見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

冬の海辺のミュージアム・カフェ

2008-01-31 23:27:46 | 食べたもの(銘菓・名産)
葉山の神奈川県立近代美術館のカフェ・レストラン「オランジュ・ブルー」は、私のお気に入り。
混み合う夏を避けて、あえて冬に訪れたい。

午後の陽射しを浴びて、よく凪いだ海がまぶしく光る。
テーブルには、シフォンケーキ(プレーン)とコーヒー。

少し、まぶたの重たくなる午後。

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和歌と祭祀/昭和天皇(原武史)

2008-01-30 23:48:28 | 読んだもの(書籍)
○原武史『昭和天皇』(岩波新書) 岩波書店 2008.1

 待望の原武史さんによる昭和天皇論! そう思ったのは私だけではあるまい。同氏の『大正天皇』(朝日選書,2000)は、「頭が弱い」「病弱」といわれた大正天皇の人間味にあふれる姿を、巡行中のエピソードや御製の漢詩を使って描き出した、すがすがしい好著だった。

 本書は1986(昭和61)年11月23日から始まる。昭和天皇が執り行った最後の新嘗祭である。翌87年9月から長い闘病生活に入り、89年1月に死去。本書の記述によって、私は初めて、宮中祭祀における天皇の役割の過酷さを知った。時には夕方から未明まで、暖房設備もない暗闇の中に正座して、神に奉仕しなければならない。高齢の天皇に配慮して、座椅子を用いるとか、儀式の一部を省略するなどの対処は取られていたそうだが、「御肉体においても日本人中一番御苦労遊ばされるは、天皇陛下にあらせられる」という掌典職(宮中祭祀の担当官)の感想は、あながち誇張でないと感じられた。憶測するなら、いまの皇太子が登山やジョギングで体力づくりを続けているのも、即位すれば「死ぬまで」続く祭祀王の使命を慮ってのことではなかろうか。

 スポーツ好きで、欧州留学も果たした昭和天皇は、若い頃から宮中祭祀に熱心だったわけではない。彼が祭祀に対する見方を変えていく過程で重要な役割を果たしたものとして、著者は「杉浦重剛、白鳥庫吉の教育」「母である貞明皇太后の影響」「生物学研究によって感得した”自然界の神秘”」を挙げる。いずれも大きな問題を含んでいて、紙数の限られた本書では、十分語られていないような気がするのが惜しい。

 最も興味深いのは、貞明皇太后との”確執”である。本書の先触れともいうべき、保坂正康氏との共著『対論:昭和天皇』(文春新書,2004)でも、いちばん気になった部分だ。戦況悪化が深刻になっても、皇太后は自らを神功皇后に擬して「かちいくさ」を祈り続けた。その呪縛にとらわれた昭和天皇は、戦争終結を主張する近衛・高松宮に、なかなか接近することができなかったのではないかという。女性=非戦平和主義者という短絡思考の持ち主に、熟読してほしい箇所である。

 昭和天皇が戦争終結を決断した究極の目的は、国民の生命や安全ではなく「三種の神器」の護持にあった、というのはよく知られるところだ。近代ヒューマニストの目から見れば、極悪非道の国家元首という批判は免れがたい。しかし、昭和天皇が「三種の神器」とともに守ろうとしたものは何か。最期まで退位を選択せず、肉体的苦行に耐えて平和を祈り続けたのは、単に保身のポーズであったのか。それとも自覚された祭祀王としての責任の遂行であったのか。やっぱり、天皇制には近代合理主義だけでは解明できない部分があるように思った。

 戦後の昭和天皇は、自らの心中を語る言葉を、あまり多く残さなかった。しかし、その和歌はかなり雄弁である。冒頭の新嘗祭からさらに1年余、1988年8月、全国戦没者追悼式への出席(このときの「おことば」も率直・簡潔でよい)のあと、18日に那須で詠んだ歌。死の半年前である。

  やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど

 私は不覚にもこの1首に感動した。これは、まぎれもなく、ほかの誰にも詠めない「天皇御製歌」である。島田雅彦編著『おことば:戦後皇室語録』の感想にも書いたように、私は基本的に皇室など「どうでもいい」と思っている。しかし、丸谷才一ふうに言えば、こうした「帝王ぶり」の和歌の伝統が断たれるのは、日本文学史のために惜しいような気もする。
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美しき世紀末/誌上のユートピア(神奈川近代美術館・葉山)

