見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

柳宗悦展(そごう美術館)+対談・民藝の本質(山下裕二、尾久彰三)

2011-11-29 21:46:32 | 行ったもの2(講演・公演)
そごう美術館 山下裕二、尾久彰三『対談・民藝の本質』(2011年11月27日)

 没後50年・日本民藝館開館75周年を記念する『柳宗悦展-暮らしへの眼差し』。9月の東京展を見逃した!と思っていたら、引き続き、横浜展(2011年10月22日~12月4日)がそごう美術館で始まって、びっくりした。すぐに行きたかったのだが、このイベントを待って出かけた。何しろ、昨年の『観じる民藝』展では、展示品の酒杯やお銚子を使って、破天荒なトークショーを展開してくれた尾久さんなので。

 今年は、さすがに柳先生(と尾久さんはお呼びになる)に敬意を表してか、法事に行くような黒の背広で登場。パワーポイントで、柳宗悦の生涯を紹介する写真と、本展に出品されている日本民藝館コレクションの優品の写真を見ながら、主に山下先生が質問し、尾久さんが答えるかたちで進行した。

 尾久さん(1947年生)は、柳宗悦(1889-1961)に会った記憶はないという。ただ、幼稚園の頃、おめかしをして、当時まだ珍しかった自動車に乗せられたことがあり、あのときの人が柳先生だったのかもしれない…と話してくださった。尾久少年と「民藝」のかかわりについては、著書の『観じる民藝』で。

 柳宗悦(むねよし/そうえつ)は東京に生まれ、学習院高等科に学び、大学在学中、同人雑誌グループ白樺派に参加する。日本の学校教育では、なぜか「国文学史」だけがカリキュラム化されているため、多くの日本人は「白樺」を文学雑誌として記憶しているのではないか。だが、実際は、"文芸思潮"全般(美術・文学・演劇など)に広い影響を持ったことが、けっこう見逃されているように思う。

 トークでは、柳をめぐる微妙な人間関係もずいぶん話題になった。朝鮮民族美術館や茶の湯をめぐる浅川伯教との「わだかまり」とか。柳は「血脈でつなぐ」という茶道の制度が嫌いだった、とか。それにしては、この会場にも柳宗理(むねみち、1915-)(宗悦の長男)コーナーなんてのがあるよね。あれ、よくないんじゃないの…なんて、そごう美術館の学芸員さんを尻目に、ちょっと意地悪な会話も交わされた。

 河井寛次郎(1890-1966)について、最晩年の作品がとてもいい、という話になったとき、尾久さんが「柳先生の呪縛が解けて…」と口にすると、山下先生がキラリと目を光らせるように「呪縛、と言っちゃいますか」と切り込んだ。やっぱり柳宗悦は、常人でない才能とエネルギーの持ち主だったんだろうなあ。最後の質疑でも、青年時代はデューラーやブレイクに関心を持っていたのに、その後は西洋美術にほとんどコミットしなかったのは何故?という客席からの質問に対し、時間がなかったんですよ、と(尾久さんが?)答えていた。柳は、誰も気づかなかったところに次々と「美」を発見し、猪突猛進で道を切り開いた。全て新しい仕事ばかりだった、という。うむ、本当にそうだな、と思った。

 そして、日用雑器の全てが美しいのではなくて、死屍累々たる工芸品の中から、「柳の眼」が選び出したごくわずかな上澄みが「民藝」なのだということも、少し分かるようになってきた。現代日本に定着した"民芸○○"のゆるい用法にもかかわらず、「民藝」って、骨董よりもずっと厳しい世界なのではないかと思う。尾久さんの〆めのキーワードは、前回と同じく「霊性」だったが、骨董に霊性って似つかわしくないし。

 朝鮮の美術品に関して、戦後、日本民藝館にも、朝鮮半島への返還を迫る人物が訪ねてきたことがあるそうだ。そのとき、正面の大階段を下りてきた柳宗悦は、これらの収蔵品を自分以上に愛せるというなら返そう、と一喝したという。ちょっと胸のすく話である。

 そっと書いておくけど、靴墨を塗って色味を変えた壺の話とか、これは買ったときは○○万円だったけど、今なら○○万円とか(上がったものあり、下がったものあり)、市場の裏話も面白かった。木喰仏は、あまりいいと思ったことがなかったが「民藝」の中に入るといいなあ。いや「柳の眼」で選ばれた木喰仏だからこそ、いいのかもしれない。

 対談を聴き終わって、展示会場を見てまわった。ほとんど日本民藝館で旧知の品だったが、ぐるりと四方をまわるような鑑賞をしたことがないものも多くて、あらためて楽しめた。あと、大きな展示ケースに、服飾、陶器、金属工芸、漆器工芸など、ノンジャンルの品々を並べたところも、色や形の美しさがストレートに伝わってくるようで面白かった。
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対談・民衆革命の実状と未来(酒井啓子、吉見俊哉)

2011-11-28 01:18:24 | 行ったもの2(講演・公演)
ジュンク堂書店新宿店トークセッション 酒井啓子×吉見俊哉『民衆革命の実状と未来』(2011年11月25日)

