見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

我々のリアルな戦後/そして、憲法九条は(姜尚中、吉田司)

2006-03-31 23:12:35 | 読んだもの(書籍)
○姜尚中、吉田司対談『そして、憲法九条は』 晶文社 2006.2

 先日、姜尚中氏が別の著書で、過去に向き合うことの大切さを説いていることを記した。過去との類比で現在を捉えてみると、新しく見える現象も、意外に旧かったり、違う衣装を纏って現れたものであったりする。本書は、こうした視点で戦後60年の日本の姿を検証しなおしたもので、さきの『姜尚中の政治学入門』(2006.2)が理論編とすれば、こちらは実践編と言えよう。

 まず両氏は、「戦後」の出発点を1945年8月15日に置くことに疑問を呈する。戦後の出発点は戦前に準備されていると見るべきではないか。戦後、日本がアメリカを受け入れる下地は、1920年代、都市部におけるアメリカニズムの浸透に準備されていた。戦前戦後を通じて、日本がアジアでヘゲモニーを握れたのは、アメリカとの宿命的な関係に拠っている。

 会社共同体主義、護送船団方式といわれる日本的経営システムは、戦時期に原形が作られた。とりわけ重要なのは、満州国の存在である。満州国で行われた実験的な統制経済が、岸信介首相のもと、戦後に生き残っていく。満州国が「偽満州」であったとすれば、戦後日本の高度経済成長こそ「リアル満州」であると言える。

 満州国の重要性は、このところ、様々な論者が指摘しているのを聞く。満州国の建国を、日本の生命線を守るためだったと居直るのも不様だが、侵略行為をひたすら謝罪し、恐縮して沈黙するだけというのも、不毛な気がする。それよりも、我々の「戦後」の水脈がどこにつながっているかを、日本国民はもっと知らなくてはならない。もっと積極的な分析が必要であると思う。

 吉田氏がさらりと語っているが、小泉純一郎の父親の純也は岸派だった。純也は岸派の凋落の際、藤山愛一郎のところに身を寄せた。藤山は、1959年から始まる北朝鮮への帰還運動のときの外務大臣だった。そう考えると、小泉純一郎と北朝鮮の因縁は深い。また、在日朝鮮人にはハンセン氏病が多かった。そして、ハンセン氏病の隔離政策が国の誤りであることを認めたのは小泉純一郎だった。すごいな、まるで小説が書けそうだ。

 日本の政治家だけではなく、北朝鮮や韓国にも満州派と呼ぶべき人脈があると言う。東アジアの近代史というのは、どの国も、もはや一国だけの国内史としては書けないのではないかな。また、近代史とか現代史というのは、10年や20年のスパンで語れるものではなく、少なくとも百年くらいの過去は視野に入れて考えなければいけないということが、最近やっと実感として分かってきた(だって、個人としての人間の記憶は、両親や祖父母の代を含めて、そのくらいのスパンを生きるんだもの)。この感覚、ハタチやそこらの若者には分かるまい。中年になるのも、なかなか楽しいことだ。

 以上は、戦前から戦後まで連続する歴史の流れを総括したものだが、ごく最近の社会に関する分析も興味深かった。過多な情報によって(つながるのではなく)却ってバラバラにされる人々、フリー・ライダーの炙り出し、そして「無力なものが独裁者を愛する」時代。読んで気持ちのよくなる「物語」ではないが、背骨を伸ばして現実に向き合うためには、陰鬱な真実も呑みこまなくてはならないと思う。そこが「物語」と「歴史」を分けるものかも知れない。
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明治の横浜/横浜開港資料館

2006-03-29 23:58:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
○横浜開港資料館 『創業の時代を生きた人びと-黒船来航から明治憲法まで-』

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/

 時々気になる展示をやっているなあ、と思いながら、一度も行ったことがなかった。このところ、明治初年がマイブームなので、横浜に行ったついでに寄ってみることにした。

 開催中の展示は、有名無名の人物を取り上げ、エピソードを交えながら近代横浜の歩みを紹介したものだ。横浜とのかかわりはいろいろである。伊藤博文は夏島(横須賀市)の別荘で明治憲法の草案を練った。フランス人画家ビゴーは、美人の膝枕でだらしなく酒盃を傾ける伊藤博文を描き、背景に「くには捨て置け、お前が大事」云々と日本語で記して皮肉っている。