2008-01-29 23:21:35 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立近代美術館・葉山館『誌上のユートピア:近代日本の絵画と美術雑誌 1889-1915』

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/

 プレスリリースによれば、19世紀末から20世紀初頭にかけて(1889-1915)印刷技術の発展を背景に次々と生まれた美術雑誌を紹介し、あわせて同時代の日本美術への影響にも着目する展覧会だという。

 冒頭を飾るのは、世紀末ヨーロッパを彩った美術雑誌の数々。まずは、ドイツのイラスト文芸誌「ユーゲント」(Jugend,1896年創刊)。ずらり並んだ各号の表紙は、黒+2、3色の簡素な色づかいにもかかわらず、変幻自在な芸術性を見せる。1例を挙げれば、画像はこちら。オーストリアの「ヴェル・サクルム」(Ver Sacrum,1898年創刊)は、クリムトを会長とするウィーン分離派の機関誌である。表紙は地色+印刷色の2色構成。正方形に近い版型は、なんとなく和本を思わせる。職人的な生真面目さと大胆な芸術性のブレンド具合は、琳派の造本(光悦謡本とか)を思い出さずにいられない。それから、フランスの風刺雑誌「ココリコ」(Cocorico,1898年創刊)。イギリスの「イエロー・ブック」(The Yellow Book,1894年創刊)は、ビアズリー描く「サロメ」を掲載したことで有名。

 いずれも、「マスプロダクション=読み捨て」を宿命とする「雑誌」とは思えない、宝石のような芸術品である。審美的・象徴的・官能的などの「世紀末芸術」の特色を共有するとともに、各国の個性が感じられて面白い。

 「ユーゲント」の説明プレートにあった「石版」という文字を見て、私は思わずうなずいた。昨年、印刷博物館で行われた『石版印刷の表現力~モード・オブ・ザ・ウォー』という展覧会、さらにその半年ほど前の『ポスターの時代、戦争の表象』というシンポジウムで得た知識によれば、本展が扱う「19世紀末から20世紀初頭」は、まさに石版(石板)印刷が、技術の絶頂に達した時期である。このあと、印刷の主流はオフセットに代わられていく。

 ところで、これらの雑誌は、どのくらい日本国内に所蔵されているのだろう。試みにNACSIS Webcatを引いてみた。英語の「イエロー・ブック」は、そこそこの所蔵館があるが、ドイツ語の「ユーゲント」、フランス語の「ココリコ」はぐっと減る。「ヴェル・サクルム」は「Sacrum」で検索すると1館だけ出てくるのだが…この書誌、誰か訂正してくれないかなあ(涙)。

 それにしても、本の展覧会は悩ましい。あらかじめ主催者が用意した、特定の1ヶ所しか鑑賞することができないからだ。展示ケースの中にじっと横たわった美術雑誌は、ガラスの棺の中の白雪姫を思わせる。ゆすぶって目を覚まさせてこそ、つまり、手の中でページを繰って眺めてこそ、あるべき姿なのではないかと思う。

 後半は、日本の美術作品を展示。杉浦非水、いいなあ~。爆発的にカラフルでモダン。技術的には、石版印刷からオフセットの時代に入っているのだと思う、たぶん。一番好きな三越呉服店のポスターへのリンクを貼っておく。会場には非水の肖像画(油彩)もあって、作品とは全く異なり、職人っぽい、もっさりした風采が微笑ましかった。

 京都・細見美術館の逸品、神坂雪佳の『金魚玉』を見たときは、思わぬところで昔の友人に会ったような懐かしさを感じた。木版画集『百々世草』から、木版画5件、原画22件の一挙展示も嬉しかった。お気に入りは「花さし草」(藤の花で飾られた牛車)と「春の田面」(和菓子のような色彩)である。
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戦争を超えて/日本の版画 1941-1950(千葉市美術館)