 酒井啓子さんの著書『〈アラブ大変動〉を読む-民衆革命のゆくえ』(東京外国語大学出版会)の刊行記念イベント。外語大の図書館に勤める友人から情報をいただいた。感謝。

 中東政治を専門とされる酒井啓子さんのお名前は、イラク戦争以降、何度もメディアで拝見する機会があり、著書もずいぶん横目で見てきたのだが、中東って、よくわかんないんだよなーという引け目があって(地図を見ても国名を言い当てる自信さえない)なかなか手に取ることができなかった。それが今回、メディア研究、文化研究など、私にとっては比較的なじみのあるの吉見俊哉氏との対談ということで、少し不思議な組み合わせだと思った。そうしたら冒頭に、おふたりが見田宗介ゼミの先輩後輩だという話があった。へえー。酒井さんが社会学の見田宗介ゼミ出身というのは、かなり意外。

 そして、酒井さんが、2010年の年末から2011年の春にかけて、連鎖的に起きたアラブ世界の政治変動(まだ続いている?)を論じた新著について、先輩・吉見俊哉氏の感想を聴きたいとラブコールをおくったところから、この対談が実現した、という裏話をまず聞く。

 これに対し、吉見氏は、中東のことを全く知らない自分が読んでも非常に面白かったと述べ、遠いと思っていた中東とわれわれ日本の社会が「思いのほか似ている」と感じた点として、携帯やインターネットの普及、アメリカの影、の2つを指摘した。

 前者(アラブ大変動を引き起こしたネットメディアやソーシャルメディアの力)については、酒井さんから時系列順に整理したレビューがあって、ありがたかった。あらためて反省したのだが、3月11日の大震災以降、私の関心はすっかり「国内向き」になっていたと思う。酒井さん曰く、中東諸国において、これまでカメラは権力による監視、懲罰、恐怖を誘うものだったはずなのに、どこかでカメラの意味が反転し、人々は自分の行動が世界中から「見られている」ことに力を得て、行動するようになった。大集会の様子や独裁政権批判の歌が、どんどんYouTubeなどで発信されているそうだ。

 一方で、中東の人々は、非暴力的な民主革命なら「見ている」欧米諸国に受け入れられるということを、強く意識して行動しているフシがある。かように、中東におけるアメリカの政治的・文化的プレゼンスは大きいのであり、このことは日本と共通する。ただし、日本の社会意識は一貫して「親米7割」であるけれど、コーラを飲むよりお茶を好む人のほうが多かったり、さほど英語に固執していなかったりする。基本的な生活様式は、むしろ中東人のほうがずっとアメリカ寄りらしい。

 なぜ日本は、アメリカに対してもっと自己主張をしないのか、というのは、中東の人々が不思議に感じている点だという。これに対し、吉見氏は、戦後の日本では(沖縄を例外として)アメリカの暴力性が見えなかったこと、東アジア地域における「帝国」的な地位を、戦後もアメリカの後ろ盾によって、ある程度維持することができたこと、だから、アメリカに対してものをいう必要はなかったのではないか、という説明をされた。酒井さんが、ああそうか、日本は東アジアのイスラエルなのね、と(正確ではないけれど、そんな表現で)応じたのが印象的だった。

 日本でも1950-60年代には反基地闘争というものがあった。しかし、反基地闘争は反"岸"闘争に変質し、岸信介首相の退陣は実現させたが、そのあとは何も変わらなかった。エジプトにおいても、反米は反ムバラク運動に変わり、独裁政権は崩壊したが、その先は見えていない。そもそもこうした国の独裁政権は、民族解放の闘士だったはずなのに…とか、この偶然だか必然だかよく分からない、歴史の「ねじれ」って複雑だなあと思ってしまう。

 あと、吉見先生からの提言。酒井さんの著書は、そこに掲載されているFacebookやYoutubeのサイトを実際に訪ねてみることで、より深く理解できる。しかし、いつまでそれが可能であるか。図書館や文書館が、紙に書かれた記憶の収集と保存に責任を果たしたように、「デジタルでパブリックな記憶」を維持していくことは、非常に重要な課題である。たぶん吉見先生がコメンテーターをつとめる『デジタル化時代における知識基盤の構築と人文学の役割-デジタル・ヒューマニティーズを手がかりとして-』(11月29日)は、そのへんの問題も扱うんだろうな、と思い、来週のシンポが一気に聴きたくなった。

 酒井啓子さんの中東論というのが、中東のことをよく知らなくても共感できるものだということは分かったので、いずれ著書は読んでみたいと思う。ただ、本書は編著(アンソロジー)なので、まだちょっと迷っている。
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ポスト3.11のジャーナリズム/原発報道とメディア(武田徹)

2011-11-27 02:09:03 | 読んだもの(書籍)
○武田徹『原発報道とメディア』(講談社現代新書) 講談社 2011.6

 3月11日の東日本大震災で、私がいちばん強い動揺を感じたのは「メディア」の問題である。もちろん、福島第一原発にしても、日本のエネルギー政策にしても、農業や被災者救済についても考えたいと思うのだが、そもそもメディアが信じられなければ、なべて判断停止のジレンマに陥ってしまう自分に気がついた。

 著者の武田徹氏は、大学等でメディア社会論の研究活動も行っているジャーナリスト。私は武田氏の著書を読むのはこれが初めてだが、たぶんネット媒体で、何かの評論を読んでいたのだと思う。なんとなく自分の求めているものが見つかりそうな予感がして、本書を手に取った(ちなみにブログ検索をかけたら、2008年の情報学環・読売新聞共催シンポの登壇者だったと分かった)。

