見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

マイセン窯もあり/鍋島と金襴手(戸栗美術館)

2024-06-29 21:48:02 | 行ったもの(美術館・見仏)

戸栗美術館 『鍋島と金襴手-繰り返しの美-』展(2024年4月17日~6月30日)

 久しぶりに陶磁器が見たくなって渋谷に出かけたら、東急本店(2023年1月31日閉店)の建物がきれいに消えていて驚いた。むかしは渋谷区内に住んでいたので、このへんは徒歩圏だったのだが、私の知っている昭和の風景は、少しずつ消えていくんだなと感慨深かった。

 さて、本展は、鍋島焼と伊万里焼の金襴手に見られる「繰り返し」デザインに注目する。鍋島焼は、佐賀鍋島藩から徳川将軍への献上を目的に創出されたやきもの。洗練されたデザインが数多見られ、唐花文や更紗文などの「繰り返し」文様もそのひとつ。異国から持ち込まれた更紗の文様に影響を受けた、鍋島の『色絵更紗文皿』(数種類あり)はどれも愛らしかった。使われている色は、青、緑、黄、赤だが、青が基調であるものも、緑が目立つものもある。

 『染付桃文皿』は、同じ構図で描かれた桃を機械的に並べた結果、輪郭線の空白が、チェックのような効果を上げている。桃のひとつひとつはリアルなのに全体としてはデザイン的でおもしろい。『色絵唐花文猪口』など、どこかヨーロピアンな印象の草花文もあった。

 鍋島は「繰り返し」でない、ふつうのデザインも多数出ていて楽しかった。気に入ったのは『染付水仙文皿』(2件あり)で、たくさん花をつけた水仙を皿の表面いっぱいに描く。『色絵紫陽花文皿』は、染付らしい藍色の花に対して、鮮やかな水色の葉が美しかった。

 金襴手は、金彩を施した色絵磁器を言い、16世紀に景徳鎮窯で完成された後、17世紀末の日本でリバイバルブームが起きて、伊万里焼に取り入れられた。金襴手の色絵には紺と赤(オレンジ系の)がよく使われる。金と紺は対比が鮮烈だが、金と赤は意外と調和的な感じがする。

 ちょっと感心したのは、独特の展示具を使っているうつわがいくつかあったこと。15cmくらいの高さの展示台の上にうつわが伏せて置いてある。展示台の床には大きな穴が開いており、その下に斜めに鏡が仕込んであるので、観客は正面から、鏡に映った「うつわの中」を見ることができるのだ。小学生の理科の実験みたいな展示具だけど、おもしろい工夫だと思った。

 金襴手の中には生産地が「マイセン」になっているものが2件あった。『色絵花籠文皿』はかなり頑張った作品だと思う。言われなければヨーロッパ産とは気づかない。まあ柿右衛門様式などに比べれば、金襴手のほうが真似しやすいかな、とは思う。高台に交差する剣の文様(見えない)があることから、マイセンの窯と分かるそうだ。もう1件『色絵葡萄栗鼠文輪花皿』は個性的なデザイン。下側は色とりどりの幾何学文の組合せで、中央につる草のまつわる垣根とリスらしき小動物を描く(これが葡萄栗鼠?)。そして上部にあたる皿の周縁部には、赤い四つ足動物のシルエット。尻尾が三又に分かれている? これは「フライング・フォックス」と呼ばれ、マイセン磁器特有の文様であるとのこと。何か日本のやきものの動物が、このように解釈されて伝わったという話が聞いたことがある。もしかしたら「Firefox」の名称にもこのイメージが流れ込んでいる?と、ふと思ってしまった。

 『色絵琴高仙人鉢』は、見込みの部分にゆるい雰囲気の琴高仙人(鯉に乗った仙人)が描かれている。周囲を囲む赤玉瓔珞文、中央で波間に跳ねる魚は、ほかの作品と共通するデザインだが、鯉に仙人を載せてしまった発想が斬新。楽しかった。

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アイスショー"Fantasy on Ice 2024 静岡千秋楽"ライブビューイング

2024-06-26 22:15:45 | 行ったもの2(講演・公演)

Fantasy on Ice 2024ライブビューイング(静岡:2024年6月23日、13:00~、新宿ピカデリー)

