見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

男たちの戦い/中国時代劇で学ぶ中国の歴史2019年版

2018-09-30 23:57:43 | 読んだもの(書籍)
〇雑誌・キネマ旬報ムック『中国時代劇で学ぶ中国の歴史 2019年版』 キネマ旬報 2018.8

 この「中国時代劇で学ぶ中国の歴史」シリーズが、少し前から出ているのは知っていた。調べたら2014年版が最初らしい。ちなみに姉妹編の「韓国ドラマで学ぶ韓国の歴史」(または朝鮮王朝の歴史)シリーズは2003年から出ている。しかし、私は韓国ドラマには興味がなかったし、こういうムックに取り上げられる中国時代劇(豪華絢爛、美男美女俳優が主役の宮廷ロマンス)は、ちょっと私の趣味と違うんだよな~と思って敬遠してきた。2018年版には『瑯琊榜』が取り上げられていたので、読みたい記事だけ立ち読みしてみたが、まだ買わなかった。

 それが、2019年版には、私の好きなドラマ、これから見たいと思っているドラマが、かなり載っていると分かって、ついに買ってしまった。目次を見ると、新旧あわせて60作品くらいが取り上げられている。私が視聴済みなのは『瑯琊榜』と『琅琊榜〈弐〉風雲来る長林軍』『三国志~司馬懿 軍師連盟』『少林問道』『天命の子~趙氏孤児』『隋唐演義』『射雕英雄伝』(2017年版)など。ジャンル的にいうと「男たちの命がけの戦い」が「宮廷ロマンス」や「美麗ファンタジー」より先に扱われているのがたいへん嬉しい。中国時代劇ファンの多数派の好みって、やっぱり「男人劇」のほうがないかと思う。

 これから見たいと思っている『昭王~大秦帝国の夜明け~』(大秦帝国之崛起、2017年)や、この週末から見始めた『月に咲く花の如く』(那年花開月正圓、2017年)も紹介されていて、人物相関図など役に立っている。2010年制作の『三国志 Three Kingdoms』もいつかは見たい。評判のいい『開封府』や胡軍の『フビライ・ハン』も見たいドラマに数えているのだが、気になる新作がどんどん公開されているので、しばらくは難しそう。

 ふだん中国ドラマは、あまり解像度のよくないストリーミングで見ているのだが、本誌のようなグラビアで見ると、衣装や装飾品、調度品の質が非常に高いことが分かる。まあ作品によるのだが、私がCSで中国時代劇を見始めたのは2000年頃に比べると、衣装やセットにこだわりのある作品が増えたと思う。

 本誌を読んで混乱したことがひとつ。役名は(実在人物であれ架空の人物であれ)司馬懿とか岳飛とか梅長蘇とか、漢字表記(フリガナは日本語読み)なのだが、キャスト、監督、脚本など、現代人の名前は全て現地読み?のカタカナ表記に統一されているのだ(ただし校正ミスか定着したカタカナ表記がないためか、一部に漢字表記が残っている)。ウー・ショウポー(呉秀波)とかワン・ルオヨン(王洛勇)とか、私は漢字のほうがいいのだがなあ。しかし、台湾の俳優さんだとビクター・ホァン(黄維徳)みたいな名乗りを持っている方もいるし、もはや日本の若いファンにとって、ルハン(鹿晗)やリウ・ハオラン(劉昊然)は、現地読みのほうが自然かもしれない。現代中国人名の扱いがこれからどうなっていくのか、興味深い。

 ちなみに本誌で「中国の歴史」が学べるどうかだが、私は有効だと思う。歴史解説のページは少ないが、各王朝の特色など要点がまとまっている。中国ドラマは、周辺国を登場させることが多いので、日本の教科書で学ぶ中国史よりも、広い地域史の視点が身につくのではないかと思う。

 さて次の2019年版に『三国機密』は入るだろうな。『遠大前程』は入るかな。最近の中国時代劇は、隋唐以前を舞台にした古代史ものが多いように思う。以前は多かった清末~民国期のドラマが少し寂しい。もっと作ってほしい。
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内モンゴル自治区の体験/「知識青年」の1968年(楊海英)

2018-09-27 23:34:43 | 読んだもの(書籍)
〇楊海英『「知識青年」の1968年』 岩波書店 2018.7

 文化大革命(1966-1976)当時、1700万人もの青年たちが中国の都市部から動員されて、農山村へ送り込まれた。いわゆる下放運動である。本書は、内モンゴルや新彊などの辺境に送られた元「知識青年」たち(男女を問わない)へのインタビュー取材によって、彼らが体験したことや、彼らが残した影響を探る。

