見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

西国三十三所満願御礼(岐阜・華厳寺)

2010-05-31 22:34:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
○西国第三十三番 谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡)

 西国三十三所観音巡礼の最後の札所、華厳寺にまた行ってきた。先だって、5月3日に無事満願を達成したものの、実は、昨年3月、本尊ご開帳をねらって、この華厳寺に詣でたときは、肝腎の札所巡礼用のご朱印帖を忘れてしまったのである。別のご朱印帖に印をいただきはしたが、巡礼用のご朱印帖に空白を残すのも落ち着かないので、もう一回、満願の御礼参りを兼ねて、訪ねることにした。

 前日の土曜日は出勤だったので、仕事が終わると、そのまま東京駅に直行。大垣泊。日曜の朝、養老鉄道で揖斐駅から、谷汲山(華厳寺)行きのいちばん早いバスに乗る。前回、ご本尊ご開帳の際は、けっこうな賑わいで、帰りのバスは増発されていたはずだが、この日、谷汲山まで乗ったのは私ひとり。まあ古寺巡礼は、このくらいのんびりした雰囲気のほうがいい。

 本堂・笈摺(おいづる)堂・満願堂の3カ所のご朱印をいただき、めでたくご朱印が揃った。納経所で「満願なので先達会の申込書をいただけますか?」と声をかけると、ぱらぱらとご朱印帖をめくってチェックの上、申請書に「谷汲山華厳寺」の角印(※納経の朱印とは別)を押したものを授与いただく。これに1万円を添えて申し込めば、私も晴れて「先達」の仲間入りなのである。嬉しい。





 前回は見逃した満願堂に立ち寄り、本堂の柱に打ち付けられた阿吽の鯉(!)に触れて精進落とし。奥の院は割愛し、樽見鉄道経由で大垣→名古屋に戻った。谷汲口駅の小さな駅舎は、ローカル線らしい風情があっていい。三十三所巡礼の駅としては、個人的に、松尾寺駅と双璧だと思う。

 本日(平成22年5月31日)をもって、西国三十三所の「結縁御開帳」は終了。2巡目は日常風景に戻った札所をゆっくりまわりたい。
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備忘メモ:西国三十三所満願まで

2010-05-31 22:30:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
西国三十三所巡礼 初の満願までの足跡(日付は記事掲載日)

第一番 那智山青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)2009-03-28

第二番 紀三井山金剛宝寺[紀三井寺](和歌山県和歌山市)2008-10-13

第三番 風猛山粉河寺(和歌山県紀の川市)2008-10-13
 私の西国巡礼はここからスタート。

第四番 槙尾山施福寺[槙尾寺](大阪府和泉市)2008-10-14
 キツかったなあ…ここの坂道。

第五番 紫雲山葛井寺(大阪府藤井寺市)2008-10-14

第六番 壺阪山南法華寺[壺阪寺](奈良県高市郡)2010-05-03

第七番 東光山龍蓋寺[岡寺](奈良県高市郡)2009-12-21

第八番 豊山長谷寺(奈良県桜井市)2009-12-21

第九番 興福寺南円堂(奈良県奈良市)2008-11-10
 あれっ! あまり何度も参拝しているので、レポートを書くのを忘れていた。
 納経帖の日付(2008-11-8)から見て、このときご朱印をもらったものと思う。