 成島柳北が太田陣屋(日の出町一丁目)にあった幕府の洋式陸軍の伝習所に起居していたというのは初耳。休日にはフランス人教師や同輩と轡を並べ、隅田川まで遠乗りに出かけた。どうもフランス派はカッコイイな。中江兆民の晩年の詩幅(絶筆)もあった。枯れた字である。

 知らなかった名前では、ガス・上下水道・港湾設備など、横浜のインフラを作った高島嘉右衛門。なるほど、篤実な実業家だったんだな、と思ったら、占いの的中率が抜群で、『高島易断』を名乗った人物でもあるという。

 今回の展示を見て、幕末~明治の横浜居留地の様子が、ようやく頭に入った。なるほどね~。少し暇になったら、地図を持って歩いてみたいな。
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京都・清水寺展/そごう美術館

2006-03-28 23:37:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
○そごう美術館 奥の院御本尊開帳記念『京都 清水寺展』

http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/06/0302_kiyomizu/index.html

 終わってしまった展覧会だが、週末に見てきたので、書いておこう。「奥の院ご開帳記念」と聞いて不思議に思ったが、2003年のご開帳に関連して、各地で出開帳を行っているのだそうだ。2003年の清水寺には行ったと思うが、奥の院の建物の記憶がないので、調べてみたら、仏像を他のお堂に移して公開していたようだ。

 2000年の本堂ご本尊ご開帳(33年に1度)の感激は、今も忘れていない。それに比べると奥の院は、千手・毘沙門・地蔵の三尊に、二十八部衆と風神・雷神まで揃っているのだが、本堂の諸像に比べると、ひとまわり小粒で、質も落ちるのである。というわけで、この展示会には、さほど期待していなかったのだが、「やっぱり、いい」という友人の話を聞いて、最後の週末に見に行った。

 会場に入ると、等身大に近い、風神・雷神・二十八部衆の一部が待っている。これは奥の院ではなくて、本堂の諸像だ。ちょっと興奮。しかも、堂内では絶対に不可能な至近距離まで、にじり寄ることができる。かっと開いた風神の口の中には、尖った牙が並んでいる。肩に担いだ風袋には、雲龍文が浮き彫りされていて、素材は革か錦か、いずれにしても丈夫そうな厚手の袋である。

 目を凝らすと、どの彫像の装束も、細部まで美しい文様で彩られていたことが分かる。毘沙門天は、縞や菱形つなぎの幾何学文と花鳥文の組み合わせが、ばさらでマニエリスティックである。迦楼羅(かるら)神の腰帯には、獣頭の帯飾りが付いており、帯飾りの垂れた部分には、ちゃんと毛並みが描き込まれている。

 奥の院の諸像は、さらりと見て、気になったのは、ふだん宝蔵殿に安置されているという、不動明王像と大黒天半跏像。どちらも平安仏で、穏やかな顔をなさっている。しかし、大黒天の半跏像というのは記憶にない。背筋をピンと伸ばし、左手に宝棒、右手に金玉袋(と書いてあった)を持ち、しかも、それを膝につけず、中空に持ち上げている。福岡・観世音寺の大黒像とか、奈良博の走り大黒とか、古代の大黒天って不思議だなあ。
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若冲の動植綵絵・第1期/三の丸尚蔵館

2006-03-27 22:35:10 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三の丸尚蔵館 第40回展『花鳥-愛でる心、彩る技<若冲を中心に>』

http://www.kunaicho.go.jp/11/d11-05-06.html

 さあ、若冲の『動植綵絵』全幅公開が始まった! いや、展示品は、それだけではないのだが、やはり会場に入ると『動植綵絵』の前に駆け寄ってしまった。第1期は、『芍薬群蝶図』『老松白鶏図』『南天雄鶏図』『雪中錦鶏図』『牡丹小禽図』『芦雁図』の6点である。

 『南天雄鶏図』と『牡丹小禽図』は、たぶん10年くらい前、やはり三の丸尚蔵館で行われた全幅公開で見た記憶がある。日曜の朝、突然、大学の先輩から電話がかかってきて、誘われて出かけた。それが『動植綵絵』原本の初見だった。

 若冲といえば、やっぱりニワトリ。この『動植綵絵』シリーズにも、ニワトリが頻出する。鮮やかな色彩、尾羽をひるがえしてポーズを決めたところは、衣装をつけた京劇俳優のようだ。しかし、大きな画面を隅から隅まで、よーく見てみると、思わぬところに小さな生命が描き込まれていて、嬉しくなる。たとえば、『南天雄鶏図』の黒いオンドリの頭上では、オレンジ色の小鳥が、南天の実を咥えている。このあとに公開予定の『紫陽花双鶏図』や『芙蓉双鶏図』でも、ぜひ小鳥の存在を見逃さないでほしい。初見の際は、「ほらほら、こんなところにもいるよ、かわいい~!」と大はしゃぎしたことを思い出すが、花びらの陰に隠れてしまいそうな可憐な小鳥と、威風辺りを払うような巨大なニワトリは、二つながら若冲の自画像なのではないかと思われる。

