○テッサ・モーリス=スズキ著;伊藤茂訳『日本を再発明する:時間、空間、ネーション』 以文社 2014.2
序文を読み始めて、本書が1998年に出版された「Re-Inventing Japan: Time, Space, Nation」の翻訳だと分かったときは、ちょっとがっかりした。目まぐるしい社会の動きに翻弄されていると、90年代に書かれた本が、今なお意味を持っているとは思えなくなっているのだ。
しかし、そんなことは全くなかった。集団的自衛権やら特定秘密保護法やらヘイトスピーチやら、2014年になって、急に前景にせり出してきたかに見える問題群は、90年代には、明らかにその萌芽が存在していた。そして、歴史を丁寧に掘り起こせば、どんな問題も長い根っこを持っている。本書は「日本」「自然」「文化」「人種」「ジェンダー」「文明」「グローバリゼーション」「市民権」という八つの基本タームを取り上げ、日本人がどのような思考を繰り広げてきたか、主には近代において、時にはそれ以前にも遡りながら、「我々は何故そう考えるのか」を考える本である。
何が「日本」なのかという問題は、各章で繰り返し問われている。「アイヌ」と「琉球」の恣意的な扱い。日本が華夷秩序のミニチュア版を演ずるには、周辺部の社会に「夷」を演じさせなければならず、琉球使節団には「中国風の」兵器を持つことが指示された。アイヌは、日本語を学んだり、日本風の衣装をまとうことが禁じられた。ところが、18世紀末以降、ヨーロッパ列強との接触が増大すると、ロシア人の侵略から北方の国境線を守るため、アイヌの日本化が図られた。
国家の外縁が規定されると、周辺の社会を溶け込ませ、「(日本という)ネーションの公式イメージ」に統合する試みが加速する。しかし差異はなかなか埋まらない。そこで、差異は空間の枠組みから時間の枠組みに移行させられ、「異質性」は「低発展」と解釈されるようになる。うん、辺境地域には過去が保存されているという美しい物語には、私もかなり魅入られた記憶がある(柳田国男とか)。
本書で初めて気づかされたことは、「文化」「文明」「人種」などの用語(概念)が、明治以前の日本になかったことはもちろんだが、本家のヨーロッパにおいても、それほど長い伝統を持つ用語ではないという事実。ドイツ語の「Kultur」が特定の社会の信念や慣習の全体的な複合体に適用されたのは18世紀末から19世紀初頭であり、『原始文化 Primitive Culture』という書名によって英語に輸入されたのは1870年のことだという。近代的な意味で「人種」という言葉を初めて使用したビュフォンは18世紀の人だが、彼はむしろ、人間は本来一つの種しか存在せず、それが地上全体に広まった結果、さまざまな変化が引き起こされたと考えていた。この「単一の人間種」という考え方は、後に普遍的人権という発想につながっていくというから、いわゆる人種主義(レイシズム)とは結びつかない。
アーリア人種の優越性という発想の起源は、フランス貴族が革命後の世界に自らの居場所を確保しようとした試みに遡るという。また、多様な「民族(フォルク)」に分割された世界像の発達は、人類がかつて想像だにしなかった多様な生活様式を持って世界中に存在しているという認識の広まりを背景に持つ。差異の認識は、そこから生まれる困惑を中和する解釈を生み出す、ということだろう。
また、非常に興味深いのは、ヨーロッパ人と日本人の、人種とジェンダーに関する考え方の根本的な違いで、ヨーロッパは常に、二つの明確に異なる性しかないと考えたが、多様な人種の存在は受け入れてきた。一方、日本人はジェンダーを複雑かつ複数的なものとみなしていたが、「常に自らを人種的に純粋であると考え、その点から、人種的に異なると考えられた中国や朝鮮と区別してきた」。これはタイモン・スクリーチ氏の指摘。なるほど。19世紀くらいまでのヨーロッパの小説を読むと「両性具有」が悪魔のように恐れられていたり、性的放恣は容認されても同性愛には厳しい(鹿島茂氏)などの記述が思い出されて、なんとなく腑に落ちた。
「在日」という二つの国家にまたがる存在が忌避や攻撃の対象になるのは、ある種の日本人にとって、自分の確固とした世界観を揺さぶられる恐怖感があるからなのかもしれない。でもヨーロッパだって、複数のジェンダーを受け入れつつあるのだから、日本社会にも変化の希望がないわけではないだろう。
本書の結び近くにいう、これまで、日本の言語、歴史、知的伝統などについての知識は、共有される単一の価値や振舞い方に結びつかなければならないことが「前提にされすぎてきた」。この慎重な物言いに、私は賛意を示したい。確かに、共有される価値はあるだろう。しかし、それを強固にするよりは、むしろゆっくりほどいていく方向に社会が進んで行ってほしいと思う。
