見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

アジア系移民の視座から/移民国家アメリカの歴史(貴堂嘉之)

2018-10-30 23:56:22 | 読んだもの(書籍)
〇貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書) 岩波書店 2018.10

 「移民国家」アメリカ合衆国は、どのように形成され、いかに変貌してきたか。特に本書は、ヨーロッパ系移民に比べて論じられることの少なかったアジア系移民に注目しながら、アメリカ移民物語の全体像を描き出そうという試みである。

 はじめに建国初期のアメリカについて。1790年の帰化法では、市民権を申請できるのは「自由白人」に限られていた。「アメリカ人」=ヨーロッパ系移民に限定されていたように見えるが、白人の定義は明確でなく、中国人や日本人が市民権を獲得できた場合もあった。そもそも近代国家が「国民」を囲い込み、その移動・出入国を管理できるようになるまでには長い年月が必要で、19世紀中葉まで、アメリカの移民受入港には連邦の行政官が配置されていなかったという。

 19世紀中葉までのアメリカは「移民国家」というより「奴隷国家」だった。しかし、1808年に奴隷貿易を停止し、1865年に奴隷制廃止が憲法で定められると(同時期に南北アメリカ諸国が相次いで奴隷制を廃止)、奴隷に代わる労働力を確保するため、「苦力」と呼ばれる大量の隷属的な中国人労働者が導入された。中国人移民は半世紀に約36万人にのぼり、これは黒人奴隷の輸入数とほぼ同規模であるという。そんなに多いのか…。カリフォルニアでは、不当に安い賃金で働く中国人労働者に対して、白人労働者・非WASP系労働者による排華運動が激化する。

 この移民をめぐる混乱は「アメリカ人」形成の第二ラウンドだった。アメリカは、国際的な奴隷貿易廃止に乗り出したイギリスに追随し、苦力貿易禁止法に署名し、アメリカに入る移民は全て「自由」労働者とみなした。それは、労働者の側から見れば、実態がどんなに「不自由」労働でも「自由」労働者と名乗ることを強要される状態になったに等しい。現代の日本の労働環境にも思い当たるところがある。

 しかし、南北戦争後のカラーブラインドな(=人種差別的でない)国民統合を希求する政治はまもなく挫折し、人種混淆への恐怖、社会の人種化が進行する。1882年には排華移民法が制定され、アジア人を念頭に「帰化不能外国人」というカテゴリーが設けられる。この時代について著者が、不況下で労資対立が激しくなる中、対立を懐柔し新たな社会秩序を維持するため「他者」の創出が必要となった、と述べていることを記憶しておきたい。「他者」は端的に言って「敵」の意味だと思う。

 19世紀末から20世紀初頭には、「帝国的な国民統合」のビジョンを掲げたセオドア・ルーズベルトら新世代の政治家の登場と、伍廷芳や梁啓超の活躍もあって中国人の待遇改善が実現する。詳述はされていないけれど、やっぱり中国の経済成長(市場の力)の影響が大きいのかなと思う。そして、このあと排斥の対象は日系人に移る。

 明治政府は、開国直後のアメリカ及びハワイ移民が「失敗」に終わった経験から、海外渡航に消極的だったが、1880年代、農村の窮乏化により方針転換する。アメリカに渡った日本人は、排華移民法で流入の止まった中国人移民に代わり、仕事についたが、次第に日本人への排斥運動も強まる。1924年には日本人を「帰化不能外国人」と定めた排日移民法が成立した。

 アジア太平洋戦争が始まると日系人は強制収容され、収容所で「忠誠登録」が実施された。初めて読んだその質問文には「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い(略)いかなる外国政府・権力・組織に対しても忠誠も服従もしない、と拒絶することを誓えますか?」とある。私はこの問いを心底酷いと感じるのだが、そう思わない人もいるのだろう。今日の日本でも、他国にルーツを持つ人に対して、これに近い「忠誠」を求める声を聞くことがある。当時のアメリカでは、多くの日系二世の若者が入隊を志願して激戦地に送られ、戦後社会における日系人の社会的上昇に寄与した。しかし、これは「美談」なのだろうか?

 戦後、1965年の移民法によって移民の国別割当制が廃止され、アメリカは、よりグローバルで多元的な移民国家へと舵を切った。難民政策の問題、不法移民についての動揺などがあるものの、「アメリカは移民の国」という価値は多くの国民に共有されている。長い年月をかけて差別を克服したアジア系移民が、人権を他のマイノリティに広げる活動を展開しているというのも明るい話題である。2055年には、米国人口の過半数を占める人種エスニック集団はなくなるという。国のかたちは変わっていくのだな。やがて日本もそうなるだろうから、辛い経験をする人のできるだけ少ない変化を選び取りたい。
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仮面とともに/鎌倉ゆかりの芸能と儀礼(神奈川県立歴史博物館)

2018-10-28 22:27:26 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立歴史博物館 特別展『鎌倉ゆかりの芸能と儀礼』(2018年10月27日~12月9日)

