○五島美術館 大東急記念文庫創立60周年記念特別展『伝えゆく典籍の至宝』(2009年10月24日~11月29日)
五島美術館で書籍の展覧会と聞いて、めずらしい、と思った。同美術館の構内にある大東急記念文庫が『大東急記念文庫善本叢刊』という、大部なシリーズを出しているのは知っていたので、わくわくしながら出かけた。聞きしにまさって、すごい…。「天平勝宝」の年号の記載された写経とか古文書とか(正倉院展かと思った)。唐代の『玉篇』断簡とか。民間のコレクターが集めたものとは、ちょっと信じがたい。むかしの財界人は、財力も見識もすごかったんだなあ。
特に古写経は美品が多かった。『紫紙金字花厳経』は、やわらかい赤紫色の料紙が独特。よくある紺紙金字経とは、ずいぶん印象が違う。奈良時代にしか違例がないそうだ。『白描絵料紙理趣経』は絵巻物の下絵(白描絵)を用いたもので、一般に「目無経」と呼ばれるが、よ~く見ると、目鼻を描いてある人物も混じっている。鎌倉時代・文永10年(1273)の『金剛般若波羅蜜経』の見返しには、色鮮やかな『稚児文殊出現図』が描かれている。背景の春日山の描写が『春日権現霊験記絵』の一場面にちょっと似てるかも。仏師康円作の文殊菩薩騎獅像(現・東京国立博物館蔵)の胎内に納められていたというのは、この像のことですね。
絵画では、平安時代の『高僧像』が、ずいぶん薄い紙に描かれているなあと思ったら、お手本を上から透写するための薄紙で、斐楮交漉紙(ひちょまぜすきがみ)に油を引いて用いるのだそうだ。絵画資料は、後期のラインナップのほうが、おすすめだと思う。
それから、ほとんど古写本の伝わっていない『今昔物語』の断簡に驚く。京大の鈴鹿本に次ぐ古本だそうだ。『延慶本平家物語』は、書写年代の明らかな最古本。『公忠集』は、お~表題が定家の筆ではないか。冷泉家旧蔵本だ。明恵上人の自筆稿もある。
後半は刊本・活字本が中心で、「伏見版」「駿河版」「直江版」それに「嵯峨本」など「現物で学ぶ日本出版史」の趣き。柳亭種彦の『国字水滸伝』の自筆原稿(挿絵の指定入り)と、注文を受けた国芳の挿絵入りの完成稿を比較した展示が面白かった。
さて、東急電鉄のホームページによれば、大東急記念文庫には「久原文庫」「井上通泰文庫」という目玉がある様子。初耳なので、これが何ものか、調べてみた。井上通泰(いのうえみちやす、1867-1941)は眼科医にして明治期の歌人・国文学者。森鴎外とともに新声社を結成。柳田國男、松岡映丘の兄でもある。
久原文庫は、実業家の久原房之助(くはらふさのすけ、1869-1965)が、和田維四郎の勧めによって集めたもの。和田維四郎(わだ つなしろう、1856-1920)は、鉱物学者にして書誌学者(ええ~!?)だそうだ。和田は三菱財閥の岩崎久弥にも蒐書を勧め、自分で集めた本を久原・岩崎に配分した。岩崎分は東洋文庫に「岩崎文庫」として存し、久原分は「久原文庫」として京都帝国大学図書館に寄託されたのち、親戚の家を経て「ゆえあって」大東急記念文庫に譲渡されたという(参考:長谷川強「大東急文庫の今日まで」『典籍逍遥:東急文庫の名品』、反町茂雄『日本の古典籍:その面白さその尊さ』347頁)。
会場冒頭には、文庫設立当時、書誌目録の作成のため文庫に集まった人々の古い白黒写真が掲げられており、川瀬一馬、長澤規矩也など、斯界のビッグネームの初々しい姿を見ることができる。
なお、本展の展示図録は作られてないが、ミュージアムショップでは、2007年3月刊行の『典籍逍遥:東急文庫の名品』を売っている。ミュージアムショップのお姉さんによれば「今回展示品の7割は載っています」とのこと。図版がきれいで、蔵書印の解説も役に立つお値打ち品。ただ、在庫品を引っ張り出してきたのか、買って帰ったら、明らかにナフタリン臭いのが可笑しかった。私は、この匂い、好きなんだけど…。
前後期で入れ替わるものが多いので、できれば後期(11/10~)に再訪したい展覧会である。
○東京大学駒場博物館 特別展『観世家のアーカイブ―世阿弥直筆本と能楽テクストの世界―』(2009年10月10日~11月29日)
この日は、冷泉家から観世家へハシゴ。東大駒場キャンパスの博物館では、観阿弥、世阿弥を家祖とする観世家に伝わる能楽関係資料の展覧会が開かれている。
注目は、やはり世阿弥の直筆テキストだろう。冷泉家の俊成(1114~1204)、定家(1162~1241)を見たあとなので、ちょっと気がそがれるけど、世阿弥(1363~1443頃)の直筆だって、十分すごい。どっちが古いかということよりも、当時、まだ海のものとも山のものとも分からなかった猿楽(申楽)能を、今日に残る芸能に仕立てあげた才気は恐るべきものだと思うし、それを守り伝えてきた人々も必死だったんじゃないかと思う。
ただし、10/24(土)に行ったら、世阿弥筆で見られたのは、四方が損傷した断簡を貼り付けたもの(花伝第七別紙口伝など)のみ。巻子の形態で残っている世阿弥筆能本『難波海』『松浦之能』などは、いずれも複製展示で、本物は後期(っていつ?)から展示だそうだ。
だが、この複製が非常によく出来ていて、ぼんやりしていたら、複製と気づかなかったかもしれない。それもそのはず、観世家のアーカイブ資料は、このたび、科学研究費補助金を受けて、デジタルアーカイブとして、インターネット上に立ち上がったのである。→※観世アーカイブ(http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/kanzegazo/)
このデジタルアーカイブ、遊んでみたら、なかなかいい。上に紹介した世阿弥直筆『花伝第七別紙』は、会場では、冊子の一箇所が開いて展示されているだけだが、ネット上で見ると、まず、風呂敷(?)の上に、題箋を載せた紐付きの木箱が現れ、題箋を取り除けると木箱の全体が、次に本体の冊子をめくると、白紙のあとに、ようやく本文が…という具合で、その適度なじれったさがいいのだ(私のネット環境が遅いせいもあるが)。自筆能本も、まずは外箱から(笑)。お作法の決められた茶道みたいだ。「デジタル」といえば合理性の道具みたいに思われがちだが、全然そうでないところが、楽しくてうれしい。
世阿弥の自筆能本は、当時としては珍しく、濁点表記や促音表記(小さいツ)が用いられていて、「音声としての日本語」をいかに厳密に再現し、伝達するかに、世阿弥が苦心していたことが分かり、興味深かった。そのかわり、眺めて美しいテキストを書こうという気持ちは、さらさらなかったような字体(全てカタカナ)である。この表記の特徴は、展示会場には解説が掲示されているけれど、デジタルアーカイブは何も触れていなくて残念。書誌データには「解題」という欄が設けられているようなので、今後、ここを充実していってほしいと思う。なお、画像には、モノクロとカラーがある様子。
観阿弥、世阿弥以降の能楽師については、ほとんど何も知らなかったが、江戸時代の観世太夫にも、伝統を堅持することだけで満足しない、いろいろ個性的な人物がいたことが分かって、面白かった。
それにしても、アーカイブの公開を決意なさった当代観世清和三十六世家元も偉いし、6年にわたる史料調査を行った松岡心平教授(東京大学)らのチームもご苦労なさったことと思う。世阿弥は「家、家にあらず。次ぐをもて家とす」という言葉を残しているそうだが、古い資料を持ち続けるだけではなくて、こうして新しい媒体に変換し、新しい利用の途をひらいていくことも、伝統を「次ぐ」形態のひとつだと思う。
この日は、冷泉家から観世家へハシゴ。東大駒場キャンパスの博物館では、観阿弥、世阿弥を家祖とする観世家に伝わる能楽関係資料の展覧会が開かれている。
注目は、やはり世阿弥の直筆テキストだろう。冷泉家の俊成(1114~1204)、定家(1162~1241)を見たあとなので、ちょっと気がそがれるけど、世阿弥(1363~1443頃)の直筆だって、十分すごい。どっちが古いかということよりも、当時、まだ海のものとも山のものとも分からなかった猿楽(申楽)能を、今日に残る芸能に仕立てあげた才気は恐るべきものだと思うし、それを守り伝えてきた人々も必死だったんじゃないかと思う。
ただし、10/24(土)に行ったら、世阿弥筆で見られたのは、四方が損傷した断簡を貼り付けたもの(花伝第七別紙口伝など)のみ。巻子の形態で残っている世阿弥筆能本『難波海』『松浦之能』などは、いずれも複製展示で、本物は後期(っていつ?)から展示だそうだ。
