〇鵜飼秀徳『仏教抹殺:なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書) 文藝春秋 2018.12
おどろおどろしいタイトルだが、オビには大きく「廃仏毀釈」の文字があって、面白そうかなと思って購入した。廃仏毀釈とは、1868(慶応4/明治元)年に出された一連の神仏分離令に伴う仏教への加害・破壊行為で、1870年頃ピークを迎え、断続的に1876年頃まで続いた。安丸良夫さんの名著『神々の明治維新』(岩波新書、1979)の印象が強いが、本書もなかなか面白かった。日本各地を訪ね歩いて「現在(平成)に続く影響」をルポルタージュしているのが本書の魅力である。
廃仏毀釈の最初の騒動は比叡山のふもとの日吉大社で起きた。樹下茂国をはじめ、武装した神官の一党が、延暦寺僧侶の管理する日吉大社に乱入し、仏像・仏具を破却する狼藉を行った。この話は『神々の明治維新』でも読んだが、現在、参道に建つ巨大な常夜灯44基が、廃仏毀釈のときに日吉大社境内の外に放り出されたものだとは初めて知った。
廃仏毀釈が厳しかった地域と言えば、まず鹿児島(薩摩)。江戸時代には県内に1000を超える寺院があったが、現在は487ヵ寺(宗教年鑑 平成27年版)。島津家の菩提寺も廃寺のままで復興していない。著者は戦国時代の島津四兄弟ゆかりの心岳寺跡や小松帯刀ゆかりの園林寺跡を訪ね、顔面が割られた地蔵像や首のない仁王像の写真を掲載している。日本国内とは思えない惨状だが、これが歴史の真実なのだ。鹿児島県には仏教由来の国宝、重要文化財が1つも存在しないというのも衝撃だった。
隣りの宮崎(日向)は、強大な薩摩藩の意向を「忖度」した結果、薩摩に匹敵する破壊が行われた。現在の寺院数は鹿児島県よりも少ない。日南海岸の鵜戸神宮に付随し「西の高野」と呼ばれた仁王護国寺(門跡寺院!)も廃寺となった。私は47都道府県のうち、未だかつて足を踏み入れたことがないのが鹿児島と宮崎の2県なのだが、この仏教色の薄さを知って、納得できる気がした。
信州・松本の知藩事・戸田光則は、新政府につくか幕府側につくか迷い抜いた末、最終的に新政府につくと、怒涛のように廃仏毀釈に邁進していく。人間の心理として、あるあるだなあと思う。しかし松本にあった寺院の8割が失われたと聞くと言葉を失う。一方で、廃寺帰農を迫る役人と戦い抜いた佐々木了綱や安達達淳など、気骨ある僧侶のエピソードも知ることができた。
伊勢では、1869(明治2)年の明治天皇の伊勢神宮参拝に端を発して廃仏がおこなわれた。なお、話が脇道にそれるが、伊勢神宮を参拝した天皇は明治天皇が初で、歴代天皇が参拝しなかった理由は八咫鏡の霊威を畏れたから、というのが興味深かった。ちょうど令和の即位礼の前後に本書を読んでいたもので。さて、明治天皇の参拝にあたっては、渡会府の知事から、伊勢の神域に存在する寺院の撤去、仏教に関する商売の中止が通達された。悲喜劇のようだが、日本の近代の始まりが自由でも開放でもなく、圧政と暴挙であったことは忘れてはならないと思う。山中の菩提山神宮寺跡に転がる墓、石仏の写真が生々しい。ここはちょっと行きにくそうだが、おはらい町にあるという旧慶光院跡はいつか訪ねてみたい。
ほか、隠岐、佐渡、東京(深大寺、高尾山)、奈良(興福寺)、京都などが取り上げられている。京都・北野天満宮本殿に収められていた十一面観音像(1対)は古美術商の手に渡り、1体は溶かされて失われたが、1体は東寺・観智院を経て、因幡薬師堂に遷座し、現在に至るという。ん?京都文博の『北野天満宮』展で見た十一面観音像かな?と思ったが、あちらは「曼殊院門跡所蔵」だった。違うものだろうか?
京都の泉涌寺が天皇家の菩提寺であったことは知られているが、千本今出川に般舟院といって、天皇家の尊牌を祀る寺院があったことは知らなかった。なお、廃仏毀釈の趨勢に天皇家も逆らえなかった証左として、明治天皇が「即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかったこと」を一生の心残りと語ったエピソードが紹介されている。ちょうど「今上天皇の即位を祝し、総本山金剛峯寺は2020年に、総本山醍醐寺は21年に大元帥御修法を勤める」(文化時報 2019/10/16)というニュースをネットで見たばかり。伝統主義者の私としては、天皇家がもっと仏教と仲良くしてくれると好ましいと思っている。