○そごう美術館 山下裕二、尾久彰三『対談・民藝の本質』(2011年11月27日)
没後50年・日本民藝館開館75周年を記念する『柳宗悦展-暮らしへの眼差し』。9月の東京展を見逃した!と思っていたら、引き続き、横浜展(2011年10月22日~12月4日)がそごう美術館で始まって、びっくりした。すぐに行きたかったのだが、このイベントを待って出かけた。何しろ、昨年の『観じる民藝』展では、展示品の酒杯やお銚子を使って、破天荒なトークショーを展開してくれた尾久さんなので。
今年は、さすがに柳先生(と尾久さんはお呼びになる)に敬意を表してか、法事に行くような黒の背広で登場。パワーポイントで、柳宗悦の生涯を紹介する写真と、本展に出品されている日本民藝館コレクションの優品の写真を見ながら、主に山下先生が質問し、尾久さんが答えるかたちで進行した。
尾久さん(1947年生)は、柳宗悦(1889-1961)に会った記憶はないという。ただ、幼稚園の頃、おめかしをして、当時まだ珍しかった自動車に乗せられたことがあり、あのときの人が柳先生だったのかもしれない…と話してくださった。尾久少年と「民藝」のかかわりについては、著書の『観じる民藝』で。
柳宗悦(むねよし/そうえつ)は東京に生まれ、学習院高等科に学び、大学在学中、同人雑誌グループ白樺派に参加する。日本の学校教育では、なぜか「国文学史」だけがカリキュラム化されているため、多くの日本人は「白樺」を文学雑誌として記憶しているのではないか。だが、実際は、"文芸思潮"全般(美術・文学・演劇など)に広い影響を持ったことが、けっこう見逃されているように思う。
トークでは、柳をめぐる微妙な人間関係もずいぶん話題になった。朝鮮民族美術館や茶の湯をめぐる浅川伯教との「わだかまり」とか。柳は「血脈でつなぐ」という茶道の制度が嫌いだった、とか。それにしては、この会場にも柳宗理(むねみち、1915-)(宗悦の長男)コーナーなんてのがあるよね。あれ、よくないんじゃないの…なんて、そごう美術館の学芸員さんを尻目に、ちょっと意地悪な会話も交わされた。
河井寛次郎(1890-1966)について、最晩年の作品がとてもいい、という話になったとき、尾久さんが「柳先生の呪縛が解けて…」と口にすると、山下先生がキラリと目を光らせるように「呪縛、と言っちゃいますか」と切り込んだ。やっぱり柳宗悦は、常人でない才能とエネルギーの持ち主だったんだろうなあ。最後の質疑でも、青年時代はデューラーやブレイクに関心を持っていたのに、その後は西洋美術にほとんどコミットしなかったのは何故?という客席からの質問に対し、時間がなかったんですよ、と(尾久さんが?)答えていた。柳は、誰も気づかなかったところに次々と「美」を発見し、猪突猛進で道を切り開いた。全て新しい仕事ばかりだった、という。うむ、本当にそうだな、と思った。
そして、日用雑器の全てが美しいのではなくて、死屍累々たる工芸品の中から、「柳の眼」が選び出したごくわずかな上澄みが「民藝」なのだということも、少し分かるようになってきた。現代日本に定着した"民芸○○"のゆるい用法にもかかわらず、「民藝」って、骨董よりもずっと厳しい世界なのではないかと思う。尾久さんの〆めのキーワードは、前回と同じく「霊性」だったが、骨董に霊性って似つかわしくないし。
朝鮮の美術品に関して、戦後、日本民藝館にも、朝鮮半島への返還を迫る人物が訪ねてきたことがあるそうだ。そのとき、正面の大階段を下りてきた柳宗悦は、これらの収蔵品を自分以上に愛せるというなら返そう、と一喝したという。ちょっと胸のすく話である。
そっと書いておくけど、靴墨を塗って色味を変えた壺の話とか、これは買ったときは○○万円だったけど、今なら○○万円とか(上がったものあり、下がったものあり)、市場の裏話も面白かった。木喰仏は、あまりいいと思ったことがなかったが「民藝」の中に入るといいなあ。いや「柳の眼」で選ばれた木喰仏だからこそ、いいのかもしれない。
対談を聴き終わって、展示会場を見てまわった。ほとんど日本民藝館で旧知の品だったが、ぐるりと四方をまわるような鑑賞をしたことがないものも多くて、あらためて楽しめた。あと、大きな展示ケースに、服飾、陶器、金属工芸、漆器工芸など、ノンジャンルの品々を並べたところも、色や形の美しさがストレートに伝わってくるようで面白かった。