 アイスショーFaOI(ファンタジー・オン・アイス)、今年はBツアーに羽生結弦くんが出演しなかったので、Aツアーに比べるとSNS上は格段に静かだった。それでも神戸、静岡の6公演(土曜2公演+日曜1公演)は、しっかり客席が埋まっていてよかった。お子さんや年配の方が多くて、いつものFaOIと雰囲気が違うという声や、地元向けの招待枠があったのではないか、という推測も流れていたが、それもいいと思う。私が初めてFaOIを見たのは2010年の新潟で、トップスケーターのクールな演技を、おじいちゃんおばあちゃんが、家族と一緒にニコニコしながら見ていたのを覚えている。なるほど、地方開催のアイスショーって、こういう「ゆるい」イベントなんだ、というのを知った瞬間だった。

 近年、羽生くんの出演するショーは、全国どこでもチケット争奪戦になっているが、今年のBツアーは、むしろ原点回帰でよかったのではないかと思う。地元招待で親に連れて来られたちびっ子から、未来のスケート選手やスケートファンが生まれないとも限らない。

 私は現地に行きたい気持ちもあったのだが、節約志向でライビュ観戦にしてしまった。スケーターはAツアーから、羽生結弦、山本草太、中田璃士、青木祐奈、上薗恋奈、パイポ―がOUT。織田信成、友野一希、チャ・ジュンファン、坂本花織、三原舞依、ライラ・フィア―&ルイス・ギブソンがIN。アーティストは石井竜也、一青窈、家入レオ。

 Bツアーのほうがイケメン度が上がった気がしたのは、チャ・ジュンファンくんに影響されすぎかな。家入レオさんとのコラボ「ワルツ」(ドラマ主題曲なのね)も「Golden hour」も眼福だった。ライラ/ルイス組は、家入レオさん「Silly」でしっとりコラボしたあと、後半は「ロッキー」で楽しませてもらった。フィギュアスケートのカップル競技、すっかり定番になった感じ。一青窈さんは織田くんとのコラボ「もらい泣き」もよかったけど、友野くんとのコラボ「他人の関係」に悶絶。私は金井克子を知っている世代だが、一青窈さん、ドラマ用にカバーしていたのだな。赤いキンキラジャケットでキレッキレに踊りまくる友野くんも、ルンバに寝転んで、自由に歌う一青窈さんも最高。ライビュ会場も手拍子で盛り上がった。

 いつもかわいい三原舞依ちゃんがイメージチェンジした「Survivor」も、髪の色を変えた坂本花織ちゃんの「poison」もカッコよかった。花織ちゃんは、オープニングの主役ポジションも頑張っていた。

 Bツアー最大の見ものは、ステファン・ランビエールとギヨーム・シゼロンの共演。その前にガブリエラ・パパダキスとアンサンブル・ダンサーズのコラボもあったんだけど、ガブリエラさん、あなたは女子スケーターじゃないなあ、という感じがした。技術力や存在感が、女子スケーターの枠を完全に踏み越えていて、唯一無二なのである。

 続いて、上半身には紫の薄手の衣裳をまとったステファンとギヨームが登場。曲は Henryk Mikołaj Górecki(ヘンリク・グレツキ)というポーランドの現代音楽家による「Symphony No.3」だったらしい。私は2018年のFaOI静岡で、ステファンとデニス・バシリエフスのデュエットプロを見たことがある。あれは、両者が師弟でもあったし、適度な距離を保って滑る「デュエット」だった。ところが今回は、大人の男性どうしが、変な意味でなく、濃厚に「絡む」のである。まあパパシゼのアイスダンスの本領であるとも言える。濃厚に絡みながら、お互いに自立しているという、不思議な肉体関係。再演はないだろうなあと思うと、一期一会の宝物を見せてもらった。

 しかしライビュだと、二人の表情や細かい動作がよく分かるのはいいのだが、一人の演技にスポットが当たるとき、もう一人はどうしているのか、光の当たるリンクにいるのか、陰に退いているのか、よく分からないのがもどかしかった。やっぱり現地に行くべきだったかなあとちょっと悔いを感じた。

 群舞の衣裳は花柄のシャツやワンピース。オープニングはやや地味色、フィナーレは明るいリゾートカラー。米米クラブ、石井竜也さんの「君がいるだけで」「浪漫飛行」も懐かしかった。最後はステファンが4Tチャレンジも見せてくれてありがとう。Bツアーは「ありがとうございました」無しの退場だったけど、楽しかった。また来年!

