○国立近代美術館 企画展『安田靫彦展』(2016年3月23日~5月15日)
週末に行った近代絵画展の三つ目は安田靫彦展。実は、土曜日のお昼前から、いちばんに見に行ったのがこの展覧会である。代表作『黄瀬川陣(きせがわのじん)』の頼朝と義経のアップを用いた「待ちかねたぞ」「いざ、竹橋」というコピーがかなり気に入っていた。会場に入ると、なんだか大集団が溜まっていたので、迂回しようと思ったが、どうやら学芸員の方のギャラリートークらしく、作品への愛があふれていて、話が面白いので、私も集団の中に入ってしまった。あとで、本展企画者の鶴見香織さんだったと知った。
安田靫彦(1884-1978)は、10代で小堀鞆音の門に入り、はじめ考証と写実でガチガチの絵を描いていたが、日本美術学院の給費生となり、奈良に滞在して日本の古美術に触れ、大きな影響を受ける。確かに、若描きの『木曽義仲図』や『聚楽茶亭』(永青文庫所蔵!知らなかった)の濃密さに比べると、『甲斐黒駒』や『紅葉の賀』は、広々とした余白、鮮やかな色彩が清々しい。でも写実時代の『守屋大連』は私の好きな作品。これ、聖徳太子と蘇我入鹿で三幅対にする構想だったという話をはじめて聞いた。うわ~どんな作品だったか、想像が広がる。
『御産の時』では裏箔を使い、『項羽』では内側を暈かすような輪郭線を用いている。「靫彦さん」(学芸員の鶴見さんの表現)らしい、スッキリした線と色を手に入れるまで、さまざまな試行錯誤が続く。注目すべきは、この時期、彼が画業の出発点だった鎧武者を全く描かなくなっていること。ギャラリートークでは、時間の関係で飛ばされたが、あとで戻ってみると、『風神雷神図』をはじめ、仏画ふうや王朝ふうの作品が目につく。『六歌仙』は、ただただ美しい。絵巻『月の兎』も好き。それから梅の木立を描いた『春暁』など、歴史的主題でない草木や人物画も描いているのだな。
そして、代表作『黄瀬川陣』は1940(昭和15)年の作。紀元二千六百年奉祝美術展に出品(義経の左隻のみ)されたということを初めて知った。これに先立つ1938年には、朝日新聞社が主催した戦争美術展覧会で前田青邨とともに作品の選定にあたり、平治物語絵巻や神護寺の頼朝像などの武者絵を見ているという。時代は画家たちに戦争協力を求めていた。靫彦さんは、日本画家として何ができるか考えたとき、再び鎧武者を描き始める。けれど、戦意鼓舞のために描かれた作品にも、気の抜けた芸術的価値の低いものもあるし、そうでないものもある。靫彦さんの作品は、どんな状況、どんな目的のもとに描かれたものでも、品位を保っていて美しい、と学芸員さんの弁。そのとおりだと思った。
技術的には、『黄瀬川陣』の白が、胡粉だけの純白だったり、少し他の色を混ぜて明度を下げたり、キラキラする粉を混ぜたり、使い分けられているという話を聞いた。また描かれた武具にはモデルがあるそうだ。ネットで調べたら、頼朝の隣りに置かれた鎧は、伝・畠山重忠所用「赤糸威大鎧」(武蔵御嶽神社蔵)に、義経が着ているのは、源氏の家宝「八領の鎧」の「八龍鎧(はちりゅうよろい)」に似ている。頼朝の隣りには、二振りの太刀も立てかけられているのだが、どちらかが「髭切」なんだろうか。
1943(昭和18)年11月には『山本五十六元帥像』を描いている。これも好きな作品。モデルになるはずだった元帥が戦死してしまったため、写真を見て描いたそうだ。戦後、所在不明になってしまい、発見時には顔面をかなり傷つけられていたが、修復されたというエピソードを聞いた。作品自体は何の罪もない、品のある肖像画なのだが、戦争はいろいろ不幸を引き起こす。その戦争が終わったあとに描かれた『王昭君』は、運命を受け入れる気高い表情を見せていて、敗戦後の日本人のあるべき自画像として、高く評価されたのだそうだ。作品は、その生まれた時代と切り離しても鑑賞可能だが、背景を聞いてみるのも興味深いものだ。
晩年の作品では、線はいよいよ冴え、色彩は朗らかになる。靫彦さんの描く歴史上の人物は、みな懐かしい。知らなかった作品では、秀吉を描いた『伏見の茶亭』が好きになった。横山大観を描いた作もよい。二点あって、どちらもさりげなく煙草を持っている。あと、靫彦さんの文字は、絵と同じくらい品があって、愛らしい。