だが、この複製が非常によく出来ていて、ぼんやりしていたら、複製と気づかなかったかもしれない。それもそのはず、観世家のアーカイブ資料は、このたび、科学研究費補助金を受けて、デジタルアーカイブとして、インターネット上に立ち上がったのである。→※観世アーカイブ(http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/kanzegazo/)
このデジタルアーカイブ、遊んでみたら、なかなかいい。上に紹介した世阿弥直筆『花伝第七別紙』は、会場では、冊子の一箇所が開いて展示されているだけだが、ネット上で見ると、まず、風呂敷(?)の上に、題箋を載せた紐付きの木箱が現れ、題箋を取り除けると木箱の全体が、次に本体の冊子をめくると、白紙のあとに、ようやく本文が…という具合で、その適度なじれったさがいいのだ(私のネット環境が遅いせいもあるが)。自筆能本も、まずは外箱から(笑)。お作法の決められた茶道みたいだ。「デジタル」といえば合理性の道具みたいに思われがちだが、全然そうでないところが、楽しくてうれしい。
世阿弥の自筆能本は、当時としては珍しく、濁点表記や促音表記(小さいツ)が用いられていて、「音声としての日本語」をいかに厳密に再現し、伝達するかに、世阿弥が苦心していたことが分かり、興味深かった。そのかわり、眺めて美しいテキストを書こうという気持ちは、さらさらなかったような字体(全てカタカナ)である。この表記の特徴は、展示会場には解説が掲示されているけれど、デジタルアーカイブは何も触れていなくて残念。書誌データには「解題」という欄が設けられているようなので、今後、ここを充実していってほしいと思う。なお、画像には、モノクロとカラーがある様子。
観阿弥、世阿弥以降の能楽師については、ほとんど何も知らなかったが、江戸時代の観世太夫にも、伝統を堅持することだけで満足しない、いろいろ個性的な人物がいたことが分かって、面白かった。
それにしても、アーカイブの公開を決意なさった当代観世清和三十六世家元も偉いし、6年にわたる史料調査を行った松岡心平教授(東京大学)らのチームもご苦労なさったことと思う。世阿弥は「家、家にあらず。次ぐをもて家とす」という言葉を残しているそうだが、古い資料を持ち続けるだけではなくて、こうして新しい媒体に変換し、新しい利用の途をひらいていくことも、伝統を「次ぐ」形態のひとつだと思う。
○東京都美術館 『冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展』(前期:2009年10月24日~11月23日)
この秋、なぜか東京では、文書・典籍(アーカイブズ)にまつわる展覧会が目立つ。その筆頭に挙げられるのが、冷泉家(れいぜいけ)に伝わる貴重な古典籍(冷泉家時雨亭文庫)を紹介するこの展覧会。「国宝5点、重要文化財約400点」という、嘘のような数字に驚く。
しかし、会場内は、比較的すいていた。うーん、やっぱり感性だけで楽しめる絵画や彫刻(仏像)と違って、ちょっと敷居が高いのかな。私は、学生時代に国文学を専攻していたので、本展に登場人する人々には、多少の馴染みがある。冒頭には、俊成・定家・為相の3人の肖像と自筆本が並べられている。俊成自筆の『古来風体抄』と定家自筆の『拾遺愚草』には、震えるほど感激した。こんなものが残っていていいのか、という感じ。続いて、定家の『名月記』。父俊成の死去を記した箇所は、以前、五島美術館の全巻展示会のときにも見た覚えがある。お正月の伊達巻みたいな大きな芯に巻かれ、新しい木箱に収めてあるようだが、箱書の「名月記」という文字があまり上手くなくて、ほほえましかった。
歌集は、勅撰集よりも、バラエティ豊かな私家集に惹かれる。定家の異母姉にあたる坊門局という女性は、古筆の世界では名品で有名なのだそうだ。なるほど『重之集』とか『兼輔中納言集』とか、くるくるとからまる糸のようで、華やかでリズミカルな筆跡(図録には表紙しか写ってないって、ちょっと意地悪)。私は、藤原資経という人物の筆跡が気に入ったのだが、このひと、二条家の「事務方の人間」(※)ということしか分からないらしい。西行と伝える筆跡(出羽弁集)は、全体が右に流れているのもお構いなしで、枯れた味わいがある。
「百首歌」の、堂々たる巻子にもびっくりした。学生時代、○○百首とはよく聞いても、実際の形態など想像したこともなかった。展示されていたのは鎌倉後期の応製百首だが、それでも「原型」が残っているなんて驚きである。今から国文学を学ぼうとする若い世代はいいなあ、いろいろなことが分かって。また、今回の時雨亭文庫調査によって、新たな私家集や新出歌も発見されたというのもすごい!
うちに帰ってから、近所の本屋で『芸術新潮』11月号を見つけた。特集は「京都千年のタイムカプセル 冷泉家のひみつ」。これを読んでいくと、本展の見どころがよく分かる。私は「冷泉家の本はこうなっている」が重宝した。会場の展示解説は、造本についての説明が少ないので。大半は綴葉装(てっちょうそう)なのね。
時間がなければ、山口晃さんの挿絵による「早わかり」を立ち読みしておくだけでもいい。ライバル二条家の没落(その結果、二条家旧蔵本も冷泉家に統合されたこと)、いくつもの戦乱や天災を奇跡的にかいくぐってきたことなど、冷泉家と御文庫の歴史は、本当の意味の大河ドラマだと思う。
特筆すべきは、1981年に財団法人を創立し、御文庫を開放して調査を開始された第24代の為任氏(1914~1981)の決意。また、第25代(ご当代)の為人氏は、84年に婿養子に入られ、はじめは「えらいところにきてしまった」と悩まれたが、「冷泉家の蔵番」ひいては「日本文化の蔵番」になろう、と決意を固めていくところは感動的である(図録に寄稿あり)。世襲はよくないことだというけれど、「家」の機能によって、守り伝えられてきた文化遺産はたくさんあるのだ。新しい社会は、これに代わる文化の継承システムを作れるのだろうか。
※(財)京都古文化保存協会「非公開文化財特別拝観」
ここだけの話。毎年秋の4日間、冷泉家住宅の一般公開が行われている。行ってみようと思っているのだが…今年は混みそうだなあ。
この秋、なぜか東京では、文書・典籍(アーカイブズ)にまつわる展覧会が目立つ。その筆頭に挙げられるのが、冷泉家(れいぜいけ)に伝わる貴重な古典籍(冷泉家時雨亭文庫)を紹介するこの展覧会。「国宝5点、重要文化財約400点」という、嘘のような数字に驚く。
しかし、会場内は、比較的すいていた。うーん、やっぱり感性だけで楽しめる絵画や彫刻(仏像)と違って、ちょっと敷居が高いのかな。私は、学生時代に国文学を専攻していたので、本展に登場人する人々には、多少の馴染みがある。冒頭には、俊成・定家・為相の3人の肖像と自筆本が並べられている。俊成自筆の『古来風体抄』と定家自筆の『拾遺愚草』には、震えるほど感激した。こんなものが残っていていいのか、という感じ。続いて、定家の『名月記』。父俊成の死去を記した箇所は、以前、五島美術館の全巻展示会のときにも見た覚えがある。お正月の伊達巻みたいな大きな芯に巻かれ、新しい木箱に収めてあるようだが、箱書の「名月記」という文字があまり上手くなくて、ほほえましかった。
歌集は、勅撰集よりも、バラエティ豊かな私家集に惹かれる。定家の異母姉にあたる坊門局という女性は、古筆の世界では名品で有名なのだそうだ。なるほど『重之集』とか『兼輔中納言集』とか、くるくるとからまる糸のようで、華やかでリズミカルな筆跡(図録には表紙しか写ってないって、ちょっと意地悪)。私は、藤原資経という人物の筆跡が気に入ったのだが、このひと、二条家の「事務方の人間」(※)ということしか分からないらしい。西行と伝える筆跡(出羽弁集)は、全体が右に流れているのもお構いなしで、枯れた味わいがある。
「百首歌」の、堂々たる巻子にもびっくりした。学生時代、○○百首とはよく聞いても、実際の形態など想像したこともなかった。展示されていたのは鎌倉後期の応製百首だが、それでも「原型」が残っているなんて驚きである。今から国文学を学ぼうとする若い世代はいいなあ、いろいろなことが分かって。また、今回の時雨亭文庫調査によって、新たな私家集や新出歌も発見されたというのもすごい!