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同時代を描く/FROM それぞれの日本画(郷さくら美術館)

2024-06-25 21:34:18 | 行ったもの(美術館・見仏)

郷さくら美術館 『第4回 FROM-それぞれの日本画-』(2024年5月25日~6月23日)

 以前から気になっていた郷(さと)さくら美術館に初めて行ってみた。本展は、これからの日本画壇を担う作家たちが、2020年に結成した「FROM」というグループの作品展。押元一敏、川﨑麻央、木下めいこ、武田裕子、田島周吾、長澤耕平、野地美樹子、山浦めぐみの8名の作品が2~3点ずつ展示されている。

 ポスターにもなっていたのは、川﨑麻央さんの『韋駄天』で、これがとてもカッコよかったので会いに行った。展示室に入ってすぐに展示されていて、カッコよかった。作品は三幅対(ぜんぶ韋駄天)で、彼は中尊である。

 全くタイプは違うのだけど、次にいいなあと思ったのは、押元一敏さんの『創世』。無機質な岩の重なりをリアルに、少ない色数で描く。墨画のような味わいがあった。

 桜の名所・目黒川に近い同館らしく、2階展示室は「桜百景」の常設展示室になっている。以下は、中島千波さんの『石部の櫻』(部分)。展示作品に描かれたサクラの品種を解説した「桜図鑑」が掲示されているのも面白かった。この『石部の櫻』はアズマヒガンまたはエドヒガンで、丈夫で長寿であることから、各地に巨木や名木があるという。

 急に興味をもって調べてみたら、同館は2012年3月の開館で、昭和以降の生まれの現代日本画家の作品を1000点以上収蔵しているという。公式サイトにお名前はないが、コマツ福島の元社長・四家(しけ)雄二氏のコレクションで、ご長男・四家千佳史氏がオーナーをされているようだ。まだ日本にも、こういう実業家がいらっしゃるのだな。

 次回からは、恵比寿駅を挟んで逆方向(まあ歩ける距離)にある山種美術館とこの美術館を、まとめて贔屓にしたいと思う。

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かわいくないが可愛い/犬派?猫派?(山種美術館)

2024-06-23 22:42:31 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 特別展『犬派?猫派?-俵屋宗達、竹内栖鳳、藤田嗣治から山口晃まで-』(2024年5月12日~7月7日)

 犬と猫を題材とした名品を紹介する展覧会。そろそろ会期が後半なので、混雑も落ち着いたかなと思って出かけたら、びっくりするほど混んでいた。何かイベントでもあったのか?と訝ったが、単純にイヌとネコの魅力が、大勢の人を引き寄せているらしかった。

 本展には、けっこう個人蔵の作品が出陳されている。宗達の『犬図』は後ろを振り返るブチの仔犬。あれ?府中市美術館で見なかったかな?と思って図録を確認したら、同じように振り返るポーズだけど、こっちの『狗子図』は白犬だった。蘆雪の『菊花子犬図』はポスターにも使われており、大人気。長年の蘆雪ファンとしては、彼の仔犬の「可愛さ」が認知されてきて、とても嬉しい。しかし私が好きなのは、やっぱり若冲。『子犬図』2幅対は、箕(み)の中で丸まった三匹の仔犬(一匹だけ目鼻が見えている)と、箒の後ろに隠れるような仔犬(耳だけ黒い白犬、禅宗の「趙州狗子」に由来する定番の画題)を描く。若冲の墨画の仔犬は、なぜかみんな無表情な三白眼で、応挙や蘆雪の仔犬のような愛嬌がカケラもない。だが、私はかえって、そこが好きなのだ。

 近代絵画では、奥村土牛『戌』の、ちょい不細工な仔犬が好き。麻田辨自『薫風』のちんまり並んだ2匹もよい。イヌは、人間が感情移入がしやすい動物だけに、分かりやすく「可愛い」顔をしていない姿に魅力を感じる。

 初公開の『洋犬・遊女図屏風』二曲一隻(個人蔵、17世紀)は、右側に脇息にもたれて文を読む女性と、その前で墨を摺る小女を描く。二人とも髪を上げずに垂らしている。背景は金地。床が金銀(?)の市松模様になっているのは、どこか異国やファンタジー世界なのか。左側には焦げ茶色の犬がいて「ダックスフンドか」と説明がついていた。「天竺犬といって、足の短い犬が相国寺に連れてこられた記録がある」とのこと。ものすごく気になる。

 その隣りに守屋多々志『慶長使節支倉常長』が展示されており、こちらも床が白と黒の市松模様。異国のしるしであると同時に、常長の衣裳、そして白黒のグレートデンとも合っている。もう一匹、黒いもしゃもしゃしたヨークシャーテリア(?)がいるのは、画家の愛犬チャールズがモデルらしい。

