見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

北海道で20年/さっぽろ人形浄瑠璃芝居あしり座公演

2015-02-22 21:26:04 | 行ったもの2(講演・公演)
札幌市教育文化会館 『人形浄瑠璃2015 さっぽろ 人形浄瑠璃芝居あしり座二十周年記念公演』(2月22日、13:30~)

 札幌で時々人形浄瑠璃のワークショップを開いている団体があることは、なんとなく気づいていたが、どうせ地方の素人集団だろうとタカをくくっていた。今回は20周年記念公演ということで、「新口村」など本格的な演目も混じっていたので、初めて見に行ってみた。

 土日の2回公演の日曜日。大ホール(1,100席)の少なくとも1階席は完全な満席。北海道の人形浄瑠璃公演にこんなに人が集まるということにびっくりした。まずは『寿式三番叟』。前半は二人の三番叟が舞い、後半はもう三人が加わって、五人で舞う。人形遣いの下半身を隠す「手摺」がなくて、広い舞台を上手く使って舞う(五人が縦一列に並んだり)のが面白かった。舞台の奥に太夫さんと三味線、鳴り物がずらりと並んだ。人形遣いや音曲に女性の姿が混じるのも新鮮。

 場面転換の間に、八王子車人形の西川古柳氏が幕前に出て、三人遣いの人形の遣い方についてレクチャー。それから、落語家・入船亭扇治氏が高座ならぬ床にあがり、『紺屋高尾』の一席。落語と人形芝居のコラボレーションである。最近、大阪でも似たようなことをやっていたが、これは悪くない試みだと思う。同じ語り物でも、落語のほうが浄瑠璃より、現代人にはずっと分かりやすい。ただ、私は(文楽)人形浄瑠璃に「江戸ことば」のミスマッチ感が、なかなか受け入れられなかった。でも本格的な落語を久しぶりに聞けたのは嬉しかった。主人公の久蔵の主遣い、若いのに上手かったなあ。

 休憩をはさんで『傾城恋飛脚 新口村の段』。語りは竹本信乃太夫。ちょっと苦しそうだったけどよかった。1月に大阪で『冥途の飛脚』を見たばかりだったこともあって、じわじわ感動。言いたいことを言えない、内心と全く違うことを言葉にする、っていう芝居、日本人は好きだよねえ。三味線は鶴澤弥栄さん(女性)。お二人の前にはマイクが置かれていた。あれは録音用なのか、会場内に流すためなのか、よく分からなかったが、会場が広すぎたり、演者の調子が悪いときは、補助的に使ってもいいと思うな、文楽でも。

 最後の『御祝儀 祝い唄』はオリジナルで、神楽のように四方を踏み固め、チャリ場のように笑いを取りながら、今日の会場、観客、あしり座、そして北海道と札幌の町を言祝ぐ。楽しかった。ううむ、私の愛する文楽人形浄瑠璃がさらなる活性化のために学ばなければならないのは、こういう手法なんじゃないかな。やっぱり大阪を言祝ぐ芸能であり続けないと。東京に寄り過ぎちゃ駄目なのかもしれない。

 アンコールで、小・中・高校生の若いメンバー(ユースクラス、ジュニアチーム)が勢ぞろいしたのも素晴らしかった。子供時代に先入観なく古典の世界を体験した彼らから、ずっと人形芝居を続けていく者も生まれ、実演を離れても、観客として戻ってきてくれる者もいるという。それから『御祝儀 祝い唄』で太夫をつとめた田中碩人君は、4月から国立文楽劇場の研修生になることが決まっているそうだ。ええ!覚えておこう。応援するぞ。10年先、20年先に舞台で見ることができたら嬉しい。私も長生きしなくては。

人形芸能、夢へ一歩 19歳田中さん(朝日新聞デジタル 2015/2/20)
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札幌・湧き水散歩

2015-02-21 20:17:53 | 北海道生活
先週末、札幌駅そばの紀伊国屋書店で北大人文学カフェ『ぶらり、幕末維新のサツエキ周辺』というトークイベントを聞いてきた。その中で、講師の谷本晃久先生が紹介してくれた場所を実地検分。

■井頭龍神(いのかみりゅうじん)


私の通勤路は、写真を掲載したことのある清華亭の前を通る。道路を挟んで向かい側が「偕楽園緑地」。その南東寄りの一角にこの小さな社殿がある。いつも裏側から見ていたので、民家の物置小屋か何かだと思っていた。この近傍に、例のアイヌ乙名・琴似又市の屋敷があった。