 著者は、2003年から5年間、文科省の科学技術振興調整費による「安全安心な社会を実現する科学技術人材養成」プロジェクトの下で、ジャーナリスト育成に携わっていた。にもかかわらず、著者は「安心」「安全」という言葉に対して「否定的だった」と自ら語っている。多数派や権力者側が自分たちの安心・安全を追求することは、少数派を危険に陥れることがあり得る。たとえば、かつてのハンセン病隔離政策。安心・安全の名の下に、正義が暴力に変わり得ることを、ジャーナリズムは批評的にチェックする必要がある。まず、この立ち位置に、私は深く共感した。

 しかし、震災の経験から、人間が日々の生活を送る上で最低限必要な「安心・安全」があることに、著者は立ち返り、排他的な「安心・安全」を批判的に解体しながら、同時に「基本財としての安心・安全」を誰に対しても公平に実現していくことを、3.11以後のジャーナリズムの課題に掲げる。

 具体的に、私たちが乗り越えなければならないものは何か。たとえば、原発推進か反対かという二分法が「囚人のジレンマ」をもたらし、「より安全な原発」という第三の道(リスクの総量を減らす選択)を困難にしてきたことを考え直すべきではないか。

 原発関連の報道については、情報隠蔽や偏向報道という批判がマスコミに対して投げかけられた。しかし「知る」ことが「不安」を引き寄せ、「危険」の原因になることもある。全ての情報が透明に共有される社会を理想とする単純な価値観だけでは、真に公共的な報道は実現できない。

 微量の放射線被爆の影響は、さまざまな不確定性を含んでいるといわれている。確率的現象に対して、ジャーナリズムの事実主義は適合しない。できる限りの真摯さでグレーゾーンの確率的現象に迫る必要はあるが、不安をいたずらに掻き立て、空しい分派闘争を引き起こす報道は避けるべきである。これは報道関係者だけでなくて、3.11以後を生きる私たちひとりひとりに課せられた課題だと思って読んだ。「確率的リスクの排除に躍起になることではなく、むしろそれと共に生きる矜持」というのは、胸に残る言葉だった。

 本書は、もともと東日本大震災とは無関係に構想されていたジャーナリズム論を、このたびの震災と原発事故を受けて加筆されたものだという。後半(第2部)は、3.11以後のメディア状況を踏まえつつも、もう少し射程の長いマスメディア&ネットメディア論になっている。特に、アメリカの戦争報道の変遷、ベトナム戦争(テレビ報道によって国民の支持を失った経験)→湾岸戦争(代表取材方式による「きれいな戦争」のイメージ操作)→イラク戦争(大規模な従軍取材容認による、より洗練された情報操作)の分析は面白かった。

 ベトナム戦争の反省から、レーガン政権の情報操作を発案したマイケル・ディーバーが「なぜあなたの手法が功を奏したのか」と問われて「それはテレビが娯楽のメディアだったからです」と答えていることは、1960年代末に制作プロダクション「テレビマンユニオン」を立ち上げた放送人たちが、著書のタイトルに冠した「お前はただの現在にすぎない」というテレビ観(反語的な矜持を感じさせる)と対比して、考えさせられるものがある。

 刺激的な情報(娯楽)を選別し、大衆が最も知りたいものを知らせる、という点では、グーグルもマスメディア・システムの一種(むしろ理想のマスメディア)と言うことができる。しかし、「反検索的ジャーナリスト」は、人気投票の対極に軸足を置き、世間の関心事になっていなくても議題化されるべきニュースを拾い上げ、それを報じることによって、公共性に資するべきなのだ。そこに必要なのは「正義の論理」ではなく「ケアの論理」である。

 きれいごとだという批判はあるかもしれない。でも、当面の生活を脅かされなかった私としては、被災者の尻馬に乗って「責任者出てこい」的な言動を取るのではなく、原発是か非かでもなく、こういう思考の整理をこそしたかったのである。原発事故という具体的な事象に即しつつ、「具体」の水面下に深く潜っていくような好著だと思った。
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2011秋の九州遊:大分/耶馬渓、中津

2011-11-24 23:33:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
○耶馬渓・羅漢寺~耶馬渓風物館~中津・福沢諭吉旧居記念館

 週末、福岡旅行を決めたあと、あと1日をどう過ごすかをしばし考えた。唐津は春に行ったし、熊本はちょっと遠い。国東半島も車がないと…と考えて、そうだ、耶馬渓!と思い至った。この春、江戸博で開催された、狩野一信の『五百羅漢』展シンポジウムで、山下裕二先生の"全国五百羅漢行脚"写真ルポを見せていただいたのが始まり。千葉市美術館の『橋口五葉展』では、なぜか五葉が、一度きり訪ねた耶馬溪の風景を繰り返し描き続けたことを知った。さらに旅行の直前に、耶馬渓風物館で『羅漢寺と耶馬渓展』(2011年10月15日~12月18日)という展示が始まっているというニュースも聞き込んだ。これは、行くしかないだろう。