 横浜・馬車道の神奈川県立歴史博物館に久しぶりに行ってきた。2015年の『一遍聖絵』連携企画展以来である。同館は、2016年6月から改修工事のため休館し、今年4月に再オープンしたのだが、私にとってはリニューアル後の初訪問になる。館の雰囲気はあまり変わっていなかった。

 本展は、鎌倉に伝わる祭礼と中世とのつながり、芸能を通して伝えられる中世の宗教儀礼に注目し、祭礼に用いられる調度や道具、古面、儀式を伝える古文書などを展示する。展覧会タイトルは「鎌倉ゆかりの」とあるが、鎌倉に残るものだけでなく、かながわの芸能と儀礼を広く扱う。とはいえ、最初は鎌倉から。頼朝が幕府を開いた鎌倉には、中央からさまざまな宗教儀礼が政策的かつ組織的に移植されたことを、鶴岡八幡宮や極楽寺に伝わる舞楽面、相撲職(すまいしき)に関する文書などで確認する。おお、袖判下文!など文書の形式に反応してしまうのは、前日に佐倉の歴博の『日本の中世文書』を見てきたため。

 鎌倉では複数の印象的な「行道芸能」が今も行われている。本展の印象的なポスターは、鎌倉・坂ノ下の御霊神社で毎年9月18日に行われる面掛行列の1コマで、私も2004年に一度だけ見たことがある。行道面の数々や衣装のほか、平成29年、30年の面掛行列の写真(おかめ役の男性が着付けてもらっているところも)に加え、昭和37年の白黒写真(鎌倉市中央図書館所蔵)もあって興味深かった。

 八雲神社の行道面及び写真も出ていた。北鎌倉の山ノ内八雲神社のことで、7月中旬に例大祭が行われる。昭和30年代には面掛行列が行われており、面をつけて扮装をした白黒写真が残っているが、現在は面の展示だけが行われているそうだ。面には天保11年(1840)の銘があり、御霊神社の面と似ているが、恐ろしさが希薄で、全体に脱力した感じで可愛い。

 それから円覚寺弁天堂の洪鐘(おほかね)祭行列。円覚寺が所蔵する『洪鐘祭行列絵巻』(明治35年の行列を描いたもの)は宝物風入れで何度か見たことがあるが、本展にはその模写(江島神社所蔵)が出ていた。冒頭の唐人行列が印象的で、会場には明治35年に使われた真っ赤な唐人衣装も出ていた。参考として「江の島囃子」(江の島天王祭で聴ける)で使われる華麗なチャルメラも展示されていた。『板絵・円覚寺弁天堂洪鐘祭行列図』は4枚の横長の板に行列の様子を描いたもの。豊かな色彩に金銀を散らし、華やかな出来上がりになっている。神輿や山車、唐人行列などに加え、面掛けの一行も見える。桃太郎と犬・猿・雉に仮装した子どもたちもいて楽しい。現在の展示は写真パネルのみで、「11月の宝物風入れが終わると本物が来る」とボランティアのおじさんが話していたけど、この板絵も風入れに出るのだったかしら。あまり記憶にない。なお、昭和40年(1960)の祭りの写真は初めて見たような気がする。61年ごとなので、次回は2021年になるはずだが…見られたらうれしいなあ。

 金沢八景の瀬戸神社にも獅子面・舞楽面・神楽面などが伝わるが、興味深く思ったのは、湯立神楽(ゆだてかぐら)が今も行われていること。神職が釜の湯を御幣の串でかき回し、吉兆を占い、笹を湯にひたし、参列者に振りかけるのだという。え~体験してみたい!と思ったら、会場には「神奈川県湯立神楽一覧表」というのがあった(図録にも収録)。私が知らないだけで、横須賀、横浜、葉山など、さまざまな神社で今も行われているそうだ。

 山岳地帯である神奈川県中央部には神仏の混淆した修験の信仰と儀礼が残る。大山阿夫利神社、宝戒坊は知っていたけど、高部屋神社(伊勢原)や八菅(はすげ)神社(愛甲郡)は全く名前も知らなかった。修験道って、出羽とか吉野とか特別な地域の宗教のように思っていたが、もっと身近だったのだな。

 最後になぜか寺社の什物帳の類と、称名寺金沢文庫や大須観音真福寺の所蔵文書の整理状況を紹介するパネルがあった。本展が、人間文化研究機構の「博物館・展示を活用した最先端研究の可視化・高度化事業」の一環であることと関連するのかもしれない。展示図録は読みごたえがありそうでよいのだが、正誤表が多すぎることに苦言を呈しておく。しかし、ハロウェインのこの時期に行くにはぴったりの展覧会である。

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十大弟子と六観音/京都 大報恩寺(東京国立博物館)

2018-10-27 21:24:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』(2018年10月2日~12月9日)

 京都市上京区の大報恩寺(千本釈迦堂)に伝わる鎌倉彫刻の名品の数々を展示する。そういえばしばらく行っていないお寺で、調べたら2007年の冬に訪ねたのが最後だった。このときは大学の先生と学生の一行に遭遇し、先生の詳しい解説を隣で聞かせてもらったのが思い出である。