うちに帰ってから、近所の本屋で『芸術新潮』11月号を見つけた。特集は「京都千年のタイムカプセル 冷泉家のひみつ」。これを読んでいくと、本展の見どころがよく分かる。私は「冷泉家の本はこうなっている」が重宝した。会場の展示解説は、造本についての説明が少ないので。大半は綴葉装(てっちょうそう)なのね。
時間がなければ、山口晃さんの挿絵による「早わかり」を立ち読みしておくだけでもいい。ライバル二条家の没落(その結果、二条家旧蔵本も冷泉家に統合されたこと)、いくつもの戦乱や天災を奇跡的にかいくぐってきたことなど、冷泉家と御文庫の歴史は、本当の意味の大河ドラマだと思う。
特筆すべきは、1981年に財団法人を創立し、御文庫を開放して調査を開始された第24代の為任氏(1914~1981)の決意。また、第25代(ご当代)の為人氏は、84年に婿養子に入られ、はじめは「えらいところにきてしまった」と悩まれたが、「冷泉家の蔵番」ひいては「日本文化の蔵番」になろう、と決意を固めていくところは感動的である(図録に寄稿あり)。世襲はよくないことだというけれど、「家」の機能によって、守り伝えられてきた文化遺産はたくさんあるのだ。新しい社会は、これに代わる文化の継承システムを作れるのだろうか。
※(財)京都古文化保存協会「非公開文化財特別拝観」
ここだけの話。毎年秋の4日間、冷泉家住宅の一般公開が行われている。行ってみようと思っているのだが…今年は混みそうだなあ。
○丸善インフォメーション:丸善×松岡正剛=松丸本舗 松岡正剛氏プロデュースの丸の内本店の中の書店、「松丸本舗」が丸の内本店4階にオープン!(2009/10/23)
書評サイト『千夜千冊』の執筆者である松岡正剛氏と、丸善が共同プロデュースによる『松丸本舗』が10月23日(金)、丸の内本店4階にオープンした。前日に行われた記者会見で、丸善社長の小城武彦氏は、こんなふうに語っている。
「書店はこれまで、すこしさぼってきました。書店の本の陳列の方法は永く変わってきませんでした。本の形態であったり、出版社名であったり。外形表示にしたがって並べることをずっとやってきました。進化を怠ってきました」
実際には、そんなことはなくて、本は「社会科学」とか「文学」とか、もっと大きい書店であれば「日本経済」「金融」「格差問題」など、細分化されたジャンルにしたがって並べられている。だが、小城社長の言いたいことはよく分かる。このジャンル別の陳列自体が、うんざりするほど「外形的」なのだ。互いに何の内的な関連性も持たない本どうしが、たまたまタイトルに同じ一語(たとえば「日本」)を有するがために、ミソもクソもごちゃごちゃと並んだ書架は平板で、魅力に乏しい。しかも、全く異なるジャンルの接近遭遇という、楽しいハプニングは絶対に起こりえない。
図書館の分類別配架も、同じ宿命を背負っているわけだが、書店には、もっと冒険をしてもらいたいと思う。「松丸本舗」は、写真を見ると、ディスプレイにもいろいろ配慮がされているようだ。高さの一定しない書架。押し込まれたり、積み上げられたりした本。管理の悪い図書館みたいだなあ。いや、愛書家の書斎のイメージか。天井まで本でいっぱいだったり、書架と書架の間が狭くて、使いづらそうなのが嬉しい。そうなのだ、本屋や図書館が好きという人間は、一度行って、全てが飲み込めるような、使い勝手のいいところには居着かない。適度に使いづらくて、「私だけが、配列の”内的論理”を理解している」という感覚が味わえるほうが居心地いいのである。
asahi.comの今日の記事だと、この週末は、かなり盛況の様子。少し人が減った頃に行って見たいと思う。そのときは、4階のカフェで、東京駅に出入りする電車を眺めるのも、この書店の楽しみのひとつ。
書評サイト『千夜千冊』の執筆者である松岡正剛氏と、丸善が共同プロデュースによる『松丸本舗』が10月23日(金)、丸の内本店4階にオープンした。前日に行われた記者会見で、丸善社長の小城武彦氏は、こんなふうに語っている。
「書店はこれまで、すこしさぼってきました。書店の本の陳列の方法は永く変わってきませんでした。本の形態であったり、出版社名であったり。外形表示にしたがって並べることをずっとやってきました。進化を怠ってきました」
実際には、そんなことはなくて、本は「社会科学」とか「文学」とか、もっと大きい書店であれば「日本経済」「金融」「格差問題」など、細分化されたジャンルにしたがって並べられている。だが、小城社長の言いたいことはよく分かる。このジャンル別の陳列自体が、うんざりするほど「外形的」なのだ。互いに何の内的な関連性も持たない本どうしが、たまたまタイトルに同じ一語(たとえば「日本」)を有するがために、ミソもクソもごちゃごちゃと並んだ書架は平板で、魅力に乏しい。しかも、全く異なるジャンルの接近遭遇という、楽しいハプニングは絶対に起こりえない。
図書館の分類別配架も、同じ宿命を背負っているわけだが、書店には、もっと冒険をしてもらいたいと思う。「松丸本舗」は、写真を見ると、ディスプレイにもいろいろ配慮がされているようだ。高さの一定しない書架。押し込まれたり、積み上げられたりした本。管理の悪い図書館みたいだなあ。いや、愛書家の書斎のイメージか。天井まで本でいっぱいだったり、書架と書架の間が狭くて、使いづらそうなのが嬉しい。そうなのだ、本屋や図書館が好きという人間は、一度行って、全てが飲み込めるような、使い勝手のいいところには居着かない。適度に使いづらくて、「私だけが、配列の”内的論理”を理解している」という感覚が味わえるほうが居心地いいのである。
asahi.comの今日の記事だと、この週末は、かなり盛況の様子。少し人が減った頃に行って見たいと思う。そのときは、4階のカフェで、東京駅に出入りする電車を眺めるのも、この書店の楽しみのひとつ。
○橘木俊詔『東京大学:エリート養成機関の盛衰』 岩波書店 2009.9
「国家の須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ及其薀奥ヲ攻究スル」ことを目的に創立され、官僚、政治家、学界、経済界、医療、文人など、さまざまな分野の指導者を輩出してきた東大について、「エリート養成機能」の実態と功罪を、統計データを用いて検証するとともに、起こりつつある変化に注目し、今後の展望(東大生が活躍できる分野はどこか?!)をも示している。
読みどころのひとつは、東大と権力の関わりを、経済学部に焦点をしぼって描き出した段。土方成美(国家主義)・河合栄治郎(自由主義)・大内兵衛(マルクス主義)の三大派閥による熾烈な抗争は、竹内洋や立花隆の著書でも興味深く読んできたが、本書では、著者が経済学専攻であることを活かし、「派閥抗争を、学問上の対立と当時の政治・経済状況との双方に注目して」論じている。また、戦前の対立・抗争が、戦後にどのような展開を示したかを、長い目で追っている点も新鮮だった。
戦前、最も権力の近くにいた土方は、戦後、東大を去り、逆に戦前に大学を追われた大内は復職した。大内のグループは、復興政策を政府に建策することを期待された。つまり、戦後日本の経済復興と高度経済成長は、保守政権とマルクス経済学者の共同作業によって成し遂げられたのである。あ~こんなふうに明快な分析に触れたのは初めてだけど、やっぱりそうなんだ、と思った。1950~60年代、旧帝大の経済学部では、マルクス主義経済学が主流だった。東大出の高級官僚や企業経営者は、資本家と労働者の所得格差を広げない政策が望ましいと考える態度を、学生時代に身につけていたのではないか、と著者は推察する。そう聞くと、現在のマルクス主義経済学の著しい衰退は、やや残念な気がする。