■千秋庵本店


店内には座ってくつろげる喫茶スペースあり。ソフトクリームを食べてきた。

■千歳鶴 酒ミュージアム


小さなミュージアム。(お酒の)試飲カウンターあり。仕込み水は地下150メートルから汲み上げている由。

井頭龍神のことを調べていたら、札幌市北区役所のホームページが区史のエピソードを紹介しているのを発見した(いまさらだけど)。札幌最初の公園「偕楽園」の歴史、水神(龍神)信仰と水商売の女性たちのかかわりなど興味深い。

ほかにも、今の北大構内に斬首場があった(?)とか、西南戦争で戦死した屯田兵の霊を慰めるため偕楽園の前に建てられた招魂碑が札幌護国神社に残っているとか、観光ガイドに載らないエピソードが面白かった。札幌市中央区役所の札幌歴史の散歩道も併せて。
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笑顔でお別れ/雑誌・芸術新潮「超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙」

2015-02-17 21:42:25 | 読んだもの(書籍)
○雑誌『芸術新潮』2015年2月号「追悼大特集・超芸術家 赤瀬川原平の全宇宙」 新潮社 2015.2

 2014年10月26日に亡くなられた赤瀬川原平さん(1937-2014)の大特集である。でも追悼「大特集」って言うのかね。表紙は赤瀬川さんの「赤」一色。黒地に水玉みたいなポップはシャツを着た赤瀬川さんが笑っている。そうそう、この笑顔。なぜかマスコミに載るときの赤瀬川さんの写真は、気持ちよく上下の歯を見せて笑っていることが多かった。

 本書は77年の「超芸術家」人生をゆっくりたどっていく。私は、尾辻克彦名義で発表した小説「肌ざわり」(1980刊)や「父が消えた」(1981刊)を読んだのが、たぶん赤瀬川さんとの最初の接触である。60年代の前衛芸術家時代、70年代のパロディ・ジャーナリズム時代はよく知らない。最近になって「ネオ・ダダ」とか「櫻画報」を知って、すごい活動をしていたんだなあと呆れている。パソコンもSNSもない時代、面白いことは身体を張って体験するしかなかった時代なのかな。

 私が本格的に赤瀬川さんと「その一味」を追いかけ始めたのは、1986年結成の路上観察学学会、それから藤森照信先生の縄文建築集団、山下裕二先生の日本美術応援団と続く。これら、少しずつメンバーの重なる仲良し集団の中で、赤瀬川さんは、ちょっと長老格で、いつも穏やかにニコニコしていた。若い頃の前衛芸術家ぶりを見ると、もちろん、ただの人のいいオジサンではなくて、人間の暗い衝動や嫌な面も理解していただろう。それなのに、中年以降は、どうしてあんなに超常識人のさわやかな笑顔が保てたのか、不思議な気がする。

 本誌には、久住直之氏を聞き手とする長尺の「尚子夫人インタビュー」が掲載されている。おふたりが出会った頃の思い出話を少しどぎまぎしながら読んだ。晩年の闘病中、ポツリと「赤瀬川原平やめよっかな」とおっしゃったという話が、しみじみ胸に応えた。病気は辛かったんだろうな。

 でも林丈二さんが、毎日写真絵ハガキを病室に送ってくれたという話に感動した。ひとりずつ、この世を旅立っていくのは世の習いだけど、看取ってくれる仲間を持つことの幸せ。
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アイヌコタンのあった時代/ぶらり、幕末維新のサツエキ周辺(北大人文学カフェ)

2015-02-15 19:00:08 | 行ったもの2(講演・公演)
○紀伊国屋書店札幌本店 第15回北大人文学カフェ『ぶらり、幕末維新のサツエキ周辺』(2月14日、15:00~)(講師:谷本晃久)

 サツエキ(札幌駅)に近い紀伊国屋書店の1階インナーガーデンでは、さまざまなイベントが開かれているが、私は今回が初参加である。少し早いかなと思ったが、15分位前に着いたら、もう空席を探すのに苦労する状態。私はなんとか座れたが、1時間半、立ち見状態のお客さんもいたようだ。

 講師は、北大文学研究科准教授の谷本晃久先生。日本近世史、北海道地域史が専門で、昨年『近藤重蔵と近藤富蔵』の著書を刊行されている。壇上には、もうひとり、大学院生のソントン・マイケルさん(と自己紹介していたが、ソントンが姓かな?)が聞き役として上がった。19世紀の都市計画が専門で、特に札幌のことを調べるため、北大に留学中だという。

 講義は、谷本先生が用意した文献や写真のスライド(PPT)を見ながら、ふたりの掛け合いで進む。今の札幌駅付近(札幌市北区北6条西4丁目)は、明治時代には「北海道石狩国札幌郡琴似村」だった。ちなみに「札幌村」は今の東区あたりにあった。維新以前の北海道は蝦夷地と呼ばれ、このあたりは「西蝦夷地石狩場所琴似領」だった。ふ~ん。北海道史としては基礎の基礎だと思うが、本州人の私は、江戸時代に「○○場所」という地域単位があったことを初めて知った。