第十番 明星山三室戸寺(京都府宇治市)2009-11-06

第十一番 深雪山醍醐寺[上醍醐・准胝堂](京都市伏見区)2009-05-05

第十二番 岩間山正法寺[岩間寺](滋賀県大津市)2009-10-19再訪 2010-01-19
 浄土の鳥(白鳥)を求めて再訪。6羽揃いの写真あり。

第十三番 石光山石山寺(滋賀県大津市)2009-03-25再訪 2010-01-19
 ここ(初回)で浄土の鳥(孔雀)を見つけて集め始めた。

第十四番 長等山園城寺[三井寺](滋賀県大津市)2009-10-04再訪 2010-01-19

第十五番 真那智山観音寺[今熊野](京都市東山区)2009-11-05

第十六番 音羽山清水寺(京都市東山区)2009-03-24

第十七番 補陀洛山六波羅蜜寺(京都市東山区)2009-05-05

第十八番 紫雲山頂法寺[六角堂](京都市中京区)2008-11-11
 大したことのないご開帳だったので記事を書き落とした。

第十九番 霊麀山行願寺[革堂](京都市中京区)2009-03-25

第二十番 西山宮門跡 善峯寺(京都市西京区)2009-10-04

第二十一番 菩提山穴太寺(あなおじ=あのうじ)(京都府亀岡市)2009-10-04

第二十二番 補陀洛山総持寺(大阪府茨木市)2010-05-03

第二十三番 応頂山勝尾寺(大阪府箕面市)2010-05-03
 満願達成のお寺。

第二十四番 紫雲山中山寺(兵庫県宝塚市)2010-05-03

第二十五番 御嶽山播州清水寺(兵庫県加東市)2009-11-25

第二十六番 法華山一乗寺(兵庫県加西市)2009-11-23

第二十七番 書写山円教寺(兵庫県姫路市)2009-11-24

第二十八番 成相山成相寺(京都府宮津市)2009-05-07

第二十九番 青葉山松尾寺(京都府舞鶴市)2009-08-19
 JR松尾寺駅のにゃんこの写真あり。

第三十番 厳金山宝厳寺[竹生島](滋賀県東浅井郡)2009-05-06
 ご開帳のご本尊(初見)でいちばん印象深かったのはここかな。
 あわせて彦根でひこにゃんも見ました。

第三十一番 姨綺耶山(いきやさん)長命寺(滋賀県近江八幡市)2009-10-18

第三十二番 繖山観音正寺(滋賀県蒲生郡)2009-10-18
 観音正寺+長命寺もハードだった…。

第三十三番 谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡)2009-03-08再訪 2010-05-31

番外 華頂山元慶寺(がんけいじ)(京都市山科区)2010-05-03

番外 長谷寺開山堂法起院(ほうきいん)(奈良県桜井市)2009-12-21

番外 東光山花山院(菩提寺)(兵庫県三田市)2009-11-25
 バスが少ない上に急坂という難所。
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古典と現代/京劇三国志・赤壁の戦い「激闘編」(湖北省京劇院)

2010-05-30 23:31:03 | 行ったもの2(講演・公演)
○東京芸術劇場 湖北省京劇院『京劇三国志・赤壁の戦い(激闘編)』(2010年5月22日)

 この公演があることは、ずいぶん前から知っていたのに、気がついたら当日になっていた。本当は翌日の「策略篇」「激闘篇」通し公演が見たかったのだが、日曜の分は売り切れ。当日の夜の部(激闘篇)はあるというので、2階の最前列で観た。

 物語は、2008~2009年に話題になった映画『レッドクリフ』とほぼ重なる。赤壁で対峙する魏の曹操と呉の孫権、蜀の劉備。「策略篇」は、諸葛孔明が十万本の矢を手に入れる下りを描き、「激闘篇」は、東風に乗じて呉・蜀軍が火攻めに転じ、敗走する曹操を描く。人物の扮装や性格付けは、古典的な演目に基づいているけれど、作品としては新作なのかな。…と書いて、プログラムをめくっていたら、伝統劇本の「群英会」「借東風」「焼戦船」「華容道」の4作品をもとに2時間×2編の作品にまとめた、という解説が書かれていた。

 京劇というのは(詳しいわけではないので間違ったらごめんなさい)、古典として定まった演目を繰り返し上演するタイプの伝統芸能ではなくて、今でも新作がたくさん作られている。そもそも「古典」と言われるものも、意外と新しい、近代の創作だったりするようだ。

 前半は、ストーリーが説明的で、ちょっとだれた。俄然、目が覚めたのは、火攻めが始まるところからで、吹き流しのような長い布で波立つ水面を表し、巨大な赤い旗を振りまわして、縦横無尽に跳ね回る踊り手が、激しい猛火を表現する。まるで、噂に聞く革命バレエみたいじゃないか、と思った。京劇と現代舞踊との敷居は、意外と低いのである。

 このところ、京劇を2、3作品見てみたおかげで、わずかな仕草で、馬に乗ったり(鞭を用いる)、船を漕いだりする様子を表現しているのが分かるようになった。ああいう演技は、日本の能・狂言に似ていると思う。

 本篇の見どころ(聴きどころ)は、伝統劇本「華容道」に従い、敗走する曹操を迎え撃つ蜀の武将たち。まず、烏林に埋伏していたのが趙雲。趙雲は隈取をしない「生」の役どころ、白に銀糸の刺繍、青の縁取の衣裳が涼やかで凛々しい。続いて葫蘆谷に潜んでいたのは張飛。白地に黒の隈取、衣裳は黒に金糸、赤の縁取で勇猛さを表現。最後に華容道で待ち伏せるのが関羽。顔全体を赤く塗り、黒のラインで眉や両目を際立たせるが、仮面のような隈取は施さないので、「武生」に分類される(頬の黒子がコントみたいと思ったら、神として祀られる関羽に対して遠慮を表す伝統なのだそうだ→Wiki)。緑に金糸で威厳のある衣裳。むかしの恩義を引きあいに出して、見逃してくれるよう迫る曹操に対し、葛藤する心中を唱いあげる、難しい役だ。演じる程和平氏は、さすがにいい声で聞かせる。同氏は、本公演の演出もつとめている。