 展示は平成館2階の半分だけを使った、比較的小規模なもの。はじめに文書や絵画資料で大報恩寺の歴史を紹介する。大報恩寺は承久2年(1220)の開創だが、その近在には7世紀にさかのぼる古代寺院があったと言われ、大報恩寺には、別の寺院から移されたと思われる平安時代前期(10世紀)の千手観音菩薩立像が伝えられている。あごの張った四角い顔、肩は水平に近く、下半身はストンと棒立ちで、中心線は四角張った印象がある。左右の脇手は一転してやわらかく肉感的で、なかなか素敵な仏様だと思った。

 また大報恩寺には、洛中洛外図屏風などに描かれた北野経王堂ゆかりの文化財も伝わっている。経蔵につきものの傅大士坐像および二童子立像もそのひとつ。北野経王堂は、千人の僧が法華経を読誦する万部経会を歴代の室町将軍がおこなったところで、その様子を描いた『北野経王堂扇面』(室町時代)も展示されていた。

 続いて、広い空間に配された秘仏本尊・釈迦如来坐像(行快作)と十大弟子立像(快慶作)。全て露出展示で、360度好きな方向から鑑賞できる。本尊は、かなり目力の強い、堂々と迫力のある釈迦如来。精緻な透かし光背が美しい。図録を見ると、厨子の内部には造像当時の豪華な天蓋も吊るされているようだが、残念ながら天蓋は展示されていなかった。ふだんは本堂に安置されており、8月の六道参りの時期にだけ開扉されるようだ。

 その周囲を点々と囲む十大弟子立像。もちろん全て僧形だが、人間の理想形に近い、つまり地蔵菩薩像を思わせるのが、阿難陀と阿那律。他は面相も体格もそれぞれ個性的だ。両肩を覆う衣をつけているのは、阿難、阿那律と富楼那。あとは右肩をさらしている。大迦葉など、額にしわを刻み、それなりの年齢だと思うのだが、背後にまわってみると、背中の逞しさにほれぼれする。いちばん痩せさらばえて、胸のあばら骨が浮いて見えるのは目犍連だが、肩には筋肉がつき、腕には太い血管が浮いている。目犍連はひとりだけ、腰を落として背を丸めるような、独特の姿勢をしている。また、いずれも衣の彩色や文様がわずかに残っていて、会場では阿那律がよく見えた。

 最後が六観音像。ここの露出展示で全方向から鑑賞可能。右端の如意輪観音像から見ていく。アンニュイで厳しい、横顔の美しいこと。次が准胝観音。確実に肥後定慶の作と認められるもので「抜群の出来栄え」を示すという。確かに緻密で抜群に巧くて美しいのだけど、巧すぎる仏像はいまひとつ好きになれない。あと、日本の伝統をきれいに消したくらいに見事に宋風だなあ、と感じた。十一面観音や千手観音には、どこか宋風のニューモードになり切れない土着性みたいなものを感じる。

 なお、後期(10/30-)は六観音の光背を取り外した状態での展示になるという。ふだん見られないお姿が見られるのは面白いかな。でも私は透かし光背が好きなので、光背つきで拝めてよかった。
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橋LOVE全開!/東京の橋100選+100(紅林章央)

2018-10-24 22:59:14 | 読んだもの(書籍)
〇紅林章央『東京の橋100選+100』 都政新報社 2018.10

 東京の橋から100橋を厳選し、これらの歴史や特色を紹介するとともに、さらに鉄道橋や歩道橋など特徴ある橋を+100橋リストアップしたもの。はじめ、職場の昼休みに近所の書店で見つけて、これは絶対「買い」だと判断した。私は、橋とか坂とか暗渠とか…街の風景のパーツが大好きなのである。そのときは時間がなかったので、週末、あらためて大きい書店に探しに行った。地図や街歩きガイドのコーナーで見つからず、検索したら「土木・橋梁」の棚にあると表示されたので笑ってしまった。しかし、実際に手に取ってみたら、出版社は「都政新報社」(初めて聞く)だし、カバー折込みの著者紹介に「東京都建設局橋梁構造専門課長」とあるのに驚いてしまった。

 とはいえ、そんなに硬い内容ではない。東京の橋100選は「隅田川」「都心部」「区部東部」「区部北部・南部」「多摩」「島しょ」に分類されており、「島しょ」は1例のみだが、他はそれぞれ20~30例が掲載されている。1橋1頁から2頁、全てカラーで、豊富な写真と地図とデータ、簡単な紹介文が添えられている。嬉しいのは、たとえば吾妻橋なら、江戸時代の吾妻橋を描いた浮世絵(歌川広重)に始まり、明治9年に架橋された西洋式木橋、明治20年に架橋されたトラス橋などの古写真に加え、関東大震災での被災状況(写真)、昭和6年に現在の橋が開通した直後(絵葉書)、そして現在の姿と、橋の歴史が一目で分かるようになっていることだ。隅田川の橋は、関東大震災後に架け替えられたものが多く、明治時代と現在では、名前は同じでも橋の姿がずいぶん違うことが分かった。

