○吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書) 集英社 2016.2
タイトルだけ見ると、昨年夏の「文系学部廃止」通知騒ぎを論じたもののようだが、本書のパースペクティブはずっと広く深い。日本の大学が、この十数年、苦闘し続けている問題がみっちり詰まっている。大学のありかたに関心を持つ人は多くないのかもしれないが、ぜひ多くの人に心して読んでもらいたい。
2015年6月8日に文科省が各国立大学法人学長に出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知は、新聞報道を通じて広汎な社会的反応を引き起こした。6月後半には「文系学部廃止」という文脈の報道がエスカレートし、7月末から9月にかけて、文科省が批判の集中砲火を浴びる状況になった。
「文系学部廃止」という不正確な報道が(批判を含めて)受け容れられた背景には、「理系=儲かる=役に立つ」「文系=儲からない=役に立たない」という共通理解が、国民一般に成立している状況がある。これこそ根本的な問題なのだと著者は指摘する。「文系は役に立たないが、価値がある」と反論する知識人もいたが、著者はこの立場を取らない。「文系」は「理系」のスパイスとして価値があるのではなく、全く別の次元で「役に立つ」ことを示す。概して理系は目的遂行型の知で短期的に答えを出すことができる。一方、文系は価値創造型の知で、長期的に変化する多元的な価値を捉え、新しい価値を生み出す可能性を持っている。
ここで著者は、混同されることの多い「文系」「リベラルアーツ」「教養」等の用語を整理してくれている。これは分かりやすい! 中世の「リベラルアーツ」には文系も理系も含まれていたこと。神学は「有用の学」なのに、幾何や天文は「リベラルアーツ」だというのは面白い。「教養=文化」概念は、19世紀以降のドイツで国民国家の形成とともに生まれた。だから「グローバルな教養」というのは、そもそも矛盾を含んでいるというのも面白いなあ。そこで、グローバリゼーションの今日、「コンピテンス」のような概念が浮上している。これはスキル教育だから、教養よりも容易に国境を越えることができる。
20世紀のアメリカでは、学部教育の指針として「一般教育(ゼネラル・エデュケーション)」という概念が生まれる。「教養」が過去の伝統との結びつきを重視したのに対し、「一般教育」は、人類の未来的な問題に立ち向かう能動的な知性を具えた市民の育成を目指した。これが日本の新制大学に入って「一般教養」科目になる。「教養」という名前を引きずっているけれど、中身はドイツ国民国家的「教養」ではないのだな。東大の南原繁総長が、旧制高校の教養主義の復活を退けて、この「一般教育」の導入に大きな役割を果たしたことは、初めて知った。けれども日本の大学に「一般教育(一般教養)」が定着することはなく、1991年「大学設置基準の大綱化」によって、教養教育は解体していく。「大綱化」というのは「大学のことは大学で決めてよい」という制度変更らしいが、この手の「規制緩和」「自由化」は、結局、最低レベルの保証を底抜けにするだけのことだ。近年は、コンピテンス(実践的な活用能力)を重視する「共通教育」にシフトしつつある。
ここからは、文系・理系を問わず、日本の大学が直面している危機について考える。その要因は、マクロ的には人口減の中での大学数の継続的増加、世界規模での大学のカンブリア紀的大爆発。もうひとつは文科省に先導された大学政策の結果。中でも、大学院重点化政策が、その後の(とりわけトップクラスの)大学にもたらした帰結が、現場の目から簡潔にまとめられていて興味深い。