 私は札幌を中心とした現在の北海道の地図しか思い描けないが、当時は、石狩川河口に運上屋(交易の拠点)があって、石狩川流域の物産品は、いったんここに集められ、海上経由で松前に運ばれた。内陸部の札幌より、石狩川河口のほうが、ずっと文化的にも経済的にも「中心」に近かったわけだ。

 幕末のサツエキ付近にはアイヌのコタン(集落)もあった。北7条西7丁目には、琴似又市というアイヌの乙名(集落のリーダー)が屋敷を構えていたことが、開拓使文書から確認される。この文書は、琴似又市の「所有地」があることを認めており、最初期の札幌の町づくりが、和人とアイヌの同居を前提としていたことを示している。しかし、明治11年には、早くも石狩川支流域での漁労を禁じる法令が出される。漁業資源の保護を目的とうたってはいるものの、これによって、アイヌの人々は生業を失い、茨戸(ばらと)→旭川・近文(ちかぶみ)の「旧土人保護地」への撤退を余儀なくされる。

 後半の質問タイムに補足として話されたことだが、琴似又市は奉公先で江戸ことばや江戸の侍の所作を身につけていたので、開拓使の役人にも非常に重宝され、乙名に任命されたそうだ。東京に留学にも出された。しかし、明治10年代に入り、入植が予想以上の急ピッチで進むと、アイヌの人々との共存共栄は不要となったのである。ちなみに開拓使自体も、門松秀樹『明治維新と幕臣』によれば、当初は松前藩の旧幕臣を雇用したものの、全国から人が集まるようになると、冗員整理をおこなったという話を思い出した。いずれにしても厳しいなあ。

 サツエキ付近のアイヌの人々が漁場としていたのは、琴似川の支流で、現在の北大構内を流れていたサクシュコトニ川である。こんな内陸で漁ができたのかと思うが、札幌農学校時代には、学生が鮭を獲っている写真が残っているそうだ(笑)。見たい。サクシュコトニ川は、実業家の伊藤義郎邸(ああ、前を通ったことがある!)内に水源を持っていたが、すっかり枯れてしまった。現在、北大構内に復元されている流れは、水道水による。ただし、北大から伊藤邸に至る間には「川床」の遺跡を見ることができる。川床は所有権がないので家を建てられないそうだ。谷本先生のスライドで、家と家との間が微妙な空白になっていたり、家庭菜園化した空き地には見覚えがあった。

 製菓の千秋庵本店や「千歳鶴 酒ミュージアム」では札幌の伏流水を味わうことができるという。これは一度行ってみよう。石狩国のもとの中心地は「今の番屋の湯のあたり」と言われて、全然分からなかったが、これは温泉なんだな。石狩八幡神社には江戸時代の金石文もあるんです、とおっしゃっていたが、江戸時代の石碑や石鳥居をわざわざ見に行くほどの関心は、本州人にはちょっと持てない。

※参考:朝日新聞:飲み物編 まちなかの地下水(2014/4/11)
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新種発見!/辞書には載らなかった不採用語辞典(飯間浩明)

2015-02-15 13:07:11 | 読んだもの(書籍)
○飯間浩明『辞書には載らなかった不採用語辞典』 PHP研究所 2014.12

 少し前に見つけた著者のツイッターのアカウントを私はフォローしている。著者は『三省堂国語辞典』(略して三国)の編纂者。街場やマスコミで見つけた変わった日本語を、時々つぶやいてくれる。その場合、こんな乱れた日本語はダメという教条的な態度ではなく、新種を見つけた昆虫少年みたいに冷静で、そこはかとなく嬉しそうなのが気持ちよい。本書は、2014年1月に新版(第7版)の出た『三国』に載らなかったことばを、150余件(たぶん)の見出しのもとに実例を掲げ、解説したものである。

 どこから読んでも面白いのだが、冒頭に「思わず言い間違った? まだ定着していないことば」の章を持ってきたのは、編集としていかがなものか。最初は誤用やあやしげなことばも、次第に広まり、社会に定着したと見られれば、辞書に採録される。そのあたりの機微は分かっているつもりだが、著者ほど現実を客観的に受け止められない私は、読んでいるうち、だんだん腹が立ってきてしまった。「移ろぐ」「おぼつく」「命さながら」「思いよがり」「相手を落とし込める」「軽々しく持ち上げる(軽々との意)」等々、なんだよこれは、という用例が相次ぐ。そのうちの相当数が、大手の新聞・週刊誌、NHKの番組から採集されているのが、情けないと思った。ことばの使い方について、マスコミは範を示すべき、と考える私は古いんだろうな。まあ発言者は必ずしも記者やアナウンサーではないので、一般人の発言を勝手に修正して報道にのせるわけにはいかない、という苦しい立場は理解する。