 橋の設計者に関する言及が多いのも本書の特徴で、それも有名な建築家ではなく(いや土木業界では有名なのかもしれないが)東京市の橋梁課長とか復興局の土木部長とかの技術官僚が、顔写真入りで紹介されている。さすが「土木学会出版文化賞」受賞の著者だけのことはある。そして、文中にも土木の専門用語が容赦なく出てくる。トラス橋、ラーメン構造くらいは私も知っていたが、「中路式バランストアーチ橋」とか「ブレストリブ・タイドアーチ橋」「ゲルバー鈑桁橋」「ポニータイプ」「ニューマチックケーソンによる施工」など、なんのこっちゃ、という用語が並ぶ。それでも気にならずに読めてしまうのは、著者の「橋が好きでたまらない」情熱のなせるわざである。

 私はもともと東京東部の生まれで、今も江東区に住んでいるので、永代橋・築地大橋・吾妻橋など隅田川に架かる橋は、どれも懐かしかった。御茶ノ水橋と聖橋は学生時代にお世話になった。現在の職場に近いのは一ツ橋や竹橋である。富岡八幡宮の裏手にある小さな八幡橋(旧・弾正橋)は、明治11年に製作された初の国産の鉄橋で、移設されて保存されている。最近、散歩の際に見つけて感心したものなので、取り上げられていて嬉しかった。

 本書には、歩道橋や鉄道橋なども、合わせて100橋、紹介されている。東大構内連絡橋(工学部と農学部をつなぐ)とか飛鳥山下跨線人道橋とか、中央線東京駅付近高架橋とか、なるほど~そこに注目するか!と笑ったり、感心したりした。多摩地区の橋には、知らないものが多かった。稲城市のくじら橋、見てみたいなあ。奥多摩湖に架かる峰谷橋や坪沢橋も渡ってみたい。ちなみに本書の表紙は、豊かな水をたたえた奥多摩湖に悠然と浮かぶ麦山浮橋で、「東京の橋」というタイトルとのギャップに心を掴まれる。島しょ部の橋として紹介されているのは、新島の十三社神社神橋で、全国的にも珍しい江戸時代の石造アーチ橋だそうだ。

 なじみの有無を別にして、写真だけで自分の好きな橋を考えてみようと思ったが、決められなかった。古い石造、あるいは石造アーチに見せかけたコンクリート製のがっちりした橋も好きだし、レトロなトラス橋も好きだし、現代的でシャープな斜張橋(しゃちょうきょう)も好きなのである。私は以前、平野暉雄氏の『橋を見に行こう』という写真集を手元に置いていたこともある。あれも好きな本だった。本書はかなりテイストが違うが、甲乙つけがたくいい本である。
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開拓村の惨劇/羆嵐(吉村昭)

2018-10-22 23:56:31 | 読んだもの(書籍)
〇吉村昭『羆嵐(くまあらし)』(新潮文庫) 新潮社 1982

 1915年(大正4年)に北海道苫前郡苫前村三毛別(さんけべつ)六線沢(ろくせんさわ)で発生した三毛別羆事件に基づく実話小説である。クマ出没がニュースになるたびにネットで話題になる作品なので、ずいぶん前から本作の存在は知っていた。数年前、職場の同僚から「とにかく怖い」という感想を聞かされて、読んでみようと思ったのに、しばらく機会がなかった。秋も深まり、季節もちょうどいいと思ったので、いよいよ読んでみることにした。

 冒頭には、事件の舞台となった土地の地図が載っている。私の知っている地名は増毛と留萌くらい。そこからかなり北に寄り、川沿いに山間部に入ったところが六線沢だ。小説は、前年に勃発した第一次世界大戦の継続と、その影響で日本経済が好況に転じたこと、しかし僻地の山村には及ばなかったことなど、大きな時代背景を淡々と説明するところから始まる。

 六線沢には、わずか15戸の開拓民が住んでいた。冬のはじめ、ある家でトウキビが食い荒らされ、羆の大きな足跡が発見された。しかし羆はそれきり現れず、再び平穏な日々が過ぎていった。12月のある日、隣接の三毛別村の農夫が石屋に挽臼を取りに来たので、六線沢の農夫が同行して、上流に住む石屋の家に向かった。彼らは往復とも、途中で島川という男の家を通り過ぎた。その直後、島川の家に寄宿していた樵(きこり)が、家の中で無残に殺された少年を発見し、おびただしい血を残して、島川の妻が消えたことを知る。この導入部は、「ジュラシック・パーク」などの怪獣(巨獣?)映画のセオリーどおりである。平和な世界に忍び込む獣の気配。敏感な読者(観客)は、早くも悲劇の兆候を察知するが、まだドラマの中の人々は何も気づかない。突然訪れる最初の惨劇。しかし狂暴な怪物は、まだ正体を現さない。