 ネコは橋本関雪の『ペルシャ猫』(素描)がよかった。山口晃『捕鶴図』には爆笑。はんてんやちゃんちゃんこを着たネコたちが、庭の鶴を捕まえようと作戦会議を開いている。「鶴」と「猫」というお題を貰って即興で描いた「席画」だそうだ。さらにその隣りには『猫ハ鋭利餡(猫はエイリアン)』というふざけた(※褒めてる)作品を展示。ネコ顔・蛸スタイルのあやしい宇宙人が描かれている。6月15日放送のテレビ番組『新・美の巨人たち』で本展が紹介され、俳優の田中要次氏からのお題を受けて、山口晃さんが即興で描いたものだという。田中要次氏の題字にも山口さんがイラストを添えていた。会場のお客さんたち、やや困惑した表情で眺めていたけど、仙厓や蕭白の席画に対する反応もこんなものだったかもしれない。

 第2展示室は「鳥(トリ)」のミニ特集。上村松篁の『白孔雀』、お高くとまりすぎだと思っていたが、あらためて見ると、なかなかよかった。

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2024年6月鎌倉散歩:長谷寺、鏑木清方記念美術館

2024-06-21 22:30:16 | 行ったもの(美術館・見仏)

長谷寺(鎌倉市長谷)

 先週末、鎌倉のアジサイが見たくなって、混んでるだろうなあと思いながら出かけた。横須賀線と江ノ電は、覚悟をしていたほどには混んでいなくて、目的地の長谷寺に到着した。短い石段を上がって、山の中腹に開けた高台の本堂に詣でる。もちろんご本尊は、長谷寺式十一面観世音。ということは、奈良の長谷寺と同じ真言宗豊山派なのかな?と思ったら、こちらは浄土宗系の単立寺院だった。

 しかし伝説によれば、養老5年(721)徳道上人は楠の霊木から2体の観音さまを造り、そのうち1体を大和国の長谷寺にまつり、残りの1体を海に流した。その1体は15年漂流し、天平8(736)年、相模国長井の浜(横須賀市長井)に打ち上げられ、現在の場所に運ばれて、鎌倉の長谷寺が創建されたのだという(江の島・鎌倉ナビ)。2022年には、鎌倉・長谷寺はご本尊造立1300年を記念して、全身が拝見できる「御足参り(みあしまいり)」が連日行われていたのだという。残念、コロナもあって来逃してしまった。

 この日は「あじさい路」の散歩を楽しみに来たのだが、入場制限で「240分待ち」という掲示が出ていたので諦めた。その代わり、2015年に開館した観音ミュージアムをはじめて参観した。私は、この前身にあたる宝物館には何度か来たことがあるのだが、すっかり現代的な施設に生まれ変わっていた。お前立ちの十一面観音立像も三十三応現身も大変よかった。また「お帰りなさい、絆観音」と題して、造立当初のお姿の再現を目指した新しい観音像(中村恒克、飯沼春子造立)も展示されていた。

鏑木清方記念美術館 特別展『清方と二人の弟子-門井掬水 西田青坡-』(2024年5月25日~6月30日)

 鎌倉駅周辺に戻り、小町通りの雑踏を抜けて同館へ。美人画や市井の風俗を描いた門井掬水(1886-1976)と西田青坡(1895-1980)の作品を紹介する。西田青坡『明治の遊び』は、浴衣姿の幼い少女二人が縁先に置かれた切抜灯籠(紙細工)を覗き込んでいる。灯籠の主題はお染久松の奥蔵の場らしい。ひとりの少女が手に持ったパレット(?)には白いしんこの塊のただしんこと、色とりどりの色しんこが載っている(※これ)。こんな遊び道具があったのだな。清方の『朝夕安居巻』には、釣り竿みたいな持ち手の先に小さな赤い提灯を下げた子供(男児?)が、辻占を売っている様子も描かれている。今では消えてなくなった風俗が分かっておもしろい。清方は大正末頃から、実社会の有り様を描くことを弟子に指導していたという。

 同館の受付では、芯の入った赤い紐を貰った。土用の朝に咲いている紫陽花を切り、赤い紐で結んで軒先に吊るすとその家が栄えるという言い伝えがあり(初耳!)清方はこれを実践していたという。今年の土用は7月19日。覚えていられるかな…。そして清方が「紫陽花舎(あじさいのや)」という雅号を用いていたことも初めて知った。どうりで、美術館の木戸を入るとアジサイだらけであるわけだ。

石畳の小径にはこんな飾りも。

やっぱりアジサイは、涼し気な青と紫が好き。これはJR鎌倉駅前の植え込み。

この時期、おんめさま(大巧寺)の庭に咲くアガパンサスも好き。

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板谷波山と小杉放菴/出光佐三、美の交感(出光美術館)

2024-06-20 21:29:29 | 行ったもの(美術館・見仏)

出光美術館 出光美術館の軌跡 ここから、さきへII『出光佐三、美の交感 波山、放菴、ルオー』(2024年6月1日~7月7日)