2008-01-28 12:29:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
○千葉市美術館 『日本の版画 1941-1950:「日本」の版画とは何か』

http://www.ccma-net.jp/

 「日本の版画」シリーズの第5弾に当たるそうだ。知らなかった。と言っても、第4弾が2004年秋の『1931-1940:棟方志功登場』だそうだから、かなりのんびりした流れのシリーズ企画である。

 本展が扱う年代は、太平洋戦争開戦の1941年から始まるが、第1室には、あまり戦時色の濃くない作品が並ぶ。知らない名前の作家ばかりだが、惹かれる作品が多かった。私は木版が好きだ。複雑な現実を、単純な色と形に分解して捉えようとする、ある種の”いさぎよさ”が性に合うのだと思う。たとえば、伊東健乃典の『光芒』。ビル(工場?)の屋上から見た街の風景を描いたもの。間近に迫る三角形の尖塔が面白い。高野山・斑鳩など古い日本の風景を、民話ふうに描いた平塚健一の作品も好きだ。畦地梅太郎の『満州』シリーズを見ていると、赤い壁、青い空、黄色い大地という具合に、コントラストの強い大陸の風景は、版画によく合うなあと思う。

 第2章「奉公する版画」では、大政翼賛会のもとに結成された日本版画奉公会にかかわる作品を展示。しかし、版画家たちの自意識にもかかわらず、既にメディアの主流は、映画や新聞、雑誌などの大量生産型メディアに代わられており、結果的に大した「奉仕」はできなかった、というのが興味深い。美人画で知られる伊東深水が、ジャワやボルネオの風景を作品にしているのにはびっくりした。海軍報道班員として南方諸島へ派遣されたそうだ。これがまた美しい。

 圧巻は、第3章「戦争中版画本」。息を呑むような美しい本の数々が並ぶ。武井武雄、川上澄生らが作った私家版の版画本の数々だ。知識としては知っていたが、こんなにまとめて見たのは初めてである。川上澄生『いんへるの(るしへる版)』は、銀地に赤で摺り出したもの。紅蓮というより薔薇色の炎に向かって、女房装束の女性や、天草四郎のような小姓姿の若者、伴天連などが花びらのように落ちていく。彼らに影響を与えた志茂太郎(中野の酒店主、趣味で活字を組み、のちアオイ書房を設立)という人物の名前も、初めて知った。

 後半は、戦後の版画の展開を概観するが、技法も主題も多様化して、ちょっと追い切れない感じがした。1940年代は、日本の版画のひとつのピークと言えるのかもしれない。

 併設展『芳年・芳幾の錦絵新聞-東京日々新聞・郵便報知新聞全作品-』レポートはこちら
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重宝公開/遊行寺(神奈川・藤沢)

2008-01-27 23:24:45 | 行ったもの(美術館・見仏)
○遊行寺博物館 平成20年度特別展『遊行寺の什宝-仏教美術の名品を中心に-』

http://homepage2.nifty.com/yugyoji-museum/index.htm

 神奈川県藤沢の遊行寺(清浄光寺)に行ってきた。時宗の総本山で、『一遍上人絵伝』などの寺宝、また「一つ火」と呼ばれる念仏会でも知られる。5年ほど前、逗子に住んでいたときも訪ねたことがある。特にイベントのない、普通の週末だったので、参拝客の姿も少なく、宝物館も社務所に頼んで開けてもらった。夏の盛りだったが、空調が入っていなくて閉口した記憶がある。客はともかく、展示品は大丈夫なのだろうか、と思った。もちろん、貴重なお宝は保存庫に仕舞ってあるのだろう。あまりぱっとするものは出ていなかった。

 それが、いつの間にか、立派なホームページが立ち上がり(2005/12/24正式openだそうだ。何故にクリスマスイブw)特別展が告知されている。画像は、遊行寺の重宝中の重宝『後醍醐天皇御像』だ。えっ、あのショボい宝物館にこれが出るのか? 期間中ずっと? というわけで、半信半疑で、現在の住居(埼玉県)から2時間かけて見に行った。