週末に行った近代絵画展の三つ目は安田靫彦展。実は、土曜日のお昼前から、いちばんに見に行ったのがこの展覧会である。代表作『黄瀬川陣(きせがわのじん)』の頼朝と義経のアップを用いた「待ちかねたぞ」「いざ、竹橋」というコピーがかなり気に入っていた。会場に入ると、なんだか大集団が溜まっていたので、迂回しようと思ったが、どうやら学芸員の方のギャラリートークらしく、作品への愛があふれていて、話が面白いので、私も集団の中に入ってしまった。あとで、本展企画者の鶴見香織さんだったと知った。
安田靫彦(1884-1978)は、10代で小堀鞆音の門に入り、はじめ考証と写実でガチガチの絵を描いていたが、日本美術学院の給費生となり、奈良に滞在して日本の古美術に触れ、大きな影響を受ける。確かに、若描きの『木曽義仲図』や『聚楽茶亭』(永青文庫所蔵!知らなかった)の濃密さに比べると、『甲斐黒駒』や『紅葉の賀』は、広々とした余白、鮮やかな色彩が清々しい。でも写実時代の『守屋大連』は私の好きな作品。これ、聖徳太子と蘇我入鹿で三幅対にする構想だったという話をはじめて聞いた。うわ~どんな作品だったか、想像が広がる。
『御産の時』では裏箔を使い、『項羽』では内側を暈かすような輪郭線を用いている。「靫彦さん」(学芸員の鶴見さんの表現)らしい、スッキリした線と色を手に入れるまで、さまざまな試行錯誤が続く。注目すべきは、この時期、彼が画業の出発点だった鎧武者を全く描かなくなっていること。ギャラリートークでは、時間の関係で飛ばされたが、あとで戻ってみると、『風神雷神図』をはじめ、仏画ふうや王朝ふうの作品が目につく。『六歌仙』は、ただただ美しい。絵巻『月の兎』も好き。それから梅の木立を描いた『春暁』など、歴史的主題でない草木や人物画も描いているのだな。
そして、代表作『黄瀬川陣』は1940(昭和15)年の作。紀元二千六百年奉祝美術展に出品(義経の左隻のみ)されたということを初めて知った。これに先立つ1938年には、朝日新聞社が主催した戦争美術展覧会で前田青邨とともに作品の選定にあたり、平治物語絵巻や神護寺の頼朝像などの武者絵を見ているという。時代は画家たちに戦争協力を求めていた。靫彦さんは、日本画家として何ができるか考えたとき、再び鎧武者を描き始める。けれど、戦意鼓舞のために描かれた作品にも、気の抜けた芸術的価値の低いものもあるし、そうでないものもある。靫彦さんの作品は、どんな状況、どんな目的のもとに描かれたものでも、品位を保っていて美しい、と学芸員さんの弁。そのとおりだと思った。
技術的には、『黄瀬川陣』の白が、胡粉だけの純白だったり、少し他の色を混ぜて明度を下げたり、キラキラする粉を混ぜたり、使い分けられているという話を聞いた。また描かれた武具にはモデルがあるそうだ。ネットで調べたら、頼朝の隣りに置かれた鎧は、伝・畠山重忠所用「赤糸威大鎧」(武蔵御嶽神社蔵)に、義経が着ているのは、源氏の家宝「八領の鎧」の「八龍鎧(はちりゅうよろい)」に似ている。頼朝の隣りには、二振りの太刀も立てかけられているのだが、どちらかが「髭切」なんだろうか。
1943(昭和18)年11月には『山本五十六元帥像』を描いている。これも好きな作品。モデルになるはずだった元帥が戦死してしまったため、写真を見て描いたそうだ。戦後、所在不明になってしまい、発見時には顔面をかなり傷つけられていたが、修復されたというエピソードを聞いた。作品自体は何の罪もない、品のある肖像画なのだが、戦争はいろいろ不幸を引き起こす。その戦争が終わったあとに描かれた『王昭君』は、運命を受け入れる気高い表情を見せていて、敗戦後の日本人のあるべき自画像として、高く評価されたのだそうだ。作品は、その生まれた時代と切り離しても鑑賞可能だが、背景を聞いてみるのも興味深いものだ。
晩年の作品では、線はいよいよ冴え、色彩は朗らかになる。靫彦さんの描く歴史上の人物は、みな懐かしい。知らなかった作品では、秀吉を描いた『伏見の茶亭』が好きになった。横山大観を描いた作もよい。二点あって、どちらもさりげなく煙草を持っている。あと、靫彦さんの文字は、絵と同じくらい品があって、愛らしい。