわけ足がはやい(古びやすい)言語である。訳者は「今後、最低20年は生き残りそうな言葉」を自分なりに選んだという。20年――現代日本語の賞味期限は、ちょうどそのくらいなのかもしれない、20年後には、私たちはまた新たな日本語訳を必要としているのかもしれない、と思った。
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年の瀬京都旅行:応挙・蘆雪の墓参り

2007-12-25 23:14:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
 昨年、奈良県立美術館の『応挙と蘆雪』展のあと、展示図録を読んで、両人の墓所がいずれも京都市中にあることを知った。物好きだが、一度墓参りをしてみたいと思っていた。

 円山応挙の墓のある悟真寺は、太秦の広隆寺の近くだという。事前にチェックしたのは「世界恩人巡礼大写真館」と題した個人サイト。かなり分かりにくい場所らしいので、覚悟を決めて出かけた。

 広隆寺の東隣のブロックには、普通の住宅が並んでいる。悟真寺は、この中ほどにあるらしいのだが、どこから入っていいのか、よく分からない。南側と東側は、幼稚園の門に阻まれてしまった。そこで、西側の細い路地に入る。すぐ左手は広隆寺の塀だ。右手に幼稚園の門扉が見えてきた。鍵がかかっていないのを幸い、留め金をはずして侵入する。日曜日のため、全く人影がない。

 寺の本堂らしき建物を目指して進むと、激しく犬に吠え立てられた。犬の声に気づいて、人が出てこないかとしばらく待ったが、誰も現れる様子がないので、びくびくしながら奥へ進む。住宅街に囲まれた、猫の額ほどの狭い墓地。さあて、応挙の墓はどこだろう?と思ったら、足元に「圓山家墳墓」と刻まれた小さな墓石が蹲っていることに気づいた。視線を上げると、正面の屋根で覆われた墓石に「源応挙墓」とある。

 いろいろ事情はあるのだろうが、簡単な案内板くらい設置してあげてもいいのに。これでは訪ねる人も少なかろう。門弟千人といわれた応挙先生の現今の境遇に同情しながら手を合わせ、ますます猛り狂う犬の吼え声に急かされて、早々に退散した。



 次は、長沢蘆雪の墓。こちらは、北野商店街振興組合はじめ、いくつかのサイトに紹介されている。北野白梅町から少し歩いて、御前通を南に下ると、左手(東側)に回向院がある。写真のとおり、門前に「蘆雪の墓当寺にあり」という大きな石柱が立っているので、間違える心配はない。ここも敷地は狭いが、市中の寺らしく墓参客が多いのだろう、手入れが行き届いていて、気持ちよかった。「大隠は市井に隠れる」を思わせる、蘆雪に似合いの終の棲家である。

 ちなみに門前の石柱の裏面には「明治二十九年二月 市原平兵衛建立」と刻まれていた。市原平兵衛って誰だろう?と思って調べてみたら、堺町通四条に「市原平兵衛商店」という箸の老舗があるらしい。同一人物か否かは未確認である。


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年の瀬京都旅行:京都市中・見仏ツアー

2007-12-24 22:42:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
 京都旅行より帰宅。今回の目的のひとつは、久しぶりに京都市中の見仏スポットを、ゆっくり訪ね歩くことだった。3日間で訪ねた寺は以下のとおり。

六波羅蜜寺

 実は、この時期(12/13~大晦日)連日16:00から「空也踊躍念仏厳修」が行われている。内陣で、3人の僧侶(1人は帽子を被っていたけど僧形じゃないのかな?)が胸に下げた鐘を叩きながら、素朴な旋律にのせて名号を唱え、体を揺らして踊る。(上手く再現できないけど)「のぉ~お~、あぁみ~だ~」という繰り返しが耳に残った。最後は参拝客も一緒に名号を唱えたあと、内陣に下りて焼香を捧げ、寺僧からお札をいただく。うわ~一遍上人絵巻に描かれた「賦算」みたいだ、と思った。ここの宝物館では2体の地蔵菩薩が好き。運慶・湛慶像もいいなあ。 