 問題は「耶馬渓へのアクセス」を調べると、マイカーまたは定期観光バス推奨とあるばかりで、公共交通を使う方法がよく分からない。ようやく、博多7:33-9:08中津(にちりんシーガイア7号、またはその後の特急でも可)、中津駅から路線バス9:40-10:08中島下車、という行きかたを見つける。初日(土曜)に行こうと思っていたのだが、あいにくの雨。天気予報が、翌日は晴れると言っていたので、急遽、スケジュールを入れ替える。

 日曜は、予報どおりの晴天。中津駅に到着すると、万全のウォーキングスタイルの中高年が、にぎやかに集まっている。この日、JR九州主催のウォーキングイベント「紅葉の耶馬溪と羅漢寺・青の洞門を訪ねて」が開催されていたのだ。臨時バス(有料)がピストン輸送で、お客さんを現地に運んでいる様子。なるほど、こういうイベントをチェックすると、路線バスの少ない観光地へも行きやすいんだな、と学ぶ。

 私は予定どおり、路線バスで耶馬渓へ。正確には、本耶馬渓(ほんやばけい)と呼ばれる地域である。のどかな紅葉を眺めながら15分ほど歩くと、羅漢寺の参道口が見えてくる。しかし、ここは「リフトを使ったほうがいい」と誰かが書いていたので、少し先のリフト乗り場へ。安全バーも何もない簡易リフトで、ええ~と思ったが、一気に上って、羅漢駅到着。

 リフトを下りて、少し歩く覚悟だったが、ひょいと岩壁をまわったら、もう目の前が羅漢寺の山門。そうか~日本のお寺って、規模が小さいなあ、と苦笑する。つい中国の華山とか武当山のつもりになっていた。ちなみに山門に行きつく前に「石橋」の下を通るのは、中国・天台山の石橋(石梁飛瀑)をイメージしているのだろう。



 「無漏窟」という額を掲げた岩陰に石の羅漢像がひしめく。えーと、確か山下先生の話では、狩野一信の羅漢図に見られる「大蛇の口の中の羅漢」や「顔をめくる羅漢」がいるはず、と思って探したが見当たらない。どうやら、彼らは洞窟の外にいたようだ。個人的には、奥のキーボード奏者ふうの羅漢さんが好き。



 再びリフトで下り、道の駅・耶馬トピアに併設されている耶馬渓風物館を訪ねる。あらためて羅漢寺の由来を読んだら、インドの僧、法道仙人が金銅仏を持参したのがはじまりと伝えられている。法道仙人といえば、一乗寺、花山寺、播州清水寺など、兵庫県の西国三十三所巡りをしたとき、さんざん耳にした名前なのに、なぜか飛び地のように、ここ大分に伝説が伝わっているのが面白い。

 羅漢さんのうち、特に古い「延徳三歳(1491年)」の墨書のあるもの、「応永七(1374年)」の陰刻のあるものは、いま、こちらに展示されている。それから、『蓑虫山人絵日記』という大判の冊子にも、ちょっと興奮した。板橋区立美術館の『実況中継EDO』で、この変わった名乗りの画家を、はじめて知ったばかりだったので(検索したら肖像写真も残っているんだな)。

 見ものは、京都・廣誠院が所蔵する明代の羅漢図6幅の里帰り展示。収納箱に「六幅ノ仏画ハ、豊前国耶馬渓羅漢寺の所蔵ナリシ」とある。さらに遡ると、かつては博多・聖福寺に伝来したらしい。展示は2幅ずつなので、残りの図像は受付で貰ったリーフレットで確認する。動物の登場が多い。なお、木屋町の廣誠院は旧長州屋敷だそうだ。今度、京都に行ったら探してみよう。

 昼食を済ませて、13:32のバスに乗り、中津駅へ戻る。これで15:04の特急ソニック38号に乗れば、博多(16:28着)経由で福岡空港を18:00発の羽田行きに間に合うはず。中津で1時間ほど余裕があったので、駅の北口から15分ほどのところにある福沢諭吉旧居記念館まで往復してきた。



 藁葺き屋根の母屋と、諭吉が自ら改造して勉学に励んだ土蔵が残っている。津和野の西周旧居も、確か同様に土蔵が建っていたことを思い出す。
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2011秋の九州遊:福岡/地上の天宮 北京・故宮博物院(福岡市美)

2011-11-24 00:21:49 | 行ったもの(美術館・見仏)
福岡市美術館 特別展示 日中国交正常化40周年記念『地上の天宮 北京・故宮博物院展』(2011年10月18日~11月23日)

 九博の『草原の王朝 契丹』を見に東京から遠征したついでだったので、あまり期待はしていなかった。まあデパートの客寄せ展示くらいかな?という感じ。そうしたら、意外と展示品の量も多く、バラエティに富んで面白かったので、図録まで買ってきてしまった。

 展示会趣旨によれば、明・清両宮廷ゆかりの品、約200点を展示という。ただし、会場によって(計10ヶ所巡回予定)展示替えがあるようだ。中国史の予備知識がなくても、魅力を感じとれる服飾、宝飾品が多く選ばれている。しかし、できれば、登場人物たちに多少の知識があるほうがいい。「珍妃の印」(左半分は満文なのか?)を見れば、悲劇の王妃の最期にしみじみ思いを致し、「光緒帝の大婚のために作られたオンドル用の敷物」を見れば、数々の吉祥文で彩られた金色の双喜字とは裏腹に、母親(西太后)から意に添わない花嫁を押しつけられた皇帝の心中がしのばれる。『光緒帝大婚典礼全図冊』はすごい。展示場面は、会場によってA, Bが割り当てられているのだが、A(神戸、名古屋、東京、新潟、福島 ※後述)のほうが、圧倒的に見応えあり。