 誤用には法則があって、すぐに思い浮かぶのは似た言葉の混淆である。「思い上がり」と「独りよがり」が混淆して「思いよがり」になるなど。動詞の「移ろぐ」は「移ろいで」のかたちで現れるもの。本来の「移ろう」であれば「移ろって」になるはずだが「くつろいで」等の連想で誤用されることがある。動詞の活用は変化する、という解説が面白かった。ご飯は「よそう」が本来で「よそる」は変化形。子供は「おぶう」が本来で「おぶる」は変化形。私は後者は言わないが、前者は使うことがある。

 「目配り」というべきところ「目配せ」を使う例は、校閲の行き届かないらしい地方版(新聞)にまれに見られる、という解説があり、地方新聞、ちゃんとしろよ、と憤激したが、一種の方言になりつつあるのかもしれない。「方言あるいは方言ふうのことば」の章では、私(東京育ち)の感覚では、気持ちの悪い表現が、地方によっては無問題であることを知った。「手出し」を「負担」「自腹」の意味で使うとか、「小言」を「不平不満」の意味で使うとか。「やっと」を「ほんの少し前」の意味(期待して待っていた事態に限らない)で使う地域もある。「とぎった鉛筆」も聞いたことないなあ。誤用なのか方言なのかは、目くじらを立てる前に、気をつけなければならないと思う。

 「ガチな」「キョドる」「ぽちる」はまだ駄目(不採用)か。もう流行語の範囲を超えて定着しているので、次回の『三国』改訂には載りそうな気がする。長年の観察のたまものとして面白かったのは、1996年に松本人志が使った「ギロッポン」(六本木)。たぶん意図的なギャグで、出演者全員が「言わない言わない」と全否定して大笑いしたにもかかわらず、その後、テレビや雑誌で普通に使われた例を5つ拾っているという。金田一秀穂先生も「逆さ言葉」の例に上げていたそうだ。それから、村上春樹が1986年にエッセイ『ランゲルハンス島の午後』で使った「小確幸」(人生における小さくはあるが確固とした幸せのひとつ)というのがあり、最近のネット流行語「小並感」「微レ存」は、この仲間であろうと位置づけている。鋭い!

 あと、本書は触れていないが、新たに採用される言葉があれば、(これまで掲載されていたのに)落ちる言葉もあるのだろうな。『三国』新版では、追加された約4,000語の入れ替わりにどんな言葉が消えて行ったのかも聞いて見たい気がする。
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親日外国人の戦後70年/幻滅(R・ドーア)

2015-02-13 22:32:39 | 読んだもの(書籍)
○ロナルド・ドーア『幻滅:外国人社会学者が見た戦後日本70年』 藤原書店 2014.11

 イギリス生まれの経済学者ロナルド・ドーア氏(1925-)の本は『金融が乗っ取る世界経済』(中公新書、2011)しか読んでいないが、経済オンチの私にも分かりやすくて、勉強になり、楽しめた。90年代以降の日本の経済政策に対する批判は、煙たいけど親身な小父さんの小言のようで、ありがたかった。

 そのドーア氏の最新刊のタイトルが「幻滅」だという。カバーの折り返しには「私の対日観を変えたのは、その憂うべき右傾化である」云々という、本文の一部が掲載されていて、ああ、そういうことなら仕方ないな、と、残念だけど受け入れてしまった。

 本書は、終戦直後から今日(2013年)まで、戦後日本の社会・政治・経済の歩みと、著者の研究者人生が重ね合わせて語られている。1947年に「日本研究専門」の学士となった著者は、ロンドン大学で、江戸時代の藩校や寺子屋についての博士論文を書いていた。1950年、在日英国大使館の文化顧問の書生として来日し、東大で特別研究生となる。江戸時代の教育をテーマに博士論文を書くはずだった著者は、次第に眼前の日本社会に惹かれ、農村調査に出かけたり、政治演説を聴いたり、珍しいお祭りを探したり、活動の範囲を広げ、日本の社会経済構造の研究にシフトする。