では、誰が大学危機を打開できるのか。文科省の予算誘導型の大学政策には限界がある。産業界の人々は、企業と大学の違いを理解していない。と批判を重ねながら、著者は、大学改革のことは大学の自主性に任せればいい、という幻想もバッサリ斬って捨てている。欧米およびアジアの他の諸国と比べても、日本の大学の教授会の自治権の強さは特殊なのだそうだ。これでは「大学自治」ではなく「学部・研究科自治」で、官僚制的ですらなく、むしろ「封建的」(荘園がそれぞれ縄張りを持っている)だという比喩に笑ってしまった。
そこで、一方では大学教授たちの学問的独立性と自由を認めながら、大学を柔軟で創造的な組織に変えていくための三つの方法として「ビジョンの共有」「インセンティブ」「アカデミック・アドミニストレーター(事務職)と教授陣の分業と均衡」を挙げる。詳細は本書に譲るが、特に最後の一項は耳が痛いなあ。教授陣が経営権を握り過ぎているから、事務職が「指示待ち」になり、その結果、教授陣の実務官僚化が進行する。ううむ。
21世紀の大学は、あらゆる面でボーダーレス化、流動化が進む世界において、教育と研究の両面で高度な質を維持する「組織」をつくらなければならない。ここで著者の提案するビジョンは明確で、楽しくてわくわくする。大学は甲殻類から脊索動物、さらに脊椎動物へ進化しなければならない。異分野の専門知を複線的に組み合わせて学ぶ、宮本武蔵の二刀流の時代へ。人生で三回大学に入る時代へ。「アクティブ・ラーニング」という言葉が流通する以前、2000年前後から著者が始めたという授業改革「アタック・ミー」の実践。研究発表と討論を組み合わせた「ゼミナール」というメソッドの汎用性。「論文」の五つの基本要素。これは重要なので、ここにメモを取っておく。(1)問題意識ないしは研究目的の明確化 (2)研究対象の特定 (3)先行研究の批判的検討 (4)分析枠組み(仮説)の構築 (5)フィールドワーク、調査・実験、資料収集 (6)結論と評価。
本書の前半では、日本の大学の疲弊を感じて暗い気持ちになるが、後半を読むと、現在の大学教育が、私の学生時代(30年前)とは比較にならないくらい、洗練され、高度化していることを感じる。これなら、もう一回入りなおして学び直すのも意味あることかもしれない。
タイトルだけ見ると、昨年夏の「文系学部廃止」通知騒ぎを論じたもののようだが、本書のパースペクティブはずっと広く深い。日本の大学が、この十数年、苦闘し続けている問題がみっちり詰まっている。大学のありかたに関心を持つ人は多くないのかもしれないが、ぜひ多くの人に心して読んでもらいたい。
2015年6月8日に文科省が各国立大学法人学長に出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知は、新聞報道を通じて広汎な社会的反応を引き起こした。6月後半には「文系学部廃止」という文脈の報道がエスカレートし、7月末から9月にかけて、文科省が批判の集中砲火を浴びる状況になった。
「文系学部廃止」という不正確な報道が(批判を含めて)受け容れられた背景には、「理系=儲かる=役に立つ」「文系=儲からない=役に立たない」という共通理解が、国民一般に成立している状況がある。これこそ根本的な問題なのだと著者は指摘する。「文系は役に立たないが、価値がある」と反論する知識人もいたが、著者はこの立場を取らない。「文系」は「理系」のスパイスとして価値があるのではなく、全く別の次元で「役に立つ」ことを示す。概して理系は目的遂行型の知で短期的に答えを出すことができる。一方、文系は価値創造型の知で、長期的に変化する多元的な価値を捉え、新しい価値を生み出す可能性を持っている。
ここで著者は、混同されることの多い「文系」「リベラルアーツ」「教養」等の用語を整理してくれている。これは分かりやすい! 中世の「リベラルアーツ」には文系も理系も含まれていたこと。神学は「有用の学」なのに、幾何や天文は「リベラルアーツ」だというのは面白い。「教養=文化」概念は、19世紀以降のドイツで国民国家の形成とともに生まれた。だから「グローバルな教養」というのは、そもそも矛盾を含んでいるというのも面白いなあ。そこで、グローバリゼーションの今日、「コンピテンス」のような概念が浮上している。これはスキル教育だから、教養よりも容易に国境を越えることができる。