 地味な書籍だが『大明仁孝皇后内訓』は、明の永楽帝の皇后が、女性の教育のために著した訓令・訓示、という解説を読んで、徐皇后(明建国の元勲・徐達の娘)か!と、なつかしく思った。最近、明史にハマっていたので。

 途中、美しい彩色で女性たちの風俗を描いた画巻があって、近づいたら、南宋の『女孝経図巻』だというので、びっくりした。9つの画面の1つしか開いていないが、残りはモニタのデジタル画像で見ることができる。『韓煕載夜宴図巻』は、原本は五代(10世紀)の作で、展示品は1950年代の模写だというが、古色までよく写している。南唐の宰相・韓煕載が美しい妓女たちと戯れる夜宴の様子を描く。けっこう描写があけすけで、面白い。他にも本展には、明清の風俗画(仕女図)や、人物にフォーカスした歴史画、風景画などがあって、日本人に知られている中国絵画って、偏りがあるなあ、と感じた。

 今回、見られなくて残念に思ったのは『乾隆帝及妃威弧獲鹿図』。これ、見たい! いやーカッコよすぎだわ、この皇帝夫妻(※小さい画像は、こちらにあり)。

 ひとつ本展に文句を言いたいのは、上記の作品名は『乾隆帝…』になっているが、別の絵画に『弘暦元宵行楽図』というのがあって、弘暦は乾隆帝の本名なのだが、分かりにくい。原題にとらわれず、日本人向けの表記を工夫してくれないかなあ。あと『胤妃行楽図軸』という12幅の美女図、これも「雍正帝がことのほか好んだ」という解説を読んで、しばらく考えてから、胤が雍正帝の本名であることに思い至った。私の記憶が間違いでなければ、会場では「明」時代の作品と表示されていたのが、さらに混乱のもと(図録では「清」)。しかし、そう間違う気持ちも理解できる。后妃たちは全て、たおやかな漢人ふうのファッションなのだ。図録に寄稿された入江耀子さんは、清朝では、満州族と漢族との通婚が禁じられたにもかかわらず、皇族とそれに準ずる階級に限って漢族女性を満州族とみなす抜け道があり、「そのような手段で雍正の後宮に招かれた寵妃たちであったかもしれない」と述べている。そうかな。私は、雍正帝本人も大好きだったコスプレの一種じゃないかと思うけど…。しかし、この后妃図、美しい上に、画中の小道具がいちいち意味ありげである。

 このほか、宮廷の日常生活をしのばせる、皇子・皇女用の腹掛けや子ども靴、虎の顔のついた帽子、バスタブ、手あぶり、マージャン牌(現代と変わらない)、燕の巣(ええ~)、大型犬用の服まであって、笑った。『百物図』という題簽のついた冊子は、ラストエンペラー溥儀が、子どもの頃に絵や文字を練習したもので、会場では、千字文を記したページが開いていた。西太后(慈禧)の描いた『魚藻図』が、全く巧くないのに、あまりに堂々としているのにも笑ってしまった。「地上の天宮」というけれど、むしろ見終わると、故宮の住人たちの人間味を感じる展覧会である。

 本展は、今年5~7月、東京富士美術館から巡回が開始されるはずだったが、震災の影響で延期となり、7月の北海道が皮切りとなった。全10会場を巡回予定だが、福島だけは会期会場が決まっていない。残念だが、無理はしないでほしいと思う。東京富士美術館のサイトには、2012年春の開催に向けて、すでに詳しい特設ページが設けられている。
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2011秋の九州遊:福岡/常設展示・明の夢・清の華など(福岡市美)

2011-11-23 11:50:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
福岡市美術館

 太宰府の九州国立博物館から、福岡市美術館に移動。目の前に大濠公園の水景が広がる、好きな美術館だ。調べたら、中国・西湖の風景を模したというけれど、それはちょっと規模が違いすぎ。むしろ揚州の痩西湖に近い感じがする。

 九博でゆっくりし過ぎて、到着は4時近くになってしまった。お目当ての『北京・故宮博物院展』に入る前に尋ねたら、今日は夜7時まで開いているという。え、そんな情報なかったぞ、と耳を疑ったが、これはラッキー。常設展示(~17:30)を先に見に行く。

■古美術企画展示室 北京・故宮展関連企画『明の夢・清の華』(2011年11月1日~12月27日)

 旅行直前にこの企画を知って、色めき立った。サムネイルに上がっていたのが、明代の『百鳥図』(若冲ふうの鳳凰が描かれた)だったので。展示品は、磁器・工芸品などとあわせて18件。うち6件が絵画資料である。呂紀筆『花鳥図』、伝・辺文進筆『百鳥図』、伝・辺文進筆『紅蓼白鷺図』は、黒田資料(旧福岡藩主黒田家伝来)の一部である。呂紀の『花鳥図』は、全体に薄墨を塗った背景に、孔雀の雌雄、雀、カササギ(?)を描く。花は白梅、赤い芍薬(?)。花や鳥の特定には自信がないな…。柳の枯れ枝のゴツゴツした質感、べたっと墨を置いたような岩の描き方に目が留まる。印記あり。