 日本とイギリスを行ったり来たりの生活を続ける著者は、実の多くの日本人や親日家と交際を持つ。最初期の友人は、ロンドンで通訳をつとめた山川均・山川菊栄夫妻。吉田健一、中野好夫、加藤周一、丸山真男、鶴見兄弟ら。1960年代(高度経済成長の時代)には、永井道雄、ドナルド・キーンとよく会っていたという。政治家では三木武夫・睦子夫妻。エコノミストの東畑精一、大来佐武郎など。それぞれ印象的なエピソードが語られていて、有名人の面貌がぱっと明らかになる感じがした。中野好夫氏は、口が悪くて博識で、大笑いをよくする。「(福田恆存より)性格的にシェークスピアの翻訳者として適していたと思う」と語られていて、よし、中野のシェークスピア翻訳を読んでみよう、と思った。

 聞き覚えのある日本研究者の名前、エドウィン・ライシャワーやジョン・ダワーも登場する。かつてドナルド・キーンと著者は「日本研究の二羽ガラス」(そんな言い方あるのか?)と呼ばれたこともあるそうだが、キーンさんが日本国籍を取得し、永住の意思を表明しているのに対し、著者が「幻滅」を公言されるのはちょっと悲しい。お二人の日本への思いは、そんなに遠く隔たってはいない筈なのに。「変わったのは、私ではなく、日本である」と著者は言う。

 著者の「幻滅の始まり」は1980年代だった。中曽根政権の「小政府・大軍備主義」、米中対立における日本の決定的な米国加担、民営化、教条主義的な新自由主義の導入が始まった頃だ。あの頃、ほんの少し進路を曲げたように見えた日本の末路が今日の姿である。

 著者は、1950年代、主に「革新」派の日本人との接触において親日家のスタートを切ったと語っているが、別にガリガリの「左翼」だったわけではない。安全保障については、憲法を改正し、軍事力は持つけれど、他国の侵略のためには使わないということを正直に規定すべきだと述べている(暗喩的なおとぎ話まで使って)。関連して、南原繁も「軍隊なしの日本は、どうやって、国際社会の一級加盟国となれるか」と吉田茂首相を攻めたという話が語られている。初めて知った。

 辛いのは、最近、著者がアベノミクス批判(インフレ目標2%は中途半端)の小論を公表し、目立つようにメールアドレスを付け加えておいたにもかかわらず、賛成も反対も来なかったという話。著者は「日本は、論争の趣味がない、知的砂漠になってしまった」と慨嘆する。かつての日本を知っているから、余計にそう思うのだろう。今の日本の言論界にあるのは、知性の活動である「論争」じゃないものな。

 経済が停滞して貧乏国になること、国際競争を勝ち抜く政治力を失うこと。そんなことはどうでもいいが、自分の祖国が、文化と知的活力を失ったと評されるのは、なんとも寂しい、やりきれない気持ちがする。著者が、もう一度、重い舵を切って方向転換する日本を見届けてくれる日が来ますように。
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大詩人と大皇帝/中国人物伝III. 隋・唐-宋・元(井波律子)

2015-02-11 23:52:21 | 読んだもの(書籍)
○井波律子『中国人物伝III. 大王朝の興亡: 隋・唐-宋・元』 岩波書店 2014.11

 井波先生の『中国人物伝』2冊目。第4巻『明・清・近現代』に続き、後ろから読んでいくことになってしまった。隋唐から宋元までというのもずいぶん長い話だ。6世紀から14世紀だもの。「隋唐」が10編、「五代十国から宋」が13編、「元」が7編の構成だが、ボリュームでは「隋唐」が本書の半分近くを占める。まあ妥当なところだろう。

 李白、杜甫、元稹、白楽天という大詩人たちが、それぞれ、たっぷり語られているのは嬉しい。閲歴も詳しいし、取り上げられている彼らの作品のセレクションもよい。しかし、どの詩人も、広い中国を実によく移動しているなあ。李白を例にあげれば、10代から20代前半にかけて、故郷の四川省を放浪し、一時は岷山で隠遁性格を送る。山を下り、江南各地(江陵、廬山、金陵=南京、揚州)をめぐり、湖北省安陸で結婚。妻を残して、首都・長安を含め、北方に足を延ばす。最初の妻に死別すると遺児を連れて山東に移住。また越(浙江省)に放浪して、仕官の糸口をつかむ。42歳で宮中(長安)に召し出されるが、1年数か月後、辞職を申し出て放浪生活に戻る。以後、山東、江南地方を遍歴。安史の乱に巻き込まれ、廬山(江西省)で逮捕され、野郎(貴州省)に流罪になるところ、白帝城(四川省)で大赦となる。その後も江南地方を遍歴し、当塗県(安徽省)で病没したといわれている。

 この十数年、中国各地を旅行した自分の経験(1回に、ひとつかふたつの省を移動するので精一杯)を思い合せると、ほんとに「日々旅にして旅を住処とす」みたいな人生だったんじゃないかと思う。日本にも西行や芭蕉のように旅に生きた詩人はいるけど、生涯の移動距離はちょっと比較にならないだろう。