 本書カバーの折り込み、それから序章の冒頭には、中国人と少数民族との稀有な「相思相愛関係」という言葉が使われている。中国人(漢民族)は、中国こそ天下の中心で、中国人は最も文明開化した民族だという自意識を持ち、周辺に住む諸民族を「野蛮人」として見下してきた。これは歴史的な構造的対立である。けれども文革中に内モンゴル自治区に下放された青年たちは、今でもモンゴル人の善意を忘れず、内モンゴル自治区を第二の故郷だと思っている。逆も然りで、中国人が好きなモンゴル人はほとんどいないが、下放青年だけは愛すべき中国人として記憶されているという。そんなことがあるものだろうか、と半信半疑で本書を読み始めた。

 文化大革命については、映画や小説で知っているつもりだったが、初めて知ったこともある。紅衛兵にも世代があって、初期の「老紅衛兵」は共産党の高級幹部の子弟だったが、文革発動から3年目の1968年、武力闘争の激化を警戒した毛沢東は、彼らを都市部から動員し、農村に「下放」することに決めた。入れ代わりに造反派の紅衛兵が台頭し、老紅衛兵の青年たちは、造反派に打倒される側になった。

 モンゴル人の近代史も初めて概略を知った。19世紀末以降、中国、日本、ソ連の間で翻弄され、米ソ英が1945年に交わした「ヤルタ協定」の結果、戦後、南モンゴルは中国に帰属し、内モンゴル自治区にならざるを得なかった。文革期には、満州国に協力したモンゴル人の「原罪」が問われた。人民解放軍の支配の下、2万人以上が殺害され、多くの人々が粛清の対象となった。著者は、下放青年とモンゴル人の間には、排除され、虐待されていた者たちの同病相憐れむ精神があったのではないかと述べている。

 この評価は難しい。確かに本書に登場する元「知識青年」たち(十数人くらい?)は、著者の推測を裏付ける証言をしている。しかし、それがどの程度、標準的なのか。また、多くの「知識青年」が下放先で農民たちから敵視されたのに、モンゴル人だけが優しかったという総括を、モンゴル人である著者は「自民族を美化している」と見られないよう、慎重に書いているが、やっぱり少し疑いを感じてしまう。

 なんとなく腑に落ちるのは、モンゴル人の草原に押し入り、片っ端から開墾して砂漠にしていく(気候や地質が農耕に不向きな草原は、一度開墾されると砂漠化してしまう)無知で暴力的な中国農民の肖像である。オルドス(内モンゴル自治区西南部)に侵入してきたのは、貧しい陝西省北部の農民だった。中国農民の多くは、そのくらい図々しく暴力的でなければ生きていけなかったのではないか。一方、都市部の「知識青年」たちは、異なる文化、異なる生活様式に適応する能力を持っていた。モンゴル語を学び、馬や羊の扱い方を覚えた者もいる。そして暴力的な中国農民も、謙虚で礼儀正しい「知識青年」も、どちらも中国人なのである。さらに本書には、少数民族や下放青年たちに対して、幹部級の中国人がとった残虐で抑圧的な振舞いの数々も記録されている。特に女性に対する性的な抑圧は酷い。汚い話が嫌いな人は読まない方がいい。

 本書を読んで思ったのは、結局「中国人」とか「モンゴル人」とかの主語で何かを語ることは、ほとんど意味がないということだ。たとえば先の戦争についても、植民地や占領地で尊敬された日本人はいただろうし、今でも親日的な人が多い地域もあるだろう。しかし、それは特定の個人あるいは特定のグループとグループの間で成り立った信頼関係でしかないのである。

 どういうときに信頼関係が成り立つかといえば、やはり「やって来た」側の下放青年たちが、現地の言葉を懸命に学び、遊牧民の知識を身につけようとし、遊牧民の生き方を否定しなかったことが大きい。著者は「これは、内陸アジアの遊牧民と中国の交流史のなかでも、特異な事例といえるのではないか」と書いている。「特異」かどうかの判断は保留するが、中国国内の少数民族問題を解決するためのヒントにはなると思う。
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愛国と暴力装置/「右翼」の戦後史(安田浩一)

2018-09-26 23:56:29 | 読んだもの(書籍)
〇安田浩一『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書) 講談社 2018.7

 日本における右翼とは何者か、何を目指そうとしてきたのかを、歴史に沿って考える。はじめに基本的な定義として、右翼とは、自由、平等の理想を掲げる左翼と異なり、国家への忠誠を優先する者であること、日本の場合、そこに絶対不可侵の天皇という存在が加わることが示される。