 休館を控えた展覧会の第2弾は、同館の創設者・出光佐三(いでみつさぞう、1885-1981)と同時代を生きた作家たちにスポットライトを当てる。陶芸家の板谷波山(1872-1963)と画家の小杉放菴(1881-1964)は佐三と親しく交流した。さらに佐三が作品の蒐集に意を注いだ2人の画家、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)とサム・フランシス(1923-1994)の絵画も展示する。

 板谷波山は、葆光釉という独特の技法で有名だが、私はあれが好きではないので、あまり積極的に見てこなかった。今回、初めて50件を超える作品を一気に見たら、いろいろ発見があった。地味な植物をうんと大きく描いた『彩磁八ツ手文手焙』や『彩磁笹文花瓶』は私好みの作品。単色の『紫金磁保布良文花瓶』は磁州窯っぽいと感じた。また昭和10年代頃から猛烈に古典を学んでいて、『青磁下蕪花瓶』などは、伝世の名品と言われたら私は信じてしまう。ところが『青磁蓮口花瓶』は、青磁の肌合いは古典作品のままなのに、頸にチューリップの花を載せたような不思議なかたちをしている。『呉須絵花瓶』は、かたちは青磁にありがちな(双魚耳みたいな)形状なのに表面を色絵で飾っていて面白かった。

 小杉放菴(放庵)も実はあまり意識して見たことがなかった。『出関老子』は遠くの城壁と楼閣(函谷関)を背景に、黒牛と牛飼いと老子が佇んでいるのだが、洋画のような明るい色彩に、はじめキリストか?と思った。高さ180cm近い大きな作品だが、細川護立家の暖炉の上の装飾として制作されたのだという。『湧泉』は東大安田講堂の壁画の一部の習作だという。ああ、こんな純日本人ふうの平たい顔の女子が描かれていたんだっけ、と微笑ましくなった。放菴の、のびのびと平和な感じは、大正という時代性かなあと思う。しかし放菴は他にも多様な作風を見せている。大雅や玉堂っぽい墨画もあるし、『梅花小禽』屏風二曲一双は、緻密に計算されたデザイン。緊張感が高すぎてくつろげない。

 出口近くに波山の『青磁蓮花口耳付花瓶』と『天目茶碗(銘:命乞い)』があって、潔癖症の波山は、ちょっとでも気に入らない作品は壊してしまった。そこを佐三が「命乞い」して譲ってもらったのがこの2点。天目茶碗は日常使いにしていたそうだ。また放菴の『天のうづめの命』は、戦後、出光興産のタンカー日章丸(二世)の竣工を記念して制作され、船内に掛けられていたものだという。こういう美術品にまつわる逸話は嫌いじゃない。

 サム・フランシスは全く知らなかったが、佐三が仙厓のコレクターだと知って意気投合したみたいな話が書かれていて、ええ?と驚いた。まあ芸術はいろんなものを跳び越えるのかもしれない。

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京都からパワーアップ/歌と物語の絵(泉屋博古館東京)

2024-06-18 22:41:40 | 行ったもの(美術館・見仏)

泉屋博古館東京 企画展『歌と物語の絵-雅やかなやまと絵の世界』(2024年6月1日~7月21日)

 泉屋博古館、今度はやまと絵か、楽しみだなあ~とわくわくしながら見に行った。第1展示室、『石山切(貫之集下)』は記憶になかったもの。私の好きな定信の筆だが、薄紫の料紙に折枝文と、薄茶の料紙に飛鳥文がにぎやかすぎて、文字が読みにくいのが残念。『上畳本三十六歌仙絵切・藤原兼輔』の解説には「紫式部の曽祖父」の注記つき。まあそうだけど。よく肥えていて、首がない。

 続いて、松花堂昭乗の『三十六歌仙書画帖』(近世らしく親しみやすい風貌)と『扇面歌・農村風俗図屏風』を見て、あれ?と思った。この展覧会、2023年7月に京都の泉屋博古館で開催された同名の展覧会の巡回展(?)だったのである。まるで忘れていた。ただし、いま京都の展示リストを探してみたら、展示は19件、今回は32件(特集展示を除く)だから、圧倒的に今回のほうが多い(展示スペースの広さの違い)。

 『扇面歌・農村風俗図屏風』の右隻には18枚の扇面が貼り込まれており、一部は光悦の『扇の草紙』からの引用であることが分かっている。『扇の草紙』をネットで探してみたら、同じ書名の作品が複数あり、いくつかは画像も見ることができるのだが、この屏風のもとになった伝本がどれかはよく分からなかった。でもどの扇面絵も面白くて、元ネタの和歌は何かをあれこれ考えてしまった。