 杜甫も鞏県(河南省)で生まれ、20歳から30歳にかけて呉越(江南)および斉趙(山西、山東)を旅行し、結婚して洛陽に新居を構え(ここで李白と邂逅)、長安で仕官、安史の乱を避けて長安を離れ、陝西省から秦州(甘粛省天水市!)さらに成都(四川省)に放浪する。成都には「杜甫草堂」という観光名所ができているが、ここで落ち着いた生活ができたのは2年程度、杜甫の人生においては「一瞬」みたいなもので、また戦乱に追い立てられ、四川省各地を転々とし、荊州、岳陽、衡州、潭州など、湖南省・湖北省で長期の水上生活をおくり、病没した。

 荊州を訪ねたときは、杜甫のことは全く思い出さなかった。天水ではどうだったかしら。よく覚えていない。戦乱に強いられた放浪生活には、苦衷と哀愁が伴うが、一方で「故郷」や「出身地」にしがみつかない自由な生き方ができたことに、少し羨望も覚える。

 私が漢詩(唐詩)に親しんだのは、高校生から大学生の頃だが、当時覚えた詩は、今でも記憶の中からよみがえってくる。詩は若いときに読んで、とりあえず覚えておくものだな。そして「漢文読み下し」という独特の方法で、古代中国の詩を味わえることを私は幸せだと思う。やっぱり李白いいなあ。「月下独酌」をはじめ、月を詠んだ絶唱が好き。杜甫や白楽天の詩は、いま読むと、学生時代には分からなかった感慨が迫って来る。人生はままならぬもの。だからこそ長く生きてみることに意味があるのだと思った。

 宋代・蘇東坡の章は『中国文章家列伝』(岩波新書)に基づくもので、なんとなく記憶があった。宋代女流詩人の李清照、元代の楊万里、范成大、陸游、元好問、白仁甫(戯曲作家)などは、名前程度の知識しかなかったので、興味深かった。元代の詩は、エロティックだったりパセティックだったり、学校で習う(今は習わないのか?)「漢詩」とはずいぶん異質な作品もあって、面白い。

 本書のどこかに、国家の不幸は詩の幸福(戦乱の時代が、詩の絶唱を生む)という趣旨の言葉があった気がするのだが、探しても出てこないので、私の勘違いかもしれない。でも本書の時代を振り返ると、そんな感想を持った。決して戦乱の時代を肯定するわけではないけれど。

 「大皇帝」唐太宗・李世民のことも書こうと思っていたが、長くなったので省略する。中国史上、私の好きな皇帝はたくさんいるが、戦時と平和時をひっくるめた統治能力では、李世民にまさる皇帝はいないのではないか。有能すぎて少し面白味に欠けるきらいはある。ただ、李世民のまわりに集まった臣下たちは、文武両面とも個性的で面白いと思う。性格・品行に全く破綻のない名君・李世民が、唯一執着したのが王羲之の書だったと聞くと、「蘭亭序」をあの世に持っていってしまったことを許してもいいかなあと思えてくる。

 対照的に悪名高い隋の煬帝であるが、読書好きで、長安の宮中図書館の蔵書を整理し、貴重な50部は副本を作って、洛陽に分置したというのは初耳だった。からくり仕掛けの皇帝専用書斎を持っていたというのも面白い。それから、煬帝が個人的欲望(=江南に通いたい)を実現するためにつくった大運河が、その後長く、中国の南北交通の要として活用されたことについて、著者は「なんとも皮肉な話だが、チマチマした現実の限定枠を思い切ってとっぱらう盛大な浪費から、ときとして予想もつかない文化が生まれる」と評している。心に留めておきたい。
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2015さっぽろ雪まつり

2015-02-11 21:04:38 | 北海道生活
大通公園の札幌雪まつり(2015年2月5日~11日)に行ってきた。昨年も行ってみたのだが、全く期待外れで(テレビ画面で見ているほうが迫力がある)ブログには何の記事も上げていなかった。

今年の呼び物はスターウォーズの雪像。↓先週末の写真。



土日に気温が上がって、倒壊の恐れが出たとかで、月曜に上の方が少し壊されてしまった。月火は気温が下がって、寒かったのに~。↓今日の状況。



↓これも呼び物の春日大社の正門。平成27~28年(2015~2016)に式年造営が行われるので、宣伝につとめているらしい。



雪像前の小さなブースで、奈良の地酒の試飲と、釣り灯籠の展示(直江兼続と、もうひとり戦国武将の誰か)をやっていたが、観光客は地酒試飲に夢中で、誰も釣り灯籠に関心を向けていなかった(笑)。来ていた地酒は「風の森」。嫌いじゃないけど、奈良に行って、別の銘柄が飲みたくなってきた。