 本展で興味深いのは、平成11年度から16年度にかけての解体修理の結果、裏彩色という技法の使用が明らかになったことだ。この技法は、裏の絵具が絹の織目をとって表面に発色し、微妙な効果をもたらすとともに、表面と裏面の絵具が結合することで、接着強度が増し、絵具が剥落しにくくなるのだと言う。

 会場には『動植綵絵』30幅を一覧できるパネルも用意されている。なるほど、勢揃いすると、こういう風景になるのか、というのが分かって興味深い。また、この作品は、本来、相国寺に残る『釈迦三尊像』と一体のもので、釈迦三尊を荘厳するために描かれたものだという。そうか、これは「曼荼羅」なんだな、と思うと、『牡丹小禽図』をはじめ、中心/周縁の区別を消し去るほどの、爆発的な生命感が漲っている理由が分かるように思った。

 ところで、若冲で検索していたら、環境省のページがヒットしてしまった。『牡丹小禽図』と『池辺群虫図』のふろしきがあるのだという。欲しい!!「貸し出し規程」はあるようだが、商品化されていないのかしら?

■小池環境大臣デザイン「もったいないふろしき」(ページの下の方に注目)
http://www.env.go.jp/recycle/info/furoshiki/index.html
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干物と生もの/姜尚中の政治学入門(姜尚中)

2006-03-26 23:07:01 | 読んだもの(書籍)
○姜尚中『姜尚中の政治学入門』(集英社新書) 集英社 2006.2

 私が最初に読んだ姜尚中氏の著書は、『オリエンタリズムの彼方へ』(岩波書店, 1996)だった。出版よりだいぶ遅れて、著者がメディアに露出し始めていた頃に読んだので、深夜のテレビ討論番組で、生臭い論敵を相手に、積極果敢に発言するジャーナリスティックな著者の姿と、ウェーバー、フーコー、サイードなど、古典的な政治哲学を踏まえ、徹底して論理的・知的に構築された、アカデミックな著作との間に、不思議な落差を感じたものである。

 本書は、現代日本の政治状況を読むための7つのキーワード「アメリカ」「暴力」「主権」「憲法」「戦後民主主義」「歴史認識」「東北アジア」について、その由来、論点、展望などを解説しながら、全体として、著者の構想する”アメリカから東北アジアへ”というストーリーが見えてくる仕掛けになっている。

 姜先生、あのお忙しい(であろう)毎日で、ちゃんとした本が書けるのかしら?と心配していたのだが、きちんとした内容だった。各項目は、手際よくまとまっており、しかも著者の一人称の主張が、分かりやすい言葉で示されている。ただし、固有名詞がズバリと投げ出されている箇所など、「入門」とは言いながら、ある程度、関連文献を読んだ経験がないと、分からないところはあると思う。紙数の制約上、仕方ないのだが。

 本文以上に印象的なのは「あとがき」である。複雑化する現代社会、巧妙に操作される報道メディア、突きつけられる二者択一、そんな中で、我々は何を判断の根拠にすればいいのか――著者は「結局、第六感に頼るしかない」と言う。おいおい、そんな無責任な答えでいいのか、とびっくりした。

 しかし、続きを読んで納得した。「第六感」を、単なる思い込みと分けるのは、その根底に、過去と現在の類比を行う思考実験があるかどうかである。そして、このような思考実験は、「生もの」を扱うメディア的な情報だけでは成立しない。「干物」の知が必要なのである。「干物」の知――それは、端的に言えば、大学における人文・社会科学のことだ。メディアにおいては、役立たずの、がらくた同然の学問である。

 「生もの」のメディアでは新しく見える現象も、意外に旧かったり、違う衣装を纏って現れたものであったりする。そんなとき、どんなジャーナリスティックな解説よりも、「干物」の学問が、生々しいアクチュアリティを持っていることに気づく。この逆説の醍醐味を噛みしめておくと、どんな難問にも「答えられるに違いないという確信が芽生えてくるようでした」と著者は言う。大胆な発言だけど、それだけの確信がなかったら、大学人のアイデンティティを保ちながら、「生もの」世界の最奥まで踏み込んでいくことはできないだろうなあ、と思った。

