■鎌倉歴史文化交流館 企画展・文永の役750年『異国襲来-東アジアと鎌倉の中世-』(2023年12月16日~2024年3月9日)
久しぶりに鎌倉に行ってきた。お目当ては、この展覧会。1206年に建国されたモンゴル帝国は、文永11年(1274)と弘安4年(1281)に日本へ侵攻する。本展では、絵巻研究の進展や元寇沈没船の発見により明らかになりつつある、モンゴル襲来の実像に迫るとともに、当該期を経て花開いた鎌倉の文化的側面を紹介する。鎌倉市教育委員会と鎌倉の諸寺が所蔵する資料と、長崎県松浦市教育委員会の元寇沈没船資料の組合せで構成されているが、なぜか後者は1月19日から展示だったので、揃ったところを見計らって参観してきた。たいへん満足である。
元寇沈没船が見つかったのは、長崎県の伊万里湾に浮かぶ鷹島の南岸地域で、2000~2002年度の発掘調査によって、剣・矛・鉄製冑などの武器・武具類、陶器、漆製品、木製品、青銅製品など様々な遺物が出土した。さらに2011年度の琉球大学による調査では、元軍船の構造がわかる遺物が発見されているという。今回は、鉄製冑、漆塗弓、高麗匙、硯など13件の出土遺物および複製品が来ている。パスパ文字の管軍総把印にはテンションが上がったのだが、これは複製だった。
あとは、やっぱり『蒙古襲来絵詞』にも描かれた「てつはう(鉄砲)」の弾。実はこれ、陶製で、中に火薬や陶片・鉄片を詰めて蓋をしたと考えられている。砲筒が鉄製だから鉄砲なのか。長年海底にあった砲弾には、いくつも貝類が付着していた。
背面から見たところ。つるつるして、なるほど陶器製だと納得する。
これは回回砲と呼ばれる投石機に使われた石弾。投石機は元軍が南宋を攻撃したときも絶大な威力を発揮した。うん、中国ドラマの城攻めシーンではおなじみである。
※参考:鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)(長崎県. 長崎県の文化財)
また、円覚寺の建立が、蒙古襲来による殉死者を敵味方の区別なく平等に弔うため、北条時宗に発願されたことを再認識した。開山の無学祖元は、温州の能仁寺で元軍に包囲されたこともあるという。温厚な肖像のイメージしかなかったが、厳しい時代を渡り歩いた人なのだな。
■鎌倉国宝館 特別展『国宝 鶴岡八幡宮古神宝』(2024年1月4日~2月12日)
時間があったので、鎌倉国宝館にも寄った。鶴岡八幡宮の古神宝をはじめ、ゆかりの宝物を一堂に展示する特別展。定期的に開催されているテーマなので、たぶん見たことのあるものが多いだろうな、と思っていた。確かに、着物を着せた弁才天坐像や螺鈿の古神宝には見覚えがあったが、書画にはめずらしいものも出ていた。浄光明寺所蔵の『僧形八幡神像・弘法大師像』2幅(南北朝時代)は、空海が渡唐の折、船中に八幡神が現れ、互いの姿を写したとの伝説から「互の御影」と呼ばれている。どちらも穏やかな表情。鎌倉国宝館所蔵『若宮八幡神像』(室町時代)は、髭をたくわえた青年相だが、八の字眉の困り顔。華麗な装束(桐竹鳳凰文の麹塵袍)に埋もれ、胡坐を崩したような足元もたよりない。
鶴岡八幡宮所蔵『神前騎馬図』(室町時代)も初めて見たように思う。拝殿のような建物の中に三神(八幡三神?)が並んで鎮座し、その前を騎馬が駆け抜けていく。画面の下の方には祈祷する僧侶や戦う武士の姿が描かれる。なんだかよく分からないが、説話に基づくものらしかった。
鎌倉歴史文化交流館の『異国襲来』との関連で、『鶴岡社務記録』(巻子本、個人の日記的な資料)の弘安4年(1281)の箇所が開いており、閏7月3日から異国降伏の祈禱をおこなったこと(異国御祈)、8月1日、大風によって異国の軍船が「悉く漂没」したと伝わったことが記されていた。こうした祈祷にかかわった真言宗の僧侶・親玄に関する資料も出ていた。晩年は永福寺の別当をつとめた人物なのだな。
江戸・寛永年間に曼殊院の良恕法親王が揮毫した『八幡宮寺扁額銘』も興味深かった。「八幡宮寺」の扁額銘なのである。現在、楼門には「八幡宮」の三文字の扁額が掛けられているが、その前の扁額の写真を見ると「寺」を削り取った跡が明らかだ。明治の神仏分離の際の改変である。日頃、我々の目の前にあるのは、こうやって巧妙に修正の施された歴史なんだなあ、としみじみ思った。