 翌朝、知らせを受けた三毛別の区長が、銃を携行した男たちを連れて救援にやってくる。羆の足跡を追っていった彼らは、茶褐色の巨大な獣に遭遇して、命からがら逃げ出す。気を取り直した彼らは、再び島川の妻の遺体の捜索に向かうが、見つかったのはわずかな肉体の切れ端だけだった。その晩、彼らは島川の家に二個の棺を並べて通夜を営んだ。ところが、そこに羆が躍り込み、遺体を食い散らかす。恐怖を押し殺して、別の家を目指して移動する人々。そのとき、前方の明景家で悲鳴が上がる。そろそろと近寄った彼らの耳に、闇の中で骨を噛み砕く音が聞こえる描写がすさまじい。本作は、徹頭徹尾、感情を抑えた淡々とした描写で、村人たちも、必要最低限の短い言葉しか発しないのだが、そのことが逆に、逃れようのない恐ろしさを感じさせる。二度目の襲撃で女子供4人が殺害された。男たちは、家族を集めながら雪道を下流へ向かい、渓流を渡って三毛別村へ避難した。

 これは怖い小説である。私は、怨恨や復讐のために人を襲う怪物、地球征服を目的とする宇宙人よりも、人間を「食物」としか見ない野生動物(含む、恐竜)を想像するほうが怖い。しかもこの羆は、最初に女性の味を覚えたため、男は殺しても食わず、女性だけを狙っているという。私は、次はいつ、どこで羆が襲ってくるかという緊張と恐怖でいっぱいになり、すっかり小説世界に同化してしまった。しかし、ネタバレをすると、問答無用の羆の恐ろしさが描かれるのは前半までである。後半は、三毛別の区長を観察者として、この災難に襲われた人々の心理と行動を興味深く描き出す。

 まず、救援要請を受けて、警察の分署長が到着し、他村の男たちが続々と集まってきた。三毛別、六線沢の者たちは、その厳めしい様子や大量の銃に少し安堵を覚えるが、羆の力を軽視している彼らの様子に、苛立ちと不信を感じ始める。翌朝、警察から死者の検視を頼まれたという老医が現れる。区長は護衛の男たちを連れて老医を惨劇の現場に案内する。多くの修羅場を知っているらしい老医は、凄惨な遺体にも動じなかったが、他村の男たちは、自分たちが相対している獣の恐ろしさを初めて知り、平静さを失って戻ってきた。彼らの恐怖は伝染し、救援隊の男たちは、ただの烏合の衆になってしまう。

 三毛別の者たちはクマ撃ち専門の猟師である銀四郎のことを思っていた。酒癖が悪く、傲慢で嫌われ者の銀四郎だったが、今たよれるのは彼しかいないと思った区長は、独断で銀四郎を呼び寄せた。面目を失った分署長は不機嫌を隠さない。やってきた銀四郎は、いつになく穏やかで冷静で、区長ひとりを連れて山に入り、区長の目の前で、人食い羆を仕留めた。

 銀四郎は鍋を用意させ、羆の肉を食うことを人々に求めた。「人を食ったクマの肉は、出来るだけ多くの者で食ってやらなければならぬのだ」と託宣のように告げる。アイヌの宗教的な儀式の一つだということを、作者の代弁者である区長は胸のうちで語る。酒盛りが進むと、羆を追っている間は宗教者のように禁欲的だった銀四郎が、いつもの乱暴者に戻る。区長は銀四郎の我儘を聞き入れ、あるだけの金を渡して、彼を見送った。この、人間の世界から爪弾きにされて、人と自然、あるいは人と動物の境で生きているような猟師・銀四郎の造形はとても印象的である。

 しかし、新潮文庫の表紙、怖い…。
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2018年10月、築地市場の移転(その後)

2018-10-21 21:16:45 | 日常生活
2018年10月6日(土)に築地市場が営業を終了することになった。私は営業最終日の前の週末に、初めて「場内」というエリアに足を踏み入れてみた。この巨大な市場がなくなることに対して、まだ、どうにも実感が湧かなかった。

10月11日には豊洲市場の営業が始まったが、いろいろ混乱が起きているようだ。一方、東京都は築地市場へ入場を禁じ、早く解体を開始したいようだが、築地で営業を希望する業者とその支援者は「お買い物ツアー」という抵抗を続けているようだ。土曜日は13時からお買い物ツアーがあるというので、行ってみた。

正門は厳重な封鎖状態。



駐車場の通用口。この日は場内に入ることをあきらめ、この門前で中卸業者さんの販売が行われた。あっという間に売り切れていまい、5分遅れで私が到着したときは、店仕舞いの挨拶中だった。



少し背伸びをして、厳重な目隠し壁の上から中を覗いてみると、数メートル置きに作業服姿の人が休めの姿勢で壁を凝視していたので、ぎょっとした。



私は、正直、築地市場の解体を中止させることは不可能だろうと考えている。しかし、昭和・平成の歴史を見てきた市場なのだから、もう少しゆっくり名残を惜しんでもいいのではないかと思う。