 京劇の曹操は面白いなあ。白塗り。所作がちょっと女っぽくて、中風のように手をひらひらさせながら、大げさに喜怒哀楽を表現する。概して滑稽だが、ときどき武人らしさも垣間見せる。私の世代だと「マジンガーZ」のあしゅら男爵を思い出したりする。古すぎるか。
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和漢の美学/書跡の美(五島美術館)

2010-05-27 23:31:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 開館50周年記念名品展II『書跡の美-古写経・古筆・墨跡』(2010年5月15日~6月20日)

 名品展第2弾は書跡。会場に入るとすぐ、壁沿いの展示ケースに3種の軸が並んでいる。伝・小野道風筆「継色紙」(重文)、伝・藤原行成筆「升色紙」、伝・紀貫之筆「寸松庵色紙」(重文)。至高の古筆と称えられる三色紙(→Wiki)である。

 三色紙が並んだところを見るのは、意識している限り、三度目だ。2009年、三井記念美術館の『三井家伝来 茶の湯の名品』。それから、レポートを書いていないのだが、この連休、大阪で見てきた藤田美術館の『歴史を彩る 教科書に載る名品』展にも三色紙が出ていた。三井家の三色紙は、作品とともに表具の美しさにも目を奪われた。藤田美術館は、せっかくの三色紙の距離が近すぎて、しかも他の作品と一緒の展示ケースに入っていたので、印象散漫で残念な感じがした。五島美術館の場合は、ほどよい配置と薄暗さで、作品に集中できるのがよい。控えめな表具は、書跡の引き立て役に徹している。

 私が、総体的にいちばん好きなのは継色紙だ。これまで、畠山記念館(きみをおきて)、三井(くるるかと)、出光(あめにより)、MOA(わたつみの)、東博(よしのかは)、藤田(つくばねの)を見てきた。五島のは「めづらし/き こゑなら/なくに ほ/ととぎ/す ここらのとしの/あかずも/あるか/な」。この不思議な改行のリズムが好きなのだ。ただ、本作品は、ちょっと文字が集中し過ぎて、おおらかさに欠ける。五島の三色紙では、升色紙がいい。どの行も直線的で、左右に流れない。墨つきの濃淡が極端で、半分枯れかけた(半分は生きている)蔓草が垂下しているようだ。解説は「現存する仮名筆跡の中で最も優美な筆致を示す」と絶賛していたけど、Wikiを見ると、他の二色紙に劣る、という評価もある。好みかなあ、これは。寸松庵色紙は、華やいで愛らしい雰囲気。三点とも、展覧会の公式サイトで画像を確認できるのがありがたい。

 続いて、これも有名な「高野切」は三種の書風が確認されており、まず、「仮名文字の完成」と言われる第一種書風の巻と、これに類似する書風の古筆(関戸本古今集切、亀山切)を展示する。次に連綿体が特徴的な第二種書風とその類似品。私は、この第二種がけっこう好きだ。筆者は貫之や行成に擬せられているが(古筆の「伝○○筆」って無視したほうがいいみたい)、現在は源兼行筆が定説化している。高野切第三種は所蔵していないので、同系統の書風(蓬莱切、伊予切第一種)を展示。軽快・明解で、近代の初学者用の仮名手本によく用いられるそうだ。納得。この展示方法は、とても分かりやすかった。

 途中をとばして、墨跡も紹介しておこう。ちょうど、三色紙と向き合う壁の展示ケースには、宋元の中国僧の墨跡が並んでいる。無準師範の「山門疏」は、字形も字の大きさも楷行草も不揃いなのに、のびのびした美しさを感じる。しかも、のびのび書こうなんて全く思っていない、無心の闊達さがよい。無学祖元のやわらかで穏やかな墨跡も好きだ。解説に「黄山谷の書風」とあって、分からなかったが、黄庭堅のことか。会場の中央に立って、右に古筆、左に墨跡の名品(あるいはその逆)を見比べてみるのも一興である。

 中央の平ケースの列は古写経。五島慶太のコレクションは、古写経に始まり、次に禅宗僧侶の墨跡に惹かれ、茶の湯、書画…と拡がっていったのだそうだ。なんだか一般人とは逆コースのようで面白い。