 伝・土佐広周『柳橋柴舟図屏風』は題名のとおり、柴舟が妙に目立つ。緑と焦茶色の柴の束が餡入り草餅っぽい。第2室の『葛下絵扇面散屏風』は、和歌や有名な章句が書かれた扇面を散らしたものだが、どうも「世の中」「世間」を含む言葉を集めたようだった。「世の中に酒飲む人は見てぞ良き 飲まざる人も見て良かりけり」(たぶん)だけ解読できた。古今集仮名序の「やまと歌は人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける」があったのは「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば…」と続くからだろう。

 第3室は、楽しい『是害坊絵巻』で始まる。鳶の顔をしたマッチョな天狗たちがかわいい。狩野益信『玉取図』は緊迫感のある縦長の構図で好きなんだけど、この海女は自分に剣を突き立てて、命と引き換えに玉を奪い返す(龍神は死人を忌むため)と知って愕然。宗達派の『伊勢物語図屏風』6曲1双は、右隻に昔男の一行が干飯(かれいひ)を食べる場面があり、従者たちが蒸籠(?)みたいな木箱と器を用意している。え、おにぎりみたいな携帯飯じゃないのか。宇津の山の昔男がしゃがんで手紙を書いているのもおもしろい。右隻の疾走する牛車と従者は『天神縁起尊意参内図屏風』(いま見つけた)に似ている。『源氏物語図屏風』について「とりわけスキャンダラスな場面が選ばれている」は言い過ぎに感じたが、まあ紅葉の賀とか胡蝶とか車争いとか、絵になる場面が選ばれているとは思った。近代の歴史画も数点。

 第4室は特集展示「没後100年 黒田清輝と住友」と題して、東博が所蔵する『昔語り』画稿を展示。『昔語り』も『朝妝』も住友家が購入し、須磨別邸にあったのだな。けれども1945年6月5日の神戸空襲により建物ごと焼失してしまう。でもこの画稿群が残ったのは、本当に不幸中の幸いだった。舞台になった清閑寺、むちゃくちゃ行きにくそうだが、Googleマップのストリートビューも通っていることを確認。季節のいいときに行ってみたい。

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「面白い」を追いかける/老後は上機嫌(池田清彦、南伸坊)

2024-06-16 22:35:20 | 読んだもの(書籍)

〇池田清彦、南伸坊『老後は上機嫌』(ちくま新書) 筑摩書房 2024.6

 生物学者の池田清彦先生とイラストレーターの南伸坊氏の語り下ろし(おそらく)の対談。私は南伸坊さんの著作は、もう30年以上愛読しているが、池田清彦さんのことは初めて知った。生物学だけでなく、進化論、科学論、環境問題、脳科学などを論じた著作が多数あり、昆虫採集マニアでもあるという。お二人は1947年生まれの同学年で、今年76歳になる。老人どうしの対談だが、若い者や最近の世相にあまり怒っていないのがいい。他人と違っても、自分の好きなもの、「面白い」と思うものを追い続けていると、こうなるのかもしれない。

 実は、書店で試し読みをしているとき、南伸坊氏が澁澤龍彦について語っている箇所に行きあたって、本書を買うことに決めた。南さんは、高校生の頃、印象派の絵画のどこが面白いのか分からず、当たり前のように褒めそやす美術評論家に反感があった。たまたま図書館で読んだ美術雑誌に澁澤龍彦が「私は印象派には全く興味がない」と書いているのを読んだときは、年上の人たちでそういうことを言ってくれる人がいなかったので、すごくうれしかったという。「自分が好きなものは面白い、自分が面白いと感じなければ、世の中でどんなに有難がられてるものに鼻も引っかけない、というのが澁澤さんのスタンスだったと思う」という言葉、「澁澤さんのものを読んでいれば、きっともっと面白いもんに出会えるって思うようになりました」っていう言葉、分かる分かる。私も南さんに10年か20年くらい遅れて、同じような体験をした。南さんが、やがて自分の好みが、澁澤さんと全て重なるわけではないことに気づいたというのも分かる。そしてこの、世間の評価とは無関係に「自分が好きなものは面白い」というのは、70年代から80年代はじめの、最初期の「オタク」(まだその言葉はなかったが)の基本的な心性だったと思う。

 絵画については、脳の使い方の話が面白かった。脳の発達はトレードオフなので、知的障害で言葉が全く喋れなかった少女が大人顔負けの絵を描けた事例は、言語を司る脳の部分を絵を描くことに使っていたのではないかという。しかし言葉訓練を受けて言葉を覚えるとともに、絵の才能は失われていった。いみじくも南さんが「混沌の話みたいですよね」と言ってた。