 『後醍醐天皇御像』は、小さな展示室のいちばん奥に掛かっていた。この絵は、網野善彦さんの『異形の王権』(平凡社,1986)以来のなじみだが、実物を見た経験は意外と少ない。わりと最近、東博か京博の特別展で見たのが初見ではないかと思う(何だっけな~思い出せない)。それにしても、よく肥えて、白くふくらかな面相である。福々しいのに猛々しい。相撲取りみたいだ。いや、異様に黒々とした髯が、ヒール(悪役)のプロレスラーにも見える。頬にほのかな紅をさしているのは、化粧なのか、画家の工夫なのだろうか。何か語りたそうに開きかけた口の中に黒い線が見えるのも、補助線なのか、鉄漿(おはぐろ)なのか、はっきりしない。頭上の冠は、どうなっているんだか。着ているものは、たぶん、天皇専用の礼服、黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の上に袈裟を着けているのだろう。見れば見るほど”異形”で面白い。

 このほかでは、室町時代の『羅漢図』がよかった。僧侶の足元になぜか山羊が2匹。加藤信清筆『阿弥陀三尊来迎図』も、江戸物なのによかった。脇侍の二尊が、短めの衣の裾を翻し、くるぶしまで見せているのが色っぽい。広い額、細い眉が、浮世絵美人のような顔立ちである。調べてみたら、作者は名のある仏画家だそうだ。

 時宗の上人たちの筆と伝える名号(南無阿弥陀仏)は、あまり苛烈さを感じさせないところが私好みである。伝一遍上人筆の、踊るような自由な筆画もいい。さらに、奈良・平安時代の写経がずらりと並んでいることにびっくりした。『色紙金字阿弥陀経』は紺地金泥の扉絵が美しい。料紙の上下に蝶と鳥が摺られていることから「蝶鳥経」とも呼ばれる優品である。まだまだ私の知らないお宝があるのかも。今後の展示にも期待。

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江戸のヴンダーカマー/木村蒹葭堂のサロン(中村真一郎)

2008-01-26 23:58:34 | 読んだもの(書籍)
○中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』 新潮社 2000.7

 久しぶりに入った神田の三省堂でこの本を見つけて、すぐに買ってしまった。5,600円、700ページ超の本を衝動買いというのも豪気な話だが、正月なので気が大きくなっていたのかもしれない。

 木村蒹葭堂という名前は、少なくとも学生時代には全く知識の外にあった。それが、近年、江戸の学芸に興味を持ち始めるとともに、いろんなところで出くわすようになった。たとえば、絵画史の中で。また善本漢籍の所蔵者として。また蘭学ネットワークにおいて。登場の局面があまりに広すぎて、なかなか1つの像にまとまらない。しかし、いつも私の脳裡を去らなかったのは、かつて見た谷文晁筆の肖像画である(上記に画像あり)。大きく横に開いた鼻、半開きの厚い唇は、快活な知識欲に充ち、人生を肯定するモラリストの顔である。

 木村蒹葭堂(1736-1802、本文中では世肅)は、江戸中期、大阪の人。書籍・絵画・博物標本を精力的に収集し、一大コレクターとして、オランダ人や朝鮮通信使にも知られた。生活はほどほどに質素で、妻妾2人は学芸員として仲良く彼を助けた(このエピソード、ちょっと好きだ)。本書は、蒹葭堂との交流が確認される学者・文化人たちを、ひとりずつ丹念に紹介したものである。これまで、絵画史、文学史、蘭学史など、ポツポツと聞き知っていた人名や書名が、網を広げるようにつながっていくことに、何度も興奮を覚えた。

 たとえば、伊藤若冲を支援した大典禅師の処女詩集『昨非集』は蒹葭堂が出版したもの。同じく若冲が慕った黄檗僧の売茶翁(高遊外)も、蒹葭堂の漢詩および茶道の先達として登場。残念ながら、若冲と蒹葭堂の交友は確認されないそうだが、応挙、岸駒、呉春らの画人は『蒹葭堂日記』に登場する。浦上玉堂と谷文晁は、まさに蒹葭堂サロンで出会っているという。