■東寺

 久しぶりに南大門から入り、巨大な金堂を見上げて、中国・山西省に来たみたいだなあと思う(山西省には唐代の古建築が多く残っている)。講堂では、降三世明王の、少年のように張りのある肢体を美しいと思った。悪鬼を踏み敷いているのに、全く無駄な力が入っておらず、却って霊威を感じさせる。金堂は、いつも薄暗くて空疎な印象があったが、照明を新しくしたのだろうか、金色の薬師三尊がはっとするほど美しかった。薬師如来の台座を囲む十二神将もよく見えるようになった。

■広隆寺

 広隆寺でいちばん好きなのは、巨大な不空羂策観音である。全体のプロポーションは生硬な印象があるのだが、八臂の手先が妙に色っぽい。後補なのかなあ。

■千本釈迦堂(大報恩寺)

 六観音が揃っていることで有名。いずれも、うっとりするような宋風の美人である。私のあとに、先生に引率された学生らしいグループが入ってきた。博物館学の実習だろうか。収蔵庫の条件について説明した先生が「ちょっと暗いなあ」と、壁のスイッチを探った。すると、天井のライトが点灯し、展示室が全く違う表情に一変。「これはタングステン照明ですね。タングステンを使うとコントラストが強くなる。蛍光灯だけだと平板な印象になるので、展示室を兼ねた収蔵庫は、蛍光灯とタングステンを併用するのが一般的です。特に仏像などは、タングステンを使うほうがいい」と説明をされていた。なるほど。いや、全然印象が違う。赤みを帯びた体躯が生き生きと見えるし、鎌倉彫りみたいな複雑な文様の光背も美しさが際立つ。「この六観音は、全て定慶(鞍馬寺の聖観音の作者→これも私は好きだ!)作となっているけど、定慶作は准胝(じゅんてい)観音のみ。全て作風が違うでしょ」「こっちの釈迦十大弟子像は全て快慶作とあるけど、はっきりしているのは目犍連(もくけんれん)だけ」とか、興味深いお話を立ち聞きさせていただいた。受付のおじさんに聞いたら、京都産業大の先生の由。ありがとうございました。

三十三間堂

 ここの二十八部衆はいつ見てもいい。むかしは、迦楼羅王とか難陀竜王とか、異形の者たちに惹かれたが、今回は、摩和羅女(まわらにょ)と婆藪仙人(ばすせんにん)のリアリズムに骨の髄まで圧倒された。風神・雷神もいい。とりわけ、三次元的な空間の使い方に優れているのは風神だと思う。ところで、風神の真横から覗くと、二十八部衆が一直線に並んで、はるか彼方に小さく雷神の姿が見えることを、初めて発見した。

 クリスマス連休なので、お寺は閑散としているかと思ったら、そうでもなかった。でも修学旅行生が少ないせいか、どこも静かで、心安らかに見仏できた。ありがたや。合掌。
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年の瀬京都旅行:朝鮮と日本の絵画(京都国立博)

2007-12-23 17:33:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 平常展示

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 特集陳列『館蔵品のはじまり』を見たあとは、隣室の12室(中国絵画)に進んだ。すぐ目に入ったのは、小ぶりな水墨山水画。おや今月は地味だな、と思って、後ろを振り返ったとたん、美麗な仏画、一見して朝鮮ものと分かる虎の図、そして何とも不思議な屏風が目に入った。

 順に見ていこう。最初に水墨山水画が5点。いずれも「朝鮮時代(15~16世紀)」とある。そうか、今月は朝鮮絵画特集なんだ、と気づいた。解説に、描かれた嶺の形姿は「典型的な朝鮮山水画風」であるという。確かに、中国絵画の山水とちょっと違うような気もするが、よく飲み込めない。朝鮮山水画は北宋北方山水の影響を受けて成立したが、展示品の画風には、南宋の院体画様式が混入しているそうだ。また、朝鮮絵画と室町水墨画には密接な関係があるというのも気になるが、もっとたくさん見ないと、様式の親疎はよく分からないなあ。