 それから、AIには似顔絵(人間が描くような)が描けないのではないかという話。人間が「似てる」と思って「面白がる」のは、モデルについての自分の認識と作者の認識が一致した喜びがあるのだろう、と南さんはいう。これを受けた池田さんが、似顔絵専用のパソコンを作れたら、いくらでも似顔絵を描けるだろうけど、最初に決めたルールどおりの似顔絵しか描けないだろうという。途中でルールが変わる「面白さ」は生物の力である。そもそも「似てる」という感覚をコンピュータに理解させるのは難しいという話に納得。

 「変わる」ことも重要で、偉い先生ほど意見を変える柔軟性があるという話が出てくる。池田先生、「なにか新しいものを生み出すのは、偶有性が必要」「首尾一貫はバカのやること」と厳しい。ただ、無理に環境に適応しようとする努力は無駄なので「頑張るんじゃなくて、頑張らなくてもできることをやれ」というのは面白い。確かに部下や後輩の育て方として、不得意なことを頑張らせるよりは、長所を伸ばすことに集中させるほうが、お互いハッピーである。

 「役に立つ」かどうかを考えない、というのにも共感した。人の役に立たなきゃいけないという感性は、最終的には国家の役に立てという話になるから、てめえが生きてりゃいい、てめえが楽しければいい、という基本線は忘れないようにしたい。

 池田先生、「南さんも俺も95歳ぐらいまで生きるかな」とおっしゃっている。あとがきでは「老人は切腹しろというやつがいても長生きする気満々なのだ」と笑い飛ばす。私もお二人の後に続いて、このくらい堂々とした態度で老後を生きていきたい。

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解体される民主主義/「モディ化」するインド(湊一樹)

2024-06-15 23:08:12 | 読んだもの(書籍)

〇湊一樹『「モディ化」するインド:大国幻想が生み出した権威主義』(中公選書) 中央公論新社 2024.5

 インドについては、ほとんど何も知らない自覚があったので、最近、近藤正規さんの『インド:グローバル・サウスの超大国』(中公新書、2023.9)を読んでみたばかりである。同書は、現在のインドの強み・急成長の理由を解き明かしつつ、山積する政治・社会問題の数々も指摘していた。ちょっとインドに(怖いもの見たさの)興味が湧いたところで、本書の存在がネットで話題になっていたので読んでみた。

 タイトルからも分かるとおり、本書はインドの「問題局面」に焦点を絞っている。「世界最大の民主主義国」と呼ばれてきたインドは、モディ政権のもとで、急速に権威主義化している。スウェーデンの民主主義の多様性(V-Dem)研究所は、2020年3月の年次報告において、世界的な傾向として権威主義化が進行しているとの見方を示すとともに「インドは民主主義のカテゴリーから脱落する寸前にある」と指摘しており、インド政治や比較政治を専門とする研究者の間では「インドを民主主義国と分類することはもはや不可能であるという認識」が共有されているという。

 本書は、モディの「生い立ち」(の語られ方)に始まり、彼が権力を掌握してきた過程を振り返る。90年代から続く不安定な連合政治を背景に「強いリーダー」を求める意識が国民にあったこと、モディの地盤であるグジャラート州の経済発展が喧伝されたこと(実態はともかく)、不都合な事実は隠蔽し、イメージ作りを重視する姿勢などが指摘されているが、日本の政治状況にも共通することが多すぎて、暗い気持ちになった。

 2014年の総選挙で会議派(インド国民会議派)に勝利したBJP(インド人民党)は、2019年の総選挙でも圧勝した。ここではメディアへの監視と抑圧、大規模かつ組織的な情報操作(SNS上に100万人の実働部隊がいるとも)が行われ、映画や映画俳優もモディの「ワンマンショー」政治を盛り上げるために動員された。選挙に勝つためには手段を選ばないモディ政治を、本書は「選挙至上主義」と呼んでいるが、これも日本について思い当たるところが多い。民主主義の伝統が浅いと、民主主義イコール選挙という短絡の図式ができてしまうのだろうか。

 本書の第5章は、インドの新型コロナ対策のの顚末を詳述しており、たいへん興味深かった。権威主義的な体制であるにもかかわらず、インドのコロナ対策は「失敗」している。不十分な保健医療体制、貧困層の多さなど、途上国共通の問題があったことは確かだが、秘密主義と事前調整の欠如、計画性のない場当たり的対応、責任を回避しようとする姿勢などが事態の悪化に拍車をかけたという。特に経済対策では、直接現金給付など貧困層の生存と最低限の生活水準を確保するための政策が軽視されていた。インド憲法には、貧困層を含む全ての国民の生存を国家が保障する「生存権」の規定があるが、ヒンドゥー至上主義のモディ政権にはその観念が薄い。全ての国民が享受すべき権利を「善意」や「思いやり」「施し」の問題にすり替えることで、政府の不作為を正当化しようとしている。モディは「義務」については頻繁に語る一方、「権利」に言及することはきわめて少ないという。