序文を読み始めて、本書が1998年に出版された「Re-Inventing Japan: Time, Space, Nation」の翻訳だと分かったときは、ちょっとがっかりした。目まぐるしい社会の動きに翻弄されていると、90年代に書かれた本が、今なお意味を持っているとは思えなくなっているのだ。
しかし、そんなことは全くなかった。集団的自衛権やら特定秘密保護法やらヘイトスピーチやら、2014年になって、急に前景にせり出してきたかに見える問題群は、90年代には、明らかにその萌芽が存在していた。そして、歴史を丁寧に掘り起こせば、どんな問題も長い根っこを持っている。本書は「日本」「自然」「文化」「人種」「ジェンダー」「文明」「グローバリゼーション」「市民権」という八つの基本タームを取り上げ、日本人がどのような思考を繰り広げてきたか、主には近代において、時にはそれ以前にも遡りながら、「我々は何故そう考えるのか」を考える本である。
何が「日本」なのかという問題は、各章で繰り返し問われている。「アイヌ」と「琉球」の恣意的な扱い。日本が華夷秩序のミニチュア版を演ずるには、周辺部の社会に「夷」を演じさせなければならず、琉球使節団には「中国風の」兵器を持つことが指示された。アイヌは、日本語を学んだり、日本風の衣装をまとうことが禁じられた。ところが、18世紀末以降、ヨーロッパ列強との接触が増大すると、ロシア人の侵略から北方の国境線を守るため、アイヌの日本化が図られた。
国家の外縁が規定されると、周辺の社会を溶け込ませ、「(日本という)ネーションの公式イメージ」に統合する試みが加速する。しかし差異はなかなか埋まらない。そこで、差異は空間の枠組みから時間の枠組みに移行させられ、「異質性」は「低発展」と解釈されるようになる。うん、辺境地域には過去が保存されているという美しい物語には、私もかなり魅入られた記憶がある(柳田国男とか)。
本書で初めて気づかされたことは、「文化」「文明」「人種」などの用語(概念)が、明治以前の日本になかったことはもちろんだが、本家のヨーロッパにおいても、それほど長い伝統を持つ用語ではないという事実。ドイツ語の「Kultur」が特定の社会の信念や慣習の全体的な複合体に適用されたのは18世紀末から19世紀初頭であり、『原始文化 Primitive Culture』という書名によって英語に輸入されたのは1870年のことだという。近代的な意味で「人種」という言葉を初めて使用したビュフォンは18世紀の人だが、彼はむしろ、人間は本来一つの種しか存在せず、それが地上全体に広まった結果、さまざまな変化が引き起こされたと考えていた。この「単一の人間種」という考え方は、後に普遍的人権という発想につながっていくというから、いわゆる人種主義(レイシズム)とは結びつかない。
アーリア人種の優越性という発想の起源は、フランス貴族が革命後の世界に自らの居場所を確保しようとした試みに遡るという。また、多様な「民族(フォルク)」に分割された世界像の発達は、人類がかつて想像だにしなかった多様な生活様式を持って世界中に存在しているという認識の広まりを背景に持つ。差異の認識は、そこから生まれる困惑を中和する解釈を生み出す、ということだろう。
また、非常に興味深いのは、ヨーロッパ人と日本人の、人種とジェンダーに関する考え方の根本的な違いで、ヨーロッパは常に、二つの明確に異なる性しかないと考えたが、多様な人種の存在は受け入れてきた。一方、日本人はジェンダーを複雑かつ複数的なものとみなしていたが、「常に自らを人種的に純粋であると考え、その点から、人種的に異なると考えられた中国や朝鮮と区別してきた」。これはタイモン・スクリーチ氏の指摘。なるほど。19世紀くらいまでのヨーロッパの小説を読むと「両性具有」が悪魔のように恐れられていたり、性的放恣は容認されても同性愛には厳しい(鹿島茂氏)などの記述が思い出されて、なんとなく腑に落ちた。
「在日」という二つの国家にまたがる存在が忌避や攻撃の対象になるのは、ある種の日本人にとって、自分の確固とした世界観を揺さぶられる恐怖感があるからなのかもしれない。でもヨーロッパだって、複数のジェンダーを受け入れつつあるのだから、日本社会にも変化の希望がないわけではないだろう。
本書の結び近くにいう、これまで、日本の言語、歴史、知的伝統などについての知識は、共有される単一の価値や振舞い方に結びつかなければならないことが「前提にされすぎてきた」。この慎重な物言いに、私は賛意を示したい。確かに、共有される価値はあるだろう。しかし、それを強固にするよりは、むしろゆっくりほどいていく方向に社会が進んで行ってほしいと思う。