また、東大卒業生の進路を、豊富な統計データで論じた段も面白い。東大に限らず、日本の指導者層がどのような人たちなのかが、半世紀ほどの変遷を含めて、見えてくる。一昔前の官僚の世界における東大出(特に法学部)の占拠率が、呆れるほどすごかったことはよく分かった。経営者は、かつては財務・労務に強かったり、官僚に顔が利くことが重要だったが、現在はコミュニケーション能力や営業実績が重視されるようになり、結果として、東大出よりも慶応大や京大(へえ!)が目立っている。政治家も、かつては、東大法→高級官僚→国会議員というコースが確立されており、東大出の首相も多かった。しかし、二世・三世議員が輩出する現在、東大出の議員は減少し、ここでも慶応出の増加が目立っている。
慶応と東大については、親の年収比較が興味深かった。平均家計所得は、慶大生が少しだけ高いが、ほとんど差がない。しかし、家計所得分布図を見ると、慶大生のほうが高所得層の比重が高く、東大生は(慶大生と比較して)低所得層の比重が高い。これは「貧乏人の子弟は国立大学に通う」という伝統が、まだ少しは残っているということで、ちょっと安心した。
巻末に、濱田純一総長へのインタビューを収録。「格差是正」「公平性」「世界に通用する競争力」といった具合に、相反する課題に同時に取り組まなければいけない東大も大変だと思うが、大風呂敷を広げることをしない、濱田総長の誠実さが感じられる。
ちなみに著者の橘木さんは、小樽商科大卒、大阪大学修士修了で、東大では短期の客員教授しかしたことがないそうだが、学界で出会う東大出身者に優秀な人が多いことを率直に認め、東大生の「学力が落ちた」とか「教養がない」という批判に対しても、大学生をとりまく全体状況を踏まえて、公平な判断を下している。変なひがみやそねみのない東大論で、読後の印象がさわやかである。
※東洋経済オンライン:書評「怪しくなっているなんでも一番という東大像」(2009/10/19)
私の好きな竹内洋先生による本書の評。
「国家の須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ及其薀奥ヲ攻究スル」ことを目的に創立され、官僚、政治家、学界、経済界、医療、文人など、さまざまな分野の指導者を輩出してきた東大について、「エリート養成機能」の実態と功罪を、統計データを用いて検証するとともに、起こりつつある変化に注目し、今後の展望(東大生が活躍できる分野はどこか?!)をも示している。
読みどころのひとつは、東大と権力の関わりを、経済学部に焦点をしぼって描き出した段。土方成美(国家主義)・河合栄治郎(自由主義)・大内兵衛(マルクス主義)の三大派閥による熾烈な抗争は、竹内洋や立花隆の著書でも興味深く読んできたが、本書では、著者が経済学専攻であることを活かし、「派閥抗争を、学問上の対立と当時の政治・経済状況との双方に注目して」論じている。また、戦前の対立・抗争が、戦後にどのような展開を示したかを、長い目で追っている点も新鮮だった。
戦前、最も権力の近くにいた土方は、戦後、東大を去り、逆に戦前に大学を追われた大内は復職した。大内のグループは、復興政策を政府に建策することを期待された。つまり、戦後日本の経済復興と高度経済成長は、保守政権とマルクス経済学者の共同作業によって成し遂げられたのである。あ~こんなふうに明快な分析に触れたのは初めてだけど、やっぱりそうなんだ、と思った。1950~60年代、旧帝大の経済学部では、マルクス主義経済学が主流だった。東大出の高級官僚や企業経営者は、資本家と労働者の所得格差を広げない政策が望ましいと考える態度を、学生時代に身につけていたのではないか、と著者は推察する。そう聞くと、現在のマルクス主義経済学の著しい衰退は、やや残念な気がする。
また、東大卒業生の進路を、豊富な統計データで論じた段も面白い。東大に限らず、日本の指導者層がどのような人たちなのかが、半世紀ほどの変遷を含めて、見えてくる。一昔前の官僚の世界における東大出(特に法学部)の占拠率が、呆れるほどすごかったことはよく分かった。経営者は、かつては財務・労務に強かったり、官僚に顔が利くことが重要だったが、現在はコミュニケーション能力や営業実績が重視されるようになり、結果として、東大出よりも慶応大や京大(へえ!)が目立っている。政治家も、かつては、東大法→高級官僚→国会議員というコースが確立されており、東大出の首相も多かった。しかし、二世・三世議員が輩出する現在、東大出の議員は減少し、ここでも慶応出の増加が目立っている。
慶応と東大については、親の年収比較が興味深かった。平均家計所得は、慶大生が少しだけ高いが、ほとんど差がない。しかし、家計所得分布図を見ると、慶大生のほうが高所得層の比重が高く、東大生は(慶大生と比較して)低所得層の比重が高い。これは「貧乏人の子弟は国立大学に通う」という伝統が、まだ少しは残っているということで、ちょっと安心した。
巻末に、濱田純一総長へのインタビューを収録。「格差是正」「公平性」「世界に通用する競争力」といった具合に、相反する課題に同時に取り組まなければいけない東大も大変だと思うが、大風呂敷を広げることをしない、濱田総長の誠実さが感じられる。
ちなみに著者の橘木さんは、小樽商科大卒、大阪大学修士修了で、東大では短期の客員教授しかしたことがないそうだが、学界で出会う東大出身者に優秀な人が多いことを率直に認め、東大生の「学力が落ちた」とか「教養がない」という批判に対しても、大学生をとりまく全体状況を踏まえて、公平な判断を下している。変なひがみやそねみのない東大論で、読後の印象がさわやかである。
※東洋経済オンライン:書評「怪しくなっているなんでも一番という東大像」(2009/10/19)
私の好きな竹内洋先生による本書の評。
○TBS日曜劇場 ドラマ『JIN-仁-』
放送が始まる前に、たまたま、ネットの掲示板で記事を見た。原作は村上もとか(スーパージャンプ連載中)。「幕末の江戸へタイムスリップしてしまった脳外科医・南方仁が、満足な医療器具も薬もない環境で人々の命を救っていき、その医術を通して坂本龍馬・勝海舟・緒方洪庵ら幕末の英雄たちと交流を深め、いつしか自らも歴史の渦の中に巻き込まれていくという、壮大なストーリー」だという。「面白い」「期待できる」という声が多かったので、よし、見てみようと思っていた。
けれども、第1回放送日の10/11は、すっかり忘れていて、30分くらい見逃した。テレビをつけたら、金槌とノミで頭蓋骨に穴を開けるという、とんでもない手術の場面で、ぎゃっとなった。私は、こういう肉体損傷もの(医療もの)は苦手なのである。しかし、そこを我慢して見ていたら、だんだん面白くなってきて、泣いたり笑ったり、感心したりしているうちに、あっという間に2時間(スペシャル版)が経ってしまった。
ドラマのオリジナル・キャラを演じる俳優さんもいいし、歴史上の人物を演じる俳優さんもいい。内野聖陽の坂本龍馬は、期待どおりキュートに演じすぎで、ちょっとズルい。武田鉄矢の緒方洪庵、小日向文世の勝海舟は、なるほど!と頷ける適役である。でも、これだけ俳優がいいと感じさせるのは、脚本の力なんだろうと思う。
第2回で、主人公の脳外科医・南方仁が、龍馬に向かって、思わず「乙女さんという、男まさりのお姉さんがいる…」と、豆知識を披露してしまうのには笑った。確かに、もし歴史上の有名人に会ったら、こんなふうに口を滑らせてしまいそうだ。嬉しかったのは、オープニングとエンディングに、幕末の古写真が効果的に使われていること。何枚かは確実に見覚えがあって、たぶん蜷川式胤編『旧江戸城写真帖』ではないかと思う。東博の常設展で見た。よくぞ、こんなものを引っ張り出してきたなあ、と感心した。久しぶりに熱中できるTVドラマが始まって、幸せ。
公式サイトによれば、時代考証は山田順子さんという女性である。調べてみたら、いろいろ、著書やインタビューがヒットして、興味が湧いた。
※日刊サイゾー:時代劇のエンタメ化で、時代考証は犠牲にされがち!?