 さて、芸術新潮2006年2月号「特集・古今和歌集1100年」で復習しながら寝ることにしよう。
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謎の多い小説家/秋成(天理ギャラリー)

2010-05-26 23:56:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
天理ギャラリー 140回展『秋成-上田秋成没後200年によせて-』(2010年5月16日~6月13日)

 前年秋の天理大学図書館の特別展が、この時期、東京の天理ギャラリーにやってくる。もはや恒例のお楽しみである。今年は、没後200年を迎えた上田秋成(1734-1809)の特集。そういえば、この夏は、京都国立博物館も特別展観『上田秋成』を企画している。私は、子どもの頃から怖い話、オバケの話が大好きだったので、「少年少女世界の名作文学」(小学館)以来の秋成ファンだが、一般にはマイナーな作家だと思っていたのに。大坂で生まれ、京・大坂で暮らした人物だから、関西人にはなじみ深いのだろうか。

 展示品はおよそ70点。自筆原稿がずらずらあるのがすごい。あまり若い頃の筆跡はなくて、晩年の60~70代が中心だが、それでも少しずつ印象が違うのが面白い。食い入るように眺めたのは『春雨物語』富岡本(富岡鉄斎旧蔵本)。軸装である。秋成は、文化5年(1808)に成稿したこの小説集を、死に至るまで改稿し続け、後世には写本のみで伝わったという。へえ、じゃあ、最初の刊本が世に出たのはいつなんだろう。試しに「日本古典籍総合目録」を引いてみたら、確かに、写本と近代の複製本しか確認できなかった。

 代表作『雨月物語』にも謎が多い。序の成立と刊行には8年の開きがあり、しかも非公許出版で、秋成は生涯、自分の作品であることを隠していたという。展示では「明和戊子」(1768年)と記された序文と「安永五歳」(1776年)の奥付が並べてあり、序文は「題曰雨月物語云剪枝畸人書」と結ばれている。それにしても、43歳の執筆から、76歳で死ぬまで黙っていたって、意固地にもほどがある。まあ、つきあいやすい人物ではなかったろうなあ、と思う。

 その秋成が、ちょっと可愛さを見せるのは「茶」に対する熱中ぶり。古来の点茶よりも、ニューモードの煎茶が好みだったようだ。「茶は煎を貴とす。点は次也」と述べている。煎茶が道具の新調を喜ぶのは「清きをつとむる」ためだが、点家は「珍貴に耽りて」巨万の富を費やし、乱酒・博打と変わるところがない、と厳しい。

 また、医術を修め、町医師でもあった秋成は、理系の発想・関心の持ち主だったように思う。著書『浅間煙』では、天明3年の浅間山の噴火が、祟りなどではなく、地中の火脈が影響したものだと、本草学者・稲生若水の説に拠って説く。間重富(1756-1816)から書斎の名を乞われて、「仰観俯察之室」という名を贈っているが、その書簡では、中国の天文学・暦学の歴史を古代から同時代まで詳細に語っている(ようだ)。「明の末の代にいたりて、又西洋の人の来たりしに習ひ伝えてしより、崇禎の暦書ありき」かな? この資料には、残念ながら全文翻刻がついていなかったので、なんとか自力で読み解こうとした。「清の代にかはりて康煕の帝、欧羅巴の国人を…観象台にこころみさせて…霊台儀象志をはじめに」…うーん、ギブアップ。でも、20以上も年下とは言いながら、のち寛政の改暦事業にも参加した天文学者の間重富に、中国天文学史を縷々解説しているのだから、いい度胸である。秋成って、自分のことを医者あるいは科学者と思っていて、文学者とは思っていなかったんじゃなかろうか。

 他人と異なる生まれ育ちのせいもあって、かなりの偏屈者だったらしい秋成だが、妻(瑚尼)をはじめ、周囲の人々との間には、暖かい交流が感じられる。さびしがりやだから文句が多いけど、そんなに不幸ではなかったんじゃないかな。76歳(没年)の作の長歌の結び「老ひて今こそ世にはまじはれ」が心に沁みる。

※黌門客(個人ブログ):漆山本春雨物語のこと
なんと、昨年末に高田衛さんの『春雨物語論』が出ていたのか。
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書をもって、鉄道に/沿線風景(原武史)