場外市場もぶらぶら歩いてみたが、4週間前に比べると、かなり人が少なった。大定(だいさだ)の卵焼き100円も並ばずにGET。カステラみたいに甘い。場外市場の賑わいが保たれるといいんだけどなあ。心配。


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インドネシアと中国/世界史のなかの文化大革命(馬場公彦)

2018-10-19 22:47:34 | 読んだもの(書籍)
〇馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』(平凡社新書) 平凡社 2018.9

 先日読んだ楊海英氏の『「知識青年」の1968年』が面白かったので、文革本をもう1冊、と思って読み始めた。「世界史のなかの文化大革命」というので、中国国内と国外を行ったり来たりするような記述になるのかと思ったが、国内の具体的な状況はほとんど語られない。本書は、中国における文化大革命という出来事を、ある程度、知っていることを前提に書かれている。

 本書が注目するのはインドネシアである。ということを読み始めてから知って、ちょっと困った。私がインドネシア近現代史について知っているのは、スカルノとスハルトの名前くらいで、最近、宮城大蔵氏の『増補 海洋国家日本の戦後史』で聞きかじった程度の知識しかない。自分の知識不足を感じながら、おそるおそる読み進めた。

 中国の文化大革命は1966年に始まったが、その前年の1965年、インドネシアでは軍事クーデター「9.30事件」が勃発した。中国とインドネシアは、1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(AA会議)以降、非同盟主義の第三勢力どうしの友好国として緊密な関係を保っていた。スカルノは共産主義者ではなかったが、反帝国主義・反植民地主義の立場から容共的だった。一方、アジアの共産主義化を防ごうとするアメリカの動きを受けて、インドネシアを西側世界に引き留めようとしたのが日本だった。

 1965年6月に予定されていた第2回AA会議が流会となり、両国が国際的な孤立化を深めていた10月1日未明、陸軍内部で左派の将官が右派の将官を拉致・殺害する「9.30事件」が発生した。反乱はすぐ鎮圧されたが、陸軍首脳部による反スカルノ・キャンペーンが展開され、スハルト陸相は、インドネシア共産党の非合法化と解散を決定し、67年3月にはスカルノから大統領終身制を剥奪し、大統領代行、ついで大統領に就任した。政変の発端となった「9.30事件」については、中国共産党の関与も疑われているが、今も真相は明らかでない。この影響として、インドネシアでは共産主義者に対する軍の掃討作戦と住民による「赤狩り」及び華僑迫害が全土に広がり、すでに米ソと対立していた中国は、完全に国際的孤立状態となった。本書は、端的に言えばこの状況が毛沢東の世界革命への情熱に火をつけたと考える。

 ちなみに、毛沢東は文革発動の直前に日本共産党代表団と会談している。1966年3月、宮本顕治書記長を代表とする代表団が毛を訪問したが、ソ連とも中国とも距離を置き、自主路線を志向する日本共産党とは意見の一致を見ず、共同コミュニケ案は破棄された。このことは中国の国際的孤立に拍車をかけ、翌3月30日、毛は四人組を含む文革派と会談して「打倒閻王、解放小鬼」を指示する。この時系列は、日本でも中国でもあまり注目されていないのではないかと思う。

 たちまち中国全土に広がった文革は、第三勢力の諸国や発展途上国だけでなく、アメリカやフランスなど西側諸国にも影響を与えた。日本については、高橋和巳や小田実、大宅壮一、藤原弘達など、当時の知識人・ジャーナリストの反応を丹念に整理しているのが興味深い。また、同じ頃、アメリカの若いアジア研究者の間では、従来のアジア研究が政府の対アジア政策実行の道具となっていたことの反省に基づき、CCAS(Committee of Concerned Asian Studies)という運動体が生まれ、ここからジョン・ダワーやハーバート・ビックスらが誕生し、日本のアジア研究にも影響を与えていく。この研究活動史も非常に面白い。

 さて著者は再びインドネシアに戻り、「9.30事件」以降の在インドネシア華人、あるいは迫害から逃れて中国や台湾に渡った華人たちをレポートする。今も苦難を生きる人々の話を読むのは辛い。そしてインドネシアと中国の関係が、こんなに長く複雑な歴史を持っているということを初めて知った。

 文革の終わりは1976年、周恩来と毛沢東の最後の年ということになっている。日本では1972年のあさま山荘事件が、文革と毛沢東思想に少なからず影響された革命左派の妄想を完全に沈静化させた。そして、このときから日本にとっての中国は、自画像を投影し自己改革の希望を託す対象としての「内なる中国」から、分析と解釈の対象としての「外なる中国」に変化した。この指摘は妥当だと思うし、面白い。つまり文革は、日本と中国の千五百年の歴史を覆す、不可逆的な変化をもたらしたのではないかと思う。
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小林古径「清姫」全公開/日本画の挑戦者たち(山種美術館)