没後50年・日本民藝館開館75周年を記念する『柳宗悦展-暮らしへの眼差し』。9月の東京展を見逃した!と思っていたら、引き続き、横浜展(2011年10月22日~12月4日)がそごう美術館で始まって、びっくりした。すぐに行きたかったのだが、このイベントを待って出かけた。何しろ、昨年の『観じる民藝』展では、展示品の酒杯やお銚子を使って、破天荒なトークショーを展開してくれた尾久さんなので。
今年は、さすがに柳先生(と尾久さんはお呼びになる)に敬意を表してか、法事に行くような黒の背広で登場。パワーポイントで、柳宗悦の生涯を紹介する写真と、本展に出品されている日本民藝館コレクションの優品の写真を見ながら、主に山下先生が質問し、尾久さんが答えるかたちで進行した。
尾久さん(1947年生)は、柳宗悦(1889-1961)に会った記憶はないという。ただ、幼稚園の頃、おめかしをして、当時まだ珍しかった自動車に乗せられたことがあり、あのときの人が柳先生だったのかもしれない…と話してくださった。尾久少年と「民藝」のかかわりについては、著書の『観じる民藝』で。
柳宗悦(むねよし/そうえつ)は東京に生まれ、学習院高等科に学び、大学在学中、同人雑誌グループ白樺派に参加する。日本の学校教育では、なぜか「国文学史」だけがカリキュラム化されているため、多くの日本人は「白樺」を文学雑誌として記憶しているのではないか。だが、実際は、"文芸思潮"全般(美術・文学・演劇など)に広い影響を持ったことが、けっこう見逃されているように思う。
トークでは、柳をめぐる微妙な人間関係もずいぶん話題になった。朝鮮民族美術館や茶の湯をめぐる浅川伯教との「わだかまり」とか。柳は「血脈でつなぐ」という茶道の制度が嫌いだった、とか。それにしては、この会場にも柳宗理(むねみち、1915-)(宗悦の長男)コーナーなんてのがあるよね。あれ、よくないんじゃないの…なんて、そごう美術館の学芸員さんを尻目に、ちょっと意地悪な会話も交わされた。
河井寛次郎(1890-1966)について、最晩年の作品がとてもいい、という話になったとき、尾久さんが「柳先生の呪縛が解けて…」と口にすると、山下先生がキラリと目を光らせるように「呪縛、と言っちゃいますか」と切り込んだ。やっぱり柳宗悦は、常人でない才能とエネルギーの持ち主だったんだろうなあ。最後の質疑でも、青年時代はデューラーやブレイクに関心を持っていたのに、その後は西洋美術にほとんどコミットしなかったのは何故?という客席からの質問に対し、時間がなかったんですよ、と(尾久さんが?)答えていた。柳は、誰も気づかなかったところに次々と「美」を発見し、猪突猛進で道を切り開いた。全て新しい仕事ばかりだった、という。うむ、本当にそうだな、と思った。
そして、日用雑器の全てが美しいのではなくて、死屍累々たる工芸品の中から、「柳の眼」が選び出したごくわずかな上澄みが「民藝」なのだということも、少し分かるようになってきた。現代日本に定着した"民芸○○"のゆるい用法にもかかわらず、「民藝」って、骨董よりもずっと厳しい世界なのではないかと思う。尾久さんの〆めのキーワードは、前回と同じく「霊性」だったが、骨董に霊性って似つかわしくないし。
朝鮮の美術品に関して、戦後、日本民藝館にも、朝鮮半島への返還を迫る人物が訪ねてきたことがあるそうだ。そのとき、正面の大階段を下りてきた柳宗悦は、これらの収蔵品を自分以上に愛せるというなら返そう、と一喝したという。ちょっと胸のすく話である。
そっと書いておくけど、靴墨を塗って色味を変えた壺の話とか、これは買ったときは○○万円だったけど、今なら○○万円とか(上がったものあり、下がったものあり)、市場の裏話も面白かった。木喰仏は、あまりいいと思ったことがなかったが「民藝」の中に入るといいなあ。いや「柳の眼」で選ばれた木喰仏だからこそ、いいのかもしれない。
対談を聴き終わって、展示会場を見てまわった。ほとんど日本民藝館で旧知の品だったが、ぐるりと四方をまわるような鑑賞をしたことがないものも多くて、あらためて楽しめた。あと、大きな展示ケースに、服飾、陶器、金属工芸、漆器工芸など、ノンジャンルの品々を並べたところも、色や形の美しさがストレートに伝わってくるようで面白かった。