2010-05-25 23:45:47 | 読んだもの(書籍)
○原武史『沿線風景』 講談社 2010.3

 もとは「週刊現代」連載の「リレー読書日記」。はじめは純然たる書評の体裁を取っていたが、途中から、バスや鉄道に乗ってどこかに出かけつつ、関連本を取り上げるスタイルになった。本に触発されて旅先が決まり、旅先の光景や心象風景に触発されて(時には多少、強引に)本が語られる。そもそも、現代の生活で、書斎でじっくり読書に集中できる人など、いったいどれだけいるか。通勤・通学・移動中の車内で読書をするというのは、私たちにとって、ごく当たり前の習慣になっているのではないか。

 まるで自分のことを言われているようで、嬉しくなった。私は、ブログの自己紹介欄に「本が好き。本を持って電車に乗って出かけることはもっと好き」と掲げているとおり、車中の読書が大好きなのだ。新幹線で東京~京都、あるいは新大阪でも飽きないが、1時間くらいの近郊線がちょうどいい。もうちょっと読み続けたいな、というところで目的地について、気持ちを切り替えて、観光や買いものに向かうのが、リフレッシュにいいのである。

 本書には22の鉄道・バス旅が紹介されているが、関西編の2回、ワルシャワのトラム1回を除いては、全て関東近県の日帰り旅である。週刊現代編集部のTさんのほか、高校の後輩、文筆業仲間など、世代や性別の違う同行者が、入れ替わり現れる。行き先は、政治学者らしく、厚木に残る大川周明の旧居だったり、立川の昭和天皇記念館だったり。あるいは、子どもの頃の家族旅行の記憶をたどって、那須高原や房総半島を訪ねたり。沿線グルメ(?)のそばやうどんにも、ときどき言及している(著者は鰻好きとみた)。

 東京西郊の団地育ちの著者と違って、私は東部下町の育ちだが、世代が近いので、共感する部分が多い。夏の家族旅行は、海水浴といえば立山、避暑なら那須か軽井沢。小中学校の林間学校の定番は日光。1970年代(実際は68年)から新宿駅京王線改札の脇にあったC&Cカレー(あったな~)。などなど。読んでいると、私は私なりの記憶と心象風景がよみがってくるように思う。関西育ちの読者には、たぶんこの楽しみは共有できないだろう。

 それから、私が10年ほど前に住んでいた逗子駅には、京急逗子線からの引き込みがあって、金沢八景の東急車輛で造られた車両が、JRを経由して全国に運ばれていくのだそうだ。知らなかった。確かにいちばん近い踏み切りが妙に広かった(何本も線路が並行していた)っけ。私のマンションは、JRと京急の線路に挟まれていて、毎晩遅くまで、妙にゆっくりと通っていく電車の音が聞こえて、好きだった。懐かしいな。またあのへんに住んでみたい。

 それにしても、センスのいい装丁である。表紙の色は、昔の山手線のイメージかしら。私がかすかに記憶している総武線もこんな色だったと思う。

※本日AGR日和なりっ(個人ブログ):東急車輛と京急逗子線
※マイコミジャーナル:昔の山手線がチョコレート色だった理由は蒸気機関車にあり
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合理的経営の果て/トヨタの闇(渡邉正裕、林克明)

2010-05-24 23:59:15 | 読んだもの(書籍)
○渡邉正裕、林克明『トヨタの闇』(ちくま文庫) 筑摩書房 2010.5

 私は免許を持っていないので、クルマには全く関心がない。トヨタの製品についても、特に語るべき意見を持たない。ただ、昨今、ムダ削減=経営改善といえば「PDCAサイクル」「見える化」「改善提案」など、トヨタで成功した方式がやたらと推奨されている。はっきり言って、うるさい。そんなに成功するわけがないだろうと思って、心情的に反発を感じているときに本書を見つけた。題名を見ただけでトヨタに批判的であることは明らかである。「トヨタ式経営」を礼賛した本も眉唾だが、こうあからさまに敵対的な本もいかがなものか、と思った。しかし、最終的に真偽を判断するのは自分、と観念して読み始めた。

 本書によれば、トヨタがマスコミ各社に支払っている巨額の「広告費」は、同社に都合の悪い記事を書かせないための「口止め料」として機能しているという。なるほど。これは、合理的に考えて「ありそう」な話だ。マスコミには、大資本にフィルタリングされた情報しか流れないのである。

 本書は、広告収入ゼロを経営方針とするニュースサイト「MyNewsJapan」上に発表されたもので、ひとことでいえば、「トヨタは本当に(マスコミで喧伝されるほどの)優良企業なのか?」という疑問に、製品の品質と、従業員の過酷な労働実態の二面から迫っている。2006年7月から連載を開始し、2007年11月に刊行された単行本に、近年の状況(2010年2月、米国でのリコール隠し疑惑など)を踏まえていくぶん加筆したものだ。