 著者は、気になる人物が登場すると『蒹葭堂日記』を離れ、どこまでもその人物を追っていく。司馬江漢については、長崎旅行を記した『西遊日記』を素材に「伝統を弊履のようになげうってかえりみない」江漢の天才と限界を鮮やかに描き出す。同じ手法で、「純粋芸術家」の生き方を選んだ田能村竹田や、うっとおしい偏屈者だが憎みきれない上田秋成、官僚臭い正論が鼻につく佐藤一斎、老年に至ってなお知識欲の火花を散らした大田南畝など、多彩な人々が活写されている。ただ、本書を読み終わって、これら客人の人物像は鮮烈なのに、主人の蒹葭堂のイメージはぼんやりしたままである。それでいいのかな。本質的に、そういう人なのかしら。

 ところで、江戸の学問を考えるとき、われわれは国学・漢学と蘭学を対立的に捉えがちだが、著者は大槻玄沢のオランダ学の根底に「古い日本への郷愁」「(祖国日本を強くしようという)偏狭なナショナリズム」を嗅ぎ取っている。それは、江戸・大坂など大都市人の国際感覚とはかなり異質なものであった。同じ対立は、国学において、京坂の国際派・上田秋成と地方の民族派・本居宣長にも見て取れるという。この視点、かなり面白いと思った。

 気になったのは、森鴎外への言及。鴎外は、日本美術史を書き下ろすべく詳細なノートを準備したが、陽の目を見ることなく終わったという(95頁、注解あり)。そうなのか? 私は、このへん全く不案内なのだ。確かに鴎外文庫(鴎外旧蔵書)には美術関係の自筆稿が、意外に多かった記憶がある。さらに、鴎外文庫で習い覚えた漢詩人・詩集の名前を、本書でたくさん見つけた。われわれが、まるで異国の伝統のように遠ざけてしまった江戸の学芸が、明治の人・鴎外にとっていかに親しいものだったかを思って、感慨深かった。

※補記:若冲の来訪記事をめぐって(2010/7/14)
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妄想ネタバレ?/ドラマ・鹿男あをによし

2008-01-25 21:34:13 | 見たもの(Webサイト・TV)
○フジテレビ ドラマ『鹿男あをによし』第2回

http://wwwz.fujitv.co.jp/awoniyoshi/index.html

 原作本(万城目学著、幻冬舎)を書店で見たときは、奈良を舞台にするなんて、いまどき流行りそうもない小説だな、と思った。玉木宏主演でドラマ化されると聞いても、特に興味はなかった。だから第1回も見なかったのだが、エンディングが無駄にカッコいいとか、仏像好きには奈良の風景が嬉しいとか、しゃべる鹿がそれらしいとか、ネットでの評判を読んで、昨日は騙されたつもりでチャンネルを合わせた。

 面白い…。玉木宏演じる女子高教師、小川先生が、勾玉のペンダントを上司に見せて「母が鹿島神宮で買ったものです」(だったかな?)と語るシーンでは、思わず声に出して(ドラマのせりふと一緒に)「鹿島神宮?」と問い返してしまった。実は、奈良・春日大社の鹿は、神護景雲元年(767)、常陸国(茨城県)の鹿島神宮から、はるばる連れてこられたものという伝承がある。現在、鹿島神宮の境内には、再び奈良から移された鹿たちが細々と飼育されている。私は、鹿舎の説明板で、この伝承を知った。鉄道もトラックもない時代に、遊牧民みたいに鹿の一群を追い立てながら平城京まで上ったのだろうか。そんなマニアックな伏線に、つい反応してしまったのである。

 と同時に、オープニング(?)で、ゆらめく光明の中に、ぼんやり見え隠れしていたのが鯰絵だったことを思い出した。私は、仏画か仏像でも出るかと期待して、目を凝らしていたのだが、なんだよ~奈良の話なのに江戸物ばっかりじゃないか~とガッカリしていたのだ。鹿島神宮→要石→鯰絵とつながると合点がいき、ドラマの中で多発地震が描かれている理由も解けた。最後に大鯰らしきものがちらりと映ったときは苦笑した。あれは蛇足だよ。

 今後の展開では、奈良の守護神である鹿に対して、京都のキツネ、大阪のネズミがキーワードになるらしい。京都は伏見稲荷があるからとして、大阪はなぜネズミ? ドラマを見ている間は分からなかったが、あとで、孝徳天皇紀に「鼠向フ難波ニ遷都ノ之兆也云々」という記事があったことを思い出した。典拠はこれかな?違うかな? ちなみに伏見稲荷のキツネは、東寺を拠点とした荼吉尼天(だきにてん)信仰とも係わりがあるはずで、このへんも触れてくれたら嬉しい、など勝手な妄想がふくらむ。