 『紅蓼白鷺図』は印記なし。紅蓼(たで)のゆらゆら揺れる感じが夢のようで、女性的な美しい画面。『百鳥図』も印記なし。辺文進の画風とは異なり、明代後期のものと推定されている。正方形に近い、横広な画面に、雌雄の鳳凰を囲む多種多様な鳥(基本、つがい?)の姿が描かれている。これ、好きだー。同種の絵画の中でも、抜群に明るく祝祭的な印象があるように思った。

 『文官肖像』は、一般資料(特定のコレクションに属さない)で、清代とあったが、描かれている人物は、黒い冠(烏沙帽)に赤い衣で、明代官吏の常服(※参考:百度=中国語サイト)である。等身大を超える大きな画幅。袖をたくしあげて、石帯に手を添え、かすかに指を見せる。何者とも分からないのが気になる。

 伝・沈周筆『山水図巻』には、日本人好みのゆるい愛らしさを感じた。沈周は明代後期の文人画家だそうだが、ネットに上がっている代表作の画風を見ると全然違うように思う。森山コレクション(福岡生まれの経済人・森山馨氏旧蔵)だそうだ。

■その他の古美術企画展示

 上記と同じ室内に「田中丸コレクション」という別コーナーがあって、唐津、高取、上野(あがの)焼など、九州各地の茶陶が展示されていた。九州茶陶って、どれも個性的で魅力的だな、とあらためて思う。田中丸コレクションは、田中丸善八氏(1894-1973)の収集による九州陶磁コレクション。同氏は、百貨店「玉屋」の創業者で、九州北部の主要都市で「デパート文化」の一時代を築いた(現在は福岡県からは撤退)。以上、私は調べてはじめて知ったのだが、会場のお客さんが「田中丸」という名前を見るや「ああ、玉屋か」とつぶやいていたのが、さすが地元で、印象的だった。

 松永記念館室では「文様の楽しみ」を開催中。松永安左エ門氏(耳庵と言ってくれるほうが分かりやすいのに)の旧蔵コレクションから、特徴的な文様に着目して、陶磁器・織物など、約20件を展示。鎌倉時代の『扇面散文鏡』(和鏡)が目を引いた。展示室の一角に茶室・春草蘆が模してあった。複雑な経緯がよく分からなかったが、茶室・春草蘆は東博の構内に、その春草蘆があった柳瀬山荘は埼玉県志木市に現存するらしい(※東博のページ)。「電力の鬼」と呼ばれた松永耳庵が生きていたら、いまの東電や原発をめぐる紛糾に何ていうのかなあ、などと、ぼんやり考える。

 東光院仏教美術室も久しぶりに見た。仁王、十二神将×2組と、こわもての仏像が多いが、中央の台上の十二神将は、狭い展示台に身を寄せ合いすぎで、笑えてしまう。

 いまだけの特典としては、福岡市博物館の改修休館にともない、国宝の金印(漢委奴国王印)が展示中である(2011年11月8日~2012年4月1日)。福岡市民にはどっちでもいいことかもしれないが、遠方から行くと、いくつも施設をまわれないので、ちょっと得をした気分になる。

 以上をゆっくり見ていたら、17時過ぎになってしまった。特別展示が19時までで、本当によかった(別稿に続く)。
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2011秋の九州遊:福岡/トピック展示(九博)

2011-11-22 23:19:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館

 『草原の王朝 契丹』展といっしょに見てきたもの。

■トピック展示『九州大学百年の宝物』(2011年11月15日~12月18日)

 1911年(明治44年)に創設された九州大学の百周年を記念する展示会。文化交流展示室(平常展示)第11室では、古地図など主に人文社会科学系の資料、1階ミュージアムホール・エントランス(入場無料)では、自然科学系の資料が見られる。前者に含まれる仙義梵の書画は、医学部名誉教授の中山森彦博士が蒐集したものだという。鉱山学の関連書がめずらしく、面白かった。山相を見定める山師という職業があったのだな…。後者は、ずらり並んだ鉱物や昆虫の標本が壮観。人間の頭蓋骨もあり。

■トピック展示 京都・檀王法林寺開創400年記念『琉球と袋中上人展-エイサーの起源をたどる-』(2011年11月1日~12月11日)

 文化交流展示室(平常展示)第9、10室。袋中(たいちゅう)は、慶長8年(1603)琉球に渡って浄土教の教えをひろめた人物。袋中が伝えた念仏は、沖縄の伝統芸能エイサーのなかに、念仏歌として受け継がれている。その袋中ゆかりの京都・檀王法林寺の宝物を展示。もしや、と思ったけど『熊野権現影向図』を見つけたときは、笑ってしまった。2009年に和歌山県立博物館の『熊野三山の至宝』展を見にいったとき、大きな写真パネルになっていたのが印象的で、いつかホンモノが見たい、と思っていたのだ。実物の画幅は意外と小さい。しかし、湧き上がる雲の上に現れた熊野権現の巨大さは、地上に描かれた小さな朱塗りの社や、豆粒のような人間から想像することができる。和歌山で知った図像に九州で出会うというのも不思議な巡り合わせだが、画賛は臨済僧の南山士雲が博多の承天寺に滞在していたときのものだというから、全く九州に縁がないわけではない。