 前者の「製品の品質」については、欠陥が明らかな車を放置して、公道を走らせておくのはけしからん、と言われれば、そうだなと思うが、私は、欠陥車であるとないとに限らず、どうせ車なんで信用ならないものだと思っている野蛮人なので、この件には発言しないでおく。

 後者の「過酷な労働実態」については、読んでいて暗澹とした。単純な搾取の構図ではなくて、勤務時間外のはずのプライベートな時間が、フットサルやバーベキュー大会などのイベント、目標を定めた健康管理、「創意くふう提案」とその添削、強制加入の組合活動、果ては交通安全祈願の神社詣でまで、「参加しないわけにはいかない」自主活動で埋め尽くされ、生活の全てをトヨタに絡め取られてしまう体制になっている。倒れる前に、なぜ「一抜けた」と宣言して、下りてしまうことができないのか、と私は不思議に思うのだけど、やっぱり出来ないんだろう。もう少し頑張ればいいことがあるかもしれない、と儚い期待をつないでしまう程度には、よくできたキャリアパスが鼻先にぶらさげられていて。

 嫌なのは、ここまでひどくなくても、似た状況は、自分のまわりにいくらでもある、と感じられることだ。問題はトヨタだけではない。著者は文庫本化に際して加わった最終章(韓国「エコノミスト」誌のインタビュー)で、日本の経済システムが欧米諸国に及ばない点として、「ジャーナリズムによるチェック機能が働かない」「労組が機能していない」「行政当局の監視が機能していない」「消費者団体が機能していない」の4つを挙げている。全くごもっともだ。日本社会は、眼先のコスト減にとらわれて、システムの健全さや弾力性・将来性の担保に必要な機能を軽視しすぎてきたのではないかと思う。
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汝の手に堪(たふ)ることは/天上大風(堀田善衛)

2010-05-22 23:57:58 | 読んだもの(書籍)
○堀田善衛著、紅野謙介編『天上大風:同時代評セレクション1986-1998』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2009.12

 今さらながら、堀田善衛さんは何者なんだろう。私の世代は「インドで考えたこと」が教科書や入試問題の定番のひとつだった。けれども私の場合、堀田さんに出会ったと言えるのは、大学時代に読んだ『ゴヤ』全4巻だったと思う。それから20年くらい経って、『定家明月記私抄』と『上海にて』を読んだのは、どちらが先だったか。以上が私の堀田善衛体験の全てである。数は少ない。しかし、どの本も、のちのちまで影響の残る、深い衝撃を与えられている。

 本書は、1986年から1998年(亡くなられた年だ)まで雑誌『ちくま』に連載された同時代評150篇(単行本『天上大風』として刊行)から71篇を選り抜いたもの。スペインと日本を往還する特異な生活者の視点から、激動の20世紀末が語られている。ベルリンの壁の崩壊。ルーマニア革命。スイス銀行の戦後処理問題。時には、歴史をさかのぼり、第二次世界大戦中のプラド美術館の大疎開や、はるか古代ローマ人の生活に思いを馳せる。扱っている主題は重いのに、いずれの文章も、朝の空気のように澄明で美しい。読んでいるうちに背筋が伸びるような気持ちになる。

 本書には「筑摩書房五十周年記念パーティでの祝辞補遺」(1991年)という文章が収められており、著者は、筑摩書房の独創性を「端的に言って、学問と文芸をつないだところにあった」と述べている。なるほど。著者が例に挙げている桑原武夫、吉川幸次郎、渡辺一夫という名前には、とても納得がいく。そして、著者の立ち位置も、まさに「学問と文芸をつないだところ」という表現がぴったりくるように思う。しかし、いま、こうした「筑摩書房的」文化人の系譜を継ぐ(文芸の範疇に入る文章の書ける)学者って思い当たらないなあ。学問とジャーナリズムの間に立つ学者ばかりで。

 また、本書には、ところどころに印象深い詩文が引用されている。三好達治の『起て 仏蘭西!』(ツーロン港でフランス艦隊が自爆自沈した直後に書かれた)や、失われた武田泰淳の長詩の第一行「かつて東方に国ありき」など。中でも印象深かったのは、初めて知った旧約聖書「伝道の書」。ほんとに聖書(キリスト教)なの?と驚くような内容である。「伝道者言く、空の空、空の空なる哉、都(すべ)て空なり」という、爆裂する砲弾のような宣言で始まり(著者の表現)、矛盾に満ちた現実であればこそ、絶望に打ちひしがれず、許された此の世の喜びを楽しみ尽くし、「凡て汝の手に堪(たふ)ることは力をつくしてこれを為せ」と説く。ベートーヴェンの第五交響曲から、第九の合唱に至るようだ、という比喩に納得。堀田さんの文章が持つみずみずしさの秘密も、この「伝道の書」の精神に通じるのではないかと思う。

