○内田樹、姜尚中『世界「最終」戦争論:近代の終焉を超えて』(集英社新書) 集英社 2016.6
この二人の本を読みなれている読者でも、新鮮な感じのする一冊ではないかと思う。私は、ずいぶん前から内田先生も姜先生も好きで、おふたりが同じ1950年生まれだということにも気づいていた。一緒のお仕事はないけど、そんなものかなと思っていたら、昨年、内田先生がツイッターで「姜尚中さんと対談します」とつぶやかれたので、おお、と思った。ついに来るべきものが、という感じ。
内田先生も「あとがき」で同じようなことを述べている。姜尚中さんの仕事にずっと注目していたこと。なかなか会う機会がなかったけれど、会いたいと思っている人とは、いつか必ず会うべきときがくると思って心配していなかったこと。初対面から、すぐに話題の核心に踏み込んだこと。よそで話したことの反復ではなく、「これまで誰にも話したことがなかったこと」を喋り、相手から聞き出そうと思ったこと。いや実際、内田先生については、これまでの著書で読んだことのない話題がどんどん繰り出されるので驚いた。
ただ、冒頭の姜先生による19世紀から20世紀の「世界史」の総括は、ちょっと長い。読みにくかったら、序章を飛ばして第1章から読み始めても、そんなに困らないと思う。要約すると、19世紀から20世紀の二百年間、「西欧」を土台とする近代は、国民国家体制の枠の中で展開してきた。しかし、1970年代から近代の普遍性が消耗し、今日では、自由・平等・博愛の国であったフランスでも移民の間に絶望や呪詛が蔓延し、衝撃的なテロ事件が起きている。この、終わりなきテロ=戦争が日常化した状態を世界「最終」戦争と呼んでみる。
これを受けて、内田先生がフランスの政治と社会について語り、二人でアメリカを語り、ドイツ、イタリア、イギリスを語る。イギリスは相対的に「大人」の国で、「絶対に正しい解」ではなく「よりましな解」をプラグマティックに選択する、と評しているのは内田先生だが、この箇所を読んだ直後に、EU離脱を選択する国民投票の結果が出たのには呆然とした。国民性も変化するということなんだろうか?
中東系の移民について、内田先生の洞察が面白かった。遊牧民は「砂漠では利己的にふるまうと生き延びることができない」と知っているから、生活資源は他者と共有するのが当たり前。幕屋を訪れた人は追い返さない。客人を歓待することは義務だと思っているから、異国に出ていくことにも抵抗がない(歓待されるはずだと思っている)。しかし、日本人は、異邦人は歓待されなくて当たり前と思っているから、たぶん難民化しないだろう。なるほどねえ。内田先生は、お能を例にあげて、旅人は必ず一度は宿を断られる。「異邦人を歓待するという文化習慣は日本の伝統にはなかったんじゃないか」という。ここは、歓待されて殺される「異人」(来訪神)の伝統を付け加えてほしかった。小松和彦先生的に。
後半は主に日本がテーマとなる。冒頭で姜先生が長崎の軍艦島を見て来た話をする。炭坑の遺跡で、日本で最初につくられた鉄筋コンクリートの高層住宅が残っていると聞いて、あ、「ブラタモリ」で見た、と思い出した。しかし、日当たりのいい高層階には三菱のえらい職員が住み、階層順に部屋が割り当てられて、下のほうに中国人や朝鮮人労働者が押し込められていたというのを聞いて、暗い気持ちになった。
さらに姜先生は、福島第一原発に入ったり、浪江で放射能に汚染された牛を飼い続けている牧場主に会ったりもしている。前半でもパリ郊外の移民が暮らすゲットーを訪ねたり、まあジャーナリズム同行の取材ではあるけど、書斎の人ではなく現場主義なんだなあということに驚く。近代の成長の陰に多くの「棄民」(国家から見捨てられた人々)があったこと、アメリカも中国も同じであることを確認し合う。
もう経済成長をあきらめ、定常経済に移行するしかない、という点で二人の結論は一致するのだが、自民党の改憲草案は新自由主義経済礼讃を基調としている。ああ、そこなんだな。基本的人権を制限し、独裁を志向するのは、戦争をしたいわけじゃない。効率的なビジネスをしたいのだ。グローバル資本主義の中で勝ち続けることのできる国家をつくりたいのだ。しかしそれは、荒廃した国土と棄民をつくり続けることでしかない。つまり、現政権への有効なNOは、「戦争は望まない」ではなく「成長は望まない」であるべきなのだが、これは広汎な共感を得るのはとても難しそうだ。
希望は、グローバリズムを牽引するアメリカの失速が、必ず起きるだろうという予測。しかし日本の将来は不透明である。七十年の平和に飽きた人々が、体制の変化、あるいは潜在的な破壊願望を持っている。こうした破壊願望は人間の常で、歴史上、何度も繰り返されてきたものだが、あまりいい結果を見たことはないという。レジームの受益者であるはずの人々が「もう飽き飽きした」と言い出す、人間の不思議。せめて良識を維持している人間にできることは、坂を転がり落ちるスピードを減速させることくらいかもしれない。