夜はライトアップやプロジェクションマッピングも行われているらしいが、暖かすぎる室内を出て出歩く気持ちになれない…。

昼は「赤れんがテラス」に入った札幌の名店「布袋」の麻婆ラーメンとザンギ(鶏からあげ)、タピオカ入りココナッツミルク付き。雪まつり期間限定のお得セット。



麻婆ラーメンはこれまで食べたものと違って、汁なしそばに麻婆あんをかけた状態。麻婆豆腐は、昭和の懐かしい家庭料理ふうで大甘。豆腐は美味い。ザンギはしっかりした味つけで、白いご飯がほしくなった。2個なら全然問題ないと思ったのだが、イメージの3倍くらいある特大サイズで、最後はかなり苦しかった。ふう~。
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小説家も唸る/江戸学講座(山本博文)

2015-02-09 22:23:03 | 読んだもの(書籍)
○山本博文(講師);逢坂剛、宮部みゆき(聞き手)『江戸学講座』(新潮文庫) 2014.11

 旅先で読むものが切れたので、軽めの文庫本を購入したのだが、いい選択眼だったと思っている。小説家の逢坂剛氏、宮部みゆき氏を聞き手に、東京大学史料編纂所の山本博文先生が語る江戸学講座10講。テーマは「大奥」「旗本・御家人の就職システム」「大名・旗本の出世競争」「勤番(江戸勤め)武士の日常生活」「町奉行所」「明暦の大火」「安政の大地震」「武士の転勤・出張」「お伊勢参り」「海外交流」。

 私は江戸時代の社会システムや生活実態に詳しくないので、どの章も勉強になったが、時代小説を書いているお二人が、興味津々で質問したり、素直に感心している様子も面白かった。意外と細かいことは知らないものなんだな。そして、何を聞かれても悠揚迫らぬ応対の山本先生。さすがプロ。

 知っている人物の話題が出ると、慕わしくて嬉しい。逢坂剛さんの小説の主人公でもある近藤重蔵とか、「鬼平」のモデル長谷川平蔵とか。川路聖謨は家格が低く、苦労して職を得た。上級職の武士の屋敷に日参し、廊下に正座して待ち、主人が通ると黙って頭を下げるだけ。いまどきの就活並みに過酷だ。それゆえ、活躍の場を与えてくれた将軍に感謝の気持ちが強く、最期は幕府に殉じた。氏家幹人先生の『江戸奇人伝:旗本・川路家の人びと』を思い出して、しみじみした。

 やっぱり興味深いのは、犯罪や災害などの異常事態である。山本先生の「斬り捨てというのは、斬っただけでトドメを刺さないということで、斬り殺すことではありません」には驚き。火盗改には役所がなく、任命された旗本の自宅にお白洲をつくる。町奉行も、もとは自宅を奉行所にしていたが、工事が大変なので、後任の町奉行がそこに入るようになった、など面白い話がたくさん。八州様(八州廻り)というのも知らなかった。

 「明暦の大火」については、いったん捕まった放火の容疑者が釈放されているとか、火元とされる本妙寺が罰を受けることなく、のちに寺格が上がっているなど、山本先生が、アヤシからぬことを言い出す。思わず乗り出す小説家の二人。黒木喬氏の『明暦の大火』によれば、本妙寺の住職に(放火を)依頼したのは、江戸の都市計画を司る老中「知恵伊豆」こと松平信綱ではないかという説もあるそうで、小説家顔負けの想像力である。「安政の大地震」で、水戸藩の藤田東湖が母親を助けようとして、倒壊家屋の下敷きになって死んだという「美談」は聞いたことがあったが、お母さんは別の出口から逃げて助かっているんです(笑)と、しれっと語る山本先生。

 旅と異国の話題も面白かった。大田南畝によれば、長崎では縁の下に麝香鼠が住みついているので、どこへ行ってもジャコウの匂いがするとか。長崎の遊女は外国人からチョコレートを貰ったという記録もあるそうだ。

 余談だが、先週から始まったNHK BS時代劇『雲霧仁左衛門2』。2013年のシリーズは(諸事多忙で)途中までしか見られなかったが、今回こそは完走したいと思っている。エンディングのテロップに「時代考証:山本博文」のお名前を発見。嬉しくなってしまった。
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新・華夷秩序の目論見/「反日」中国の文明史(平野聡)