20世紀のアメリカでは、学部教育の指針として「一般教育(ゼネラル・エデュケーション)」という概念が生まれる。「教養」が過去の伝統との結びつきを重視したのに対し、「一般教育」は、人類の未来的な問題に立ち向かう能動的な知性を具えた市民の育成を目指した。これが日本の新制大学に入って「一般教養」科目になる。「教養」という名前を引きずっているけれど、中身はドイツ国民国家的「教養」ではないのだな。東大の南原繁総長が、旧制高校の教養主義の復活を退けて、この「一般教育」の導入に大きな役割を果たしたことは、初めて知った。けれども日本の大学に「一般教育(一般教養)」が定着することはなく、1991年「大学設置基準の大綱化」によって、教養教育は解体していく。「大綱化」というのは「大学のことは大学で決めてよい」という制度変更らしいが、この手の「規制緩和」「自由化」は、結局、最低レベルの保証を底抜けにするだけのことだ。近年は、コンピテンス(実践的な活用能力)を重視する「共通教育」にシフトしつつある。
ここからは、文系・理系を問わず、日本の大学が直面している危機について考える。その要因は、マクロ的には人口減の中での大学数の継続的増加、世界規模での大学のカンブリア紀的大爆発。もうひとつは文科省に先導された大学政策の結果。中でも、大学院重点化政策が、その後の(とりわけトップクラスの)大学にもたらした帰結が、現場の目から簡潔にまとめられていて興味深い。
では、誰が大学危機を打開できるのか。文科省の予算誘導型の大学政策には限界がある。産業界の人々は、企業と大学の違いを理解していない。と批判を重ねながら、著者は、大学改革のことは大学の自主性に任せればいい、という幻想もバッサリ斬って捨てている。欧米およびアジアの他の諸国と比べても、日本の大学の教授会の自治権の強さは特殊なのだそうだ。これでは「大学自治」ではなく「学部・研究科自治」で、官僚制的ですらなく、むしろ「封建的」(荘園がそれぞれ縄張りを持っている)だという比喩に笑ってしまった。
そこで、一方では大学教授たちの学問的独立性と自由を認めながら、大学を柔軟で創造的な組織に変えていくための三つの方法として「ビジョンの共有」「インセンティブ」「アカデミック・アドミニストレーター(事務職)と教授陣の分業と均衡」を挙げる。詳細は本書に譲るが、特に最後の一項は耳が痛いなあ。教授陣が経営権を握り過ぎているから、事務職が「指示待ち」になり、その結果、教授陣の実務官僚化が進行する。ううむ。
21世紀の大学は、あらゆる面でボーダーレス化、流動化が進む世界において、教育と研究の両面で高度な質を維持する「組織」をつくらなければならない。ここで著者の提案するビジョンは明確で、楽しくてわくわくする。大学は甲殻類から脊索動物、さらに脊椎動物へ進化しなければならない。異分野の専門知を複線的に組み合わせて学ぶ、宮本武蔵の二刀流の時代へ。人生で三回大学に入る時代へ。「アクティブ・ラーニング」という言葉が流通する以前、2000年前後から著者が始めたという授業改革「アタック・ミー」の実践。研究発表と討論を組み合わせた「ゼミナール」というメソッドの汎用性。「論文」の五つの基本要素。これは重要なので、ここにメモを取っておく。(1)問題意識ないしは研究目的の明確化 (2)研究対象の特定 (3)先行研究の批判的検討 (4)分析枠組み(仮説)の構築 (5)フィールドワーク、調査・実験、資料収集 (6)結論と評価。
本書の前半では、日本の大学の疲弊を感じて暗い気持ちになるが、後半を読むと、現在の大学教育が、私の学生時代(30年前)とは比較にならないくらい、洗練され、高度化していることを感じる。これなら、もう一回入りなおして学び直すのも意味あることかもしれない。