この二人の本を読みなれている読者でも、新鮮な感じのする一冊ではないかと思う。私は、ずいぶん前から内田先生も姜先生も好きで、おふたりが同じ1950年生まれだということにも気づいていた。一緒のお仕事はないけど、そんなものかなと思っていたら、昨年、内田先生がツイッターで「姜尚中さんと対談します」とつぶやかれたので、おお、と思った。ついに来るべきものが、という感じ。
内田先生も「あとがき」で同じようなことを述べている。姜尚中さんの仕事にずっと注目していたこと。なかなか会う機会がなかったけれど、会いたいと思っている人とは、いつか必ず会うべきときがくると思って心配していなかったこと。初対面から、すぐに話題の核心に踏み込んだこと。よそで話したことの反復ではなく、「これまで誰にも話したことがなかったこと」を喋り、相手から聞き出そうと思ったこと。いや実際、内田先生については、これまでの著書で読んだことのない話題がどんどん繰り出されるので驚いた。
ただ、冒頭の姜先生による19世紀から20世紀の「世界史」の総括は、ちょっと長い。読みにくかったら、序章を飛ばして第1章から読み始めても、そんなに困らないと思う。要約すると、19世紀から20世紀の二百年間、「西欧」を土台とする近代は、国民国家体制の枠の中で展開してきた。しかし、1970年代から近代の普遍性が消耗し、今日では、自由・平等・博愛の国であったフランスでも移民の間に絶望や呪詛が蔓延し、衝撃的なテロ事件が起きている。この、終わりなきテロ=戦争が日常化した状態を世界「最終」戦争と呼んでみる。
これを受けて、内田先生がフランスの政治と社会について語り、二人でアメリカを語り、ドイツ、イタリア、イギリスを語る。イギリスは相対的に「大人」の国で、「絶対に正しい解」ではなく「よりましな解」をプラグマティックに選択する、と評しているのは内田先生だが、この箇所を読んだ直後に、EU離脱を選択する国民投票の結果が出たのには呆然とした。国民性も変化するということなんだろうか?
中東系の移民について、内田先生の洞察が面白かった。遊牧民は「砂漠では利己的にふるまうと生き延びることができない」と知っているから、生活資源は他者と共有するのが当たり前。幕屋を訪れた人は追い返さない。客人を歓待することは義務だと思っているから、異国に出ていくことにも抵抗がない(歓待されるはずだと思っている)。しかし、日本人は、異邦人は歓待されなくて当たり前と思っているから、たぶん難民化しないだろう。なるほどねえ。内田先生は、お能を例にあげて、旅人は必ず一度は宿を断られる。「異邦人を歓待するという文化習慣は日本の伝統にはなかったんじゃないか」という。ここは、歓待されて殺される「異人」(来訪神)の伝統を付け加えてほしかった。小松和彦先生的に。
後半は主に日本がテーマとなる。冒頭で姜先生が長崎の軍艦島を見て来た話をする。炭坑の遺跡で、日本で最初につくられた鉄筋コンクリートの高層住宅が残っていると聞いて、あ、「ブラタモリ」で見た、と思い出した。しかし、日当たりのいい高層階には三菱のえらい職員が住み、階層順に部屋が割り当てられて、下のほうに中国人や朝鮮人労働者が押し込められていたというのを聞いて、暗い気持ちになった。
さらに姜先生は、福島第一原発に入ったり、浪江で放射能に汚染された牛を飼い続けている牧場主に会ったりもしている。前半でもパリ郊外の移民が暮らすゲットーを訪ねたり、まあジャーナリズム同行の取材ではあるけど、書斎の人ではなく現場主義なんだなあということに驚く。近代の成長の陰に多くの「棄民」(国家から見捨てられた人々)があったこと、アメリカも中国も同じであることを確認し合う。
もう経済成長をあきらめ、定常経済に移行するしかない、という点で二人の結論は一致するのだが、自民党の改憲草案は新自由主義経済礼讃を基調としている。ああ、そこなんだな。基本的人権を制限し、独裁を志向するのは、戦争をしたいわけじゃない。効率的なビジネスをしたいのだ。グローバル資本主義の中で勝ち続けることのできる国家をつくりたいのだ。しかしそれは、荒廃した国土と棄民をつくり続けることでしかない。つまり、現政権への有効なNOは、「戦争は望まない」ではなく「成長は望まない」であるべきなのだが、これは広汎な共感を得るのはとても難しそうだ。
希望は、グローバリズムを牽引するアメリカの失速が、必ず起きるだろうという予測。しかし日本の将来は不透明である。七十年の平和に飽きた人々が、体制の変化、あるいは潜在的な破壊願望を持っている。こうした破壊願望は人間の常で、歴史上、何度も繰り返されてきたものだが、あまりいい結果を見たことはないという。レジームの受益者であるはずの人々が「もう飽き飽きした」と言い出す、人間の不思議。せめて良識を維持している人間にできることは、坂を転がり落ちるスピードを減速させることくらいかもしれない。