 玉木宏は、今のところ、ひたすら困惑する姿がうまい。特殊効果を加味した鹿の演技が最高! 鹿の声の人(山寺宏一)もいい。公式サイトの第1回あらすじを見ると、夏目漱石「坊ちゃん」へのリスペクトを思わせるシーンもあった様子。こういうところも好きだ。大好きな奈良の風景とミステリアスな展開に釣られて、来週も見てしまいそうだ。
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複製と信仰/版と拓の美(日本民藝館)

2008-01-24 23:05:50 | 行ったもの(美術館・見仏)
○日本民藝館 特別展『版と拓の美-摺る・写す-』

http://www.mingeikan.or.jp/home.html

 日本民藝館は、建物の中に入るときが楽しい。目の詰まった格子戸をがらがらと引き開けると、銭湯の靴脱ぎ場みたいなエントランスホールがあって、その時々の特別展にあわせた資料が、気前よく飾られている。

 はじめに「大空合掌」という大きな文字が目に付いた。山東省の泰山石経峪(北斉)の拓本だ。風雪にさらされて角の取れた、まろやかな字である。一方、切り紙細工のように、文字の止めや払いが鋭角的な美しさを見せるものも多い。代表作は龍門石窟の名刻・龍門二十品(北魏)。

 どちらにも入らないのが『開通褒斜道刻(かいつうほうやどうこくせき)』(漢代、明拓)。表面の磨耗が激しくて、文字がよく読めないが、シュールレアリストのエッチング版画みたいな美しさを感じた。帰ってからネットで調べたら、書道史では非常に重要な作品だということが分かった。同名の本が出ているくらいである。

 2階に上がると「進悳」「懲忿」という大きな拓が目に入った。黒々した墨色、謹直な字画に、書き手の人柄がしのばれて慕わしい。「悳(徳)を進め、忿(いか)りを懲らしめる」の意味か。『梁武事仏碑』(六朝時代、宋拓)とあるので、深く仏法に帰依した梁武帝にかかわるものと分かったが、原碑がどこにあるのか、調べてもよく分からない。2文字で165cmを超えているので、たぶん相当大きな碑だと思う。見てみたい。

 陶器や工芸を主とする一般展示室にも、「摺る」「写す」に関係の深い品が混じっていた。たとえば、題に「大随求大明王大陀羅尼」、跋に「道光二年金剛山楡帖寺開板」とある、朝鮮版の経文(2つに分割して軸装)。朱墨で、題跋は漢字、本文は梵字、そのあとにハングルが記されている。李朝の地図も珍しいと思った(京畿道、江原道)。全て漢字表記。下段に、住民の数や旅程・風俗などの地誌情報が付記されている。同じ大きさで、中国を中心とする世界図もあったが、西方は月支、烏孫、大宛(六宛に見える)までしかないので、かなり情報に乏しい。

 日本・室町時代の「色紙和讃」は、鮮やかな黄色やオレンジ色の紙に、大きな文字で(漢字カタカナ混じり、ルビ付き)和讃を刷った(あるいは書いた)もの。余白をたっぷり取った四行詩形式。手に持って唄う(となえる)ための歌詞カード本だろう。「読む」ための本ではないので、図書館では、お目にかかった記憶がない(上記に画像あり)。

 特別展の中心となる大展示室は、日本の版画を特集。仏画、経文、護符など、刷る=複製をつくる、という行為は、古来、何らかの点で信仰と結びついていたのだと感じさせた。現代のデジタル複製はどうなんだろう? 造形的な美しさを強く感じたのは、各種の牛王宝印(ごおうほういん)。モダンな感じのする北野宮寺のもの(画像あり)もいいし、百足の姿が禍々しい山科毘沙門堂のも好きだ。いわゆる書籍を超えて広がる、印刷文化の多様な姿を垣間見た展覧会だった。
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楽茶碗萌え/茶道具取合せ展(五島美術館)