 個人的なことを書いておくと、私は大学図書館に勤務している。著者に倣って言えば、ここは「干物」の知の貯蔵庫である。しかし、この貯蔵庫でさえ、最近は「生もの」志向が著しい。古典よりも新刊書、図書よりも雑誌、紙媒体よりも電子メディアが重要視され、ストックよりもフローの数字によって、活動実績が測られる。もちろん、著者も最後に述べているように、大学や大学人が「干物」の学問に安住していてよいということではない。しかし、食いつきやすい「生もの」の美味に溺れて、「干物」の知を伝えていくことを忘れないようにしたい、そう肝に銘じて、心ある研究者と伴走する図書館員でありたい、と思った。ちょっと構え過ぎかしら。
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国家を忘れて/立身出世の社会史(E.H.キンモンス)

2006-03-25 23:21:16 | 読んだもの(書籍)
○E.H.キンモンス『立身出世の社会史:サムライからサラリーマンへ』 玉川大学出版部 1995.1

 このところ読み続けている竹内洋氏の「学歴貴族モノ」が、たびたび参照している著作である。本書を読んでいたとき、ある若い知人から、「どうしてカルスタ系の人たちって、何でも国家や天皇制に結びつけたがるんでしょうね」と言われて、虚を突かれたように感じた。カルチュラル・スタディーズとか、ポスト・コロニアリズムとか、文化帝国主義とか、そういった言葉が、従来の思考の枠組みを一新する”新思潮”として日本に流れ込んで来たのは、もう7、8年も前のことだ。そのあとに成人した、いまの大学生にしてみれば、「隠れた天皇制を読み解く」類の文化論に辟易していても無理はない。

 本書に描かれた近代初期の日本社会は、驚くほど、天皇制や国家主義の刻印が希薄である。青年たちが追い求めたのは、国家の威信や繁栄ではなく、常に一身の「富貴」だった。明治初期の青年たちが、個人より国家に関心を払っていたように「見える」のは、当時、国家の名による活動が、富貴(立身)の可能性と強く結びついていたためである。

 国会開設の前夜にあたる1880年代、「政治青年」を駆り立てたのは、議員になって地位を得るという、個人的野心だった。日清戦争のあとの軍人ブームで少年たちが夢見たのは、一兵卒の英雄になることではなく、陸軍大将や海軍大将の地位だった。三国干渉によって遼東半島の返還を強いられたことは、国家の不名誉の問題ではなく、「富の損失」として認識された。

 ふーむ。なんて分かりやすい「政治史」だろう。さらに、1930年代、俸給労働者の失業は最悪の状態にあった。満州国の成立は、就職難の解決につながり、高学歴青年やサラリーマン層に経済的利得をもたらすものと期待された。

 これは、1960年代のベトナム戦争と著しい対象を成している。当時、アメリカは大卒者の就職市場が好調のピークにあった。彼らは、兵役義務に関して(日本の高学歴青年が受けたような)猶予も特別扱いも認められなかった。この「損得の収支の差」こそが、米国のインテリ層が戦争に反対し、日本はそうでなかった理由を説明するのではないだろうか、と著者は言う。

 納得である。大衆の行動を規定するのは、つまるところ、我が身の損得(に対する嗅覚)なのではないか。国家やイデオロギーを甘く見てもいけないが、過大に評価し過ぎても、真実を見誤ると思う。

 最後に著者は、最近の研究テーマである「昭和初期の軍国主義と中産階級」について語る。日本の研究者は、ファシズムの興盛を、明治維新の不徹底や封建制度の残存から説明しようとする。しかし、実際には、明治維新は、きわめて進歩的で平等な改革を実現した。その結果、他の近代諸国に例を見ないほど、多くの人々がエリートの地位を求める競争に参入することになった。

 リーダーになるには、心身をすりへらして熾烈な競争に勝ち抜かなければならず、いったん地位に着いた後も、(ほとんど能力差のない)大量のエリート予備軍が、彼らを脅かした。リーダーであり続けるには、責任回避と大勢順応の努力が不可欠だった。戦時期リーダーの矮小性は、日本社会の封建的側面ではなく、むしろ近代的でリベラルな側面が生み出したと言えよう。著者は上記の結論を、日本の「戦時期リーダー」について語っているのだが、戦後60年経った今日の政治状況も、本質は変わっていないように思う。
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ドイツ怪異譚/トゥルーデおばさん(諸星大二郎)