 『波濤飛龍図前掛け』は、祇園祭の黒主山で1989年まで使われていた。文化年間に檀王法林寺から黒主山に送られたもので、中国の繊維であり(そんなことが分かるのか)、もとは婦人の官服だったという。

■その他の平常展示 『埴輪・石人石馬・装飾古墳~にぎやかだった古墳のまつり~

 石人石馬とは、日本の古墳に埴輪(はにわ)のように置かれた石造彫刻。鳥取の1例を除き、福岡・熊本・大分3県に見られる。中国とは無関係らしい。しかし、突然消え失せ、入れ替わりに装飾古墳と埴輪が登場する。埴輪は少数だが韓国でも発見されている。初めて知ったことが多く、いろいろ想像を刺激されて、面白かった。

※おまけ:九博レストラン「グリーンハウス」、『契丹』展にちなんだ限定メニュー、プリンセスランチで遅めの昼食。さすがクオリティが高い。美味、美味。


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2011秋の九州遊:福岡/草原の王朝 契丹(九博)

2011-11-22 00:08:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館 特別展『草原の王朝 契丹-美しき3人のプリンセス-』(2011年9月27日~11月27日)

 九博の秋の特別展が「契丹」だと知ったときは、必ず行こう!と思った。契丹は、Wikiによれば、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、遼と号した。むかし、高校の世界史の授業では、「遼」という国号を年表の端にちらっとだけ見た記憶がある。

 私が「契丹」に明確なイメージを持つようになったのは、2003年、中国中央電視台制作のドラマ『天龍八部』を見てからだ。漢人として育てられた蕭(喬)峯が、出生の秘密を知り、「我是契丹人(俺は契丹人だったのか…)」と動揺してつぶやくところは印象的だった。最終的に、彼は自分の民族的出自を受け入れ、「契丹人、一諾千金!」と言い残して、誇り高く死に赴く。嗚呼、蕭峯~。なつかしいな~。

 2007年には、北方謙三さんの小説『楊家将』と『血涙』を読んだ。中国明代の古典文学『楊家将演義』を原典としているが、北方版は、宋の武将・楊一族の宿敵である遼(契丹)の描写が非常に詳しく、しかも人物が魅力的に描かれている。そんなわけで「契丹」と聞くと、私は胸が躍るのである。

 しかし、『天龍八部』にしても北方版『楊家将』にしても、ハードボイルドなイメージが強かったので、展覧会の売りが、「美しき3人のプリンセス」(公式サイトに、昭和な雰囲気のお姫さまイラストあり)だということに、私は苦笑いしてしまった。でも、本展は、従来「遊牧民族の野蛮なイメージ」の強かった契丹文化が、実は華やかな「大唐の遺風」を受け継いでいるという発見を重要テーマとしているので、「プリンセス」という切り口は正しいかもしれない。

 1人目のプリンセスは、陳国公主。1986年、出土。契丹貴族の特異な葬送習俗である黄金のマスクには見覚えがあった。私は2010年夏に包頭の内蒙古博物院を訪ねているので、そこで見たのだと思ったが、ブログの過去記事を検索したら、同年春、江戸博の特別展『チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展』でも展示されていたらしい。夫婦並んだ出土写真は、今回も印象的だった。

 2人目は、初代皇帝耶律阿保機に近しい皇族女性としか分からないので、本展では「トルキ山のプリンセス」と呼ばれている。2003年、出土。この副葬品がすばらしい。精緻で華やかな唐風を受け継ぎながら、盛唐の工芸品にない、清新な躍動感を感じさせる。龍、獅子、鳳凰、マカラ、何て溌剌として、愛らしいんだ! 古代の日本が、やはり唐風に学びながら、童心に満ちた「小ささ」「カワイさ」に特化していくのと比較してみると面白い。民族的な嗜好ってあるのかな。それにしても二十四孝、竹林の七賢など、中国の故事に取材した工芸品がたくさんあることにも、びっくりした。契丹の初期文化が、こんなに「唐風(漢人風)」だったとは! まあ考えてみれば、隋も唐も、もとは北方遊牧民族系(鮮卑族)なのだし。華と夷は、つねに連続的なのだ。

 3人目は、第6代皇帝聖宗妃、章聖皇太后。皇太后をプリンセスと呼ぶのは無理がある気がするが…目をつぶろう。内モンゴル自治区赤峰市に残る慶州城の白塔から、1980年代末に奉納品と碑文等が見つかり、発願者が章聖皇太后であることが分かったという。慶州白塔は、建築家・関野貞のアジア踏査を紹介した展覧会で、古いフィルム(を焼き直した映像)を見た記憶がある。はじめ、慶州?どこの?と場所が分からなかったが、あとで内モンゴルだと知った。これとは別に、穏やかな表情の菩薩頭部2点が展示されていて、「フフホト市東部の万部華厳塔」の基礎から発見されたものとあった。あの酔っ払い管理人のいた白塔か!(2010年訪問)。