2008-01-21 22:35:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
○五島美術館 『館蔵 茶道具取合せ展』

http://www.gotoh-museum.or.jp/top.html

 茶道具取り合わせか、興味ないなーと思っていたのだが、某所でこの展覧会のポスターを見た。黒一色の画面に4つの黒茶碗が、闇に半身を隠すようにほのかに浮かんでいる(上記サイトに画像あり)。小さく添えられたキャプションで、いずれも黒楽茶碗であると分かり、たちまち体温が上昇するのを感じた。私は、伊万里とか九谷とか京焼には理性で好き・嫌いが判断できるのだが、楽茶碗を前にすると理性が飛ぶ。完璧な”楽茶碗萌え”体質なのだ。楽茶碗については、これまでも何度か取り上げてきたが、楽美術館(楽家)のホームページに詳しい。

 会場では、入ってすぐの赤楽茶碗『銘・夕暮』(初代・長次郎作)に目が留まった。美しい。楽茶碗の基本は赤と黒で、無限の奥行きを感じさせる黒楽茶碗に比べると、赤楽茶碗はあまりいいと思わなかったのだが、これには吃驚した。見込み(飲み口)の周囲は落ち着いた茶色なのに、その下に細い帯状の白色部分があり、さらにその下に、内側から燃え立つような薔薇色が広がる。まさに夕暮れ空そのままである。解説によれば、赤楽茶碗は、茶渋や修復によって、色が変わることがあるそうだ。だとすれば、この茶碗は、長年使い込まれることによって、この姿と銘を獲得したということか。MSNエンカルタに写真があるけど、全然、実物の風韻を伝えていなくて悔しい。淡い光で見ると、色彩のグラディエーションがもっと明らかなのに。

 以下、この展覧会で見られる楽茶碗の総まくり。『銘・十王』(光悦作)は、飴のようにつるつるした赤楽茶碗。見込みの内側にすぼまった感じが、亡者のはまった地獄の釜を連想させる。黄楽茶碗というのも初めて見た! カレーパウダーを吹き付けたような黄釉の下に灰色の土が透けるところが『銘・雪の下紅葉』(三代・道入=のんこう作)か。

 黒楽茶碗では、対照的な2作品『銘・悪女』(二代・常慶作)と『銘・三番叟』(三代・道入作)が並んでいた。前者はざらざらした質感、武骨に四角ばった形。後者はとろりと濡れたような釉薬の小ぶりな茶碗で、いかにも掌になじみそうだ。後者のほうが悪女っぽいのに?と思うのは、色事にうとい素人の僻言だろうか。乾山の『銘・露堂々』は、見込みの縁の薄く鋭いところが光悦の作に似ていると思う。光悦の『銘・七里』は、歪み具合も、釉薬のはげ具合も、天才的というより野獣的に絶妙。

 それにしても、五島美術館がこんなに楽茶碗の名品を持っているとは知らなかった。五島慶太の好みなんだろうか? 茶碗だけではなくて、のんこう=道入作の水指や、長次郎作の灰器(ほうろく)もあった。赤茶色の灰器は、外側が煤で(?)黒ずんでいて、使い込んだ年月の長さを感じさせた。やっぱり、実地に使われる道具は幸せだと思う。

 このほか、鼠志野、古伊賀、織部などの名品もあり。私はお茶をやらないので、炭取とか釜敷とか炉縁とか、実にいろんな道具が必要なんだなあ、と興味深く思った。茶室の立体紙模型『茶室起絵図』(全90点!)も面白かったが、ネットで探してみると、東京国立博物館、慶応大、岩槻文庫などに類例があり、茶人の間では普遍的なアイテムだったようだ。
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大胆不敵・近衛家熙/近衞家1000年の名宝(東京国立博物館)

2008-01-20 23:57:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 陽明文庫創立70周年記念特別展『宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝』

http://www.tnm.go.jp/

 陽明文庫特別展? 文書(もんじょ)ばかりで地味なんじゃないかな、と思ったら、とんでもなかった。名宝・珍宝目白押しで楽しめたが、最も印象的だった「家熙の世界」のパートを中心に紹介しよう。近衛家熙(いえひろ)(1667~1736)は、江戸中期の近衛家当主。予楽院と号す。私はこの展覧会で初めて知った人物だが、書画・茶道・華道・香道など諸芸を極め、博学多識のマルチ文化人だった。とりわけ、能書家として名高い。