 本書の記述の大半は「戦後史」だが、序章だけは戦前を扱う。日本右翼の源流は幕末の「水戸学」にさかのぼるという。明治の自由民権運動は左右両翼の運動を育て、その中から、日本初の右翼団体である玄洋社が誕生する。玄洋社は大アジア主義を唱え、アジア各国の民族自決を支援した。しかし明治中期を過ぎると、左右は異なる道を歩むようになり、大正時代には「反社会主義」を標榜する右翼団体が生まれた。彼らは、労働争議や小作争議を弾圧したい企業経営者や地主層にとって都合のよい、暴力装置として機能した。昭和に入ると明確な思想性を持つ右翼団体が生まれ、血盟団から二・二六に至る右翼テロが頻発する。しかし、二・二六事件が天皇の拒絶によって失敗して以後、「反体制」であった右翼は体制に取り込まれ、ついに日本全体が右翼の掲げる「神話」に熱狂するようになった。この駆け足の「戦前史」には、いろいろな逆説がしのびこんでいて、本文の「戦後史」よりも面白いと感じた。

 以下、戦後について。終戦に抵抗した「伝統右翼」たちの行状は全く知らないもので興味深かった。愛宕山事件とか松江騒擾事件とか、日本郵船の愛国的労働組合「明朗会」の自決、「大東塾」の練兵場での自決(代々木公園に石碑がある)など、大局的にはほとんど無意味な人間の行動に、私は関心を掻き立てられる。

 終戦直後には、復員軍人や虚無的な若者を中心として「任侠右翼」(ヤクザ系右翼)が生まれた。彼らは「反共」を叫んでいたが、思想的な支柱はなく、暴力だけが実践だった。終戦から3年ほど経つと、軍国主義は許さないが左翼の隆盛も望まないGHQの空気を読んで、戦前右翼が復活を始める。街宣スタイルを確立した彼らは「行動右翼」と呼ばれるようになった。復活した右翼は「反共」「自立」のため、米国を利用しようと考えた。その結果、「親米」に変節した右翼は、国家権力にとって非常に利用しやすい勢力となり、自民党、政財界と結びついた。その後、学園紛争と新左翼の伸長を背景に、従来の右翼を否定する(反米・反体制的な)「新右翼」が登場した。牛嶋徳太朗、鈴木邦男の証言が取り上げられている。

 著者は本書の冒頭で、日本右翼の戦後史は1970年から新しい時代が始まると述べている。しかし前史としての「幕末~戦前」及び「終戦~1970年」が非常に分かりやすいのに比べると、最後の「1970年以降」は分かりにくい。60年代末の右派学生運動に胚胎し、70年代に位置づけられる「新左翼」の次は、いきなり「宗教右派」の台頭と日本会議の話題になってしまうのだ。著者の見取図では、70年代以降、左翼運動の急激な衰退にともなって、右翼も方向性を失い、「反共」に代わるテーゼとして取り入れられたのが「改憲」で、宗教右派は、元号法制化、教科書問題など、地道な活動を続けて今日に至るということなのだろう。しかし、80年代、90年代には、何か重要な分岐点というものはなかったのだろうか。

 そして最後に「ネット右翼」にも1章を設ける。「ネット右翼(ネトウヨ)」と「本物の右翼」は違う、という主張があるが、本書を読むと、そもそも「本物の右翼」とは何か、そんな区別に意味があるのか?という疑問が生ずる。いつの時代でも、確たる思想的基盤もなく「反共」「愛国」等々、適当なスローガンを奉じて(これは右翼だけではない)暴力の行使を楽しもうとする輩は大勢いる。一方、真摯に同胞のことを考え、先人を敬慕し、少しでも社会をよくする実践に生きる「右翼」もいる。本書は、そうした、声の大きくない少数派の右翼の生き方を折々に紹介しており、知ることができてよかった。
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誰でも楽しめる/教養の中国史(津田資久、井ノ口哲也)

2018-09-24 22:52:41 | 読んだもの(書籍)
〇津田資久、井ノ口哲也編著『教養の中国史』 ミネルヴァ書房 2018.8

 中国史の概説書を見ると、時々読んでみたくなる。しかし1冊か2冊で古代から近現代までをカバーし、かつクオリティの高い概説書は、そんなにあるものではない。そう思っていたら、本書の評判がいいので読んでみることにした。編著者のおふたりは1971年生まれで私より年下だが、「はじめに」に書かれた日中関係と中国イメージの変化には、共感できるところがあった。

 著者たちが学生だった90年代には、依然現地に関する情報は少なく、見知らぬ大地へのロマンを掻き立てられ、貧乏旅行に赴いた。その後、中国の経済発展により、今では多くの中国人観光客が日本を訪れるようになったが、逆に日本社会の中国への眼差しは冷え切っている。即物的かつネガティブな話題は盛んに紹介されるが、やや長めに歴史的経緯を俯瞰した「教養」の視点がすっぽり抜け落ちている。そこで、誰でも「知的に楽しめる」中国史を目指したのが本書である。編著者ふたりの署名のある序章「中国史を学ぶということ」に続き、執筆者の異なる13章と9つのコラムで構成されている。章題と執筆者は以下のとおり。