2015-02-08 23:11:50 | 読んだもの(書籍)
○平野聡『「反日」中国の文明史』(ちくま新書) 筑摩書房新社 2014.9

 ちょっと微妙な匂いのする本だった。著作が、という意味ではなく、パッケージ商品として。「『反日』中国」というタイトルや、カバー折り返しの概要紹介の「『驕った大国』の本質」という表現は、売れ筋の嫌中・嫌韓本と誤解されかねない感じがした。しかし、平野聡さんの過去の著作、『清帝国とチベット問題』や『大清帝国と中華の混迷』は、普通に納得できる中国研究だったことを思い起こして、読んでみることにした。

 序章は、2013年に始まった習近平の「中国夢」キャンペーン(中華民族、あるいは中華文明を主人公とする国威発揚、愛国運動)を紹介する。私は最後に中国に旅行したのが2012年なので、それ以降の中国情報に乏しい。習近平体制になって、好ましくない方向に向いていると漠然と感じていたが、こんな自己肥大が進んでいるのかと呆然とした。

 中国の自文明に対する過剰な信仰はなぜ生まれ、正当化され、近代の苦痛・煩悶を通じて、あらためて強化されているのか。著者は、一気に中国文明の源流に遡る。「五帝」伝説に始まり、夏・殷・春秋・戦国…。これ、中国史好きの私は面白かったが、「反日」中共国家への批難だけを聞きたかった読者には退屈だろうなあ。

 やっぱりポイントは清だろう。満洲人皇帝が、儒学的天子、仏教王、イスラームの保護者という複数の顔を使い分け、多様な文化集団を支配下においてきたという、なかなか日本人には分かりづらい体制。重要なのは、漢字と儒学の「中華」は内陸アジアには広がらなかった事実である。温暖な農耕社会では経験知が物を言うから、年長者や上下の秩序を重んじる中国文明には適合性がある。しかし草原に生きる遊牧民族にとっては、長幼・上下の序を尊ぶ文明など「命取り」である。文明というものは、どれほど影響力を持つとしても、それが生まれた自然・社会環境に左右され、やがてある一定の範囲で広がるのを止める。このように冷静に説かれると、全くその通りだと思った(少なくとも近代以前に源流を持つ文明については)。

 さて近代である。中国文明の大前提である「天理」としての上下秩序は、西洋近代文明の衝撃によって、直接には、いちはやく近代国家関係に適応した日本の出現によって、打撃を受ける。その体験が、今日中国の抱く不満の根源なのである。日清戦争は、単なる地域紛争ではなく、「国際関係は対等であるべきか、それとも上下関係であるべきか」という妥協なき矛盾をめぐる、文明の衝突であったと著者は捉える。

 日本への敗北で始まった中国の近代は「日本の近代の模倣」として展開する。社会改良、啓蒙主義、新文化運動から国民党、中国共産党の成立。毛沢東独裁の下に展開された計画経済、大躍進、文化大革命という動乱の時代。ここで著者は小休止して、そもそも上下秩序(礼)を基本とする中国文明は「国民づくり」に向いていないことを指摘する。統治の責任を負うのは皇帝と一部のエリートのみで、庶民のほとんどは、家族・朋友・信仰などのネットワークに安住している。「中国文明のもとでは個人は竜のように強い。しかし互いをつなぐものは弱くバラバラである」というのは、とてもよく分かる。実のところ、私が伝統中国に愛着を持つのは、まさにこの特質によるのだから。

 さらに本書は、毛沢東の死、華国鋒体制、小平と胡耀邦による改革開放、六四天安門事件と、20世紀末から今世紀への中国政治社会の変動を一瀉千里に駆け抜ける。これほどの多事多端の中で、共産党の独裁体制がなぜ崩壊しなかったか、その解説は興味深い。しかし、さすがに今日、中国全体を覆う不正や環境破壊は、人々の不安を呼び覚ましている。それゆえ、中共政府はナショナリズムに頼り、新・華夷秩序(上下関係の国際秩序)を導入しようとしている。ううむ、21世紀になっても「上下秩序」を持たない、対等の二国間関係というのが受け入れられないのだな。困ったことに。しかし、それは19世紀の帝国主義国家の繰り返しでしかない。日本国民がななすべきことは、このような権力に抵抗し、法治と開かれた社会を求める中国の多くの人々に声援を送ることだという著者の提言に同意する。どっちへ行くんだ、中国。

 琉球=沖縄、朝鮮半島、尖閣諸島などの個別地域問題についても詳しい解説あり。意外と袁世凱が高い評価を受けていたことも興味深かった。民国の初期、退位させた満洲人皇帝が引き続き紫禁城に住むことを許し、「清室優待、満蒙回蔵各族優待」策をとったのは、清の生え抜き官僚である袁世凱だからできたことで、広東出身の孫文にはできなかっただろうという。なるほど。
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