〇長堀祐造『陳独秀:反骨の志士、近代中国の先導者』(世界史リブレット 人) 山川出版社 2015.10
中国ドラマ『覚醒年代』の復習として読んでみたら、思った以上にいろいろなことが分かって興味深かった。中国共産党の設立にかかわった陳独秀が、のちにトロツキズムに傾倒したことはwikiで読んでいたが、中共は、トロツキー派が日本軍から金を貰っていたというデマに固執し、戦後も「新文化運動の主将の座を魯迅に、共産党創立者の栄誉を李大釗に担わせることで、陳独秀を歴史からパージしてきた」という。しかし改革・開放以後、徐々に見直しが行われ、「本来あるべき歴史上の地位が陳独秀にも回復しつつある」というのが、本書の刊行された2015年の認識だったようだ。それから6年。著者の長堀祐造先生がドラマをご覧になっていたら、感想を聞いてみたい。
陳独秀は、清末に安徽省安慶府懐寧県(現・安慶市)の読書人の家に生まれ、科挙の予備試験に合格して17歳で秀才となる。青年時代は、変法派の人々と交わり、日本に留学したり、テロ組織に加入したり、地方政府の要職に就いたり。やがて上海で雑誌「新青年」を創刊し、北京大学に移って新文化運動をリードしていく。ここから五四運動、共産党創設までは、ほぼドラマで描かれたとおりだった。「新青年」創刊号に掲載された六か条の提言とか、演劇の教育的機能を強調したこととか、五四運動の学生たちの座右の銘となった「研究室と監獄」とか。五四運動で逮捕のきっかけとなったビラ撒きの現場が、娯楽場「新世界」の「最も高いところ」だったこと(清水安三が伝聞の記録を残している!)もドラマと一致していた。
一方、ドラマでは、やや軽い扱いだった「文学革命」が、独秀にとって政治革命と同じくらい重要だったのではないかというのは、本書を読んで感じたところだ。白話文だけではなく、句読符号も「新青年」が提唱・導入したのだな。そして胡適が主に「形式」面改良の提案をしたのに呼応して、独秀は「内容」面での「文学革命論」を発表する。『詩経』『楚辞』の平易直情、元明の戯曲、明清の小説を称賛し、文章は道徳を伝えるものだという「載道説」を退けた。これは独秀が親しんだ近代ヨーロッパ的な文学観からすれば当然のことだが、毛沢東の「文芸講話」やそののちの中共の文芸政策よりずっと進歩的なものと言える。
独秀は晩年に至るまで音韻学、文字学への関心を失わず、独自の研究を続けた。1929年3月には「中国拼音文字草案」も書き上げていたという(公刊されず)。そのことを知ると、共産党による陳独秀の名誉回復を単純に喜んでいいのか、疑問が残る。彼の多面的な遺産を「建党の英雄」だけに回収するのは、ちょっと料簡が狭いのではないか。
1921年、共産党の結党ともに陳独秀はその指導者となる。コミンテルンは、中共党員が国民党に加入するというかたちでの国共合作を指示。この変則的な合作はやがて崩壊するが、中共トップの座にあった陳独秀に批判が集中し、1927年、コミンテルンから職務停止の命令が下る。
その後、独秀は、トロツキーが中国革命について正しい見通しをもっていたことを知り、支持を表明するとともに、中共内部の民主主義の欠如を批判する。しかしスターリン派が実権を握る中共には受け入れられず、中国のトロツキー派自体も分裂し、1932年には国民党に逮捕される。このとき、胡適や蔡元培が救出に動き、章士釗が弁護に立って「陳独秀は国民党の功臣」などと論じたが、独秀は机を叩いて立ち上がり、自らの弁護人に反論したという。笑った~ドラマのキャストで絵が浮かんでしまった。この後半生こそドラマで見たいと思ったが、あと100年くらい経たないと無理だろうか。
陳独秀の晩年の思想は、私家版的な出版物『陳独秀的最後見解』で知ることができる。民主的価値の歴史的普遍性を説き、プロレタリア独裁がスターリン主義を胚胎したことを批判しているそうだ。胡適は、この書籍から、トロツキー宛書信などマルクス主義堅持を記した数点を削除したものを公刊し、長文の序を寄せて、陳独秀の自由主義者としての側面を再評価しようとした。しかし、著者の見るところでは、独秀は最後までマルクス主義を捨てていない。文学革命の同志である胡適も「自分にとって望ましい陳独秀」だけを見てしまっているように感じた。
ドラマと本書を通じて、陳独秀という複雑で魅力的な人物を知ることができてよかったが、現代に近い人物ほど、歴史的な評価は難しいということをしみじみ思った。