1)中華意識の形成-先秦史(渡邉英幸)
2)専制国家体制の確立と拡大-秦代~漢武帝前期(水間大輔)
3)儒家思想の浸透と外戚・宦官の専横-前漢中期~後漢(井ノ口哲也)
4)〈貴族〉の盛衰と「天下」観の変容-三国・両晋・南朝(津田資久)
5)草原から中華への軌跡-匈奴・五胡・北朝(松下憲一)
6)中国的「美」の営み-仏教美術の道のり(森田美樹)
7)礼教国家の完成と東アジア秩序-隋・唐(江川式部)
8)〈財政国家〉と士大夫官僚-唐後半期・五代・北宋・南宋(宮崎聖明)
9)ユーラシア世界の「首都」北京-契丹(遼)・金・元(渡辺健哉)
10)伝統中国社会の完成-明・清(小川快之)
11)「富強」をめざして-清末・中華民国・中華人民共和国(小野寺史郎)
12)多様化する文学、漂泊する作家たち-中国と台湾をめぐる現代文学の歩み(小笠原淳)
13)現代中国案内-変貌する家族・生活・メディア(森平崇文)

 「匈奴・五胡・北朝」と「契丹(遼)・金・元」に各1章が割り当てられているのは、近年、ユーラシア史が注目を集めていることの反映だろうか。北宋と契丹の和睦(澶淵の盟)について、「北宋にとって屈辱的なもの」という見方は一面的で、北宋に課せられた絹と銀はそれほど重い負担ではなく、両国に平和と安定をもたらし、さらに国境における交易によって銀は北宋に還流したという指摘が面白かった。

 契丹はだいぶイメージできるようになったが、金についてもっと知りたい。金の宗教は多神崇拝のシャーマニズムで、鷹に対する崇拝が強く、鷹頭人身の女性が乳児に乳を与える素焼きの像が発掘されているようだ。また金朝の皇帝は各派の道士を召して道教を保護したそうで、全真教の王重陽、その弟子・王処一、丘処機(全真七子!)の名前が出てきたときは、変な声が出そうになった。丘処機はチンギス・カンの幕営にも招かれているのか。そして金の中都に戻った丘処機が本拠とした長春宮は、現在の北京の白雲観だという…。『射雕英雄伝』の世界が目の前に!

 しかし全体の三分の二くらい読み進んでもまだ唐後期を論じていたので、残り分量的に大丈夫か?と思った。古代史の比重が高いのは、新たな資料の発見による研究の進展を反映しているのかもしれない。明清代は駆け足だが、明の皇族にはキリスト教に入信した者が多く、永楽帝の生母の馬太后や皇后、皇太子もクリスチャンネームを持っていたというのは初めて知った。明清時代に完成した伝統中国社会が、伝統日本社会(江戸時代)と違っていた点として、さまざまな人々が自己主張をぶつけあう「訴訟社会」だったというのは面白い。宋から明清を舞台とした古装ドラマを思い出すと、納得できる感じがする。

 近現代を扱った2編について、まず「現代文学」という括りで文学と映画が並列的に論じられているのが面白かった。「1980年代の文学の一つの特徴として、テクストと映画による二重の表現と受容があった」というのは、まさにそのとおり。確かに陳凱歌の『さらば、わが愛』、張芸謀の『活きる』、田壮壮の『青い凧』、賈樟柯の『プラットフォーム』などの作品を除いて、現代中国文学を語ることはできないし、映画というメディアを通じて、現代中国文学は世界中にファンを獲得したと思う。

 終章は、オーディション番組の流行や荒唐無稽な「抗日ドラマ」の楽しみ方など、なかなか通な現代中国案内になっている。あまり知らなかったこととして、伝統芸能の「相声」(中国漫才)が21世紀以降、ブームになっているというのが興味深かった。

 上記には些末な知識ばかり取り上げてしまったが、「中華意識」あるいは「天下」というがどのように生まれ、変化していくかという大局的な問題も面白かった。序章には、「全国的にみて大学で中国史を専門的に学べる場が確実に減ってきている」という寂しい報告もあるが、これからも多くの才能ある若者が、中国学を志してくれますように。
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さっぽろペンギンコロニーin東京でお買い物

2018-09-24 19:01:34 | なごみ写真帖
さっぽろペンギンコロニーin東京(2018年9月20日~24日、 自由帳ギャラリー@杉並区高円寺)に行ってきた。

「さっぽろペンギンコロニー」というのは、北海道でペンギンをテーマにした器や小物を作っている工藤ちえ奈さんを中心に、陶器、ガラス、真鍮、革、布小物などのクラフト作家が、ペンギンづくしの作品を持ち寄る展示販売イベントである。北海道内の作家さんが中心だが、最近は道外からの参加もあるらしい。