 また現政権の「専門知の軽視」は、コロナ対策以外でも見られるもので、「エビデンスに基づく政策づくり」と言いながら、実態は「政策に基づくエビデンスづくり」が行われているというのも、笑えない笑い話である。このへんも日本の話のようで頭が痛い。しかし、コロナ禍での日本政府による一律現金給付は、今となっては評判が悪いが、やらないよりはよかったんじゃないかという気がしてきた。

 このように問題山積のインドだが、中国を意識した安全保障分野での協力や、経済分野での関係強化を重視する西側諸国は、インド国内の人権侵害(特にイスラーム教徒への暴力)に目をつぶっており、モディ政権は、国際舞台での脚光を国内政治の支持拡大に利用している。日本の外交・メディアは「民主主義国家・インド」への願望を投影しすぎて、インドの実像が見えなくなっている。これは然りだが、一方で、民主主義の解体と衰退は、もはや世界史的な潮流かもしれないという諦念が頭に浮かぶ。アメリカも日本も、いつまで「民主主義国家」を名乗れるかは危うい感じがする。

 なお、ちょうど本書を読み進んでいる最中に、証券会社のお姉さんから「インド株を買ってみませんか?」と勧められた。ニコニコして「私、インド映画も大好きなんですよ!」とおっしゃっていたが、「今は止めておく」と回答した。

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落川・浄光寺の十一面観音立像とギャラリートーク(東京長浜観音堂)

2024-06-12 22:26:26 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京長浜観音堂 『十一面観音立像、薬師如来立像、阿弥陀如来立像(高月町落川・浄光寺)』(2024年5月18日~6月16日)

 令和6年度第1回展示の十一面観音立像を見てきた。一回り小さな薬師如来立像と、さらに小さな阿弥陀如来立像という、あまりない三尊形式だった。

 お寺の名前だけでは気がつかなかったが、お顔を見て、あ、これは!と思った。昨年、「観音の里ふるさとまつり」のバスツアーで拝観させていただいた観音様である。解説に「肉身部には肌色を塗り」とあるけれど、胡粉に朱でも混ぜているのだろうか。眉・目・髭を墨で描き入れ、唇は赤く、童子のような愛らしさがある。薬師如来と阿弥陀如来も黒目と髭が描き加えられており、生き生きと親しみやすい表情をしている。

十一面の頭上面もなかなかよい。

 6月8日は、高月観音の里歴史民俗資料館の学芸員・佐々木悦也氏のギャラリートークがあったので聴きに行った。佐々木さん、お話を聞いているうちに思い出したが、以前、余呉町国安の十一面観音についてのギャラリートークをお聞きした方だった。

 はじめ、滋賀県の仏教文化財全般の紹介があり、話題は竹生島にも及んだ。竹生島の宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇の勅願により僧・行基が開基したと伝わることから、今年2024年は開創1300年を記念して、5月と10月に秘仏御開帳を行うことになっている。5/18~27は弁才天堂(本堂)の本尊御開扉で(終了)、10/12~21には観音堂の本尊御開扉が行われる。弁才天信仰は観音信仰でもあるのだ。うーむ、5月は逃してしまったが、10月は行きたいなあ…。

 また、8/15~16に行われる蓮華会は、本来、当番の家が、新しく作った弁才天像を奉納する行事だったが、現在は、お前立ちの弁才天像を一時お預かりして奉納することになっているそうだ。宝厳寺最古の弁才天像(弘治3年(1557)の墨書銘あり?)は長浜の仏師の作ではないかとも見られている。

 このあたり、余談と思って聞いていたのだが、あとで浄光寺の十一面観音に戻って、そのお顔立ちをアップの写真でよく見ると、四角っぽいところが、竹生島の古い弁才天像と、とてもよく似ていた。ちなみに佐々木さんによれば、観音・薬師・阿弥陀の3躯ともに、いかり肩で腰が低く、胴長で全体に四角い姿は、竹生島を含め、湖北に多い特徴だという。なるほど。

 ギャラリートークの最後に、井上靖さんの『星と祭』の一節を朗読してくださったのも感銘深く、観音の里・高月への愛情をしみじみ感じた。

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