 『予楽院臨書手鑑』は、家熙による名筆の臨書を貼り交ぜた折本である。小野道風、行成、公任、空海など名家が並ぶ。へえーすぐに参照できるようにつくった複製便利帖かなあ、と思ったくらいで、あまり感心しなかった。ところが、折本の続きに空海の『風信帖』の写しがあり、さらにその先に、見覚えのある流麗な書が3件並ぶ。私の大好きな藤原佐理の書だ!それぞれ 『離洛帖』『国申文帖』『恩命帖』の臨書だという。『国申文帖』については、壁面に本物の佐理の書(春敬記念書道文庫蔵)が掛けてあった。

 本物と比べてみると、家熙の臨書のすごさが初めて伝わってくる。筆の運びはもちろん、墨の付け方、にじみ方、誤字を上書きしたところまで、全て忠実に真似ているのだ。完璧に形式をなぞることで、対象の核心に到達しようとしている。すさまじい研鑽である。決して、手なぐさみに作られた模写ではないことがよく分かった。このとき、前にいた高校生くらいの男の子が「臨書って、高いところにある門の額だったりすると、ハシゴの上で書いたんだぜ」と、連れの女の子に解説していた(何でそんなこと知ってるんだ、おまえは)。

 ちなみに『国申文帖』は、正月の大饗で関白頼忠より先に退席したこと等を謝罪した文面だそうだ。いかにも佐理らしくて愉快。もしかして『離洛帖』(国宝・畠山記念館蔵)の本物も出るのか?と思いついて、慌てて出品リストを確認したら、後期(1/29~)は『離洛帖』に入れ替わるようだ。さらに出品リストをよーく見たら、「伝世の品」セクションの後期に『恩命帖』(三の丸尚蔵館蔵)もあるではないか。うわー佐理ファンとしては、後期にもう一度来るべきか、本気で悩むところだ。

 「家熙の世界」後半は、彼の表具・表装(書画を掛軸や画帖に仕立てること)の趣味に注目する。家熙の表具は、一目で分かる「唐物(舶来品)好み」なのだ。たとえば為家の書には、青地に麒麟が躍る唐物裂が使われている。坊門局の書を囲むのは、唐子のような可愛い僧侶(尼?)たち。書の個性(和様/古様)と表具の個性(唐様/今様?)のぶつかり合いによって、新しい「美」を創造することを楽しんでいるようだ。今の美術館では、こんな大胆な実験、絶対許されないだろうなあ。

 清朝の官服裂(濃紺に金糸銀糸の龍)は、特に家熙好みだったらしい。表具用に残された布地の中には「IHS」(イエズズ会)の文字入りの花唐草文もあったし、「伝世の品」として、ペルシャ産のモール裂やフランス産の更紗(18世紀~ヨーロッパでインド更紗の模倣生産が始まる)もあった。なんと豊かな国際性。展覧会のタイトル「宮廷のみやび」って、千年の間、いじいじと内向きに伝統を墨守してきたイメージを喚起しがちだけど、実態は全く違うのである。先日読んだばかりの『東インド会社とアジアの海』が、たびたび頭をかすめた。

 本展の構成では、最後の「伝世の品」セクションに、名品中の名品を集めてくれたことに感謝したい。だいたい、みんな最初は熱心にケースにへばりついているのだが、終盤は疲れて、足を早める観客が多くなる。おかげで行成筆『粘葉本和漢朗詠集』も、伝空海筆『益田池銘断簡』も、私はゆったり眺めることができた。

 私事ながら、国文学専攻だった学生時代を思い出して懐かしかったのは、伝為家筆『後拾遺和歌抄上』。丹念な勘物(頭注・脚注)のお世話になりました。また、『御堂関白記』寛弘元年2月、春日祭の勅使に立った頼通を案ずる気持ち(と和歌)が裏紙にめんめんと書かれているところは、まさに演習で当たって、翻刻を参照した箇所である。20年を経て原本と対面して、感無量。
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