調べたら、札幌では2014年の秋から不定期に開催されているらしい。私は2015年の春まで札幌に住んでいたのだが、行く機会がなかった。本州に戻ってからネットで知って、行ってみたいなあと切望していた。しかし、なかなか私が北海道へ行くタイミングと合わなかった。そうしたら、なんと初の東京開催の情報が流れてきたので、この三連休の初日に行ってみた。



すでに品物はかなり売れてしまっていたけど、工藤ちえ奈さんのカップ(ラスいち!)と和泉まゆさんのブローチをゲット。どちらも使い勝手がよさそうで、すごくうれしい。大事にします。

※ばにきちさんのブログ:ペンギンモール
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2018年9月@関西:逸翁美術館+高麗青磁(東洋陶磁美術館)

2018-09-23 23:58:07 | 行ったもの(美術館・見仏)
逸翁美術館 2018展示II【特別展】茶の湯交遊録III『東西数寄者の審美眼 阪急・小林一三と東急・五島慶太のコレクション』(2018年8月25日~10月14日)

 関西旅行の最終日は大坂。逸翁美術館が所蔵する、阪急電鉄の創業者小林一三(逸翁、1873-1957)と、東京の五島美術館が所蔵する、東急グループの基礎を築いた五島慶太(古経楼、1882-1959)の美術工芸品コレクションを併せて紹介する展覧会。8月からずっと気になっていた。最近、10月下旬から五島美術館に巡回することを知ったのだが、そうなると、逆に両会場を比べてみたくなった。

 大阪会場だと逸翁コレクションの比重が高いかな?と思っていたが、両コレクションの扱いはほぼ平等だった。実は、両者には共通する作品が多いのだ。そこで、古経でいえば、白描絵料紙梵字陀羅尼経の「伊勢物語・河内越」(逸翁)と「伊勢物語・笛を吹く男」(五島)を並べたり、絵巻でいえば『大江山絵詞』の南北朝時代写本(逸翁)と江戸時代写本(五島)を並べてみる。なお、帰属がすぐ分かるように、逸翁コレクションは小豆色、五島慶太コレクションは緑色をテーマカラーにしていた。阪急電車と東急電鉄のイメージかもしれない。

 両コレクションの競演が特に豪華なのは、歌仙絵・古筆関係。『佐竹本三十六歌仙絵』の藤原高光(逸翁)と清原元輔(五島)を並べて見ることができた。高光は(東京にいると)見る機会が少ないけど、下襲の裾が豪華で、さすが美男子顔だなあ。関戸本古今集切も、中院切も、なんと石山切(伊勢集)も両コレクションから。継色紙は残念ながら後期(9/19-)出品だった。逸翁コレクションの継色紙(あまつかぜ)は私の大好きなものなので、東京会場では見逃さないようにしたい。

 続いて、禅僧の墨蹟は五島コレクションの独壇場。逸翁はあまり興味を持っていなかったようだ。逆に逸翁は洒脱な俳画を好んで、蕪村の「又平に」句自画賛や『奥の細道画巻』を蒐集している。その延長上に、応挙や呉春、芦雪の絵画もあるようだ。長沢芦雪の『降雪狗児図』は私の大好きな作品! これが見られただけでも大阪会場に来た意味があった。

 茶道具は共通品も多く、競り合っている感じ。でも全体として、五島のほうが老人趣味であるのに対し、逸翁のほうが可愛いもの好きで、女子力高めな感じがする。

大阪市立東洋陶磁美術館 特別展『高麗青磁-ヒスイのきらめき』(2018年9月1日~11月25日)

 高麗時代(918-1392)に製作された高麗青磁を特集する。高麗王朝の滅亡とともに忘れさられた「幻のやきもの」が、19世紀末から20世紀初頭にかけて、墳墓や遺跡から発掘され、再び脚光を浴びた経緯は、第1室のパネルに詳しい(唐三彩を思い出す)。「再発見」からさほど遠くない時期に、高麗磁器の「再現」が始まり、李王家の美術品製作所や民間の実業家、日本人や韓国人の陶工が取り組んだ。

 最初の展示室に並んだ、よく似た瓜型水注。↓こちらは高麗青磁(12世紀後半~13世紀後半)で、 



 ↓こちらは20世紀初頭の再現品である。



 実は、どちらも安宅コレクションでは「高麗青磁」として扱われていたという。このほかにも第1室には、本来の高麗青磁と再現品のペアが並んでいたが、正直、あまり区別がつかなかった。

 展示品は約240件。同館コレクションのほか、寧楽美術館、東博、静嘉堂、根津美術館、大和文華館などからも出陳されており、日本国内の高麗青磁をかなり網羅的に見ることができるのではないかと思う。ほぼ全て撮影可で、SNSなどで拡散することが推奨されている。これだけ数が多いと、どの写真を選ぶか難しいが、私が一番気に入ったのは、「練上」という技法でマーブル模様をつくり出した小さな盒(ふたもの)。