 九博の情報誌(無料)「Asiage」に「日本では100年に1度あるかないかと大発見が、内モンゴルでは毎年のようにあります」と書かれているが、確かに、この20年くらいで新たに分かったことが、たくさんあるんだろうな。さらに20年くらいしたら、遊牧民族国家のイメージが、すっかり変わっているかもしれない。

 本展は、九博が開館前から6年の歳月をかけて準備してきた企画だという。その熟成した「愛情」が感じられ、発見も多くて、楽しい展覧会だった。九博のサイトでは巡回情報を見つけられなかったので、どこにも回らないものだと思っていたが、YouTubeの紹介ビデオを見たら、静岡→大阪→東京(芸大美術館)と巡回することが分かった。なんだと…でも、1年間も待っていられなかったから、行っちゃって悔いなし。

 たぶん九博だけの企画で、「ぶろぐるぽ」にエントリーすると展示品の画像を使わせてくれるという特典がある。せっかくなので、個人的な趣味で、いくつか紹介。

↓契丹人の髪型。男性は前髪を残して頭頂部を剃り落とす。そうそう、中国製ドラマでもこれだったが、どうしても笑ってしまう。


↓トルキ山古墓の彩色木棺。2003年の発掘後、乾燥によって変色してしまったが、内蒙古文物考古研究所と九博の共同プロジェクトによって、発見当初の色彩に修復された。出土品はデリケートだなあ。


↓赤峰市出土。10~12世紀。墓室の壁だというが、あまりに楽しげな奏楽図で、墓室の主が羨ましくなってしまった。


↓フフホト市東部の万部華厳塔出土の菩薩頭部。きれいな塔だったなあ。

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2011秋の九州遊:福岡

2011-11-19 23:22:19 | 行ったもの(美術館・見仏)
自分のスケジュールを見て、ほんとにこの時期に九州旅行なんて行けるだろうか、と思いながら、先月、強気で予約を取ってしまった週末旅行を強行。



金曜日、職場を18:00過ぎに出て羽田に直行、福岡に来ている。なるほど、こんなことができるんだ、と思った。これもクセになりそうだな…。

初日は遠出をして、2日目は展覧会めぐりのつもりだったが、朝の天気が悪かったので、逆にした。おかげで今日は、九博と福岡市美の展覧会を堪能できた。

明日はちょっと忙しいが、大分・耶馬渓の羅漢寺まで足を伸ばしてみる。ちゃんと帰りの飛行機に間に合うか?

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伝統を遊ぶ/生誕130年 松岡映丘(練馬区立美術館)

2011-11-17 00:51:26 | 行ったもの(美術館・見仏)
練馬区立美術館 『生誕130年 松岡映丘-日本の雅-やまと絵復興のトップランナー』(2011年10月9日~11月23日)

 松岡映丘(1881-1938)の名前はもちろん知っていたが、特に好きでも嫌いでもなかった。古典的で端正な、逆に言うと、一目で、あ、松岡映丘だと分かるようなアクの強さのない絵を描かない画家だと思っていた。今回、初めて作品をまとめて見て、面白いな、と思うようになった。

 本筋とは全く外れるのだが、第一に面白かったのは、その「コスプレイヤー」振り。子供の頃から武者絵が大好きで、歴史画の名品をたくさん残した映丘だが、まさか会場で、本人が甲冑をまとった写真を見るとは思わなかった。展示図録の解説によれば、先輩画家の小堀鞆音(1864-1931)にも同じ趣味があったそうだ。趣味は実益を兼ねるというか、映丘の歴史画を見ると、武者絵に限らず、どんな時代の有識(訂正)故実にも曖昧なゴマカシがない。沓とか冠とか、馬具、牛車まで、明晰に描かれているので、なるほど、ここはこうなっているのか~としみじみ眺め入ってしまった。その点では、やっぱり近世以前の「やまと絵」とは、一線を画するところがあると思う。

 おお?と思ったのは、源氏物語「橋姫」に取材した六曲一双屏風『宇治の宮の姫君たち』。右隻で縁側に腰かけ、横顔を見せている男性(薫)が描かれている。細かい連続文様の入った青の薄衣の下に、白い衣が透けている。私は、昨年、五島美術館の『国宝 源氏物語巻』展で復元模写を見て、初めてこの絵巻に登場する男君たちの多くが、青い衣を着ていることを知った。いまは銀鼠色にくすんでしまった元の色は青だったんだ…と知ったわけだが、どうして映丘は、この青色を知っていたんだろう。『源氏物語巻』展で見たのは、平成と、昭和33~37年頃の復元模写の2種類だったが、もっと古い時代の復元模写が存在するのかな。

 『みぐしあげ』は枕草子に取材し、中宮(定子?)の妹・原子を描いたものと解説されているが、『源氏物語絵巻』「東屋」にヒントを得て描いているのではないかな。いま、両展の図録を並べて眺めていると、いろいろ想像がふくらんで面白い。もちろん武者絵や、それ以外の作品にも、文学的な元ネタ、造型的な元ネタが幾重にも重なっている。たとえば『春日の祭使』は、何の説明もないけれど、きっと道長の嫡男・頼通(13歳で春日祭使になった)だなーと思って、私は眺めた。黒い衣に少し粉雪が舞っているし。さまざまな伝統を集約して、しかも清新で、楽しかった。
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