http://www.cyzo.com/2008/02/post_298.html
原作とドラマは「別物と思ったほうがいい」らしいが、原作の公式サイトを見に行ったら(最近はマンガも公式サイトを持っているのね!と驚く)、へえ、ポンペや松本良順も出てくるのか。幕末好きにはたまらないだろうな。ネットの書き込みでは、多紀元琰も出てくるそうだ。
※原作:公式サイト
http://sj.shueisha.co.jp/contents/jin/
放送が始まる前に、たまたま、ネットの掲示板で記事を見た。原作は村上もとか(スーパージャンプ連載中)。「幕末の江戸へタイムスリップしてしまった脳外科医・南方仁が、満足な医療器具も薬もない環境で人々の命を救っていき、その医術を通して坂本龍馬・勝海舟・緒方洪庵ら幕末の英雄たちと交流を深め、いつしか自らも歴史の渦の中に巻き込まれていくという、壮大なストーリー」だという。「面白い」「期待できる」という声が多かったので、よし、見てみようと思っていた。
けれども、第1回放送日の10/11は、すっかり忘れていて、30分くらい見逃した。テレビをつけたら、金槌とノミで頭蓋骨に穴を開けるという、とんでもない手術の場面で、ぎゃっとなった。私は、こういう肉体損傷もの(医療もの)は苦手なのである。しかし、そこを我慢して見ていたら、だんだん面白くなってきて、泣いたり笑ったり、感心したりしているうちに、あっという間に2時間(スペシャル版)が経ってしまった。
ドラマのオリジナル・キャラを演じる俳優さんもいいし、歴史上の人物を演じる俳優さんもいい。内野聖陽の坂本龍馬は、期待どおりキュートに演じすぎで、ちょっとズルい。武田鉄矢の緒方洪庵、小日向文世の勝海舟は、なるほど!と頷ける適役である。でも、これだけ俳優がいいと感じさせるのは、脚本の力なんだろうと思う。
第2回で、主人公の脳外科医・南方仁が、龍馬に向かって、思わず「乙女さんという、男まさりのお姉さんがいる…」と、豆知識を披露してしまうのには笑った。確かに、もし歴史上の有名人に会ったら、こんなふうに口を滑らせてしまいそうだ。嬉しかったのは、オープニングとエンディングに、幕末の古写真が効果的に使われていること。何枚かは確実に見覚えがあって、たぶん蜷川式胤編『旧江戸城写真帖』ではないかと思う。東博の常設展で見た。よくぞ、こんなものを引っ張り出してきたなあ、と感心した。久しぶりに熱中できるTVドラマが始まって、幸せ。
公式サイトによれば、時代考証は山田順子さんという女性である。調べてみたら、いろいろ、著書やインタビューがヒットして、興味が湧いた。
※日刊サイゾー:時代劇のエンタメ化で、時代考証は犠牲にされがち!?
http://www.cyzo.com/2008/02/post_298.html
原作とドラマは「別物と思ったほうがいい」らしいが、原作の公式サイトを見に行ったら(最近はマンガも公式サイトを持っているのね!と驚く)、へえ、ポンペや松本良順も出てくるのか。幕末好きにはたまらないだろうな。ネットの書き込みでは、多紀元琰も出てくるそうだ。
※原作:公式サイト
http://sj.shueisha.co.jp/contents/jin/
○橋本健二『「格差」の戦後史:階級社会日本の履歴書』(河出ブックス) 河出書房新社 2009.10
格差については、もう語り尽くされた感もある。しかし、本書には新しい視点が加わっている。それは表紙に掲げられたコピー「(従来の)格差/貧困論には長期的視野が欠けている」という問題意識である。
序章に言う。2005年前後から、格差と貧困の問題がにわかに注目を集めるようになった。しかし、今日の格差拡大や貧困の増大を問題視するあまり、最近までの日本には、さほどの格差がなく、問題もなかったように考えるのは誤りである。このような認識では、現代の格差も正確にとらえることはできない。そこで本書は、日本の戦後を7つの時期に区分し、格差と階級構造の歴史的変遷を論じている。それぞれの時期の特徴を要約すると、こんな感じだ。
(1)敗戦~1950年…戦時体制の影響と戦後改革によって、格差は縮小を続けた。
(2)1950年代…傾斜生産方式によって、まず大企業が立ち直ると、格差は急速に拡大に転じ、60年代初頭、ピークに達する。
(3)1960年代…高度経済成長による労働力不足の影響で、全体として賃金格差は縮小する。しかし、女性非正規雇用者の増加など、のちの格差拡大の遠因も形成されつつあった。
(4)1970年代…70年代半ばまで格差縮小が続き、中規模以上の企業労働者は貧困を脱するが、農民層と小零細企業労働者は取り残された。
(5)1980年代…中小零細企業労働者の状況が急速に悪化し、格差拡大が始まる。バブル期に雇用は拡大したが、その中身は非正規雇用者が圧倒的で、男性の非正規雇用者も着実に増えた。
(6)1990年代…企業倒産の激発と雇用の喪失によって、人々は「一億総中流」の夢から覚め、格差に注目が集まる。一方で格差拡大は「見せかけ」という議論も起こる。90年代末には誰の目にも明らかな格差拡大が本格化する。
(7)2000年代…非正規労働者の激増によって、伝統的な意味の「労働者階級」以下の存在「アンダークラス」が出現。
著者は、統計データに加えて、映画、小説、マンガ、社会的な事件などを参照して、それぞれの時代の空気を鮮やかに示している。以下、私が特に興味深いと思った論点を挙げよう。
戦争が、貧しい下層階級に、特に大きな損害を与えたことは、東京23区の空襲による死亡率や、学歴別の累積死亡率によって検証される。これを、95年の阪神・淡路大震災における、社会的弱者(女性・高齢者・低所得者)の被災率の高さと並べてみると、われわれの社会が持つ、根深い歪みが見えてくるように思う。
その歪みに気づいていた人々もいた。50年代、日本の完全失業率は2%を下回っていたが、中小企業や零細農家には、低所得の就業者が大量に存在しており、個人消費の拡大を阻んでいた。58年の『経済白書』は、日本の賃金構造の後進性を指摘するともに、低所得層の所得を引き上げ、購買力の補給をはかることは「単なる社会正義の観点からのみではなくて、十分な経済的理由をもっている」と、説得力ある提言を行っている。当時の官僚は、洞察力もあり、誠実だったんだなあ、と感銘を受けた。
また、70年代には、格差と学歴の関係に注目が集まったが、OECD教育調査団(ロナルド・ドーア、エドウィン・ライシャワーらを含む)の報告書『日本の教育政策』は、日本の社会が、近代的な意味の自由社会とは言い難く、「伝統的なカースト社会に近い」と、容赦ない診断を下しているそうだ。教育関係者が、この厳しい指摘を、もう少し真剣に受け止めていたら、と思う。
80年代の分析で興味深いのは、自民党支持率と革新政党支持率の、階級別推移である。格差拡大が中小零細企業労働者の貧困化をもたらしたにもかかわらず、彼らは、革新政党でなく、むしろ自民党支持に転じた。「さらなる労働条件の向上を訴える巨大労働組合と、これに支えられた革新政党に見切りをつけたのではないだろうか」と著者は分析している。あれから20年、今度は自民党が「見切り」をつけられたのはなぜか、ということを考える上でも示唆に富む。
戦後の日本が、どこで「曲がり角」を間違ったのか、再生のチャンスがどこにあるのかを考える材料が、いろいろ詰まった1冊である。
格差については、もう語り尽くされた感もある。しかし、本書には新しい視点が加わっている。それは表紙に掲げられたコピー「(従来の)格差/貧困論には長期的視野が欠けている」という問題意識である。
序章に言う。2005年前後から、格差と貧困の問題がにわかに注目を集めるようになった。しかし、今日の格差拡大や貧困の増大を問題視するあまり、最近までの日本には、さほどの格差がなく、問題もなかったように考えるのは誤りである。このような認識では、現代の格差も正確にとらえることはできない。そこで本書は、日本の戦後を7つの時期に区分し、格差と階級構造の歴史的変遷を論じている。それぞれの時期の特徴を要約すると、こんな感じだ。
(1)敗戦~1950年…戦時体制の影響と戦後改革によって、格差は縮小を続けた。
(2)1950年代…傾斜生産方式によって、まず大企業が立ち直ると、格差は急速に拡大に転じ、60年代初頭、ピークに達する。
(3)1960年代…高度経済成長による労働力不足の影響で、全体として賃金格差は縮小する。しかし、女性非正規雇用者の増加など、のちの格差拡大の遠因も形成されつつあった。
(4)1970年代…70年代半ばまで格差縮小が続き、中規模以上の企業労働者は貧困を脱するが、農民層と小零細企業労働者は取り残された。