 会場の解説には『宣和奉使高麗図経』という書物の名前がたびたび登場していた。宋・徽宗の宣和年間に高麗に派遣された官人が著述したもので、高麗の歴史、政治、社会の重要史料であるという。こんな細かいことまで、と思うようなことが記録に残っているので面白かった。
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2018年9月@関西:延暦寺根本中堂+六波羅蜜寺

2018-09-22 22:53:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
比叡山延暦寺(滋賀県大津市)

 『至宝展』レポートの続き。なお、国宝殿のエントランスで、迦如来坐像の両脇を固めていた羅漢像からお気に入りを紹介しておく。白い肌が色っぽい美形の羅漢さんと、虎と仲良しの優しそうな羅漢さん。





 比叡山に来た目的がもうひとつあったので、延暦寺会館に向かう。喫茶「れいほう」で梵字ラテが飲めると聞いていたのだ。自分の干支を伝えると守り本尊の梵字を入れてくれる。私は子歳なので千手観音を表すキリーク。



 畏れ多くも守り本尊を飲み干して、体の中に取り込んでしまう。



 お茶のあとは、東塔の諸堂を拝観。根本中堂は2016年から大改修(約10年間)に入っていて、薄鼠色の覆い屋に回廊ごとすっぽり覆われていた。覆い屋の中は、一部撮影OKの場所もあり、檜皮葺の回廊の屋根など、いつもと違う風景を間近に見るチャンスでもある。







 この日は一日比叡山で過ごすつもりだったが、『至宝展』を見たら古い仏像が見たくなってしまい、東塔だけで下山することに決めた。シャトルバスで比叡山山頂に行き、ロープウェイとケーブルカーを乗り継いで八瀬に下りる。確か学生時代(約30年前)に初めて比叡山に来たときも、このルートを使ったように思う。ロープウェイの駅舎が古い上に、駅員のおじいちゃんがアバウトにお客を詰め込む(ように見えた)ので、ちょっと不安になった。しかし展望は素晴らしかった。緑のトンネルを下るケーブルカーも趣きがある。いつか紅葉の時期に来てみたい。八瀬駅から叡山電車、出町柳で京阪電車に乗り換え、祇園四条へ出た。

補陀洛山 六波羅蜜寺(京都市東山区)

 六波羅蜜寺はもちろん何度も来ているが、考えたら最近、宝物館に入っていない気がした。実は、今年1月、宝物館に寄ろうとして、受付終了時刻(16時半)に間に合わなかったので、そのリベンジでもある。久しぶりの宝物館に入って、おや?と思った。なんとなく記憶と違うのだ。調べたら2008年秋に改修されているので、なんと10年ぶりになるのかもしれない。いや来ているのに覚えていないだけか?

 本堂の裏の宝物館は横に長い建物で、正面は、須弥壇ふうの長い展示台の上に、いくつかの仏像・彫像が並ぶ。完全密閉の展示ケースではなくて、四方(三方?)だけが低いガラス板で囲まれているので、水槽(いけす)に収まっているみたい。私はここの地蔵菩薩立像が大好きなのだ。同じ台に並ぶ慶派の地蔵菩薩坐像もいいけど。運慶坐像、湛慶坐像は、近年、さまざまな展覧会で見ているが、やっぱりホームでお会いすると懐かしい。

 部屋の右隅には、大きな薬師如来坐像と四天王立像(どちらも平安時代)。四天王立像は、ある程度、形式化した品のよさが好ましい。ただ、増長天や持国天の持っている刀が、日本ふうの片刃なのは違和感がある(後補だろうけど)。左隅は完全密閉式の展示ケースで、最も重要な空也上人立像や平清盛坐像が収められている。と、平安・鎌倉時代の文化財が並ぶ空間に、なんとなく時代的に違和感のある肖像彫刻を発見。解説プレートを見たら「井伊直政像」とある。直政の死後、元和9年(1623)に次男の直孝が造らせて奉納したと伝えられるそうだ。不思議な縁で平清盛と井伊直政が並んだところは、近年の大河ドラマの名作が思い出されてちょっと嬉しい。

 この日は、さらに 東寺(教王護国寺)を拝観することもでき、充実した見仏三昧の一日だった。
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神保町で紹興酒「三国演義」

2018-09-21 23:39:03 | 食べたもの(銘菓・名産)
神保町の中華屋さん「謝謝」で友人と食事。

ボトルでもらった紹興酒「三国演義」! ラベルに呉の孫権の絵!