Wikisource:傳道之書(文語訳)
全文あり。ただし、ちょっと読みにくい。
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特別な週末・大唐皇帝陵展(橿原考古学研究所附属博物館)

2010-05-21 22:58:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 平城遷都1300年記念春季特別展『大唐皇帝陵展』(2010年4月24日~6月20日)

 唐王朝の皇帝と皇族の陵墓にスポットを当て、陝西省考古研究院を中心とする最新の考古学的成果を紹介する展覧会。この日は、飛鳥資料館でキトラ古墳壁画を見たあと、畝傍御陵駅前にある同博物館を訪ねた。日曜というのに周囲にあまり人影がなく、場所を間違えたかと思ったが、館内では、かなり大勢のお客さん(年齢層高し)が、列品解説ツアーに参加していた。

 第1室は「唐十八陵」の写真パネル展示。私は2006年の夏に、昭陵(李世民の墓)と乾陵(高宗と則天武后の墓)に行っている。他の御陵も観光客に公開されているのかしら?と興味深く眺めた。同室の壁には、超巨大な「青龍図」と「白虎図」(体長、約6メートル)。恵陵(玄宗の兄・李憲=追諡皇帝の墓)の墓道の両側に描かれた壁画の模写だ。陽炎のように揺らめき、湧き上がる瑞雲の迫力は半端でない。

 第2室は、神道の石刻、出土品など。「世界帝国」大唐の皇帝にふさわしく、昭陵には14の周辺国の王・君長の石像が立てられた(十四国蕃君長石像)。台座の題記から14の国名・君長名も判明している。于闐(うてん)国とか亀茲(きじ)国とか、国名を見るだけで胸が躍る。展示品は背中に五条の弁髪を垂らした突厥人の石像らしい。2002年出土。正倉院御物を思わせる美麗な銀製品や螺鈿の鏡、唐美人の豊満な女子俑、精悍な加彩馬などが並んでいたが、驚くのは、ほとんどが2000年以降の発掘品であること。中国の「国宝級」文物のリストって、どんどん書きかえ(書き加え)られているんだろうなあ、と思う。こんなふうだから、何回中国に行っても、見るべきものを見尽くせないのである。

 第3室に入ると、いたいた。本展のポスター等でさかんに宣伝されている跪拝俑だ。展示ケースが高い位置にしつらえてあるので、机の上に腹這っているようで可笑しい。恥じらっているような、福々しい丸顔もよく見える。胴長に見えるのは、帯を腰高に結んでいるのかな。私はこいつと会うのは三度目である。最初は2005年、江戸博の『新シルクロード展』。2回目は西安の陝西省考古研究所(※)で、防護ケースも柵もなく、生身の人間みたいに展示室のじゅうたんの上に腹這っていたのが印象深い。『新シルクロード展』では、李憲墓出土の「拝跪文官俑」という名前で展示されていた。解説によれば、衣服に赤色の顔料が残ってることから、四品か五品の官人と分かるそうだ。靴を脱いでおり、衣服に裸足の足のかたちが透けて見えていることには、初めて気づいた。非常に珍しいものなので、お客さんが少ないのは本当に残念。関西圏の方は、ぜひ見に行ってほしい。

 もうひとつ、おすすめは『馬球図』。高祖献陵の陪葬墓、李邕(りよう)墓の壁画で、三人の男性が馬球(ポロ)に興ずる図(全体像が見えるのは二人)を迫力ある大画面に描く。馬球図といえば、章懐太子墓の壁画(1971年出土)が有名だが、あちらが牧歌的な絵本の世界だとしたら、こちらは汗の飛び散る劇画の世界。熱い! 迷いのない、力強い描線に惚れる。考古学ファンよりも、美術ファンにこそ見てほしい作品。こんな熱い壁画を書かせた被葬者は、どんな人だったんだろう。2005年出土。

 第3室には、日本国内の出土品(三彩、白磁など)を意識的に(?)唐皇帝陵の遺物と混ぜて並べてあって、唐の出土品か、と思って眺めていると国内の出土品だったり、その逆だったりした。最後に、十二支俑との関連で、日本の隼人石(はやといし)が紹介されていたのも興味深かった。これ、今でも現場にあるのかー。今度、見に行かなくては。