2018-10-18 23:09:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 企画展・日本美術院創立120周年記念『日本画の挑戦者たち-大観・春草・古径・御舟-』(2018年9月15日~11月11日)

 東京美術学校を辞職した岡倉天心が、大観をはじめとする若手画家らとともに1898(明治31)年に創設したのが日本美術院。その創立120年を記念し、日本美術院の草創期に活躍した画家から、現代の日本画壇を代表するにいたる同院の画家の優品を紹介する。冒頭に、馬にまたがった岡倉天心の写真があって、ちょっと朝ドラの牧善之介を思い出してしまった。

 狩野芳崖、橋本雅邦、下村観山、菱田春草など、日本美術院と聞けばすぐ思い出すような画家の作品が並ぶ。横山大観は、中国・北京近郊の風景を描いた水墨画巻『燕山の巻』。風景の魅力に身を委ねているような素直な作品で好き。『喜撰山』は小品だが、国宝『日月山水図屏風』が透けて見えるような気がする。今村紫紅には、いろいろなタイプの作品があるが、建礼門院と御供の尼を縦長の画面いっぱいに大きく描いた『大原の奥』は私の好きな作品のひとつ。

 展示室の突き当りまで行って驚いたのは、小林古径の『清姫』全8面が出ていたこと。「日高川」や「入相桜」はよく見るけど、正直なところ、8面全てを一挙に見た記憶がない。最初の「旅立」は、安珍が年嵩の僧に従って道を行く。この1面だけは白描である。「寝所」は旅の宿で、闇の中、安珍の寝所に忍び込む清姫。実は二人が一緒に描かれているのはこの1枚しかない、「熊野」は朝霧(?)が立ち込める神聖な熊野大社。無人の風景。「清姫」は、置き去りにされたと知って、山を駆け降りる清姫。スピード感がすごい。「川岸」は逃げる安珍。「日高川」は、片袖を脱ぎ、向こう岸の見えない大河に飛び込もうとする清姫。「鐘巻」は朱塗りの柱の立つ鐘楼で、焔を身にまとった純白の龍が鐘を抱いている。そして無人の「入相桜」。

 それぞれ1枚ずつ見ても魅力的な作品だが、連続して見るとさらに感慨深い。私は昨年、和歌山県立博物館の特別展『道成寺と日高川』を見てきたので、素朴な絵巻や絵解き図の数々を思い出しながら(それらも魅力的だが)、古径の『清姫』の魅力を考えていた。確か、古径は特定の「日高川縁起」の底本に依ったわけではなく、記憶や空想の中から、この作品を創り出した、という解説が添えられていたことを思い出す。

 後半は速水御舟、安田靫彦、前田青邨など。歴史画が好きなので、前田青邨の『腑分』や安田靫彦の『出陣の舞』(織田信長を描いた)が出ていて嬉しかった。あと、前田青邨の『大物浦』が出ていたのには、嬉しさで「マジか!」と声が出そうになった。小茂田青樹の『春庭』も好きな作品なので、見ることができて嬉しかった。優しくて控えめな作品だと思うのだけど「日本画の挑戦者」に混ぜてくれてありがとう。

 小山硬『天草(洗礼)』は、少ない回数だが見たことがあるかもしれない。天草のキリシタンを主題にした作品を数多く描かれている方なので、画面を見た瞬間、小山硬さんだ!とすぐに名前が浮かんだ。小山硬さんの作品があるなら、田淵俊夫さんもあるかな?と思ったら、『輪中の村』という作品が出ていた。平山郁夫『バビロン王城』は、茶色い日干しレンガと青いタイルでできた幾何学的な王城を描く。よく見ると、白い衣の人間たちが大勢、小さく整然と描かれている。

 第2展示室は、さらに新しい世代の画家の作品。宮廻正明『水花火(螺)』は、舟人が網を打つ一瞬を描いたもの。面白いけど、少し工夫が勝ちすぎているかなあ、と思う。
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2018年10月、築地市場の移転

2018-10-16 23:08:39 | 日常生活
2018年10月6日(土)築地市場が営業を終了することになった。私は昨年4月から門前仲町の住人になり、週末に何度か築地を歩いてみたが、いわゆる「場内」には、なんとなく気後れして、一度も足を踏み入れたことがなかった。そうしたら、いよいよ市場の営業が終了してしまうというので、慌てて勇気を奮って行ってみた。営業最終日の前の週末、小雨の降る午後だった。



初めてなので、勝手が分からず、うろうろする。







飲食店の並ぶ一角は、どこも売り切れ、または大行列だった。



場外市場にある波除神社。



10月11日には、豊洲市場の営業が始まると同時に、築地市場の解体が始まったと聞いてびっくりした。移り変わりは世のならいと言いながら、そんなに急ぐ必要があるのだろうか。来週あたり、また築地の様子を見に行ってみようと思う。

今週末、近所の魚屋で鮭の切り身を買ったら「それ、豊洲で仕入れたのよ。まだ慣れないけれど、やっていくしかないわねえ」と店のおばさんに言われた。
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春日明神の七変化/春日権現験記絵・後期(三の丸尚蔵館)