(5)1980年代…中小零細企業労働者の状況が急速に悪化し、格差拡大が始まる。バブル期に雇用は拡大したが、その中身は非正規雇用者が圧倒的で、男性の非正規雇用者も着実に増えた。
(6)1990年代…企業倒産の激発と雇用の喪失によって、人々は「一億総中流」の夢から覚め、格差に注目が集まる。一方で格差拡大は「見せかけ」という議論も起こる。90年代末には誰の目にも明らかな格差拡大が本格化する。
(7)2000年代…非正規労働者の激増によって、伝統的な意味の「労働者階級」以下の存在「アンダークラス」が出現。
著者は、統計データに加えて、映画、小説、マンガ、社会的な事件などを参照して、それぞれの時代の空気を鮮やかに示している。以下、私が特に興味深いと思った論点を挙げよう。
戦争が、貧しい下層階級に、特に大きな損害を与えたことは、東京23区の空襲による死亡率や、学歴別の累積死亡率によって検証される。これを、95年の阪神・淡路大震災における、社会的弱者(女性・高齢者・低所得者)の被災率の高さと並べてみると、われわれの社会が持つ、根深い歪みが見えてくるように思う。
その歪みに気づいていた人々もいた。50年代、日本の完全失業率は2%を下回っていたが、中小企業や零細農家には、低所得の就業者が大量に存在しており、個人消費の拡大を阻んでいた。58年の『経済白書』は、日本の賃金構造の後進性を指摘するともに、低所得層の所得を引き上げ、購買力の補給をはかることは「単なる社会正義の観点からのみではなくて、十分な経済的理由をもっている」と、説得力ある提言を行っている。当時の官僚は、洞察力もあり、誠実だったんだなあ、と感銘を受けた。
また、70年代には、格差と学歴の関係に注目が集まったが、OECD教育調査団(ロナルド・ドーア、エドウィン・ライシャワーらを含む)の報告書『日本の教育政策』は、日本の社会が、近代的な意味の自由社会とは言い難く、「伝統的なカースト社会に近い」と、容赦ない診断を下しているそうだ。教育関係者が、この厳しい指摘を、もう少し真剣に受け止めていたら、と思う。
80年代の分析で興味深いのは、自民党支持率と革新政党支持率の、階級別推移である。格差拡大が中小零細企業労働者の貧困化をもたらしたにもかかわらず、彼らは、革新政党でなく、むしろ自民党支持に転じた。「さらなる労働条件の向上を訴える巨大労働組合と、これに支えられた革新政党に見切りをつけたのではないだろうか」と著者は分析している。あれから20年、今度は自民党が「見切り」をつけられたのはなぜか、ということを考える上でも示唆に富む。
戦後の日本が、どこで「曲がり角」を間違ったのか、再生のチャンスがどこにあるのかを考える材料が、いろいろ詰まった1冊である。
○MIHOミュージアム 秋季特別展『若冲ワンダーランド』(2009年9月1日~12月13日)
さて、若冲である。昨年12月、北陸の旧家で若冲の『象鯨図屏風』が見つかり、2009年9月からMIHOミュージアムの若冲展で公開予定、と聞いたときは、正直、あまり期待していなかった。新発見の『象鯨図屏風』でお客を釣って、あとは旧知の作品でお茶をにごすんじゃないかと思っていたのだ。これが、とんでもない大ハズレ。たとえ、東博の『動植綵絵』を見逃しても、このワンダーランドは見逃すべきでないと思う。
本展の画期性の第一は、「オタク」若冲像をくつがえす記録資料の発見である。『京都錦小路青物市場記録』という冊子によれば、40歳で弟に家督を譲り、画業に専念したと考えられていた若冲が、50代後半には、町年寄として、地域コミュニティのために奮闘していたことが分かるのだ。これはすごい。貴重な記録を発見したのは、近世市場史の宇佐美英機氏で、これを美術史家に紹介したのは、日本絵画史の奥平俊六氏だという。大学で地道に積み重ねられた史料研究の成果が、多くの美術ファンにさざなみのような衝撃を広げていく様子が、目に見えるようで、感銘深かった。
画期性の第二は、展覧会に出る機会の少ない、個人蔵の作品(水墨画が多い)を徹底的に集めたことだ。私は、2000年の若冲展はもちろん、それ以前から「若冲」の作品ありと聞けば、西へも東へも飛び歩いてきたつもりだが、未知・初見の作品が多数あって、興奮の連続だった。『寒山拾得・楼閣山水図』の左右の楼閣山水の自由さ、雪舟もびっくりだろう。仔犬のような寒山拾得もかわいい。『松林図』も、よすぎる。
大作も手抜きなし。ちょうど、いちばんいい時期に行ったのかも知れないが、枡目描きの『鳥獣花木図屏風』(プライス・コレクション)と点描の『石燈籠図屏風』(京博)が並んだところは圧巻だった。
音声ガイドはおすすめである。私は、普段こうしたガイドは使わないのだが、会場内でヘッドフォンをしたおじさんたちが、「この解説は、詳しくていいなあ」「辻ナントカって有名な先生だぞ」と大声で話しているのを聞いて、えっ!と慌てた。結局、ひとりで一周したあと、ガイドを借りて、もう一周することにした。
館長・辻惟雄先生は「概要」「鳥獣花木図屏風」「象と鯨図屏風」の3ヵ所で登場する。ヘッドフォンをつけて作品の前に立つと、「この青いところは…」なんて、辻先生が横で解説してくれているようで、なかなか贅沢である。『象と鯨図屏風』では、高々と鼻を上げた象が、海の鯨に挨拶しているようだ、というのは、誰でも考えそうだが、画面右端から伸びた牡丹の花が、象のお尻のあたりを撫ぜているのは、若冲から象への挨拶なんじゃないか、という解釈は、ユニークで微笑ましかった。
ここで、ミュージアムショップに飾ってあった、鯨の壁掛けと象のクッションの写真を挙げておこう(お店の方に断って撮りました。売り物ではないらしい)。鯨図の、ビーズで表現された水しぶきが秀逸。白象は、ちゃんとお尻に牡丹の花をつけている。
図録には、辻惟雄氏、狩野博幸氏ら、読み応えのある論文を収録。私は帰りの新幹線の中で、眠気を忘れて貪り読んできた。作品の落款や画賛を丁寧に翻刻してあって、資料的価値も高く、開きやすい製本もありがたい。所用3時間。ハマりすぎかな。
さて、若冲である。昨年12月、北陸の旧家で若冲の『象鯨図屏風』が見つかり、2009年9月からMIHOミュージアムの若冲展で公開予定、と聞いたときは、正直、あまり期待していなかった。新発見の『象鯨図屏風』でお客を釣って、あとは旧知の作品でお茶をにごすんじゃないかと思っていたのだ。これが、とんでもない大ハズレ。たとえ、東博の『動植綵絵』を見逃しても、このワンダーランドは見逃すべきでないと思う。
本展の画期性の第一は、「オタク」若冲像をくつがえす記録資料の発見である。『京都錦小路青物市場記録』という冊子によれば、40歳で弟に家督を譲り、画業に専念したと考えられていた若冲が、50代後半には、町年寄として、地域コミュニティのために奮闘していたことが分かるのだ。これはすごい。貴重な記録を発見したのは、近世市場史の宇佐美英機氏で、これを美術史家に紹介したのは、日本絵画史の奥平俊六氏だという。大学で地道に積み重ねられた史料研究の成果が、多くの美術ファンにさざなみのような衝撃を広げていく様子が、目に見えるようで、感銘深かった。
画期性の第二は、展覧会に出る機会の少ない、個人蔵の作品(水墨画が多い)を徹底的に集めたことだ。私は、2000年の若冲展はもちろん、それ以前から「若冲」の作品ありと聞けば、西へも東へも飛び歩いてきたつもりだが、未知・初見の作品が多数あって、興奮の連続だった。『寒山拾得・楼閣山水図』の左右の楼閣山水の自由さ、雪舟もびっくりだろう。仔犬のような寒山拾得もかわいい。『松林図』も、よすぎる。
大作も手抜きなし。ちょうど、いちばんいい時期に行ったのかも知れないが、枡目描きの『鳥獣花木図屏風』(プライス・コレクション)と点描の『石燈籠図屏風』(京博)が並んだところは圧巻だった。
音声ガイドはおすすめである。私は、普段こうしたガイドは使わないのだが、会場内でヘッドフォンをしたおじさんたちが、「この解説は、詳しくていいなあ」「辻ナントカって有名な先生だぞ」と大声で話しているのを聞いて、えっ!と慌てた。結局、ひとりで一周したあと、ガイドを借りて、もう一周することにした。
館長・辻惟雄先生は「概要」「鳥獣花木図屏風」「象と鯨図屏風」の3ヵ所で登場する。ヘッドフォンをつけて作品の前に立つと、「この青いところは…」なんて、辻先生が横で解説してくれているようで、なかなか贅沢である。『象と鯨図屏風』では、高々と鼻を上げた象が、海の鯨に挨拶しているようだ、というのは、誰でも考えそうだが、画面右端から伸びた牡丹の花が、象のお尻のあたりを撫ぜているのは、若冲から象への挨拶なんじゃないか、という解釈は、ユニークで微笑ましかった。