 展示図録は解説が詳しくて満足。ところどころに挟まれた現地写真が(風景も人も)いい。売店で、橿原考古学研究所編『南朝石刻』(2002年)という図録(中国南朝石刻の踏査記録)の写真が、あまりにも楽しくて、併せて購入してしまった。

※陕西省考古研究所→2007年2月、陝西省考古研究院に改称(中国語:百度百科)。この前年、発掘した古墓が1,172ヶ所、類型遺跡が1,157ヶ所、出土文物が3万件という数字がネットで出てきた。すごい…言葉を失う。

[5/22補記]図録の解説をよく読んだら、跪拝俑は単体で墓道の入口に顔を向けて置かれたと推定されている。ちょっと意外。被葬者に尻を向けていいのか?!

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特別な週末・キトラ古墳壁画四神(飛鳥資料館)

2010-05-19 23:55:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
飛鳥資料館 平成22年度春期特別展『キトラ古墳壁画四神』(2010年4月16日~6月13日)

 「特別な週末」初日、葵祭を堪能したあとは、南に下って奈良県橿原市泊(京都市内も奈良市内もホテルが取れなかったのである)。翌朝、駅前から始発バス(8:37)に乗れば、飛鳥資料館の開館ほぼジャストに着くところだが、以前(平成20年度『子・丑・寅』公開)の教訓が身にしみていたので、混雑を避け、タクシーを使って8:00前に到着。門の前には、既に20~30人ほどが並んでいた。予定の9:00より少し早く(始発バス到着前)開けてくれたが、列は70人前後だったろうか。

 入館すると、最初の部屋が特別展の第2室。ここには、キトラ古墳の出土品や複製(写真パネルおよび陶板)が展示されている。会場係の方が「これは複製です。本物をご覧になる方は先にお進みください」と声をかけてくれるが、あんまり精巧な複製なので、ほとんどの人の足が止まってしまう。そこを思い切って、先行者を追い抜き、常設展示室を突っ切って、特別展の第1室へ。古墳から剥ぎとった壁画片が、青龍→玄武→白虎→朱雀の順で、ゆったりと間をあけて展示されている。

 周囲には、まだほとんど人がいない。え、いいのか、とたじろぎながら、最初の青龍に近づく。これがいちばん薄れていて、復元予想図のパネルと見比べないと、どこを見ているのか、よく分からない。次の玄武は、振り向いた亀の表情がはっきり見える。白虎は、くねくねした体がトラには見えないが、ユーモラスである。朱雀は、けっこう猛々しい顔つき。片足を前に出し、片足を後ろに引いたポーズが躍動感を表しているというのは、あとでパネルを見て知ったことで、後ろに引いた足は見えにくかった。「お進みください」と無粋に促されることもなく、心ゆくまで鑑賞。もう一度、青龍に戻って、二周目もまだゆっくり見ることができた。これは朝イチに並んだ特権である。

 再び第1室~常設展示室に戻る。陶板複製は非常にリアルで、墓室の大きさをイメージするのによい。また、キトラ古墳の沿革説明によれば、2004年8月「青龍」の取り外しに成功して以来、「白虎」胴部→「白虎」前脚→「玄武」と北壁の十二支…と進み、2006年10月に新兵器ダイヤモンドワイヤ・ソーが導入されたことで、2007年2月、難航していた「朱雀」の取り外しに成功。ビデオには映っていなかったが、2008年1月(つい最近!)には「天文図」も剥ぎ取られたという。公開が待たれるところだ。

 ひとつ不満だったのは、会場および近鉄駅で売っている”展示図録”『キトラ古墳壁画四神』(1000円)には、初公開の朱雀の写真と論考しか載っていないことだ。過年度の特別展図録に「玄武」「青龍・白虎」の特集号がそれぞれあるためだが、私のように過去の特別展に来ていない観客にとっては、この図録タイトルと中身、ちょっと詐欺ではないかと思われる。

 開館待ちの間、すぐ前に並んでいらしたのが、岐阜から車で出てきたというご夫婦で、いろいろお話していたら、最後にお父さんに「お名前、教えて」と言われた。実は新聞社の記者証をお持ちで、半分仕事(取材)なのだそうだ。確認はしていないが、翌日、どこかの新聞に私の名前入りコメントが載ったかもしれない。

※参考:図録・書籍販売コーナー(奈良文化財研究所飛鳥資料館倶楽部)
全体像を知るには『キトラ古墳』(300円)のほうがいいかも。
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