まあ紹興(浙江省)といえば呉だから…と納得していたのだが、ネットで調べたら、シリーズで発売されていることが分かった。孫権は5年もので、劉備・曹操は10年もの、なぜか趙雲は15年もの。これは全種類飲んでみたい。

来年、東博と九博で特別展『三国志』が開催されるそうだが、物販コーナーにあったら買う。
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2018年9月@関西:至宝展(比叡山延暦寺)

2018-09-20 23:56:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
比叡山延暦寺 伝教大師1200年大遠忌記念『至宝展』(2018年8月1日~11月30日)

 比叡山には何度か行ったことがあるので、いつ以来だろう?と思ってブログを検索したが出てこない。ということは、前回の参拝は、このブログを始める前(2004年以前)であるようだ。ちょっとびっくりした。

 行きは京都駅からバスを使った。出発の時点で、すでにほぼ満席。繁華街を北上して、銀閣寺の横から比叡山ドライブウェイに入るのだが、座れないお客さんも多数いた。10時前に東塔地区の比叡山バスセンターに到着。『至宝展』の会場である国宝殿は、朝の8時半から開館しているので、まっすぐ目的地に向かう。本展は、伝教大師最澄上人の1200年大遠忌を記念し、通常非公開とされる仏像・仏画など貴重な文化財の数々が一堂に会する、すごい展覧会なのだ。展示品は70余点で8割以上が彫刻(展示替えあり)。なお、調べたら最澄上人(766/767-822)の1200年忌は2022年のはずなので、けっこう前倒しの記念イベントである。

 国宝殿に入ると、まずエントランスに平安時代の温和な表情の木造釈迦如来坐像。その両脇を、ポップな極彩色の羅漢像が固めていて、楽しい。このエリアだけは写真撮影ができる。

 展示室は1階、2階、3階の3室。1階は平安~鎌倉の古仏が中心。入ってすぐの四天王立像2躯(平安時代、多聞天と広目天)が素晴らしかった。展示室の天井ぎりぎりの大きな立像で、顔が小さめなので実際以上に大きく感じられる。腰をひねり、衣の裾と袖を翻す。やや形式化したポーズで、眉の太い、あまり都風でない顔立ちだが、そこも魅力。広目天は冠の正面にティアラのような飾り(後補?)をつけており、多聞天の冠には翼を広げた鳥?のような飾りがついていた。

 1階は細長い展示室で、一番奥に須弥壇のようなものがあり、黒々として背の高い(縦に細長い)薬師如来坐像(平安時代)がいらした。その手前には、等身大より少し小さい四天王立像4躯がいらして、あまり近づけないようになっていた。解説によれば、この薬師如来は、近年、信者より寄進されたもので、根本中堂の護摩壇に祀られていたことがあり、江戸・元禄の修理銘によれば、佐賀・大興善寺に釈迦如来として祀られていたことが分かるそうだ。なるほど薬壺は持っていないので釈迦如来にも見えないこともない。

 四天王(平安時代)は顔も体も量感があり(特に腰回りの太さ)、袖や天衣など、装飾が目立つ。たぶんポスターになっているのは、この四天王だと思う。無動寺の不動明王と二童子像もよかった。磐座に座る二童子、特に制多迦童子がやんちゃそうで可愛い。好きだったのは、両手を胸の前に上げたポーズの聖観音立像(平安時代)で「非公開」の注記がついていた。確か「非公開」フラグのついた仏像が18件くらいあったと思う。この展覧会、展示図録がないので、全て記憶でレポートを書いている。

 2階展示室は、室町・南北朝以降の仏像が増える。古い仏像も、雨宝童子立像(平安時代)など珍しいものを見ることができた。頭に五輪塔を載せ、右手に宝珠、左手に宝棒を持つ。もとは吉祥天像だったのではないかという解説に納得。小さな妙見菩薩倚像(江戸時代)にもびっくりした。鎮宅霊符神(真武大帝)である。足もとに玄武(亀の背中にとぐろを巻いた蛇)がいる。大黒天立像(鎌倉時代)は福々しい表情だが、まだ太り過ぎを戯画化されるところまでは行っていない。護法神立像(室町時代)は解説に言うとおり、もとは伽藍神だろうなあと思って眺めた。

 なお、仏像以外では最澄筆『天台法華宗年分縁起』を見ることができたのと、『悉曇蔵』8帖が面白かった。梵字の音韻研究書である(らしい)。綴じ糸が見えなかったけど粘葉装だろうか。柿渋色の表紙に書き表題が梵字(サンスクリット)なのもカッコいい。「仁和寺浄光院本」(たぶん)の黒角印が見えた。

 3階展示室は、近現代の書画など。水墨画家・傅益瑶さんの『仏教東漸図』という壁画(着彩)がなかなか面白かった。五台山の花畑で童子と舞う円仁の図が気に入った。
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2018年9月@関西:光悦考(楽美術館)+高麗美術館特別展

2018-09-19 23:42:38 | 行ったもの(美術館・見仏)

楽美術館 開館40周年 秋期特別展『光悦考』(2018年9月2日~12月9日)