ここで、ミュージアムショップに飾ってあった、鯨の壁掛けと象のクッションの写真を挙げておこう(お店の方に断って撮りました。売り物ではないらしい)。鯨図の、ビーズで表現された水しぶきが秀逸。白象は、ちゃんとお尻に牡丹の花をつけている。
図録には、辻惟雄氏、狩野博幸氏ら、読み応えのある論文を収録。私は帰りの新幹線の中で、眠気を忘れて貪り読んできた。作品の落款や画賛を丁寧に翻刻してあって、資料的価値も高く、開きやすい製本もありがたい。所用3時間。ハマりすぎかな。
■西国第十二番 岩間山正法寺(岩間寺)(滋賀県大津市)
そもそも、この週末(10/17-18)の札所めぐりを思い立ったのは、京都在住の友人から、毎月17日(ご縁日)に限り、岩間山行きの直通バスが運行される、と聞き及んだからである。私と同様、この情報に動かされて東京から出てきた友人と、石山駅前で合流、ほぼ満員のバスに乗車。長い山道を上がって、門前に到着した。
本堂は、緑の山を背景に、昼下がりの通り雨に濡れた檜皮葺きの屋根が、つややかに黒光りして美しい。内陣に入ると、三重の入れ子になったお厨子の扉が全て開いている。中央には、わずか15センチほどのご本尊(千手観音)。幔幕やお供え物で隠したりしないところが良心的だが、とにかく小さいので、正面ににじり寄っても、印象がはっきりしない。隣りに置かれた拡大写真と見比べて、なんとか納得する。
ところで、私はこの岩間寺で、近江(滋賀県内)の西国札所6ヶ所を参拝完了。近江札所限定の「土鈴・浄土の鳥」もコンプリートになるはずだった。ところが、どこにも見当たらないので、お守り授受所のおばちゃんに「あの、浄土の鳥は…?」と聞いてみたら、「ごめんね!今日、ぜんぶ売り切れちゃったの。2、3日すれば入るから、また来てね」と笑顔でおっしゃる。えええ~、私、関東人なんですよぉ。「いつまで、あるんですか?」とお訊ねしたら、「たぶん12月までは…。そのあとは、他のお寺さんと相談してみないと分からないから…」とのこと。友人とふたり、肩を落として「もう帰ろうか…」ということで、予定より1台早い下山バスに乗り込む。
※左より、迦陵頻伽(長命寺)、鸚鵡(園城寺)、孔雀(石山寺)、舎利(宝厳寺)、共命之鳥(観音正寺)。
■大津市歴史博物館 第50回企画展『湖都大津 社寺の名宝』(2009年10月10日~11月23日)
バスの車中で、もうひとり、東京から来ている友人とめぐり会い、気を取り直して3人で大津市歴史博物館に向かう。以前から気になっていた博物館だが、訪ねるのは初めて。現在の企画展は、超有名寺院の延暦寺や園城寺から、知る人ぞ知る古刹まで、大津の社寺の名宝を一堂に集めたもので、バラエティに富み、見応えがあった。特によかったのは仏画。園城寺(三井寺)の『仏涅槃図』(室町時代)は、大津絵みたいなユーモアが感じられた。西教寺の『迅雲阿弥陀来迎図』(鎌倉時代)は、「迅雲」の名に恥じず、スピード感にあふれる。延暦寺の『普賢延命像』(室町時代)は、四頭一身の背の高い白象が凛々しくてカッコいい! 蓮華座に乗った普賢菩薩は、茫洋として、中国の皇帝みたいな顔つき。
仏像では、いま、山を下ってきたばかりの正法寺(岩間寺)から、ほぼ等身大の『婆藪仙人立像』が出陳されていた。午前中の観音正寺で、千手観音の脇侍に婆藪仙人と吉祥天を配するのは、ほかに岩間寺など、という話を聞いたのに、岩間寺の本堂にお姿がなかったので、おかしいなあ、と思っていたのだ。園城寺の『訶梨帝母倚像』は、何度か見ているが、母性を写実的に表現した名品。一方、『陶製宇賀神像』は、なんだこれは…という珍品で、とぐろを巻く蛇の胴体に老人の顔が載っている。水木しげるの世界みたいだ。建部大社所蔵の女神像・男神像もいい。
ちなみに、この展覧会は「湖信会」(大津の神社と寺院が観光面で協力しあう団体)の結成50周年を祝う企画でもあるそうだ。観光社寺、侮るべからず。ハンディな展示図録『湖都大津 社寺の名宝』には、湖信会十社寺の観光案内も載っている。この図録と、会場内のパネルのイラストは誰が描いたのかなあ。かわいくて、分かりやすくて、とってもいい。
近江八幡の駅前で、3人で夕食。そのあと、それぞれのホテルに散った(さらに続く)。
そもそも、この週末(10/17-18)の札所めぐりを思い立ったのは、京都在住の友人から、毎月17日(ご縁日)に限り、岩間山行きの直通バスが運行される、と聞き及んだからである。私と同様、この情報に動かされて東京から出てきた友人と、石山駅前で合流、ほぼ満員のバスに乗車。長い山道を上がって、門前に到着した。
本堂は、緑の山を背景に、昼下がりの通り雨に濡れた檜皮葺きの屋根が、つややかに黒光りして美しい。内陣に入ると、三重の入れ子になったお厨子の扉が全て開いている。中央には、わずか15センチほどのご本尊(千手観音)。幔幕やお供え物で隠したりしないところが良心的だが、とにかく小さいので、正面ににじり寄っても、印象がはっきりしない。隣りに置かれた拡大写真と見比べて、なんとか納得する。
ところで、私はこの岩間寺で、近江(滋賀県内)の西国札所6ヶ所を参拝完了。近江札所限定の「土鈴・浄土の鳥」もコンプリートになるはずだった。ところが、どこにも見当たらないので、お守り授受所のおばちゃんに「あの、浄土の鳥は…?」と聞いてみたら、「ごめんね!今日、ぜんぶ売り切れちゃったの。2、3日すれば入るから、また来てね」と笑顔でおっしゃる。えええ~、私、関東人なんですよぉ。「いつまで、あるんですか?」とお訊ねしたら、「たぶん12月までは…。そのあとは、他のお寺さんと相談してみないと分からないから…」とのこと。友人とふたり、肩を落として「もう帰ろうか…」ということで、予定より1台早い下山バスに乗り込む。
※左より、迦陵頻伽(長命寺)、鸚鵡(園城寺)、孔雀(石山寺)、舎利(宝厳寺)、共命之鳥(観音正寺)。
■大津市歴史博物館 第50回企画展『湖都大津 社寺の名宝』(2009年10月10日~11月23日)
バスの車中で、もうひとり、東京から来ている友人とめぐり会い、気を取り直して3人で大津市歴史博物館に向かう。以前から気になっていた博物館だが、訪ねるのは初めて。現在の企画展は、超有名寺院の延暦寺や園城寺から、知る人ぞ知る古刹まで、大津の社寺の名宝を一堂に集めたもので、バラエティに富み、見応えがあった。特によかったのは仏画。園城寺(三井寺)の『仏涅槃図』(室町時代)は、大津絵みたいなユーモアが感じられた。西教寺の『迅雲阿弥陀来迎図』(鎌倉時代)は、「迅雲」の名に恥じず、スピード感にあふれる。延暦寺の『普賢延命像』(室町時代)は、四頭一身の背の高い白象が凛々しくてカッコいい! 蓮華座に乗った普賢菩薩は、茫洋として、中国の皇帝みたいな顔つき。
仏像では、いま、山を下ってきたばかりの正法寺(岩間寺)から、ほぼ等身大の『婆藪仙人立像』が出陳されていた。午前中の観音正寺で、千手観音の脇侍に婆藪仙人と吉祥天を配するのは、ほかに岩間寺など、という話を聞いたのに、岩間寺の本堂にお姿がなかったので、おかしいなあ、と思っていたのだ。園城寺の『訶梨帝母倚像』は、何度か見ているが、母性を写実的に表現した名品。一方、『陶製宇賀神像』は、なんだこれは…という珍品で、とぐろを巻く蛇の胴体に老人の顔が載っている。水木しげるの世界みたいだ。建部大社所蔵の女神像・男神像もいい。
ちなみに、この展覧会は「湖信会」(大津の神社と寺院が観光面で協力しあう団体)の結成50周年を祝う企画でもあるそうだ。観光社寺、侮るべからず。ハンディな展示図録『湖都大津 社寺の名宝』には、湖信会十社寺の観光案内も載っている。この図録と、会場内のパネルのイラストは誰が描いたのかなあ。かわいくて、分かりやすくて、とってもいい。
近江八幡の駅前で、3人で夕食。そのあと、それぞれのホテルに散った(さらに続く)。
西国三十三所結縁御開帳もいよいよ佳境! 急遽思い立って、10月2度目の関西行きとなった。
■西国第三十二番 繖山観音正寺(滋賀県蒲生郡)
観音正寺は、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山上にあり、かなりの難所。距離は短いが急な石段の表参道から登るか、だらだらと山道の続く裏参道から登るか、札所めぐり仲間の間では議論があったが、結局、私は、以前にも登ったことのある裏参道を選ぶ。
同寺は、平成5年(1993)に旧本尊を焼失、平成16年(2004)に本堂の落慶法要とともに、総白檀造り千手千眼観世音菩薩坐像の開眼法要が行われたという。私の前回訪問は、2003年の秋だったと思うが、大きな千手観音坐像を間近に拝観した覚えがある。あれは開眼法要前の仮ご開帳だったのかな?