 それから高麗(13~14世紀)の仏画が4点。うち2点が摩利支天像というのは、京博にも『風林火山』ファンがいると見たな、私は。1点は二臂、1点は八臂の坐像。どちらも福徳円満な丸顔、華麗なローブ・デコルテをまとい、宝冠を頂き、王笏のような天扇を手にする。高麗王は外敵を払うため、たびたび摩利支天の修法を行ったそうだ。なお、画中にイノシシの姿はなかった。

 隣に正伝寺の『虎図』。若冲の模写が、相国寺(水墨)とプライスコレクション(着色)に伝わることで著名な作品だが、その件の解説はなく、さりげなく展示されていた。背景がくすんだ灰色なので、虎の毛並みの黄色が強く印象に残る。

 最後に李朝(19世紀)の『皇帝狩猟図』を描いた八曲屏風。伝統的な東洋絵画のコードからは完全に逸脱した民画の世界である。怪物と見まごう斑馬など、ちょっとスラブ風な感じがする。

 続いて、11室(近世絵画)。兵庫県の真浄寺が所蔵する曾我蕭白の障壁画から、楼閣山水図・樹下人物図などを展示。楼閣山水図は、妙に立体的で遠近感が際立ち、逆に幻想的である。どこからか、アラビアンナイトの登場人物が現れそうな気がした。小品コーナーには、蕭白3点、蘆雪2点、若冲1点。蘆雪の仔犬は、ほんとにかわいいっ。可愛いんだけど、気を許すと何をしでかすか分からない、やんちゃな感じがよく出ている。応挙の仔犬より私は好き。

 12室(絵巻)では『仏鬼軍絵巻』に笑った。仏菩薩の連合軍が地獄に攻め入り、衆生を救済するというもの。軍記物のパロディになっている。本文の読めるところを探して、一生懸命拾い読みしてみたが。お釈迦様が妙にはやり立っていたり、面白い。
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年の瀬京都旅行:館蔵品のはじまり(京都国立博)

2007-12-22 20:13:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 特集陳列『館蔵品のはじまり-京都博物館らの贈りもの-』

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 最後の連休、京都に来ている。この秋は、ほぼ月1回のペースで関西に足を運んでいるのだが、全て1泊旅行。それも土曜日の夕方に東京を発って日曜半日観光とか、無茶の繰り返しだった。最後くらいゆっくりしたいと思って、今回は2泊3日の予定を組んだ。

 残念ながら今日の京都は冷たい雨。そこで、いつものように京都国立博物館に足を向けた。お目当てにしていた特集陳列は、平常展示館の1室を使った小規模なものだった。

 明治8年に京都府勧業課に設置された「京都博物館」は、仙洞御所の御厩(みうまや)を予定地としていたが、結局、建設には至らなかった。っして、明治24年(1891)正月、京都博物館の蔵品1076点は帝国京都博物館(現在の京都国立博物館)に寄贈されたのである。

 ん? この説明を読んで、私はやっと自分の誤解に気づいた。そうか、タイトルの「京都博物館」って京都国立博物館ではなくて、別に京都府立の博物館が構想されていたということなのか。この博物館、残された建築図面を見ると「自然史博物館」として構想されていたらしいことが分かる。中心となったのは、蘭方医、舎密局主任、写真家でもあった明石博高(あかしひろあきら)。初めて聞く名前である。

 しかし、自然史博物館として構想されていた割には(今回の展示品は)歴史資料が多い。見て圧巻は、烏丸光広筆『聚楽行幸和歌巻』。晴れやかで美しい書体である。

 また、複写や撮影がままならない当時、さまざまな古文献を書写によって集めようとしていたことが伺われて興味深い。中世~近世の書写本を収集するとともに、明治期に新しく書写した正倉院文書や『伝教大師度牒』なども展示されている。面白いのは、洞院公賢の『園太暦』と藤原定家の『名月記』について、自筆原本と江戸期の写本を並べているところ。いやー『園太暦』の原本なんてぐちゃぐちゃ。『名月記』は一応清書だというが、やっぱり悪筆。絶対、後世の写本のほうが読みやすいということが分かって、苦笑を誘われる。
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