2006-03-24 23:04:20 | 読んだもの(書籍)
○諸星大二郎『グリムのような物語:トゥルーデおばさん』(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス) 朝日ソノラマ 2006.2

 年度替わりの忙しい毎日、手軽な読みものでもないかなあ、と思って、コミックの棚に寄った。そうしたら、気になる表紙に目が留まった。明るい色調と、古風なペン画のタッチ。石造りの古城の周りに、エプロンドレスの女の子、金髪のお姫様などが配されている。海賊のような帽子を被り、短筒(と呼びたい)を構えて気取る青年、ヘンな怪物もいる。そして、おお、確か、そんな題名のグリム童話があったな、と思わせる「トゥルーデおばさん」の文字。

 気になるコミックだな~。買ってみようかしら。しかし、私はまだ、著者の名前に気づかなかった。オビのいちばん下に示された「諸星大二郎」の文字が、目に入っていなかったはずはないのに――どうしても、あの諸星大二郎と結びつかなかったのだ。

 私は、むかしから、諸星大二郎の中国ダネ作品(『西遊妖猿伝』『諸怪志異』など)の愛好者である。最初に著者の名前を覚えたのが『桃源記』(1980年)だったし。その次に好きなのが『マッドメン』などの南方モノ。あとは、普通の人々(当然、日本人)の何気ない日常が、徐々に暗黒の陥穽に落ち込んでいくような雰囲気の作品も大好きである。

 しかし、諸星大二郎が、まさかグリム童話を題材にした作品を描いていようとは、考えてもいなかったのだ。びっくりした。しかし、当然、買って帰った。もう、言葉にならないくらい、イイ! 巻頭作『Gの日記』の冒頭、「また、針のない時計が時を告げる」というト書きを視覚化したコマで、もう私はノックアウトされてしまった。

 偏見かもしれないが、諸星さんの中国ダネ作品は、まさに中国怪異譚の真骨頂が視覚化されているように思える。それに対して本書は、「これがグリムなのか!?」と、まず戸惑い、それから「あ~グリムなのかもなあ~」と納得するような世界である。単に「本当は怖いグリム童話」などというレベルではなく、無意識の奥にしのび入るような恐怖と不安(と快感)に満ちている。

 しかし、主人公の女の子たちは、そんな恐怖と不安の諸星ワールドを、颯爽と渡っていく。私は、諸星さんの作品といえば、男性か少年が主人公というイメージを持っていたが、この作品集は、グリム童話の中から「女の子が主人公のものを意図的に選んだようなところがある」と、著者自ら語っているのが興味深い。
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中国の古写経/書道博物館

2006-03-22 23:01:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
○書道博物館 企画展『館蔵 敦煌・トルファン出土の古写経』

http://www.taitocity.net/taito/shodou/

 近頃、「書」にはブームの兆しがある。現代人は、すっかり肉筆で字を書かなくなってしまったため、却って「書」の芸術性を受け入れやすくなったのではないかと思う。昨年から今年の初めにかけて、「書」の名品が多数公開されたので、「喪乱帖、イイよね~」みたいな会話も、気軽にできるようになってしまった。しかし、身近になった「書」の中でも、古写経には、まだ少し敷居の高さを感じる。

 それは、やはり、写経という性質上、一字一画も間違えないよう、きっちり書かれたものが多くて、息が詰まるし、肩が凝るのだ。それでも、たまには、子供の手習いのような文字の経文も見られて、ほっとする。 

 全てこの書道博物館の創設者、中村不折が収集したものだそうだが、半端なコレクションでない。大半は中国の南北朝(5~6世紀)に書写されたものだ。日本なら、文句なく国宝級の年代である。南朝と北朝の字形の違いが説明されていて面白いと思った。どちらかといえば、南朝の字形のほうが柔らか味があって私の好みである。
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江戸の医学書/東京国立博物館

2006-03-20 22:48:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特集陳列『医学-医学館旧蔵資料を中心に-』

http://www.tnm.jp/

 土曜日は江戸博に昌平坂学問所と紅葉山文庫の本を見に行き、日曜日は東博で医学館の本を見てきた。医学館は江戸幕府所管の医学校である。明和2年(1765)4月、多紀元孝(たきげんこう)が、神田佐久間町の天文台跡地に講堂を建て躋寿館(せいじゅかん)と称したのが始まり。息子の元簡(げんかん)の代に幕府の所管となり、「医学館」と改称して、官立の医学校となった。ちなみに、森鴎外の小説で有名な渋江抽斎は、この躋寿館の講師であった。