ご本尊は秘仏ではないので、いつ行っても拝めるが、今回の特別拝観では、ご本尊の裏側にまわって、小さな胎内仏(旧本尊の写真を参考に新刻したもの)や寺宝の仏画を拝見することができる。手首に結縁の糸(赤に黄を縒り合わせたもの)を結んでくれたり、和紙の散華でご本尊の「おみぬぐい」をさせてくれたり、フレンドリーな特別拝観だった。本尊の脇侍(これも新刻)は、婆藪仙人(ばすせんにん)と功徳天(吉祥天)。めずらしい取り合わせだと思ったが、たまにあるのだそうだ。帰路は表参道の1200段の石段を下って、長命寺行きの臨時バスをつかまえる。
■西国第三十一番 姨綺耶山(いきやさん)長命寺(滋賀県近江八幡市)
長命寺も2度目の来訪。808段といわれる長い石段を見上げて、そうだ、前回来たのは平日で、地元の中学生が、この石段でトレーニングしてたっけなあ、と思い出す。この秋は、長命寺~観音正寺間に臨時バスが運行しているおかげで、両寺を一気にまわれるのはありがたいが、丈夫な足腰が必須条件である。
同寺の本尊は”千手十一面聖観世音菩薩三尊一体”だというので、ものすごくグロテスクな仏像を想像していたら、何のことはない、横に広い、舞台のようなお厨子の中には、中央に千手観音。右側に、童子のように小柄な十一面観音(水瓶を持つ)。左側に、千手と十一面の間くらいの背丈で、大きな宝冠を付け、未敷蓮華を手にした聖観音が、仲良く並んで立っていらした。三体の微妙な距離感と、微妙な個性の違いが面白くて、いい感じである。芝居錦絵で、主役3人が並んで見得を切っているみたい。
お厨子の右手には、ふだんは御前立ちの千手観音、左手には単独のお厨子に入った小さい千手観音がいらして、「長命寺を代表してよそに出かけるのは、この観音さん」だそうだ。また、見にくいが奥の暗がりには、毘沙門天と不動明王がいらっしゃる。あっ懐中電灯で照らしたりしたら叱られるでしょ、と思ったら、参拝客ではなくて、お坊さんが自らライトで照らして説明してくださるので、ありがたかった。
さらに本堂には、多数の仏像や寺宝が並べられている。特に目を引くのは、桃山時代の『長命寺参詣曼荼羅』。奈良博の『西国三十三所』展の図録を見たら、同展にも出品されている。私は、失礼ながら、この参詣曼荼羅を見て、ええ~熊野じゃないの?と疑ってしまった。だって、滝と三重塔が描かれているし…。しかし、あらためて『西国三十三所』展の図録で、各所の参詣曼荼羅を比べてみると、塔や石段など、パーツの描き方は流用しながら、それぞれの寺社の特色(地形や伽藍)を描き分けていることが分かった。
※参考:各地に現存する参詣曼荼羅図の例(世界遺産熊野絵解き図制作委員会)
http://kumano-etoki.jp/other_mandara.html
この日、朝から岩間寺に向かった友人から、「混雑のため臨時便が出ている」旨の現地情報が携帯メールに届く。別の友人は、葛井寺の拝観を終えて岩間寺に向かうというので、私も、次の札所、岩間寺行きバスの出る石山駅に急ぐ(明日に続く)。
■西国第三十二番 繖山観音正寺(滋賀県蒲生郡)
観音正寺は、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)の山上にあり、かなりの難所。距離は短いが急な石段の表参道から登るか、だらだらと山道の続く裏参道から登るか、札所めぐり仲間の間では議論があったが、結局、私は、以前にも登ったことのある裏参道を選ぶ。
同寺は、平成5年(1993)に旧本尊を焼失、平成16年(2004)に本堂の落慶法要とともに、総白檀造り千手千眼観世音菩薩坐像の開眼法要が行われたという。私の前回訪問は、2003年の秋だったと思うが、大きな千手観音坐像を間近に拝観した覚えがある。あれは開眼法要前の仮ご開帳だったのかな?
ご本尊は秘仏ではないので、いつ行っても拝めるが、今回の特別拝観では、ご本尊の裏側にまわって、小さな胎内仏(旧本尊の写真を参考に新刻したもの)や寺宝の仏画を拝見することができる。手首に結縁の糸(赤に黄を縒り合わせたもの)を結んでくれたり、和紙の散華でご本尊の「おみぬぐい」をさせてくれたり、フレンドリーな特別拝観だった。本尊の脇侍(これも新刻)は、婆藪仙人(ばすせんにん)と功徳天(吉祥天)。めずらしい取り合わせだと思ったが、たまにあるのだそうだ。帰路は表参道の1200段の石段を下って、長命寺行きの臨時バスをつかまえる。
■西国第三十一番 姨綺耶山(いきやさん)長命寺(滋賀県近江八幡市)
長命寺も2度目の来訪。808段といわれる長い石段を見上げて、そうだ、前回来たのは平日で、地元の中学生が、この石段でトレーニングしてたっけなあ、と思い出す。この秋は、長命寺~観音正寺間に臨時バスが運行しているおかげで、両寺を一気にまわれるのはありがたいが、丈夫な足腰が必須条件である。
同寺の本尊は”千手十一面聖観世音菩薩三尊一体”だというので、ものすごくグロテスクな仏像を想像していたら、何のことはない、横に広い、舞台のようなお厨子の中には、中央に千手観音。右側に、童子のように小柄な十一面観音(水瓶を持つ)。左側に、千手と十一面の間くらいの背丈で、大きな宝冠を付け、未敷蓮華を手にした聖観音が、仲良く並んで立っていらした。三体の微妙な距離感と、微妙な個性の違いが面白くて、いい感じである。芝居錦絵で、主役3人が並んで見得を切っているみたい。
お厨子の右手には、ふだんは御前立ちの千手観音、左手には単独のお厨子に入った小さい千手観音がいらして、「長命寺を代表してよそに出かけるのは、この観音さん」だそうだ。また、見にくいが奥の暗がりには、毘沙門天と不動明王がいらっしゃる。あっ懐中電灯で照らしたりしたら叱られるでしょ、と思ったら、参拝客ではなくて、お坊さんが自らライトで照らして説明してくださるので、ありがたかった。
さらに本堂には、多数の仏像や寺宝が並べられている。特に目を引くのは、桃山時代の『長命寺参詣曼荼羅』。奈良博の『西国三十三所』展の図録を見たら、同展にも出品されている。私は、失礼ながら、この参詣曼荼羅を見て、ええ~熊野じゃないの?と疑ってしまった。だって、滝と三重塔が描かれているし…。しかし、あらためて『西国三十三所』展の図録で、各所の参詣曼荼羅を比べてみると、塔や石段など、パーツの描き方は流用しながら、それぞれの寺社の特色(地形や伽藍)を描き分けていることが分かった。
※参考:各地に現存する参詣曼荼羅図の例(世界遺産熊野絵解き図制作委員会)
http://kumano-etoki.jp/other_mandara.html
この日、朝から岩間寺に向かった友人から、「混雑のため臨時便が出ている」旨の現地情報が携帯メールに届く。別の友人は、葛井寺の拝観を終えて岩間寺に向かうというので、私も、次の札所、岩間寺行きバスの出る石山駅に急ぐ(明日に続く)。