 今回の関西旅行の目的の第一は見仏、第二は陶芸である。本展は、本阿弥光悦(1558-1637)が、楽家二代常慶、三代道入との交流の中で生み出した光悦楽茶碗を紹介する。私は楽茶碗も光悦も大好きなので、わくわくする。

 しかし展示室に入ると、すぐ目に飛び込んできたのはケレンのない落ち着いた黒楽茶碗。え?これは?と思ったら、長次郎の『萬代』だった。上から覗き込むのもいいが、真横から見ると無駄のない形の美しさに舌を巻く。アスリートの肉体みたい。「光悦考」と言っても、光悦茶碗だけで展覧会ができるわけではないので、ほかの茶碗も取り交ぜているのだ。多くは楽家歴代の茶碗だが、光悦と同時代の瀬戸黒茶碗「有明」や織部茶碗が出ていたのも面白かった。

 ちなみに本展で見ることができた光悦茶碗は、黒楽茶碗の『雪沓』『朝霧』『水翁』『東(あずま)』『村雲』。赤の『弁財天』『志くれ』『乙御前』。飴釉の『何似生(かじせい)』『立峯(追銘、五月雨)』『紙屋』。白の『冠雪』。一部展示替えがあり、11/10から赤『加賀』が見られる。光悦の代表作の全てではないけれど、かなり網羅されているのではないか。

 比較的初期の頃、同じような黒楽茶碗をいくつも制作しているのが興味深かった。その中では『朝霧』のかたちがいい。『東』は漆黒の闇に白い花吹雪が散るような肌合い。道入が好んだ「蛇蝎釉」の効果である。のちの黒楽茶碗『村雲』はシャープで思い切りがよくて、口まわりに全く釉薬をかけず、岩壁のような素肌が屹立している。

 白楽茶碗の『冠雪』の側面は、口のまわりがモカクリームのような薄茶色、その下がミルクのような白、底に近いあたりは少し青みがかっていて、三色アイスクリームを思い出した。赤楽茶碗『乙御前』はかわいい。底のふくらみが少しふくらみ過ぎて、高台が浮いてしまっているのさえ、愛嬌があって可愛い。極楽浄土の蓮の花のようでもある。中から福々しい童子が姿をあらわしそう。造形が大胆すぎて開いた口がふさがらないのは飴釉茶碗『紙屋』。いや茶碗としてデカすぎだろう、これ。

 本展のタイトル「光悦考」は、御当代・15代吉左衛門が3年がかりで執筆し出版した著書の書名でもある。光悦茶碗のキャプションには、その一節が引用されているのだが、『紙屋』を譬えて、平仮名の「ぬ」というのに笑ってしまった。光悦茶碗はどれも一目見て光悦だと分かる特徴を持っているのだが、15代吉左衛門の『猫割り手』(野良猫が割ってしまった茶碗を継いだもの)は、遠目に見たとき、絶対光悦だと思い、近寄ったら違っていた。

高麗美術館 高麗美術館30周年記念特別展『鄭詔文と高麗美術館』(2018年9月1日~12月11日)

 開館30周年を記念し、初代館長である在日コリアン一世の実業家である鄭詔文(チョン・ジョムン、1918-1989)氏と熱き友情で結ばれた日本の人々との物語を紹介する。この日は学芸員によるギャラリートークがあると分かっていたが、間に合わないだろうと思っていたら、トークの最中に割り込むかたちになってしまった。ちょうど陶磁器の話をしていて、この旅行の最終日に大阪東洋陶磁美術館の『高麗青磁』に行くつもりだったので、いい予習になった。

 高麗(918-1392)というのは戦乱の時代で、契丹に攻められ、金に攻められ、モンゴルに攻められる。その後、李氏朝鮮(1392-1910)になって、豊臣秀吉の壬辰倭乱が起きるわけだが、別に国際戦争はそれだけではないという話が記憶に残った。壬辰倭乱を軽く見てはいけないが、過度に重視するのもやめたほうがいい。

 辰砂で赤色を出すのは(窯の温度調節が)難しく、辰砂で絵を描いた壺は特別な意味を持っていたこと、回青という釉薬で秋草を描く場合、わざと不純物を入れて絵具の明度を下げていたらしい(わび・さびの効果)などの解説も面白かった。展示は、書画も陶芸・工芸品も、とっておきの名品をかなり惜しげもなく出している。

 学芸員の方が「父は」「父は」とおっしゃることに途中で気がついた。鄭詔文氏の長男であり、同館学芸部長の鄭喜斗さんだったのである。同館の基礎となった鄭詔文さんのコレクションは、全て日本で蒐集したものだという解説が印象的だった。「父としては、買い戻すような気持ちだったんでしょうねえ」みたいなことをおっしゃっていたと思う。

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