2018-10-15 23:56:36 | 行ったもの(美術館・見仏)
三の丸尚蔵館 第81回展覧会『春日権現験記絵-甦った鎌倉絵巻の名品-』(修理完成記念)(2018年8月18日~10月21日)

 『春日権現験記絵』の後期展示に行ってきた。前期展示の記事はこちら。現在、見られる巻・場面は以下のとおりである。

・巻4:第3段(平家の都落ちに従おうとした近衛基通を春日明神が引き留める)
・巻5:第2-3段(春日社に奉仕し富み栄えた藤原俊盛が仏門に入ることを願い、春日明神に喜ばれる)
・巻9:第3段(息絶えた女が、閻魔王のもとで春日明神に助けられて蘇生する)
・巻12:第3段(東大寺東南院の僧・恵珍が夢で春日明神と神人・鹿たちに会う)
・巻13:第1-3段(子宝に恵まれなかった女が春日社の社前で出産、生まれた男子は明神に守護される)、第4段(興福寺の僧・盛恩得業の夢に春日四宮が現れる)、第5段(興福寺の僧・増慶が田舎に移住して病気になる)
・巻14:第6段(京の大火で、唯識論を安置していた家が神人に守られて焼け残った)
・巻17:第1-2段(明恵上人が天竺への渡航を考えていると、橘氏の女に春日明神が憑依して引き留めた)
・巻18:第2段(再び出国しようとした明恵上人のところに橘氏の女に憑依した春日明神が現れた)

 巻4は近衛基通(普賢寺摂政)を乗せた牛車の前後に付き従う人々、特に騎馬武者集団の、色も柄も取り取りの装束が華やかで美しい。馬の毛並みもさまざま。徒歩武者は兜をかぶる者が多く、騎馬武者は烏帽子姿が多い。武者集団の隊列が途切れたところに、白い袴、無地の薄黄色の衣、立烏帽子の男がいて、手を差し伸べ、前方の牛車を招いている。実際に基通が平家の都落ちに従わず、都に留まったのは好判断だったが、その後の人生も苦労の多かった人で、いろいろ感慨深い。

 巻5、藤原俊盛という人物はよく知らなかったが、後白河院や八条院の近臣なのだな。絵としての面白さは、広大な俊盛邸のありさま。豊かな海産物が運び込まれ、男たちは鷹を愛玩し、子どもは寝そべって巻子本を読んでいる。庭には大きな鳥小屋が設置されている。舟遊びのできる大きな池には水鳥が集まり、白黒ぶちの犬や、野ウサギ?のような動物も描かれてる。

 巻12は僧・恵珍の夢の中の光景で、恵珍は画面の隅のほうで小さくなって座っている。その前を牛車と10人ほどの神人たち(白い袴、濃淡あるが黄色い衣)、そして30頭ほどの鹿が通り過ぎていく。鹿は角のあるものないもの、毛色や大きさもさまざまで、恵珍の目の前を、子猫ほどの小さな鹿が歩いているのがかわいい。鹿の群れに目を奪われてしまうが、牛車の窓から地蔵菩薩(春日明神)の美しいお顔が覗いている。

 巻14は初めて見たような気がする場面。まだ燻る焼け野原に、壁も屋根も白い漆喰で固めたような家が焼け残っている。戸口に接して幔幕を巡らした中で、ひとまず無事を喜び合う女たち。箸や棒切れで何かを拾って桶に集めている人の姿が複数描かれているのだが、何を拾っているのだろう。炭?金属?それとも骨?

 巻17は何度か見たことがある有名な場面で、春日明神に憑依された女性(妊娠中らしい)が、莚を鴨居にかけてその上に登り、託宣する場面が見どころ。吹き抜け屋台の使い方が効果的で、腰から上は雲(すやり霞)を背景に抜け出た女性の姿が際立ち、演劇の舞台を見るようだ。物語には続きがあって、別の日、今度は同じ女性が天井に登ってしまう。「天井の板一枚あきて」天井裏に立て膝でうずくまる女性がおり、天井裏にネズミも描かれている。この巻は、柿色の障子紙、緑の畳、女人の淡い桃色の衣など、全体に色使いが上品で好き。それにしても、もっと居丈高に示現してもいいようなところ、敢えて妊娠中の女性に憑依して、明恵上人の渡航を止めようとするあたり(泣き落としっぽい)、春日明神はほんとに明恵上人が大好きだったんだなあと思われて微笑ましい。

 巻9は閻魔王の宮殿に角髪(みずら)の童子姿で現れた春日明神が描かれる。童子と言ってもかなり大きい。顔は雲に隠れている。巻13の第4段では長い髪を後ろに結んだ童子の姿で現れるし、ほんとに変幻自在。男にも女にもなれて、怒れば怖いと同時に温かみのある神様である。こういう信仰をつぶしてしまった近代の「神道」「神仏分離」の弊害は大きいと、しみじみ思った。
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