 ふうーん。これって、神田お玉ヶ池の種痘所→西洋医学所→医学所→大学東校→東大医学部と続く西洋医学の系譜とは別物なのね。医学館の旧蔵書は、東京国立博物館のほか、内閣文庫や宮内庁書陵部に分蔵されているらしいが、組織的な系譜は、どこかで途切れてしまったのだろうか。

 というような事情は、あとから知ったことで、とりあえず古い本が見たくて、会場に行った。最近は古書の顔にも少し慣れてきたので、「多紀氏蔵書印」とか「躋寿館書籍部」などの印が判読できると、妙に嬉しい。

 展示品の多くは、江戸期の刊本・写本である。医学館では、古今の医書の収集、考証、刊行を実施した。木版多色刷による細密な解剖図を見ることもできる。また、医学館では医書の検閲も行われた。しかし、嘉永6年、ペリーの来航を期に、蘭書から銃創治療の要項を抄訳して出版された『銃創瑣言』には検閲の跡がない。海防のため、幕府が特に緊急出版を許可したものらしい。

 こうしてみると、江戸幕府って、けっこう、ちゃんとした統治組織だったんだなあ、と思う。臨機応変な柔軟性も持ち合わせているし。海外の動向や新知識の吸収にも熱心だし(鎖国というのは、要するに、海外の知識を統治者だけが独占するための国内政策だったんじゃないかと思う)。
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飛鳥人の祈り・天寿国繍帳/東京国立博物館

2006-03-19 23:23:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特別公開『国宝・天寿国繍帳と聖徳太子像』

http://www.tnm.jp/

 このところ、東博の催し物は、何でも混んでいるので、できるだけ空いている時間をねらって、日曜の朝イチに出かけた。会場は法隆寺宝物館の最上階である。薄暗い展示室に入ると、パラパラと人影があるものの、肝腎の「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」のケースの周りには誰もいない。なんだか、拍子抜けしてしまった。

 いや、ありがたいことだ。おかげで、ケースに貼りついて気の済むまでじっくり眺めることができた。画面は横2列×縦3段の6区画で構成される。下段には寺院の建物と、袈裟をつけた僧侶の姿が描かれている。上段と中段は、華やかな服装の人々と、彩雲や大きな花や鳥が、暗い地色に浮かんでいる。上段左の区画には、月の中の兎、甲羅に文字を乗せた亀が見られる。

 目を奪われるのは、上段と中段を飾る天寿国の人々の服装の可愛らしさである。丈の短いジャケットにフレアースカートを合わせて、鞄を斜め掛けした女子高生みたいだ。スカートの下にジャージを着てるみたいのもいる。使われている色彩は、オレンジに近い赤、紺、黄色。いくつかのバリエーションを持つ緑。糸の流れと、ほどよい褪色が、色彩に丸みを与えている。

 現存する「天寿国繍帳」は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代に作られた模本を寄せ集めて作ったものだそうだ。そして、驚くべきことに「発色が鮮明で刺繍糸も健全な部分」が古い原本であり、「褪色が甚だしく糸もぼろぼろになってしまった」のが鎌倉時代の模本なのである。うーむ。確かに会場に飾られた拡大パネルで見ると、模本のほうが、糸の縒りが甘いことや、芯まで色が染まっていないことが明らかである。

 それに比べたら、飛鳥時代の人々は、どれだけ真剣な思いを、一針一針に縫い止めたのだろう。しかし、目の前の図像から、過度な緊張は伝わってこない。こけしみたいに素朴な面持ちの天人たちは、楽しいのか楽しくないのか分からない風情で、ただ、のんびりと虚空に浮かんでいる。いいな。鎌倉仏教の極楽浄土図の、どこか物哀しい壮麗さよりも、同じことなら、こういう天国に生まれたい。

 別のケースに、参考展示として、東博所蔵(法隆寺献納宝物)の刺繍残片がいくつか出ている。これも見応えあり。唐草文様の「天蓋垂飾」は、赤と紺の対比がゴージャスで、ヨーロッパのゴブラン織を思わせる。「繍仏裂」は、楽を奏する天女を描いたもの。虹のような天衣(てんね)が美しい。座布団のような蓮華座も。少ない色数をうまく活かして描いている。

 品数は少ないが、飛鳥の香気に包まれるような特集展示である。最後に、法隆寺からお越しの聖徳太子像(7歳像)に合掌して、会場を後にした。
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